NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。信長の二条城と大イベント。醍醐寺と藤戸石。藤戸の戦い。吉備国と桃太郎伝説。岡山県倉敷市の藤戸。源範頼と源義経。源平合戦・一ノ谷の戦い・屋島の戦い・壇ノ浦の戦い。村上水軍と信長。平知盛の最期。児島半島。

 

 にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 

麒麟(49)水に浮く石、沈む遺志


前回コラム「麒麟(48)若さの至り」では、織田信長の堺や今井宗久にからむ訴訟の一件、若狭湾の恵みと鯖街道、武野紹鴎と武野宗瓦、などについて書きました。

◇二条城の築城

前回までのコラムで、1569年1月初旬に、京で「本圀寺の変」があり、織田信長と松永久秀が京に戻り、二条城を造り始めたあたりまでを書きました。
二条城は同年4月には完成し、4月14日に将軍の足利義昭が入城します。

信長は、本圀寺の僧侶の反対に耳を貸さず、強引に本圀寺を解体し、その部材や調度品を、二条城築城に回します。
大河ドラマ「麒麟がくる」の中でも、多くの石材を集め、その中には石仏も含まれていましたね。

日本各地の多くの武将に協力させ、たいへんな短期間で、本格城郭を京の都の中に誕生させました。
後の秀吉や家康による「天下普請(てんかぶしん)」を想像させます。

この二条城は、もともと13代将軍の足利義輝が、御所に隣接する場所につくった「二条御所」を拡張工事したものですが、その時の城とは雲泥の差だったようです。
今の、京都の徳川の二条城とは異なります。

* * *

築城中の2月から3月にかけて、信長は、築城現場に頻繁に視察に向かいます。
そして、この築城現場に、多くの武将や客を招き、その様子を見物させています。
この現場は、密談、交渉、歓待の場所にもなりました。

そうした二条城築城の中、3月3日から4日にかけて、信長による「大イベント」が開催されました。
これは、単なる工事のひとつではないと思います。
信長の思惑が盛り込まれた一大イベントであったと思います。


◇「天下の石」イベント

その一大イベントとは、後世において「天下人が所有する石」と呼ばれる庭石「藤戸石(ふじといし)」が、京の細川邸から、この築城中の二条城の庭に搬送されるという内容です。

3月3日に細川邸を搬出されますが、その日のうちに、二条城に搬入できていません。
人夫(人夫だけ?)を4000人も動員したのにです。
それほど大きな庭石でもありません。

この庭石は、足利義満の金閣寺の庭園にあった後、足利義政の銀閣寺の庭園に移り、さらに細川高国の代に細川邸の庭園に移されていたものです。
細川高国も、当時の室町幕府の最高権力者です。
この庭石は、そうそう庶民が見ることなどできませんね。
移動ルートの沿道に、見物人が多数つめかけたようです。

* * *

この石の運搬作業は、信長自身が陣頭指揮に立ちました。
石を、美しい綾錦(あやにしき)の布で包み、まわりに花を飾り、笛や太鼓を打ち鳴らし、大きな綱を付けて、ゆっくりと引いたと記録されています。
おそらくは美しく飾った台車にのせて、大勢で大声を出しながら、引いたのだろうと想像します。

* * *

私のあくまで想像ですが、これだけ時間がかかったのは、オリンピックの聖火リレーのように、一度その手で引いてみたいという関係者が多数集まり、交代しながら運んだのかもしれません。
スポーツ選手や庶民が、オリンピックの金メダルを一度は触っておきたい…、聖火を見ておきたい…、そんなようなことでしょうか。
庭石を運ぶだけに、4000人とは多過ぎます。

それに、後で書きますが、武家の佐々木一族の六角氏や京極氏、尼子氏、朽木氏などの者たちにとっては、一族の先祖の、まさに「聖なる石」です。
「死ぬまでに一度は…」と思ったことでしょう。

藤戸石は、翌日3月4日に、二条城に運び込まれました。
きっと、記念セレモニーやパーティーも行ったでしょうね。

大河ドラマ「麒麟がくる」をテレビで見ていると、義昭のいる二条城の庭に、何となく藤戸石かなと思わせる庭石を見ることができます。
ドラマの義昭は、ちっとも石のことには触れてくれず、先般は、飼っていた虫の死がいを庭石の近くに放っていました。
藤戸石が、源氏虫たちの墓石だというのなら、そうなのかもしれませんが…。

* * *

ちなみに、信長は、この時に、銀閣寺の庭園の池の真ん中にあったとされる名石「九山八海石(くせんはっかいせき)」も、同時に二条城に運ばせています。
醍醐寺にもかつて九山八海石があり、その石は、醍醐寺から御所に移されたという話しもあります。
それが、この二条城の九山八海石かもしれません。

* * *

将軍家や名武家の間では、大きな屋敷とともに庭園がつくられた際に、名石といわれる庭石や、石灯篭などを贈り合うことがよくありました。

藤戸石は細川家からのお祝い品(献上品)で、九山八海石は慈照寺(銀閣)のものとはいっても、義昭自身の将軍家の所有物といえるかもしれません。
とはいえ、このショーアップされた大掛かりなイベントは、信長の発案だと思います。

* * *

先ほど、大河ドラマ「麒麟がくる」でも石仏が登場したと書きましたが、この石仏群も、本物が京都市洛西竹林公園に多数残っています。
単なる築城資材としての使用にしては、不自然なので、何かの意図を持って集められたのは確かだと思います。
テレビで描かれたように、石仏の首に縄をかけて、京の市中を引きづって運んだと史料には残っていますから、これも人々に見せつけるために行ったものだと思います。
石仏は、城の石垣などにも使用されたようですが、そのお話しはあらためて…。


◇醍醐寺三宝院の藤戸石

この庭石の「藤戸石」は、実に歴史のある、栄光と怨念の両方を感じる石なのです。
今も、この庭石は、醍醐寺三宝院(だいごじ さんぽういん / 京都市)の庭園にしっかり鎮座しています。

これは単体の石ではなく、今は、大きく三つに分かれた庭石群です。
真ん中に大きな四角い石、その両脇に小型の石が置かれています。
全体として、阿弥陀三尊をあらわしています。

醍醐寺三宝院の庭園は、まさにこの石組みを、三宝院の主要な部屋から眺めるために設計されました。

* * *

醍醐寺とは、あの秀吉が「醍醐の花見」を行ったお寺ですね。
この三宝院の周辺が、桜の花見会場でした。
豊臣家の女性たちが、その序列の順位で大もめした、あの「花見」です。

* * *

この醍醐寺は、平安時代の874年、真言宗の空海の孫弟子が開山しました。
「応仁の乱」で、ほとんどの寺の建物を焼失しましたが、五重塔だけは、平安時代の開山当時の建物だというから驚きです。
秀吉が若干修理はしましたが、平安時代の優雅さと、威圧感のある図太さをあわせ持つ五重塔の雰囲気は、今でも健在です。
今に残る醍醐寺の建物群も、秀吉好み(?)の平安時代風の書院造りで、平安絵巻を感じさせてくれます。

三宝院の前身の「灌頂院(かんじょういん)」は、平安時代の終盤の1115年に開山されました。
その後、「三宝」である、「仏(仏陀)、法(教え)、僧(修行僧ら)」(ぶっぽうそう)にちなみ、三宝院(さんぽういん)と改名します。
寺院の歴史の詳細は割愛します。

醍醐寺内では、三宝院の増長による内部抗争が起きたりもしましたが、室町時代には、その三宝院の絶大な権力に、足利義満が政治介入するなどします。
醍醐寺と三宝院は、源氏に厚遇された寺であったこともあり、絶大な権力を維持し続けます。
複雑な歴史の経緯をたどりますが、「応仁の乱」でほとんどの堂塔が焼失し、衰退していきます。

* * *

その後、戦乱の世が終盤になると、醍醐寺の金剛輪院のトップである院主が、豊臣秀吉と親しくしていたため、金剛輪院という名称を、かつてのビッグネーム「三宝院」という名に改名し、大庭園がつくられました。

そして、同じ京の都で、信長の二条城から秀吉の「聚楽第(じゅらくだい)」に移されていた、天下の名石「藤戸石」が、聚楽第の取り壊し後に、この醍醐寺三宝院の大庭園に運ばれました。

そんな縁で、秀吉の「醍醐の花見」が醍醐寺三宝院の周辺で、大々的に開催されました。
招待客たちはみな、「桜も見事ですが、この藤戸石も天下一ですな~。さすがは殿下」…とかなんとか。

その後も、江戸幕府の支援で、醍醐寺は大きくなっていきます。


◇醍醐寺が終着地?

もともと、この藤戸石は、岡山県倉敷市の藤戸という場所にありましたが、室町時代に、足利義満が京の金閣寺の庭園に運ばせます。
平家物語の中の「藤戸」の話しに、とても興味をもったからともいわれています。
当然、天下人の義満ですので、そのことだけのはずはありません。
大きな政治的意図があったはずです。

前述のとおり、その後、足利義政の銀閣寺に移され、そして細川邸に移り、このほど信長の二条城に運ばれたということです。

信長の死後は、秀吉の聚楽第に移され、1595年に聚楽第が壊された後、1598年2月頃に醍醐寺三宝院へと移されました。
「醍醐の花見」は1598年3月15日でしたので、ようするに、その花見イベントに間に合わせたようにも感じます。

* * *

さすがに、豊臣家滅亡後は、徳川家康のいる江戸には運びませんでしたね。

それに、過去に天下人が所有していたとはいえ、彼らが作った政権はみな…。

徳川家康からしたら、日本全国、自分の配下には源氏の末裔も平氏の末裔もいます。
「もう源平にまつわる石は、醍醐寺で終わりにしよう」…といったところでしょうか。

家康なら、こう言いそうです。
「庭石なんかより、江戸城の石垣用の巨石を日本全国から江戸に運ばせろ…」。


◇藤戸石の謎

ここまで書いてきて、皆さまをガッカリさせるのも何ですが、この醍醐寺の藤戸石は、本物なのか…?
家康は、何かを知っていたのか…。

* * *

実は、信長は、関白の二条晴良の邸宅の庭が、大のお気に入りでした。
信長は、1572年、彼を引っ越しさせ、その邸宅を自分のものにして、自身が京にいるときの本邸宅とします。

義昭が、京を追放されるのは、この翌年の1573年のことです。
実は、義昭がいた「二条城」は、1576年には解体され、その資材は安土城築城に回されます。
1576年には、安土城が完成します。

かつての二条晴良の持ちもので、信長が奪った邸宅は、1577年から数年かけ「二条御新造(武家御城)」として建て替え、しばらく信長が京にいる時に暮らしていましたが、1579年に、この建物は皇室に献上されることになります。

この「二条御新造」の建て替えには、あの松永久秀の多聞山城(たもんやまじょう)を解体した際の部材が使われたそうですが、何か縁起が悪そう…。
松永久秀は1577年に、信長に恨みを抱いて、壮絶な死を遂げたばかりです。
信長はこういうことを気にしなさ過ぎですね。

この「二条御新造」は、妙覚寺に隣接しており、1582年の「本能寺の変」の際に、妙覚寺にいた信長の息子の信忠が「二条御新造」に逃げ込みますが、明智軍に取り囲まれます。
両軍はいったん戦闘を止め、皇族の方々をこの「二条御新造」から脱出させ、その後の両軍の戦闘で、この「二条御新造」と妙覚寺は、信忠とともに消滅します。

* * *

それでは、二条城にあったはずの藤戸石は、1576年以降、どこに…?
秀吉の聚楽第は、1587年に完成しますが、この間の11年間、どこに…?

諸説の中には、二条城にあった藤戸石は、この「二条御新造」に移されていたというものもあります。
この二条御新造には、それは見事な庭園があったと史料に残されています。

義昭がいた二条城は、この二条御新造のすぐ近くです。
1576年に、二条城から二条御新造に藤戸石を移していても不思議はありません。
そうなると、1582年の「本能寺の変」により、藤戸石も全壊消滅したのか…?

庭石ですから、奇跡的に破壊されずに残った可能性ももちろんあります。
廃墟から掘り起こされ、1587年に聚楽第の庭園に置かれたのでしょうか。
その後、この聚楽第も不運な終わり方をしますね。

よくよく考えると、この藤戸石のいくところ…、みな不吉です。
金閣の義満、銀閣の義政、細川高国、足利義昭、織田信長・信忠、聚楽第の豊臣秀次。
権力者はいつか失脚すると考えれば、そうなのかもしれませんが、みな、まっとうな終わり方ではありませんでしたね。

醍醐寺に安置されたことで、不運の歴史は終わったのでしょうか。
後で、この石の天罰の話しを書きます。

* * *

もし、この藤戸石が、「本能寺の変」後の「二条御新造」の廃墟で見つかっていなかったとしたら…。

醍醐寺三宝院の藤戸石は…?
レプリカ(複製)なのか…?
桜の花見にかこつけて、やりやがったな…?

私には、よくわかりません。
お手上げです。

でも、少なくとも、信長の二条城にやって来た藤戸石は、本物であったでしょう。

ここからは、藤戸石にまつわる、源氏と平氏のお話しを書きます。


◇藤戸の戦い

平安時代の源氏と平氏の戦いの中で、「藤戸の戦い」という戦があります。
この戦は、岡山県倉敷市の藤戸で行われた戦いです。

1184年2月7日、今の神戸市の須磨(すま)あたりで行われた「一ノ谷の戦い」で敗れた平家軍は、この付近の瀬戸内海を中心に、形勢を立て直そうとします。
平家軍の一部は、瀬戸内海を西に向かい、小豆島を越え、今の倉敷市の児島半島(こじまはんとう)のあたりにやってきます。

この児島半島は、今は本土とつながっていますが、昔は、「吉備児島(きびこじま)」と呼ばれる独立した島でした。
周辺にも無数に小さな島々が点在していたようです。
この群島全体を「吉備児島」と呼んだのかもしれません。

今でも、かなりの数の小島がありますね。
冒頭写真は、今の児島半島側から、瀬戸内海の瀬戸大橋と、対岸の四国の坂出方面を見た写真です。

* * *

この吉備小島と本州の間にある海峡地域は、「児島の藤戸」と呼ばれていました。
下記の写真の、「乗り出し岩」と「先陣庵(せんじんあん)」の間が、かつて海の浅瀬で、この海峡部分が「児島の藤戸」です。


この「児島の藤戸」での源氏と平氏の戦いが、「藤戸の戦い」です。

平氏の平行盛(たいらのゆきもり)の軍は、見通しがきく、上記写真の「平家本陣跡」に陣をはり、本州の陸地(写真のさらに下部〔北側〕)の山陽道を攻撃しました。


◇藤戸の島々

ちょっとだけ話しがズレますが、神話の話しを別コラムで書いたときに、イザナギとイザナミの夫婦の神様が、八つの島を生んだ話しを書きました。
八つの島とは、本州、九州、四国、壱岐、対馬、隠岐、淡路、佐渡のことです。

実はこれには続きがあります。
九番目の島が、この児島なのです。
この島が海に囲まれていた時には、おそらく小豆島級の大きさではなかったかと感じます。

先の八つの島もそうですが、これらの地域には皆、ある程度以上の規模の勢力がいたはずです。
古代から、この児島の地域は、かなりの人数が暮らしていた地域だといわれています。

神様が生んだ島々とは、土地という意味だけでなく、そこに大きな勢力があったことを意味していると思います。


◇吉備とは、何に備える?

この児島が小豆島級の規模の島だったかもしれないと書きましたが、今の岡山市や倉敷市の市街地のある平地は、ほぼ海であったと考えられています。
今、この地域には児島湖という大きな湖がありますが、当時の面影を感じますね。

上記写真を見ても、かつて、この地域の瀬戸内海は、四国と本州の間の幅が、今よりもはるかに広かったと思われます。

* * *

さて、日本全国に「桃太郎」伝説の地がありますね。
この児島半島のある岡山県は、ある意味、もっとも有名な桃太郎の伝説の地です。

鬼ヶ島に、犬、猿、キジを連れて、鬼退治に行く桃太郎のおとぎ話ですね。
この桃太郎のお話しは、岡山説、香川節、愛知説など、多数の候補地がありますが、やはり岡山が桃の大産地であること…、かつて古代のこの吉備の島々に海賊が大勢いたこと…、そしてこの児島の地域に中央政権とは違う大勢力がいたこと…、などが岡山説を有力に押し上げる要因なのかとも思います。

* * *

私は、別のコラムで神話のお話しを書きましたが、たいがい、こうしたお話しにはモデルの人物がいたり、モデルの出来事があったりします。
神話に登場する鬼や怪物などは、中央政権に従わない各地の有力豪族の者たちを意味しているということも考えられます。
各地の鬼たちを武力で征圧するために、大将軍が各地に向かい、彼らを征圧するような伝説めいたお話しは、各地にたくさん残っています。

坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は、平安時代初期の実在の征夷大将軍で、この桃太郎と考えるには少し無理がありそうですが、もっと古い弥生時代や古墳時代、あるいは、それ以前の将軍(武人)の軍事行動が、奈良時代に伝説やおとぎ話としてまとめられても、何の不思議もありません。

吉備国(きびのくに)は、まさに古代以前より、九州、近畿、出雲、北関東、北東北などと並ぶ大勢力がいた地域です。
吉備国には、これだけの数の島々があるのですから、相当な人数の海賊もいたはず…。
ある意味、どこの地域よりも、強力な海の勢力だったかもしれません。

西日本には、九州、瀬戸内、山陰、近畿という、それぞれの地域に、大きな勢力の「かたまり」があったということだと思います。

吉備国は、戦国時代には、備前国(びぜんのくに / 岡山県南部・香川県と兵庫県の一部)、備中国(びっちゅうのくに / 岡山県西部)、備後国(びんごのくに / 広島県東部)、美作国(みまさかのくに / 岡山県北東部)という、四つに分かれて存在します。

* * *

この「きび」という不思議な言葉は、古代中国王朝の「羈縻(きび)」という言葉から来ているという説があります。
この「羈縻(きび)」とは、中央の王朝によって、周辺地域の異民族を支配統制する政策のことを意味しています。
今の中国のかたちも同じですね。

古代の天皇家による、武力制圧での日本統一の際に、この政策を採用した可能性は十分に考えられますね。
天皇家一族の中央勢力からみたら、この児島地域の大勢力を支配することは、まさに「きび」政策そのものですね。

「備」の漢字の意味は、武器である弓矢の矢を何本も束ねて袋に入れ、それを手に持つ人間の姿を描いた象形文字です。
ある意味、武器を持って備えています。
「吉」は、吉兆の吉、良いこと、おめでたいこと、幸せなことなどの意味ですね。

中央勢力が、良きこと、幸せに向けて、武器を手にして敵に備える…、その矢は、敵国である瀬戸内の児島の勢力に向けられている…、そして中央政権は敵国を「きび政策」で支配する…、それが「きび(吉備)」なのかもしれません。

* * *

さてさて、戦国時代の織田信長にとって、「猿」は木下藤吉郎秀吉、「犬」は前田利家ですね。
呼び名であり、あだ名です。
キジは、さしづめ、明智光秀か丹羽長秀あたりでしょうか。
徳川家康は伝書バトあたりかな…。

やはり、忠実で賢いペットたちは、大切な仲間ですね。


◇本州と四国を結ぶルートこそ関門

四国の島の形を頭に描いてみてください。

瀬戸内海の中に、本州にかなり接近した場所が二か所あります。
そのひとつが、この児島半島のあたりです。

もう少し海の水深が低ければ、この地域で、本州と四国は陸続きになるのかもしれません。
そのくらい接近していますが、逆に狭い分、水のチカラで、海底が削られているのかもしれません。

* * *

もう一か所は、四国の愛媛県今治市あたりから広島県尾道市にかけて、因島島など多くの島々を含む、「しまなみ」の海峡地域です。
この地域は、かつて海の武士船団の「村上水軍」の本拠地があった地域です。

こうした本州と四国が距離的に接近した地域こそ、海賊や水軍が基地をつくったり、軍事戦略上、重要な拠点となったりしました。
今、この二か所に、大型で長い連絡橋が架かっていますね。

* * *

本州と四国を結ぶ交通ルートを「本州四国連絡橋」といいますが、全部で3ルートあります。

いわゆる「瀬戸大橋」とは、この児島半島のある岡山県倉敷市と、四国の香川県坂出市(さかいでし)を結ぶ「児島坂出ルート」のことです。

広島県尾道市から四国の愛媛県今治市が、「瀬戸内しまなみ海道」と呼ばれる「尾道今治ルート」です。

「明石海峡大橋」のある淡路島を経由して、本州と四国が結ばれているルートは、「神戸鳴門ルート」です。

* * *

現代に限らず、平安時代でも、この3ルートの地域を支配できるかどうかが、源平の戦いの勝敗を決定づけたといえます。

源平合戦でいえば、「神戸鳴門ルート(明石海峡大橋)」の神戸あたりの「一ノ谷」で、平家軍が大敗します。
そして「児島坂出ルート(瀬戸大橋)」の児島と屋島で、平家軍が二連敗します。
これで三連敗です。

次は、「尾道今治ルート(瀬戸内しまなみ海道)」で、平家軍が最終決戦に出るかと思いきや…。
平家軍は行いません。

実は、この「尾道今治ルート(瀬戸内しまなみ海道)」の瀬戸内地域を支配していた水軍は、ひとりのトップが完全支配している集団ではありません。
もともと、この島なみの地域にある無数の島々にいた、多くの海賊たちの集まりが、村上水軍といえます。
村上勢力ではない水軍もいます。

村上水軍の中の、それぞれの船団というのは、もともと敵対していた海の荒くれ者たちです。
村上水軍全体が一枚岩であるはずもありません。
みな、その時々の私利私欲、利害関係によって結びついた者たちともいえます。

この源平合戦の時に、村上水軍の一部が源氏側に味方します。
ここでは詳細は割愛しますが、一つの水軍のように見えても、もともと広い瀬戸内海で海の武装集団はたくさんに分かれています。
四国の陸地に近い集団なら四国の武装勢力と…、本州の陸地に近い集団なら本州の武装勢力と…、それぞれの陸側とつながっていることはよくあります。こうした複雑な関係性の中で、水軍たちの一部は、源氏側に味方していきます。

「あげ~な平家についとったら、いけまぁ~が」。
(あんな平家に味方していたら、ダメだよね)

「村上さん、来んさったが、そがんこと、よいよ ようせん」。
(村上さんが参られたけれど、そんなことは、もうできない)

* * *

いつも感じるのですが、鎌倉武士や戦国武将たちは、いつも通訳を同行させていたのでしょうか。
私は、各地の高齢の方々とお話しするような仕事の際に、いつも通訳をつけてもらいますが、標準語のない時代に、武士たちは、よく意思疎通できたものだと感じます。
言葉の問題は、戦の勝敗にも影響しそうです。
義経は、東北弁、京言葉、関東言葉、関西弁、広島弁、博多弁…、相当な語学力だったのかもしれませんね。


◇武将たちの水軍

後の戦国時代もそうですが、瀬戸内海の周囲の陸の武将たちは、この瀬戸内海の水軍たちの複雑な内部構成を利用し、さまざまな海戦を行っていきます。

後に、織田信長は、毛利氏のもとで組織された村上水軍・小早川水軍・毛利水軍らの連合軍に、大坂湾での海戦で敗北しますが、すぐに伊勢や三河の「九鬼(くき)水軍」を強化し、これまでなかった大砲付き大軍艦を建造し、新たな水軍をもって逆襲し、勝利しましたね。

この時に、毛利氏の水軍と連動し、大坂の陸地で軍事行動を起こした石山本願寺勢を、陸地でおさえこんだのが、明智光秀です。
信長は、海軍と陸軍を同時に使いこなしました。

もはや、信長は陸軍だけの軍団ではありません。
大海軍力と大陸軍力もあわせ持つ織田軍となります。

信長は、内陸の琵琶湖にも軍艦を配備させていますから、これはもはや移動できる城ともいえます。
今現代の大型空母のような役割ですね。

信長の水軍に敗れたとはいえ、村上水軍は依然として大きな武力勢力としてチカラを維持し続け、信長の水軍とそれ以降も戦い続けます。

* * *

海洋国家の日本各地には、古くから無数の海賊集団がおり、そこから成長した水軍という武士集団は、陸地の武士集団よりも、何か独立心が強く、時の権力者や、周辺の陸地の有力武将と連携することはあっても、決して完全に屈することがなかったような気がします。

あくまで、その時々の戦況や情勢によって、水軍が味方する場合もあれば、敵になることもあるという風に見えます。
まるで、常に勝つ側にだけ味方する、戦争の時だけに雇われる傭兵たちのようにも見えてきます。

「味方はするが、オレ(水軍)たちの海には手を出すな」…そんなようにも感じます。
海賊の頃からの、独立心の強い「魂(たましい)」のようなものが残っていたのかもしれません。

いつの時代もそうですが、陸軍と海軍というのは、非常に微妙な関係性にあります。
大きな空は、陸にも海にもありますね。

* * *

信長は基本的に、敵の水軍と戦う時は、水軍を必ずぶつけます。
海戦の場所によっては、陸の軍団と連携させます。

戦国時代には、同じ船に乗っている以上、武士と、船の操縦士や漕ぎ手を区別しません。
武士より先に、彼らを倒すようなこともします。
ただし、それは海戦の状況次第です。
自軍の操縦士や漕ぎ手を、別に連れていくのはそうそう容易ではありません。
源平合戦の時の源義経は、その先駆けだったのかもしれませんね。

兵士である武士の、ひとりひとりのスキルというのは、やはり高く広いほどいいのでしょう。
源氏の日頃の訓練は、大したものです。
現代の企業も同じですね。

* * *

源平合戦の頃の海戦と、戦国時代の海戦では、その戦法や兵器、船自体が大きく異なりますが、ある意味、これまでの古い水軍のスタイルを、さらに大きく進化させたのが信長だったようにも感じます。

戦国時代の終盤は、陸軍だけでなく、海軍(水軍)をしっかり持ち、それを上手く使いこなせた武将こそが、大きなチカラを持っていったようにも感じます。
逆に江戸時代の日本では、海戦という戦争自体がなくなり、幕府が船や兵器の開発に制限をかけたので、海軍自体の進化が止まります。
ある時、外国から、見たことのない、ものすごい軍艦がやって来て、世の中がひっくりかえりましたね。
そこから幕末から明治にかけての、日本の猛追にも驚きます。
こうしたダイナミズムとスピードは、近年の日本にはないものですね。

「開き直ったようなガラパゴス」のままで、いいのかどうか…。

* * *

ともあれ、陸の軍団だけで敵の水軍を撃破するのが、いかに大変かは、この源平合戦を見れば、一目瞭然ですね。
前例のない、かなり特別な戦法を考え出さないと、まず勝利できそうにないですね。

この源平合戦の時、「陸軍は、海を越えてやっては来ない」…この発想はもはや通用しなかったということかもしれません。
源範頼と佐々木盛綱の「馬を使えば海を渡れる」とか、源義経の「前にも後ろにも自由に動ける船」…まさに馬、「船から船へと武士が移動する、八艘飛び戦法」…まさに陸地の戦闘のよう。
これらは、まさに海の上に陸の戦場をつくったようなもので、大軍事戦術ですね。
水軍を持たなかったからこそ生まれてきた、陸軍の発想かもしれません。

信長の戦国時代であれば、「船は火をかければ燃やせる」、「船には重い大砲はついていない」、「敵船には武器を持った人間が攻め込む」という発想は、もはや通用しなかったということですね。

源義経や源範頼、信長の発想が、いかに優れていたかということですね。
戦いは、頭でするもの…、勝つ武将たちの発想です。


◇浅瀬を渡るぞ

さて、お話しを、岡山県倉敷市の児島に戻します。

「一ノ谷の戦い」で敗れた平家軍を追いかける源氏軍には水軍がありません。
平家軍が九州を目指すと考えた源氏軍は、中国地方の陸路の山陽道を先回りしました。
そして、いったん安芸国(広島県)までやってきます。

「一ノ谷の戦い」の後、中国地方の陸路の山陽道を進軍してきたのは、源氏軍の源範頼(みなもとののりより)の軍で、この中に佐々木盛綱がいました。
この佐々木一族こそ、後の近江国の戦国武将の六角氏や京極氏です。
尼子、朽木、加治、馬淵、隠岐、山中、塩谷、野木、尼子、黒田、山崎…、みなこの佐々木一族から派生した武家です。

この源範頼とは、義経と並んで、平氏追討軍の重要な司令長官です。
この二人のそれぞれの軍団が連携しながら、数々の軍事作戦を成功させたのです。

源頼朝は、ある意味、戦術や作戦で細かな失敗を繰り返していましたが、この二人がカバーしたおかげで、平氏を討てたといっても過言ではないと思います。
ずっと後、頼朝は、この有能な二人を処分します。
そんなことしてるから、自身も子供たちも同じ目に…。

この三人(頼朝・義経・範頼)が連携できていたら、後に北条氏に鎌倉幕府を乗っ取られることはなかっただろうと思います。

* * *

さて、平家軍は、この源範頼の進軍状況を見て、京と安芸国の中間にある、この吉備の児島の地域で、この山陽道の進軍ルートを遮断し、源氏軍の食糧補給路を断ちます。
こうして、陸地の山陽道にすぐに行けるほどの距離にある、吉備の児島の北側に本陣を置きました。
源氏軍に、山陽道をこれ以上、西に向かわせないようにしたのです。

* * *

さて、この段階で、源氏勢は、まだ水軍を持っていません。
義経や範頼は、敵側からの寝返り工作、瀬戸内海の海と山の地形調査、水軍組織づくり、食糧や武器の調達などに苦労している段階です。

そうした中での、「藤戸の戦い」です。

* * *

この源範頼の家臣の佐々木盛綱は、本州の陸地側から、海の浅瀬を密かに渡り、平行盛軍がいる砦(とりで)に向かい、一気にせん滅させる作戦を実行しようとします。
ですが、渡れそうな浅瀬の場所や、適切な日にちや時刻がわかりません。
地元の漁民に尋ね、その浅瀬とスケジュールを特定します。

漁民が個人なのか、ある程度の集団なのかは、よくわかりません。
個人的には、個人であったら、これほどの逸話が残るだろうかと少し感じます。

ここで、盛綱は、浅瀬を渡る作戦の秘密が漏れることを恐れ、この漁民を成敗(斬殺)してしまいます。

そして、盛綱は、見事にこの作戦を成功させ、平家軍をこの藤戸から敗走させます。


上記写真の「乗り出し岩」が佐々木盛綱が渡り始めた内陸側の浅瀬にあった岩場で、上陸した場所が「先陣庵(せんじんあん)」です。
直線で約2.5キロメートル。
佐々木軍が、源氏軍の先陣をきって上陸したということのようです。

ですから、この二か所の間は、水深はわかりませんが、海であったということです。

源範頼がいた源氏の本陣は、写真のさらに下部(北側)の山陽道の付近にありました。

平氏の平行盛(たいらのゆきもり)の軍は、見通しがきく、上記写真の「平家本陣跡」に陣をはり、本州の陸地にある山陽道や源氏の本陣の動きに目を光らせたということです。

平行盛は、源氏勢が水軍を持っていないので、海を渡って平家本陣に攻め込んでくることを予測していなかった可能性も考えられます。
この2.5キロの距離…微妙な距離感ですね。

* * *

後で、水に浮く石のお話しを書きますが、石が水に浮くというのは、よほどの軽石でなければ考えられません。

あくまで個人的な想像ですが、源氏勢は馬に何か水に浮く器具などを装着させたということはないでしょうか。
水に浮きやすい材木などを、馬の身体にくくりつけたりしたのかもしれません。
ひとまず、馬と人間の頭さえ海の上にあれば、何とか呼吸はできるような気がします。

軍馬は、ある意味、今の時代の戦車と同じで、あるかないかで、陸戦の機動力がまったく違います。

この「浮く」というキーワードが非常に強調されているのは、やはり、何かこの「浮く」という現象が作戦の中で、重要な意味を持っていたように感じます。

当時の水深がわかりませんので、何ともいえませんが、2キロ以上の距離がありますから、それなりの時間が必要です。
もともと馬ですから、ある程度は水に浮くでしょうが、武具をつけた武士を乗せた馬が海を渡るとなれば、ある程度の深さまでは沈んだか、あるいは対岸から綱でも張って、そこを進んだようにも想像します。

作戦決行は、おそらくは波のおだやかな夜でしょう。
馬の「いななき」が出ない工夫もしたかもしれません。

「一ノ谷の戦い」での馬での急坂下り作戦「ヒヨドリ越の逆落とし」でも、事前に相当に馬に訓練させたはずです。
そうでなければ、馬が急坂を下りていかないはずです。
この一ノ谷の戦いでも、平家は、その急坂からの敵の襲来を予測できていませんでした。

この藤戸でも、平家軍の油断から考えて、この海峡の水深は、いくら干潮であっても、馬の足が海底に達しない深さだった可能性も考えられます。
ここでも、源氏勢は、別の場所で相当に事前訓練をしたと想像します。

結局、「一ノ谷」と「藤戸」での平家の二連敗は、「まさか」というスキをつかれた内容ですね。
源氏軍の発想力のすごさを、まったく考えず、実現の可能性を予想できていなかった平家の負けともいえます。
これは、この後の「屋島」でも繰り返されます。

平家側は、一連の戦闘での、勝敗の肝をつかめていなかったか、戦の内容を分析することをしなかった可能性があります。
「平清盛だったら、どうしただろうか」と、考えたでしょうか…。


◇藤戸の史跡

この「藤戸の戦い」があった場所は、今の岡山県倉敷市の藤戸の周辺です。
この地域にあった海は埋め立てられ、現在は瀬戸内海から少し離れた内陸の、倉敷川沿いにあります。

今、この近くの瀬戸内海には小豆島(しょうどしま)や、豊島(てしま)が、海に浮かぶ島としてありますが、この藤戸あたりもそうした風景だったのかもしれません。

* * *

きっと、戦国時代や江戸時代も、六角氏や京極氏はもちろん、佐々木氏の子孫の多くの武家が、この一族の聖地ともいえる藤戸の地を訪問したことでしょう。
実際に、この浅瀬跡の2.5キロの距離を歩いてみたことでしょうね。
「城に帰って、孫たちに、何度も語って聞かせねば…」。

日本全体から見れば、この藤戸地域はメジャーな観光地ではありませんが、歴史ファンには、このマニアックさと地味さが、たまらない…。
下記をご参考にどうぞ。

倉敷観光web


◇藤戸石

ともあれ、まさに、この藤戸の浅瀬こそ、源氏がその後の源平合戦を優位に進め、源氏を大勝利に呼び込むきっかけになった浅瀬でした。

先ほど、佐々木盛綱が、作戦の秘密を守るため、漁民を成敗したと書きましたが、その場所の近くにあったのがこの「藤戸石」なのです。
藤戸石の別名は「浮洲岩(うきすいわ)」といいます。
水に浮かぶ石…、それが「藤戸石」です。
それは、水軍(平氏)に勝つ陸の石(源氏)…のようにも感じます。

平家はその石を手にすることなく、海の底に堕ちていきました。

* * *

もちろん室町幕府の足利将軍家も源氏です。
源氏たちにとって、この藤戸石は、まさに勝利と幸運をもたらしてくれた、象徴的な石です。

信長と義昭の城「二条城」の庭になくてはならない「守り神」ですね。

* * *

反面、成敗された藤戸の漁民の遺族からしたら、この石は、まさに恨みの対象ともいえます。
「平家物語」の中の、この成敗話を題材にした謡曲「藤戸」では、漁民の母親がその恨みをつのらせ、佐々木信綱への恨みは「佐々木と聞けば笹(竹笹)まで憎い」と表現されているそうです。
成敗された漁民が亡霊となってあらわれ、そこで佐々木盛綱がその漁民の菩提を弔い、彼はやっと成仏していく…というのが、このお話しだそうです。

前述の航空写真に記しましたが、もともと、この藤戸石があった場所が「浮洲岩跡」で、この近くには成敗された漁民を供養する石碑、その母の「佐々木と聞けば笹(竹笹)まで憎い」の記念碑もあります。

源氏の子孫とは逆に、平氏の子孫たちの武家にとって、藤戸石は「笹まで憎い…」。
信長は、自身は平氏の末裔で、清盛を尊敬していると言っていたはずですが…、まあ何でもいいです。

* * *

この藤戸石は、天下人が所有するにふさわしい縁起の良い石であると同時に、戦に巻き込まれ犠牲となっていった罪もない者たちの供養の意味が込められているともいえます。
この石を見るたびに、天下人たちは、この両方をしっかり思い返す…本当は、そういった意味なのかもしれませんね。
この両方を見ない天下人たちには、天罰がくだるのかもしれません。

きっと戦国時代の武将たちも、この石を見ながら、源平の栄枯盛衰に思いをはせ、話しをはずませていたことでしょう。

「ねえ、お母上…、お侍のお爺ちゃんたち、石を眺めて、酒を飲みながら、同じ話しを何度もしているよ…」。
「いいから、あの石のように、そっとしておきなさい」。

醍醐寺庭園で、この藤戸石を見た時に、どうぞ、この両方を思ってみてください。
縁起の良い「天下人の石」の意味だけでは、石の表面しか見ていないということなのかもしれません。
どうぞ、裏側も見てください。
天罰がくだらないように…。


◇信長の思惑

個人的な想像ですが、この藤戸石を、細川邸から二条城に、ド派手な演出とともに運び込ませたのには、信長の思惑がかなりあったと感じます。
この庭石の移動自体も、大イベント化した行為も、義昭が指示できたとは到底思えません。
信長の独断かもしれません。

信長自身による前面でのパフォ―マンスを考えても、この行事イベントのすべては、信長の行動だと天下に知らしめようとしたのかもしれません。

信長はきっと、集まった群衆や、働く人夫たち、来賓の客たち、家臣たちに、この藤戸石の由来や、源平の昔話を、持ち前の大声で、とうとうと語ったように思います。
群衆も武士たちも一緒に、「勝どきじゃ」…とか、やったかもしれません。

* * *

源平合戦の勝負を決めたきっかけの場所の石…、偉大な足利義満将軍が京の金閣寺まで運ばせた石…、この石こそ新将軍の二条城の庭にふさわしい石…、そしてこの石を二条城まで運ばせたのは、この信長である!
新将軍と、藤戸石を、二条城に運んできたのは、この信長である!
皆…よく覚えておけ!

このイベントの効果は、絶大であったかもしれませんね。

いずれは、岐阜城か安土城に、この石を移す気があったのか、なかったのか…、それはわかりません。
一応、足利将軍家のお庭に設置しました。


◇平家は屋島を拠点に

岡山県の児島半島は、前述しましたとおり、四国にかなり近い場所で、瀬戸大橋が通る場所です。
瀬戸内海の支配権という意味で、因島(いんのしま)周辺と並んで、これほど重要な場所はありません。

この「藤戸の戦い」は、元暦1年(寿永3年)12月7日(西暦1185年1月10日)の出来事です。

源氏と平家による源平合戦の大決戦の第一弾といっていい「一ノ谷の戦い」は、寿永3年2月7日(西暦1184年3月20日)です。

その10ヵ月後の同年12月7日に、この「藤戸の戦い」があり、大決戦第二弾ともいっていい「屋島の戦い」が、その2ヵ月半後の元暦2年(寿永4年)2月19日(西暦1185年3月22日)にありました。

「壇ノ浦の戦い」は、さらにその一ヵ月後の元暦2年3月24日(西暦1185年4月25日)です。

平家滅亡の「壇ノ浦の戦い」まで、「一ノ谷の戦い」からは13ヵ月、「藤戸の戦い」からは3ヵ月半、「屋島の戦い」からは1ヵ月の出来事です。
平家軍にとっては、最後の1ヵ月あまりが、「苦難の中の最大の苦境」だったといえますね。

* * *

実は、「一ノ谷の戦い」から「藤戸の戦い」まで、約10ヵ月あります。
平家にとっては、この期間こそが勝負でした。
詳細は割愛しますが、平家のトップの平宗盛(清盛の三男)は、精神的なもろさと、政治力の無能さがあり、この10ヵ月を無駄にしてしまいました。
朝廷のせっかくの仲介を反故にしてしまいます。
かといって、軍事力を強化することもしていません。

清盛や重盛(長男)が生きていたら、絶対に、こうした流れにはならなかったはずです。

一方、源氏は、着々と九州や四国、瀬戸内の水軍に手を回し、次の戦闘に備えた動きを行います。
義経と範頼の役割分担も見事です。
それぞれには、有能な家臣がおり、この二人の軍団が戦略上で激しく言い争うこともあったでしょうが、だからこそ、ものすごい作戦が生まれてきたのかもしれません。

ほぼ、この10ヵ月で、「勝負あり」だったのかもしれませんね。

* * *

この藤戸での戦いで源氏が勝利し、この地をおさえたことで、平家軍は、中国地方の山陽道で源氏軍を食い止めることを断念したのだと思います。

1185年の「藤戸の戦い」の2年前に、藤戸の近くの「水島(今の倉敷市玉野)」の地域でおこった「水島の戦い」で源氏軍は平家軍に敗れています。
この時は、頼朝・義経・範頼の源氏軍ではなく、源義仲(木曽義仲)の源氏軍です。

この「水島の戦い」では、平家軍は、皆既日食を知っており、その暗さを上手く利用したという、ビックリ逸話も残っています。
偶然だろ…?
平家は、この戦いの勝利で勢力を巻き返して、再び京に戻ってきますが、今度は義仲を倒した源頼朝の源氏軍が攻めてくるということです。

* * *

さて、今回の藤戸の平家軍も、前回の水島でのような勝利を目論んだのかどうかわかりませんが、今度の敵は強敵でしたね。
そうそう日食は起こりません。その日も、太陽ばかり見てたのか…。
平家の上層部の方々…ひょっとして「平家には、何か神のチカラが味方してくれる」と思い込んでいた…。

「藤戸の戦い」で敗北した平家軍は、児島から瀬戸内海を挟んだ反対側の四国の屋島(香川県高松市)に戻っていきます。
屋島は、古くからの平氏の水軍の軍事拠点でした。


◇屋島の戦い

ですが、平家軍は、またも軍事作戦上の失敗をし、屋島の本拠地を手薄な状況にしてしまいます。
「一ノ谷」と「藤戸」での敗戦の重大性に気づいているのか…いないのか…?

おそらく源氏軍は、最初から屋島決戦を決めていたと思いますが、この「藤戸の戦い」の結果いかんだったかもしれません。
それもこれも、この「藤戸の戦い」の勝利があってこそ実現したともいえます。
ひょっとしたら、屋島の勝利は、予想外の影響力だったのかもしれません。

屋島の源氏の作戦は、不得手な海戦ではなく、水軍の基地を陸地側からたたく作戦です。

源範頼の軍は中国地方の陸路を、そして四国の屋島の平家の水軍基地には、源義経が向かいます。

* * *

義経は、暴風雨に紛れ、大坂あたりから秘密裏に四国の阿波国(徳島県)の勝浦尼子ヶ浦(今の小松島市)に上陸(諸説あり)し、香川県高松市の屋島に向けて、海沿いの山中を密かに進軍します。

屋島の平家軍を四国の内陸側から攻撃をかけ、劇的エピソード連発の「屋島の戦い」となります。
詳細は割愛します。

それにしても、この義経の進軍ルート…、義経のように歩いてみたという歴史ファンも多くおられると思います。
歴史ファンには、ワクワク感いっぱいのルートですね。

* * *

この阿波国(徳島県)の勝浦、安房国(千葉県房総半島南部)の勝浦、紀伊国(和歌山県)の勝浦、土佐国(高知県)の勝浦…、実はみなつながっているようです。
この「勝浦」は、桂浦、葛浦、勝占などの言葉から派生したとも考えられ、この「浦」という漢字の意味は、非常に環境のいい優れた入り江を意味する前は、もともと「裏」という意味であったようです。
たしかに、大海原から隠された、岸壁の裏にある秘密の優良漁港にも感じます。

義経の「裏から回って勝つ」という得意の戦法にぴったりの地名ですね。
信長は「おびき出して勝つ」、秀吉は「取り囲んで勝つ」、家康なら「攻めさせて勝つ」…得意な戦法もいろいろですね。

* * *

どうして水軍を持たない源氏に、大水軍を持っていた平家が海の近くで敗れるのか…、戦術の誤りと、戦意や意識の低さとしか思えません。
その「屋島の戦い」で敗北した平家軍は、瀬戸内海を西に敗走します。

* * *

一ノ谷、藤戸、屋島の立て続けの三連敗は、致命傷になりかねません。
これを見た、陸の他の武将たちはどう感じるでしょう。
それに瀬戸内海の水軍たちは…。
もはや、中国地方にも、四国にも、平家が上陸できる陸地はなくなります。

ここで平家は、白旗を掲げ、全面降伏しておけば…。
平家軍は、瀬戸内海の海上を西へ向かいます。


◇人おらずんば、平家にあらず

さて、この源平合戦では、平家側が、四国の陸地の勢力をまとめあげ、味方につけることができなかったことも痛手でした。
四国と中国地方の陸地は、源氏の大陸軍が支配していきます。
そもそも、源氏は水軍をもっていません。

そんな陸軍中心の源氏に対して、瀬戸内海の「神戸鳴門ルート」と「児島坂出ルート」から西に逃れた平家軍が、次の「尾道今治ルート(瀬戸内しまなみ海道)」の水軍たち全体を掌握できないなど、水軍頼みの平家軍にとって、まさに致命傷です。
平家軍は、この「しまなみ」の海で決戦をすることができず、瀬戸内海をさらに西へ…。

* * *

源氏主力軍の一方の源範頼の軍団は、九州の北部の陸地に先回りし、その陸地の平家に味方する勢力を撃破し、平家軍が瀬戸内海を西に向かってくるのを陸地で待っています。

もうひとつの主力の源義経の軍団は、決着をつけるための水軍を、村上水軍の一部を使って大急ぎで組織し、陸と海から平家軍を追いかけます。
そして瀬戸内海の西の端「壇ノ浦(山口県下関市)」に、平家軍は追い詰められます。

* * *

個人的に疑問に感じるのは、「なぜ平家軍は、壇ノ浦がある、本州と九州の狭い関門海峡を目指したのか?」ということです。
もちろん、さまざまな理由はあるでしょうが、航路を左に向け、大分方面の「豊後(ぶんご)水道」になぜ向かわなかったのか…?
まずは、女性や子供らを安全な地に上陸させなかったのか…?

海峡という意味では、豊後水道は、関門海峡よりも圧倒的に広く、太平洋に出られます。
別府湾の陸地側の北九州勢はすでに源氏側に制圧されていましたので、上陸は難しかったでしょうが、源氏の手がまわっていない九州の中南部の武士勢力を味方につけ、再起を狙うこともできるような気がします。
九州勢どうしの武士の争いは、それは激戦です。
入り込むスキをつくれなかったでしょうか。
たしかに、これには相当な政治力が必要です。

それでもダメなら、種子島、屋久島、奄美・沖縄方面への逃亡もあります。
海軍力だけでの再起は、まず無理ですから、絶対にどこかで上陸しないと、再起できるはずはないと思います。

* * *

平家軍からしたら、瀬戸内海の「尾道今治ルート(瀬戸内しまなみ海道)」の地域に来る前に、村上水軍を一枚岩にまとめ、源氏軍を撃破できたなら、後に壇ノ浦まで追い詰められることを防げたかもしれません。

今、このコラムでは、後の戦国時代の武将たちの戦術や陰謀、作戦のことを書いていますが、私は、この源平合戦での源頼朝の作戦が優れていたとは思いません。かなり大ざっぱで、失敗や穴だらけです。

多分に、現場にいた源義経や源範頼、重臣たちの応用力で、さまざまな場面を乗り切ってこれたと思っています。
というよりも、平家軍の自滅とも感じます。
それだけに、「屋島の戦い」での敗戦後でも、平家軍は十分に挽回できるチャンスをつくれた気がします。
どこかから、強力で優れた参謀を連れてこれたら、状況は変わったでしょう。

「平家にあらずんば、人にあらず」とか言っている場合ではありません。
有能な人材を外部から登用しない一族の体質は、ここで大きな弱点を露呈したのかもしれません。

* * *

戦国時代もそうですが、強力な有力戦国武将になるような武将たちのもとには、途中から、ものすごい作戦能力を持つ参謀…軍師のような役割の人物が加わります。
天下を狙うような戦国武将には、必ずといっていいほど、有能なブレーン(頭脳)、やたらに強い武芸者などが、ついています。
昭和の戦後に大成長した大企業にも、必ずといっていいほど、有能な番頭さんが、社長についていましたね。

* * *

前述の「藤戸の戦い」のあった藤戸の地にむかった平家の武将は、平行盛(たいらのゆきもり)でした。
行盛は、清盛の次男の基盛の長男です。
行盛のこの時の年齢はわかっていませんが、おそらくは20歳代後半のように感じます。
有能な参謀が支えていたのでしょうか…。

ちなみに、清盛の長男で、非常に有能だった重盛は、病気で清盛よりも早く亡くなります。
次男の基盛も、若くして亡くなります。
三男の宗盛は、精神的なもろさをもっており、何かと政治的な失敗を引き起こします。
頼りは、四男の知盛です。
知盛の最期のことは、後で書きますが、それ以外の清盛の息子たちの多くは、後に処刑されます。
特に、宗盛は、鎌倉にまで連れていかれ、その行為を頼朝に強くののしられ、最期をむかえました。

* * *

藤戸の地の重要性を考えた場合に、平家の、この行盛の藤戸での布陣は、適任だったのでしょうか…?
この一族の順送りのような人選はよかったのでしょうか…?

源範頼と佐々木信綱という源氏の強力布陣には、やはり平知盛(たいらのとももり)級のトップ武将でなければ、対抗できないと思います。
藤戸には、知盛が行くべきだったようにも感じます。

平家軍の有能な人材の不足は、そのまま平家軍の弱体化に直結していたのでしょう。
まさに「人おらずんば、平家にあらず」ですね。

その人とは、清盛、重盛のような人材のことです。


◇政治力でも敗れる

平家が、戦闘力に頼るだけでなく、もっと頭脳戦や陰謀戦を駆使することができたなら、状況はまったく違ったような気もします。
戦闘力といっても、水軍による海戦だけで、戦争に勝てるはずもないことは、後の戦国時代も同じですね。
陸軍の重要性は、現代の軍でも同じですね。

今なら、陸海空に加えて、宇宙、海底、情報、サイバー、ロボット技術もでしょうか。

* * *

平家と源氏の戦術能力の差といわれれば、それまでですが、平家は、平清盛という絶対的な統率者を失い、どうも平家軍は足並みがそろっていません。
もともと、軍馬もおらず、海で大揺れの船上で、足並みもないですが…。

いずれにしても、女性や子供を連れての戦場では、武士は気が散って、死ぬ覚悟で戦闘などできませんね。
なぜ、武士の主力軍に同行させたのか…。
なぜ、陸路を源氏に制圧される前に…、航路に自由度のあるうちに…、安全な地域に女性や子供を移動させなかったのか…。
まだまだ源平のどちらに味方するか決めていない武家もありましたから、先にどこかの寺などに移動させることはできなかったのでしょうか…。
やはり、平家が奈良の東大寺や興福寺を焼き払ったことのツケが、きたのかもしれません。
この一族や家族同行での戦闘は、相当に不利です。

戦国時代には、どうしようもない時に、自身の家族を、敵のトップ武将に不満を持つ、その武将の重臣に、あえて人質として預けるというケースもあります。
石田三成自身も、徳川家康の屋敷にあえて逃げ込みますよね。
家康は、屋敷に押しかけてきた反三成派の武士たちを追い返します。
トップ武将の陰謀力が試される時ですね。

「平家にあらずんば、人にあらず」と言い放った平時忠は、この合戦の後も、持ち前の陰謀力で、上手いこと生き残ります。
もっと早く、平家一門のために、頭を使わんかい…、と言いたいところです。
彼の持ち前の陰謀力は、彼自身の一族にしか活かされていない気がします。

この源平合戦の海戦の時に、平家一門のため、彼の陰謀力が、もっと早く活かされていたら…。
とはいえ、一門の仲がよくなさすぎですね。
「時忠は、汚れている」などと行っている暇はなかったはずですが…。

「源平合戦」や「壇ノ浦の戦い」のことは、機会がありましたら、またあらためて書きたいと思います。


◇海に浮かぶ月をながめて

「藤戸の戦い」で敗れた平行盛(たいらのゆきもり)は、実は最期の場所や時が、よくわかっていません。
壇ノ浦で討死したとか、自刃したとかの説のほか、落人として、種子島に逃れたという説もあります。

彼が「藤戸の戦い」の後に詠んだ歌が残っています。

「もろともに、みし世の人は、波の上に、面影うかぶ、月ぞ悲しき」。

意訳:いっしょに、この月を眺めたあの人は亡くなってしまった。瀬戸内海の波間に映る月を見るたびに、あの人たちの在りし日の面影が浮かんでくる。この月の、なんと悲しいことか。

悲しみに沈む彼の気持ちもわかりますが、こういう感傷的な武将では、やはり「藤戸の戦い」には勝てないかも…。
悲しみに浸っている余裕は、平家にはまったく残っていませんでしたね。

* * *

ここで一曲…。

♪瀬戸は日暮れて、夕波小波
♪あなたの島へ、お嫁にゆくの
(略)
♪島から島へと、渡ってゆくのよ
♪あなたとこれから、生きてくわたし
♪瀬戸は夕焼け、明日も晴れる
♪平家の門出、祝っているわ

アボカドちゃん…アップしてくれました。

感謝いたします。

瀬戸の花嫁

 


◇オレは海には浮かんでこない

個人的な意見ですが、平清盛は、自身の大勢の息子たちの中で、武人として認めていたのは、おそらく平重盛(たいらのしげもり)と、平知盛(たいらのとももり)」だけであっただろうと思っています。

清盛の四男の知盛は、この時の源平の海戦の平家軍のトップ司令官でした。
長男の重盛、次男の基盛はすでになく、三男の宗盛は前述のとおりです。

知盛が、最後に、平家につながりの深い北九州の地に、何かの願いをもって向かった気もわからないではありませんが、もはや北九州に味方してくれる勢力など、いませんでした。

* * *

「見るべき程の事をば見つ」。
(意訳:人生で見るべきものはすべて見た)

…と、彼は言い放ち、自身の乗った船を、自らもきれいに掃き清め、船の重いイカリを身体に巻き付け、船から海に飛び込みます。
もはや海の上に浮かんではこないという、彼の強い意志がそこにあります。

「藤戸の源氏の意志」と、「壇ノ浦の平氏の意志」には、大きな違いがありました。

永遠に残ったのは、強い意志を持った勝者の源氏と、水に浮き上がる「藤戸」の「石」でしたね。
源氏は、「藤戸石」のおかげなのか、海に沈むことはありませんでした。

知盛ら平家一族とともに、平家の遺志は海に沈んでいきました。

* * *

次回コラムは、まだこの段階では、京の都、摂津(大坂北部・兵庫南部)、大和国(奈良県)あたりしか手中におさめていない織田信長のお話しに戻ります。
天下を手にする前に、藤戸石を手中にした信長に、この「天下の名石」の効果はあらわれるのでしょうか…。
そして天罰は…。

最後に、「人生で見るべきものはすべて見た…そういう人に私はなりたい」。

(by 銀河の武将)

* * *

コラム「麒麟(50)信長に倍返しだ!前編 / 義父がまさか…」につづく。

 

2020.12.2 天乃みそ汁

Copyright © KEROKEROnet.Co.,Ltd, All rights reserved.

 にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 

 

 

 

ケロケロネット