NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。織田信長の天下布武。浅井長政とお市。朝倉氏と斯波氏。西の丸と京極竜子。立政寺の柿。近江国の人間模様。朝倉義景・六角義賢・蒲生氏・京極氏・尼子氏・甲斐氏・若狭武田家。滋賀県・琵琶湖。

 

 にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 

麒麟(41)湖を越えて…


コラム「麒麟(40)戦国の蟻たち」では、足利義昭の将軍への道、朝倉義景の事情、織田信長・浅井長政 vs 三好三人衆・六角義賢、稲葉良通の一徹人生などついて書きました。

今回のコラムは、大河ドラマ「麒麟がくる」の第26~27回に関連し、近江国(滋賀県)周辺域の六角氏・浅井氏・京極氏・朝倉氏のことなどについて書きたいと思います。

* * *

この数回の大河ドラマ「麒麟がくる」は、ほぼ一年刻みで進んでいますね。
急に進捗速度が落ちた気もしますが、大きな戦のシーンはほぼ割愛されていますね。

織田信長の上洛(じょうらく / 京都に上ること)までの数々の戦闘については、ドラマではさらりと流されてしまいました。
「桶狭間の戦い」のようなビッグな戦いならともかく、明智光秀が絡まない戦いは省略させれても仕方ありませんね。
これらの戦闘のことは、大河ドラマで放送されてから書くつもりでいましたので、前回コラム「麒麟(40)戦国の蟻たち」で書きませんでした。
今回から数回にわたり、信長の上洛作戦に関連して、大河ドラマで描かれなかった部分を少し書いていきたいと思います。


◇畿内周辺域

コラム「麒麟(40)戦国の蟻たち」では、足利義昭が奈良の東大寺を脱出する少し前頃の、畿内(きない)および周辺地域の有力勢力を、下記マップでご紹介しました。



「畿内」とは、京を中心に山城国(京都府内の京都周辺)・大和国(奈良県)・河内国(大阪府内陸中央部の藤井寺周辺)・摂津国(大阪府北部・兵庫県南東部)・和泉国(大阪府海岸部の和泉市周辺)の5か国を指します。

商業貿易都市で自治都市の「堺(さかい)」は、摂津国と和泉国の境にありました。
シャレみたいですが、ほんとのお話しです。さすが関西人の DNA です。

* * *

本コラムで「畿内周辺域」と書いた場合は、上記の畿内地域に、近江国(滋賀県)、越前国(福井県東部)、若狭国(福井県西部)、伊勢国(三重県)、紀伊国(和歌山県)、丹波国(京都府中央部・兵庫県北東部)、丹後国(京都府北部日本海側)を指すことといたします。
正確に記すなら「畿内およびその周辺地域」なのでしょうが、短くして書きます。

美濃国(岐阜県南部)と尾張国(愛知県西部)は、近江国、越前国、伊勢国と接する東部の国々です。

* * *

大河ドラマ「麒麟がくる」では、信長が、「美濃国の岐阜から京まで二日で来れる」と言っていましたね。
さすがにこれは、馬での少人数移動かと感じます。

戦国時代は、通常(夏場)、軍団の徒歩行軍の一日の移動距離は、30~50キロメートルあたりが相場です。
現代の歩兵でも20キロ程度の重量の荷を背負うと思いますが、戦闘目的であれば、戦国時代の下層兵士は相当な量の荷を背負ったはずです。
山道なら、そうそう荷車はもたないと思います。
馬は大事な軍事武器ですので、あまり負担もかけられません。
徒歩行軍の場合は、「行軍病」を考慮し、せいぜい一日40キロメートルあたりの移動が限度かと思います。

「桶狭間の戦い」の話しを書いた際に書きましたが、今川軍は相当に無理な行軍を兵士に強いていましたね。
休日なしで桶狭間で戦闘でした。
それにくらべ、織田信長軍は、敵が来るのを待っていました。
これも信長の戦略だったはずです。

* * *

美濃国(岐阜県)から京まで二日なら、越前国(福井県)からも少人数なら、同じくらいの日数か、プラス半日、琵琶湖を船で渡ればもっと早く、京に来れると思います。

名古屋から京都まで、名神高速ルートで、128キロメートル。
岐阜から京都まで、名神高速ルートで、135キロメートル。
◎比較:東京(東京駅)から群馬県高崎市まで、関越道ルートで、125キロメートル。
◎比較:兵庫県姫路市から京都まで、山陽道・名神ルートで、130キロメートル。
ちなみに、東京から京都まで、東名名神高速ルートで、457キロメートルです。

福井市から京都まで、北陸自動車道・名神高速ルート(琵琶湖の東側ルート)で、183キロメートル。
◎比較:東京から静岡市まで、東名高速で、181キロメートル。
◎比較:岡山県備前市から京都まで、山陽道・名神ルートで、174キロメートル。

滋賀県大津市から京都まで、国道ルートで、15キロメートル。
◎比較:東京から川崎まで、国道ルートで、19キロメートル。
◎比較:京都御所から、大山崎町(京都府・山崎の戦いの地)まで、直線距離で、15キロメートル。

ハーフマラソンより短い、この15キロの距離が、多くの武将の運命を変えましたね。
京の都を戦火にさらすのかどうか…、それぞれの武将の判断の分かれ道でした。

大河ドラマ「麒麟がくる」では、駒ちゃんも、今井宗久も、「燃やさないで…」と念願していましたね。
これは、後に、明智光秀の「生死」の大きな分かれ道となります。
おそらく「麒麟がくる」の最終回あたりのお話しかと…。


◇畿内周辺域の有力者たち

足利義昭ら一派は、京を支配し畿内中央部を武力で牛耳る三好勢に対抗する勢力を新たにつくり、上洛し、三好勢を打倒する準備を始めました。
そのため、各地の有力武将に連絡します。
最終目標は、義昭が将軍となり、室町幕府の再興です。

義昭は、中でも有力な上杉謙信、武田信玄、北条氏康による東国での三つ巴の戦いを、なんとか仲裁し、止めさせ、謙信や信玄、氏康らに三好打倒軍の指揮をとってほしかったのでしょうが、この東国の三大勢力の争いをコントロールすることなど到底できません。
彼らは、この時点で、まだ東国を離れることはできません。
駿河国の今川義元は、すでに織田信長に倒されました。

こんな状況の中、足利義昭ら一派は、越前国の朝倉義景を頼り、奈良を脱出し越前国に向かいますが、あきらめ、織田信長のいる尾張国に向かいましたね。

頼みの朝倉氏も、お家の事情や、当時の激しい戦国乱世の状況から、上洛には踏み切れません。
近江国の六角氏や、紀伊国の畠山氏も、様子見です。
単独で、三好勢と戦う決断などするはずがありません。

* * *

一応、三好氏の家臣の松永久秀でしたが、すでに大きなチカラを持ち、独自路線で別の思惑を持っています。
三好勢の中心の「三好三人衆」と松永久秀は敵対関係です。
上記マップにある奈良の筒井順慶(つつい じゅんけい)は三好側です。
松永久秀だけで、三好勢に対抗するには無理があります。

それに松永久秀は、足利義昭の兄である13代将軍 義輝の殺害計画の首謀者である可能性が非常に高い人物です。
このあたりの状況は、コラム「麒麟(40)戦国の蟻たち」までのコラムで書きました。

* * *

朝廷の藤原系の公家の、近衛流・近衛家の「近衛前久(このえ さきひさ)」と、九条流・二条家の「二条晴良(にじょう はるよし)」の関白どうしのライバル関係は、コラム「麒麟(39)器はどこ」で書きました。
一応、三好勢にいったんは味方したのが近衛前久で、足利義昭や信長側に味方したのが二条晴良でしたね。
公家の関白の支援がなければ、将軍は生まれません。

足利義昭が、どうして朝倉氏を頼ることになるかは、後で書きます。


◇猛烈に成長する織田軍

こんな状況になる10年程前、織田信長は、桶狭間で、あの今川義元を倒しました。
その後、美濃国を奪取し、確実に支配域を拡大させてきました。

信長は、マップにある「斎藤龍興」を追放し、美濃国(岐阜県南部)を手に入れ、「西美濃三人衆」は織田家臣団に組み込まれ、木下藤吉郎(後の秀吉)が織田軍内で大活躍し大出世、知恵者の竹中半兵衛も織田軍に加わっています。
柴田勝家も復権。
林秀貞や佐久間信盛などの古参たちは、もちろんいます。
親友の池田恒興ももちろんすぐ近くにいます。
丹羽長秀も加わりました。
前田利家、佐々成政などの桶狭間で大活躍した「馬廻り衆」も成長してきました。
蜂須賀小六などの斎藤道三のかつての家臣たちも、信長の家臣です。
尾張三河の三盟主のひとりの水野勢ももちろん同盟者です。
徳川家康は同盟関係といえども家臣同然です。

信長の、すさまじいほどの求心力ですね。
この頃は、有能な人材が次々に加わり、ムクムクとチカラをつけていく織田軍に見えます。
信長のもとなら、みな、秀吉のように出世できると思ったかもしれませんね

畠山高政、細川藤孝、荒木村重、高山右近、黒田官兵衛らが加わるのは、もう少し先です。

美濃国の、かつての斎藤氏の有力家臣たちの多くが、織田軍に入っていく中、明智光秀は別の道を選択しましたね。

* * *

信長がこれから欲しい人材は、浅井長政(すでに…?)、松永久秀あたりですね。
陰謀者であろうと、とにかく知恵者は信長のお気に入りのはずです。
感情だけで敵意を見せてきたら、信長は戦うまで…。

実は、彼はすぐに「ホトトギスを殺す」タイプではありません。
じっくり相手を落とすタイプです。

信長は、東国の三人(上杉氏・武田氏・北条氏)にはかなり慎重で、用心深く、戦略を考えていたことでしょう。

まずは北伊勢(三重県北部)を手に入れ、その後、近江国(滋賀県)への侵攻を考えていたことでしょう。

「えっ、何…、明智光秀が、ワシに義昭を連れて上洛してほしいだと…」。
こんな絶好のタイミングで、信長に、ビッグチャンスが舞い込みました。




◇信長のさらなる侵攻

マップの信長の尾張国のすぐ南にいる伊勢の勢力…、神戸具盛(かんべ とももり)や北畠具教(きたばたけ とものり)は信長の敵対勢力です。
北畠氏と神戸氏は、親戚どうしの深いつながりです。

信長は、「上洛作戦」とほぼ同時期に、伊勢への陰謀暗躍・武力攻撃を行います。
このあたりは、次回コラムで、上洛作戦の中で書きますが、この時も、足利義昭という存在を、信長は上手に使っていきます。

* * *

信長の「上洛作戦」は、単なる京への上洛ではないと思っています。
上洛に乗じた大軍事作戦だと思います。
「桶狭間の戦い」や「美濃攻め」のように、その内容はち密で、見事だと感じます。

信長という人物は、いつも戦に勝つだけでは、もの足りないと感じる人物だったはずです。
上洛作戦は、軍事作戦であるばかりでなく、織田軍団の組織運営を着実に進化させるものになったと感じます。
実際に、有能な家臣をさらに増やしていきます。

ただ、足利義昭を連れた「上洛作戦」があろうとなかろうと、信長による「伊勢侵攻」と「近江侵攻」は時間の問題であっただろうと、個人的には思っています。
そこに、「将軍を連れての上洛・幕府再興」が加わるのですから、「濡れ手で泡」「一石二鳥」「漁夫の利」のようにも見えてきます。
なにか信長は、幸運のホトトギスを捕まえたようにも感じます。


◇強者に集まる者たち

強大な今川氏と斎藤氏を倒し、伊勢湾から内陸の美濃までを支配するようになり、伊勢湾の海の交易を牛耳る信長の状況を見たら、大坂湾の堺の豪商たちが、信長になびくのも当然ですね。

尾張国の津島湊(つしまみなと)は、まるで大坂湾の堺のよう…。
津島衆や熱田衆のいる街は、大繁盛で、大賑わい。
美濃国からは山や川の産物、濃尾平野の大量の米、何本もある大河を使って大量の材木、伊勢湾からは海の産物…、まさに金が飛び交う地域です。
戦もやたらに多く、武器商人やら、武具職人も大量に集まってきます。
そこを、信長は武力で守っているのです。

敏感な堺の商人(あきんど)たちが、尾張・美濃・三河の「金の臭い」を感じないはずはないと思います。
豪商なら、危険を察知するのも早いでしょうが、チャンスを見つけるも早いでしょう。

儲かりまっか…?
儲かるだりゃあ…。

* * *

堺のある大坂湾は、三好氏の本境地の四国の香川徳島と、大坂の間の海ですね。
もはや、三好氏が堺を守ってくれるとは限りません。

何より、三好氏には金がない。
三好長慶(みよし ながよし)がいなくなった三好氏には、金が集まらない。
堺の商人たちに、金を持たない客は客ではないのかもしれません。
守てくれない武将に、金を出すはずがありません。

当時、大商人にとってのお客とは、金持ちで強い武家と、大宗教勢力の寺院たちですね。
戦国時代なら、戦争は金を生み出します。
商人は、貸した金を回収できない相手に、金は出しませんね。
江戸時代と違って、戦国時代に担保などありません。
没落しそうな武家に義理はない…、大河ドラマの中の「今井宗久(いまい そうきゅう)」は、まさに豪商そのものでしたね。

* * *

信長のもとには、立身出世を夢見る武士が集まり、金を持つ商人が集まりました。
これは将軍に集まるのではなく、信長に集まってくるのです。

将軍の声は確かに大きいですが、実際に集まるのはチカラのある者のほうでしたね。
朝廷や公家も同じ…、チカラのある者にすり寄ります。
献金や寄付金を出さない武士は、家臣にあらずです。

* * *

大河ドラマの中の明智光秀…、それでも彼は、将軍についていきました。
戦国時代は、強者が一瞬に入れ替わる…そんな時代でもありましたね。

彼は、時勢と相手をしっかり見定め、自身の価値を高めて、絶好のタイミングで高値で自身を売る…、ものごとをじっくり考える、なかなか、したたかなタイプのように感じます。

* * *

上記マップの人物名たちは、それぞれが皆、すさまじい敵対関係だったのですが、徐々に、さまざまな組み合わせで連携したり、戦ったりしていきます。信長の配下になったとしても、それは武力で強いられたものであったり、損得勘定や立身出世で集まった者たちです。
信長を信奉したものではありません。
信長も、当然わかっていたはずでしょうが…。
人は、ついつい勘違いしてしまう生きものですね…。


◇佐々木氏の四人の息子たち

ここで、大河ドラマ「麒麟がくる」の中で、名前だけはたくさん登場しますが、人物として登場することのない(おそらく、これからも…)六角氏について、少しだけ書きます。
今後、「麒麟がくる」での登場はあるのでしょうか…。

ドラマの中では「六角承禎(ろっかく じょうてい)」と呼ばれていましたが、これが六角義賢(ろっかく よしかた)のことです。
この六角氏も歴史ある源氏の名家です。

源氏系の武家には、ひし形の四角形を三つか四つ組わせたような家紋がたくさんありますね。
この六角氏も、四つの四角形が全体としてひし形状になっている家紋です。
京極家は、この四つの四角形が、全体として四角形になっている家紋です。
武田家は、また別の源氏系のひし形です。

いずれにしても、複数のひし形や四角形が組み合わされた家紋を見たら、相当に昔からの名門源氏だと思っていいですね。

* * *

近江国(滋賀県)の琵琶湖を中心に、浅井、朝倉、六角、京極という四つの武家は、関係性が非常に深く、時に同盟を組み、時に敵対するという間柄です。
さらにその東の美濃国に、土岐源氏という源氏仲間がいました。
明智氏は、土岐源氏の流れです。

* * *

鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡(あずまかがみ)」にも登場する「佐々木信綱(ささき のぶつな)」という武将がいます。
「近江源氏」と呼ばれる佐々木一族の佐々木信綱は、鎌倉幕府軍(北条義時軍)として、朝廷軍と戦い勝利し、近江国の領地を手にします。

佐々木一族は、朝廷側と鎌倉幕府側に一族が分かれて戦いました。
次の次の大河ドラマの主人公が北条義時ですが、佐々木氏は「鎌倉殿の13人」のひとりではありません。
ですが、大きな一族ですから登場するかもしれませんね。

この佐々木信綱の四人の息子には、近江国が分割し与えられます。
◎近江南部が六角氏で、ここが佐々木氏の佐々木宗家(六角泰綱・三男)。六角の名前は、京都の六角にあった屋敷の地名からきています。
◎近江北部と京都の京極高辻の館をついだのが京極氏(京極氏信・四男)。
◎近江国北東部の坂田郡が大原氏(大原重綱・長男)。
◎近江国北西部の高島郡が高島氏(高島高信・四男)となります。

この四分割のお話しは割愛します。

六角氏の主家と大原氏は、後に滅亡。
六角氏の婿養子などの一部は、江戸時代も生き伸びましたが、かつての全盛期には程遠い家格となります。
高島氏は、伊勢の北畠氏を経由し、江戸時代以降も生き残ります。
京極氏は、まさに歴史のど真ん中で、しっかり存在感を残していきますね。

織田信長と敵対することになる六角氏とは、六角義賢と義治の親子のことです。

* * *

後に織田信長に重用され、数々の武功をあげた武将の蒲生氏郷(がもう うじさと / 六角義賢の孫)のいた蒲生氏も近江国の武家ですが、この武家は藤原系の武家で、六角氏支援として客将と扱われていた武家です。
蒲生氏が織田信長の配下になるのは、この信長の「上洛作戦」の時です。
さすが、藤原系…、かわり身が早い。
というより、陰謀の中、信長に目をつけられたと思います。
後で、あらためて書きます。


◇琵琶湖に潜む陰謀

ずっと後に、前述の京極氏は、ある段階で徳川氏を選び、六角氏は豊臣氏を選んだことが、運命の分かれ道…。

「関ヶ原の戦い」の時に、京極氏は関ヶ原の戦場にはいませんでしたが、少し離れた琵琶湖の地で、これ以上ない重要な役割を担いました。
石田三成は、京極氏の存在と役割をあなどったのか、家康の作戦を見破れませんでした。
三成は、関ヶ原から自身の本拠地の近江国に逃げることさえできませんでした。
三成側の西軍全体もそうでしたし、大坂からの援軍も琵琶湖でストップです。
これは京極氏の存在が大きかったですね。
琵琶湖は、もうひつの「天下分け目」の湖だったといっていいのかもしれません。

* * *

近江国の武家間の複雑すぎる人間関係は、まさに時代を動かす原動力にも見えてきます。

最終的に、浅井三姉妹(茶々〔淀君〕・お初・お江)と京極兄弟姉妹(高次・竜子・高知)を上手に利用した、徳川家康の「関ヶ原の戦い」につながる壮大な戦略は、すご過ぎです。
こんな熟練した陰謀は、石田三成に限らず、並みの武将には、到底無理でしたね。
こんなレベルの陰謀は、やはり信長、秀吉、家康クラスでないと無理だと感じます。

信長の巧みな人間誘導戦術を、家康はよくよく観察していたのかもしれません。
さらに彼は、信長の油断や失敗も、「人たらし(テクニックでの人心掌握)」と呼ばれた秀吉の強引な人間誘導戦術の失敗も学んでいったことでしょう。

おいおい書いていきます。


◇大いなる琵琶湖の畔(ほとり)

さて、話しを戻します。
先ほど、佐々木信綱の四人の息子が、琵琶湖周辺地域に四つに分かれたと書きました。

今現代でも、生態系的に、文化的に、歴史的に、琵琶湖周辺地域は四つ分けられると聞いたことがあります。
ひとつの同じ滋賀県ではありますが、県外の者から見ても、湖北、湖南、湖東、湖西で、雰囲気がかなり違う気がしますね。

* * *

信長の安土城があった地域は、湖東か湖南ということになるのだと思いますが、今は田園が広がる静かな地域に感じます。
静かではありますが、恵み豊かな地で、交通の要所であることは強く感じます。
この地域は、かつて六角氏の本拠地だった地域です。

まさに海のようにも見える 大きな琵琶湖があり、山をひとつ越えた先に京の都があります。
海の産物のある北国の若狭湾には一直線、古代の都の奈良にも一直線、そして、山々を少し越えたら尾張国。
水不足など、さほど心配ありません。
琵琶湖が、さまざまなものから守ってくれます。

信長は、本拠地を次々に移動させることにまったく抵抗を持たない人物でしたが、ひとまず、この近江は理想の場所だと考えたでしょうね。
この地域を手にするには、そこにいる六角氏が邪魔でしたね。


◇六角義賢

信長の上洛作戦の頃、六角氏は六角義賢(よしかた / 承禎〔じょうてい〕)と義治(よしはる)親子の頃です。

六角義賢の父の六角定頼(さだより)は、12代将軍の足利義晴や、13代将軍の足利義輝を支援し助けていました。
三好長慶と死闘を繰り返し、浅井長政の父の久政を服従させていたのは、この定頼です。

足利義晴・義輝の将軍親子は、京で三好長慶に攻撃されるたびに、六角定頼を頼り、細川晴元らとともに近江国に逃げてきましたが、そのあたりは「麒麟がくる」で度々描かれていましたね。

* * *

六角氏が六角義賢に代がわりしてからも、六角氏は足利将軍家を支援していましたが、強大化し続ける三好勢といっこうに上手くやれない将軍親子に見切りをつけ、三好勢と将軍家の中間的な立場をとるようになります。

時は、下克上がますます進み、戦国の戦いが激しくなってきた時代です。
六角氏は比叡山延暦寺ともつながり、敵対宗教勢力を京で打ち破ったりもしていましたが、六角氏は浅井久政の息子の長政に戦で敗れたりするようになり、そうそう誰かの支援と言っている場合ではなくなります。
六角義賢が、失政や敗戦を繰り返す度に、家臣たちが徐々に、浅井氏に流れていったようです。

六角氏は、自身たちの生き残りに必死にならざるをえません。
むやみに三好勢と戦っているわけにもいきませんね。


◇浅井氏の台頭と弱体化

さて、近江南部の六角氏とは別の、佐々木一族のもうひとつの雄である近江北部の京極氏です。

もともと、浅井(あざい or あさい…不明)氏は、京極氏の中堅階級の家臣のひとりでしたが、戦国時代に急激に台頭し始めます。

京極氏は、チカラをつけた家臣の浅井亮政(あざい すけまさ)によって牛耳られるようになります。
いってみれば、ここにも下克上ありです。

浅井亮政は、いわゆる「浅井三代」のひとりです。
彼の後は、浅井久政(母は尼子馨庵か?)、浅井長政(母は小野殿 / 近江国の井口氏の娘)と続きます。

チカラをつけた浅井亮政は、越前国の朝倉氏と同盟を結び、前述の近江南部の六角氏に対抗しようとします。
そして、佐々木一族の宗家の六角氏と、台頭し始めた浅井氏が武力衝突をするようになると、京極氏が勢いを取り戻し、三氏が複雑な状況になっていきます。

* * *

ですが、権力者だった浅井亮政の死後、弱気で戦争下手の息子の浅井久政は、六角氏のチカラに屈するようになり、配下同然となっていきます。

前述の小野殿が浅井久政に嫁いだのは、近江国の水利権争いの調整のためもありましたが、後に浅井長政を生みます。
とにかく、久政は外圧に弱過ぎなのです
浅井長政の姉にあたる「マリア(キリスト教徒)」は、京極家の京極高吉に嫁ぎ、後に京極高次と京極高知を生みます。

戦国時代に、当主が政治力を発揮して、各国とバランスを保つのは至難の業ですね。
この時代の政治力は、軍事力あってのものです。

* * *

かつて家臣の浅井氏に圧倒された京極氏でしたが、六角氏の助けを借りて、「六角・京極連合軍」となり、浅井勢に連戦連勝となります。
相当に追い込まれた浅井久政ですが、越前国の朝倉氏にあいかわらず助けを求める一方、六角氏側にもなんとか仲良くしましょうよという、まるで方向性の見えない両者に弱腰の姿勢でのぞむものですから、さらに浅井氏は、朝倉氏と六角氏から圧力をかけられていきます。
もはや「生き残り戦術」とも違う状況ですね。

ようするに、この時点で、近江南部の強力な六角氏と、近江北部の弱体化してきた浅井氏、そして浅井氏に影響力を持ち続ける越前国の朝倉氏、盛り返してきた京極氏という構図です。


◇浅井長政とお市

そんな浅井家内で、業を煮やした、久政の息子の浅井長政が、六角氏に武力で、いきなり立ち向かい、「野良田の戦い」でなんと六角氏を敗走させます。
その後、弱気の父親の久政を強引に隠居させ、自身が当主になります。
強力な浅井氏の復活です。

それを見ていた織田信長は、「この長政は使える…」と、浅井氏と同盟を組み、美濃国の斎藤龍興を両方面からおさえ込み、ついに織田信長が美濃国を奪い取るという次第です。
同盟となった時期がはっきりしていませんので、信長の「美濃攻め」への影響がわかりにくいのですが、個人的には、少なからず影響したとも感じます。

ただ、浅井氏の内部は、朝倉氏の助けを頼る「朝倉支持派」も、かなり残っており、織田派と朝倉派が混在することになります。

* * *

この浅井氏と織田氏の同盟関係において、相当に重要だったのが、浅井長政と「お市(いち)」の婚姻です。
「お市」とは、織田信長の妹です。「いとこ」という説もあります。

浅井長政の正室として、六角氏側の関係者が嫁ぐことになっていた婚約を破棄させ、自身の妹の「お市(いち)」を長政の正室につかせたのが、織田信長です。

この浅井長政とお市の間の子が、「浅井三姉妹」です。
茶々(後の淀君 / 秀吉の側室)、お初(京極高次の正室)、お江(二代将軍、徳川秀忠の継室)の三姉妹です。

六角氏からしたら、屈辱の婚約破棄だったと思います。

* * *

この長政とお市の婚姻の時期は、実は、はっきりしていません。
美濃攻めの1561年から1567年の間だという説や、それ以降だという説など、諸説あります。

1567年という説が有力ですが、美濃国の武将の「市橋長利(いちはし ながとし / もともと斎藤龍興の家臣で、後に信長の配下になる)」のはたらきで、「お市」が浅井長政に嫁いだといわれています。
この市橋氏とは、後に、織田氏と浅井氏の同盟関係をつくる仕事をする重要な人物です。

* * *

先ほど、近江南部の強力な六角氏と、近江北部の弱体化してきた浅井氏、そして浅井氏に影響力を持ち続ける越前国の朝倉氏、盛り返してきた京極氏という構図だと書きました。

それが、浅井長政の登場で、近江南部で少し分が悪くなり始めた六角氏、近江北部でチカラを巻き返し 織田氏とも同盟した浅井氏、ちょっと近江国のことが心配になってきた越前国の朝倉氏、生き残りに必死の京極氏という関係に変わってきました。

今川氏と斎藤氏を倒し イケイケの織田信長と、これまたイケイケの浅井長政が、手を組んだことで、近江国は、以前にも増して騒然としてきました。

* * *

後述しますが、朝倉氏と織田氏はライバル関係で敵対関係です。
両氏は水と油の関係です。

戦国武将というのは、敵国に侵攻する時に、騒ぎや動乱を巻き起こし、そして入り込んでいきますね。
敵対しているとはいえ、深い姻戚関係でつながる近江国勢と越前国の朝倉氏に、信長は、大きなクサビを打ち込んだかたちになりました。
クサビこそ、「お市」でした。

とはいえ、実際に織田氏の軍団が近江国に侵攻するのは、まだ無理です。
信長は、北伊勢方面(三重県北部)を制圧してからでないと、安心して近江国(滋賀県)には進めませんね。

ここに、「義昭といっしょに上洛」という話しが舞い込んできました。
個人的には、たまたま舞い込んだのか、信長が手繰り寄せたのか、どちらか わかりません。
舞い込んだとしたら、幸運としか言いようがありません。

金メダル候補が、次々に相討ちで脱落し、後ろを走っていた勢いのある若者に、金メダルがやってきたような感じです。
後ろにいたのは、弱いからではなく、たまたまそうだったということです。


◇浅井家の中の尼子女性

さて、ここで少し歴史を戻して、書きます。

前述の浅井亮政(あざい すけまさ)の側室に「尼子馨庵(あまご けいあん)」という女性がいました。
この尼子とは、近江尼子家のことです。

もともと、この両家の結婚は、六角氏に対抗する政略結婚でした。
この「尼子馨庵(あまご けいあん)」が、後に、浅井家内で大きな影響力を持つことになります。
浅井久政の母は、この尼子馨庵といわれています。

* * *

琵琶湖の竹生島(ちくぶじま)の小島権現の1567年の再興では、この「尼子馨庵(あまご けいあん)」と、浅井蔵屋(あざい くらや)という女性のふたりが尽力します。
この浅井蔵屋のほうが、浅井亮政の正室です。
正室と側室が、仲良く?、神社を再興…。
戦国時代のたいへんな「女子力」ですね。

浅井家の、淀君、お初、お江に続く、ものすごい「女子力」は、この頃からの遺伝かもしれません。

「都久夫須麻神社(竹生島神社)」に関しては、次のような古い文献があります。
「雄略天皇3年に浅井姫命を祀る小神祠ができたのが始まり」 。
雄略天皇は、元号が始まる前の天皇で、雄略天皇の元年は457年で、飛鳥時代より前の古墳時代(弥生時代)です。
ここに「浅井」という名称がすでに登場しています。
気が遠くなりそうな古さです。

浅井氏の浅井という名称は、近江国の地名の「浅井」からきているともいわれています。
京の藤原系九条流の公家の三条家の血ともつながっているという説もあります。
これは、浅井家が、由緒ある藤原系の家系とつなげるための陰謀工作ともいわれています。
当時の戦国武将たちの中には、こうした創作話が少なくありません。
浅井氏も、新興の下克上組のひとりですね。

* * *

ちなみに、中国地方の雄に、尼子(あまご)氏という武家がいましたが、この武家は、もともと前述の鎌倉幕府の有力御家人の佐々木氏から派生した一族で、この近江国勢とは、深いつながりがあります。
京極氏の京極高久(尼子高久)が、自身がいる近江国の尼子という地名から、尼子と名乗り始めます。
この高久の息子たちが、近江尼子家と出雲尼子家に分かれることになります。

中国地方の出雲の尼子勢力は、敵対する京の室町幕府や、近江国でゴタゴタ続きの京極家からも、距離的にかなり遠かったこともあり、独自に強大なチカラをつけていくことになります。
ただ、この出雲尼子家も、いずれ中国地方の大武将の毛利元就に滅ぼされます。
畿内から遠い地の出雲尼子氏でしたが、「七難八苦(しちなんはっく)」はやってきました。

長政や浅井三姉妹など、近江尼子家の血をひく子孫たちにも、後に壮大な「七難八苦」がやってきますね。

「七難八苦」とは、出雲尼子氏の有名な家臣の山中鹿介(やまなか しかのすけ)の名言の中の言葉で、彼は出雲尼子家の再興を果たせずに亡くなりました。


◇織田信長の美濃攻め

「麒麟がくる」の初回内容の少し前の時代ですが、美濃国の守護の土岐氏と斎藤道三がもめはじめ、周辺国の武将たちは、美濃国に触手を伸ばし始めます。
越前国の朝倉氏、尾張国の織田氏、近江国の六角氏と浅井氏あたりが、頻繁に美濃国の敵になったり、味方になったりしながら、土岐氏の美濃国を狙っていました。
陰謀の展開が複雑すぎて、早すぎて、ちょっとついていくのがたいへんです。
土岐氏の家臣だった斎藤道三が美濃国を奪取し、美濃国はひとまず他国勢にとられることはありませんでした。

美濃国は、斎藤道三、斎藤義龍、斎藤龍興と続き、斎藤氏の支配下になっていきました。

ですが、今回の信長の「上洛作戦」の少し前に、織田信長が美濃国を陰謀と武力で奪いとります。
信長の「美濃攻め」と呼ばれる戦いです。

斎藤家を継いだ当主の斎藤龍興(たつおき)は、他国に敗走しました。
大河ドラマ「麒麟がくる」では、この戦いの内容はスルーでした。
台詞で、若干の概要説明だけでしたね。

* * *

1560年の「桶狭間の戦い」では、短期間に見事な勝利を手にした信長ではありましたが、その後、斎藤氏から「美濃国」を奪い取るのに7年も費やします。
1561年から1567年までかかってしまいます。

それだけ複雑な事情があり、有力武将が多く、陰謀が難しかったともいえますね。
周辺の国々には、朝倉、浅井、六角、京極などの有力武将がひしめいています。
「麒麟がくる」でも、信長の苦労ぶりが描かれていました。

信長は、斎藤義龍・龍興との長い戦いの末、陰謀を張り巡らし、美濃国の多くの敵将を寝返らせ、やっとのことで美濃国を手に入れます。
この7年間の戦いの中で、信長は、近江北部の浅井長政と連携を取ろうと画策したと思われます。

斎藤氏の美濃国を、尾張国の信長と、近江北部の浅井氏の両面から、圧力をかけようとしました。
この状況は、多くの美濃国勢の寝返りを実現させる要因のひとつになった可能性もあります。
さすがに、織田氏と浅井氏の両面攻撃に美濃国が対抗するのは難しいでしょう。

* * *

それよりなにより、斎藤氏配下の美濃国内の「西美濃三人衆」には野心がいっぱいです。
特に稲葉良勝は下克上武将です。

斎藤家の2回の当主の代替わりには、こうした美濃国の家臣たちが大きく関与していました。
言ってみれば、2回とも、彼らの陰謀といえます。

信長は、強力な「西美濃三人衆(稲葉良通、安藤守就、氏家直元)」や、知恵者の竹中半兵衛らを、味方に引き込み、斎藤龍興を美濃国から追い出します。
見事な陰謀の末、美濃国は信長のものとなりました。

* * *

この西美濃三人衆(稲葉良通、安藤守就、氏家直元)は、後の信長の上洛作戦でも、存在感を見せつけます。
というよりも、信長が、彼ら新加入組に織田軍の中で存在感を持たせ、喜ばせることで、織田軍団の組織力を増大させたと感じます。
ただ、それは喜ばせるだけでなく、織田軍団の厳しさを実感させたであろうとも感じます。
織田の家臣たちは、次々に加わってくるライバルに負けまいと、急速にがんばりはじめます。
そのお話しは、おいおい…。

* * *

この「美濃攻め」では、木下藤吉郎(後の秀吉)が大活躍しました。
斎藤道三の家臣から、信長の配下になり、「桶狭間の戦い」でも大貢献した蜂須賀小六(はちすか ころく)を、木下藤吉郎につけたことも大成功でしたね。
藤吉郎のもとには、あの大軍師「竹中半兵衛」もやってきました。
藤吉郎の幸運には驚きます。
まさに、宝くじを連続で当てたようですね。

信長の「上洛作戦」の直前の「美濃攻め」の内容は、また別の機会に…。


◇信長の天下布武

そして、「麒麟がくる」でも描かれましたが、足利義昭が、明智光秀と細川藤孝の仲介で、岐阜の「立政寺(りゅうしょうじ)」で信長と面会したのが、1568年です。

信長が「天下布武(てんかふぶ)」の印を使い始めるのは、その前年の1567年です。
信長にとっては、「義昭上洛・室町幕府再興」と「天下布武」は、直接的につながるものではなかった気もします。
ですが、信長の「天下布武」が、強い意志を持って始まるのは、この上洛の時期からでしたね。

* * *

ちなみに、この立政寺は、徳川家康が「関ヶ原の戦い」時に来訪し、寺が家康に献上した大きな柿がお盆から落ちてしまい、周囲が凍りついた瞬間、住職が「大柿(大垣)が落ち、これはおめでたい前兆です」と語って、その場が笑いにつつまれた…、そのお寺です。
「大柿(大垣)」とは「大垣城」の意味で、この城に石田三成が立てこもっていました。
この後、三成は、家康によって大垣城から「関ヶ原」に見事に誘い出されます。

三河から岐阜あたりを通り、大垣城をわざと遠目にぐるりと、丸見えの、たいへんゆっくりとした、家康のジワジワ行軍の途中で、おそらく立政寺に立ち寄ったものだと思います。家康は、この大垣城をわざと、ちょっとだけ通り越します。
「来たよ、三っちゃん…。ホレホレ」。
石田三成の不安感は、爆発しそうになりましたね。
その頃、家康は、笑って柿を食していました。

戦国時代に、この行軍や進軍という行為は、実はたいへんな戦術であり、作戦の一部です。
ただの軍団の移動行為では、まったくありません。
織田信長の「上洛行軍」も同じです。

* * *

話しを戻します。

信長が足利義昭といっしょに京に入る「上洛作戦」と、「北伊勢侵攻」は、関連しながら同時進行で進められます。
義昭とは、一時的に離れ、上洛中にあらためて合流することになります。

* * *

前述のとおり、織田氏と浅井氏の同盟の時期ははっきりしませんが、いずれにしても、信長の上洛作戦で、この同盟関係は、重要な意味を持つことになります。

後に、信長は、駿河国の今川氏の残存勢力を武力勢力から完全に脱却させ、さらに甲斐武田氏を滅亡させる時に、徳川家康を上手に使いこなしますが、信長は、この浅井長政も、近江への侵攻、畿内への侵攻に向けて、家康のように使いこなそうと考えていたのかもしれませんね。
そう考えると、さしずめ今川義元に相当するのが、朝倉義景です。

それにしても、信長が歩む状況の順番とその時期は、義昭の上洛の時期に、なんと上手く合致していることか…。
この頃の信長は、まさに何かに選ばれた武将にも見えてきますね。

さあ、天下布武は、信長の思惑どおりに進むでしょうか…。


◇朝倉氏と織田氏はかつての同僚

さて、ここで、朝倉氏についても、「麒麟がくる」に関連した内容のみ簡単にご紹介します。

朝倉という名前は、丹波国(兵庫県北部)の「朝倉」という地名が由来だといわれています。

室町幕府には、足利将軍家の近くに、有力な三つの武家がありました。
細川氏、畠山氏、そして斯波(しば)氏です。

斯波氏は、鎌倉時代に、足利家の一部(足利尊氏の先祖)が、陸奥国(岩手県)の紫波(しわ)という地域を支配していましたが、足利尊氏とともに、歴史の表舞台に出てきます。
後に、越前国(福井県東部)、尾張国(愛知県西部)、遠江国(静岡県の中央部)を領地とする室町時代の大武家となります。

* * *

斯波氏には、有力な「斯波三守護代」という三家の有力家臣がいました。
甲斐氏、織田氏、朝倉氏です。

甲斐氏の甲斐常治(かい じょうち)と、朝倉氏の7代目当主 朝倉孝景(あさくら たかかげ)は、武力と政治力をどんどんつけ、主君の斯波氏を越前国から追い出します。
当時の室町幕府が、斯波氏を見限ったかたちです。
甲斐常治が早くに死に、越前国は、甲斐氏を圧倒した朝倉氏のものとなります。
典型的な下克上ですね。

この7代目当主 朝倉孝景とは、朝倉義景の父の10代目当主 朝倉孝景とは別の人物です。
10代目が、尊敬する7代目当主と同じ名にしました。


◇甲斐に改名

甲斐氏の名は、もともと菊池氏といいます。
菊池氏(甲斐氏)の歴史も少し複雑ですが、もともと、鎌倉時代に、「元寇(げんこう)」とも戦った肥後国(熊本県)の阿蘇氏の家臣で、鎌倉時代にある事件で鎌倉に来た後、菊池家の内部抗争の中、甲斐国(山梨県)に逃れます。
そして「菊池」から「甲斐」に改名(シャレではありません)したものです。

その後、甲斐氏の一部が、九州の肥後国に戻り菊池一族と争いましたが、またしても敗れ、豊後(大分県)を経て日向(宮崎県)に向かいました。
これが今でも九州にたくさんいる「甲斐さん」たちです。

斯波氏の領地のひとつであった遠江国(とおとうみこく / 静岡県中央部)は、甲斐国のすぐお隣です。
この甲斐氏の一部が、斯波氏の家臣となり出世し、遠江国を任されましたが、後に、お隣の駿河国の今川氏が奪い取られました。


◇斯波氏家臣による下克上劇

一方、斯波氏の家臣になった甲斐氏の一部は、越前国で台頭し、室町幕府内でもかなりの権力を持つようになりました。

それで、前述の甲斐常治(かい じょうち)が、同じ斯波氏の家臣の7代目 朝倉孝景とともに、越前国の斯波氏を陰謀と戦闘で追い出します。
それには、室町幕府の8代将軍の足利義政が、甲斐常治(かい じょうち)と結託し、斯波氏の追い落としを画策していました。

ですが、この直後、甲斐常治(かい じょうち)は謎の急死。
おそらく朝倉孝景による暗殺かと思われます。
孝景は、この騒動に乗じて、朝倉一族内の対抗勢力も一掃します。

7代目朝倉孝景は、斯波氏と甲斐氏をほぼ同時に倒すという、すさまじい下克上劇が、この越前国でも起きました。
お隣の美濃国の土岐氏や斎藤道三の下克上劇とそっくりですね。

権力者の甲斐常治を失った越前国の甲斐氏は衰退し、その後滅亡しました。

朝倉氏と織田氏が大出世する中、もうひとりの重臣の甲斐氏は、ひっそりと消えていきましたね。

* * *

一方、もうひとりの重臣の織田氏は、斯波氏の領地の尾張国(愛知県)の守護代を務めていました。
織田信秀(信長の父)が武力を増大させ、尾張国の斯波氏の一族を圧倒し始めます。
信長の代になり、信長は、斯波氏を上手に利用しながら、織田一族内の敵対勢力をつぶし、最後に斯波氏を追放します。
信長の陰謀炸裂です。

これも、越前国の朝倉氏の手法とそっくりですね。

* * *

大河ドラマ「麒麟がくる」では、斎藤道三が美濃国を土岐氏から奪い取りましたね。
同じことが斯波氏の三か国でもおきました。
まさに下克上の壮絶さがここにあります。

織田氏と朝倉氏の間にも、何か釈然としない微妙な関係性がそこにありますね。
たまたまでもありませんが、織田氏は、越前国でなく尾張国でしたので、難を逃れましたが、もし越前国にいたら、織田氏も甲斐氏と同じ運命をたどったのかもしれません。
織田氏と朝倉氏の双方が敵視・危険視するのも、わかるような気もします。


◇足利将軍が頼りにした者たち

ここで、越前国(福井県東部)のお隣の若狭国(福井県西部)のお話しを簡単に書きます。

源氏の武田家とは、その武勇を買われ、足利尊氏から、甲斐国(山梨県)と安芸国(広島県)に派遣され、守護を任された者たちです。

安芸国(広島県)の武田家のほうが嫡流(本流)ではありますが、後に武田信栄が、安芸国から若狭国(福井県西部)に武田家を移します。これが「若狭武田家」です。
マップにあります「武田義統(たけだ よしずみ・よしつね)」とは、その若狭に移った武田家の8代目当主です。

朝倉義景の生母は、若狭武田家の出身です。
ここにも朝倉氏の陰謀が見えます。

後に、若狭武田家は、お隣の朝倉氏の武力で追放されてしまいますが、さらに後に、織田信長のおかげで戻ってきます。
京都の武田家、因幡の武田家、上総の武田家、常陸の武田家…キリがないので止めます。

* * *

足利義昭が、どうして越前国の朝倉氏に頼ろうとしたのかは、この若狭武田家の内紛で武田家が弱体化し、もはや頼りにならなくなっていたこともあります。

そもそも室町幕府の足利家は京都を本拠地に統治を行いますが、もともと、その周辺国には足利将軍家に近い有力な武家を配置させていました。

前述したとおり、足利将軍家が信頼をおく佐々木氏の流れをくむ六角氏(佐々木氏宗家)は近江国にあり、京のすぐお隣りで、足利将軍家を支えていました。
六角義賢の代に、戦国乱世が激しくなり、足利将軍家の威光も凋落し、もはや自身たちの存亡だけでもたいへんになります。

* * *

京の北の若狭湾には、やはり足利将軍家が信頼をおく武田家の嫡流である若狭武田家がいましたが、ここもお家騒動でゴタゴタの状況です。
甲斐国の武田家は、少し遠すぎますし、武田信玄も東国でそれどころではありません。

大坂や奈良方面は、敵対する三好勢や、野心ある松永久秀がいます。

越前国には、やはりかつて将軍家の支えであった有力な斯波氏がいましたが、朝倉氏に乗っ取られていました。
とはいえ、朝倉氏は、天皇家の流れをくむ日下部氏(くさかべうじ)からの源氏の武家ともいわれています。
斯波氏にかわって、足利将軍家が頼ろうとしても不思議はありません。

織田氏は、朝倉氏と同様に、斯波氏の家臣だった武家ではありますが、言ってみれば、素性のよくわからない「成り上がりもの」です。
ですが、六角氏、若狭武田氏、朝倉氏がダメとなれば、もはや有力で勢いのある織田氏しかいませんね。

信長が始動すれば、その後に他の武将が続いてくるのかどうか…?
それとも、別の動きが始まるのか…?


◇朝倉孝景と義景

野心いっぱいの10代目当主の朝倉孝景は、越前国から若狭、近江、美濃、加賀などの周辺国にどんどん侵攻していきました。
若狭国の武田氏も追い出されます。

10代目 孝景は、文武両道に優れていたともいわれますが、実状はよくわかりません。
孝景は、周辺国のお家騒動などのトラブルに乗じて、どちらかに味方をするフリをしながら入り込み、影響力を拡大させる陰謀戦術が多かった武将です。
美濃国への手法もそうでした。
周辺国との姻戚関係もどんどん進めました。

さらに、「一乗谷(いちじょうだに)」という京風文化の漂う、経済的にも大繁栄した城下町をつくったのも彼です。
ただ、戦国時代の戦闘スタイルの進化を考えると、一乗谷は、少し古い時代の遺産にも感じます。

* * *

朝倉氏も、美濃国の斎藤氏や、尾張国の織田氏、畿内の三好氏などと同様に、一族内の抗争まみれでした。
10代目 朝倉孝景も、斎藤道三よりも早くに、謎の急死となります。
そして、息子の朝倉義景に代がわりします。
何かの陰謀としか思えません。

とにかく、朝倉氏というのは、陰謀渦巻く、身内の抗争まみれだったということです。
「麒麟がくる」でも、朝倉義景の息子が毒殺されていましたね。

もちろん、義昭ら上洛推進派の動きを止めるための、反対勢力による暗殺ですね。
この状況で、いくら野心家の朝倉義景でも、上洛できるはずはありません。

明智光秀も、細川藤孝も、このような朝倉家を頼ることなど不可能だと考えたでしょう。

織田信長の織田家も、内部抗争まみれでしたが、幸運にも、上洛作戦の前に、織田家の抗争は決着がついていましたね。
信長のもと、織田家は、ほぼ一枚岩の状態になっていました。

* * *

朝倉義景にとっての脅威は、武力を誇る近江南部の六角氏、それと美濃国の斎藤氏、尾張国の織田氏でしたが、斎藤氏は織田氏に倒されました。
浅井長政が当主になるまでは、浅井氏など敵ではありません。
越前国の本願寺の宗教勢力である一向一揆は、朝倉氏の頭痛の種ですが、ひとまず横に置いておきます。

前述したとおり、朝倉氏にとって、織田氏は、斯波氏の家臣時代の先輩上司です。
微妙なライバル関係、敵対関係は残ったままです。

朝倉義景からしたら、浅井氏は、織田氏や六角氏、斎藤氏との緩衝材でした。
それが、「かつて、あれだけ窮地を助けてあげたのに、浅井の若僧(長政)は、オレの宿敵の織田信長と組むのか…」ですね。

浅井長政の父親の久政は、弱腰で丸め込めましたが、息子の長政は難しそうです。
さあ、義景はどうする…。


◇初代西の丸殿…京極竜子

ここまで、近江国の六角氏、京極氏、浅井氏の関係性、ついでに尼子氏と蒲生氏のこと、そして越前国の朝倉氏のこと、織田氏とのつながりなどを書いてきましたが、最後に京極氏のことを少し加えます。

* * *

先ほど、「近江南部の強力な六角氏と、近江北部の弱体化してきた浅井氏、そして浅井氏に影響力を持ち続ける越前国の朝倉氏、盛り返してきた京極氏という構図から、浅井長政の登場で、近江南部で少し分が悪くなり始めた六角氏、近江北部でチカラを巻き返し 織田氏とも同盟した浅井氏、ちょっと近江国のことが心配になってきた越前国の朝倉氏、生き残りに必死の京極氏という関係に変わってきました。」と書きました。

権力者だった浅井亮政(すけまさ)の、弱気の息子の久政(ひさまさ)と、彼の勇猛な息子の長政(ながまさ)でしたね。
浅井長政の姉にあたる「マリア(キリスト教徒)」は、京極家の京極高吉に嫁ぎ、後に京極高次(たかつぐ)と京極高知(たかとも)を生みます。

この京極高次こそ、「本能寺の変」の明智光秀側についた人物です。
高次の戦争下手は、お爺ちゃんの浅井久政から受け継がれたもの…?

後に彼は、豊臣秀吉の側室になる、高次の妹の竜子(たつこ)のおかげで命拾いします。
そして後に、高次のもとには、浅井三姉妹の次女の「お初」が嫁いできます。
高次は、運が良いのか…、悪いのか…?
まあ、生きてりゃ、何とかなる…。
でも妹と奥さんのおかげです…。

一方、高次の弟の京極高知は、見事な処世術で大出世していきます。
この高知は、竜子の弟でもあります。

* * *

前述の京極竜子の最初の嫁ぎ先は、前述の「若狭武田家」の武田元明(マップにある武田義統の息子)です。
この若狭武田家は、「本能寺の変」の明智光秀側に加担してしまったため、秀吉は武田元明を討ちます。
そこに、美貌の竜子がいました。
美女好きの秀吉が放っておくはずがありません。

すぐに秀吉の側室になり、彼女は側室たちのトップの地位まで駆け上がっていきます。
だからこそ、兄の京極高次が助かります。
彼女の最初の嫁ぎ先の若狭武田家は「津川」と名を変え、京極高次の家臣となって生き残ることもできました。
すべて、竜子のおかげ…?

* * *

浅井家出身の「淀君」と最後まで女性陣トップの座を争ったのが、同じ浅井家の血を引く「京極竜子」なのです。
一応、淀君は浅井長政の娘です。実は、信長の娘かも…?
浅井家は、京極家の家臣だった武家で、京極家のほうがはるかに格上の名門武家です。
何やら、複雑…。

秀吉の「醍醐の花見」での、女性陣の順位争いは有名ですね。
最終的に、北政所(おね)がトップ、二番が「淀君」、三番手が「竜子」で、以下続きます。

* * *

竜子は、美貌も政治力も、淀君に負けなかったといわれています。
「大坂の陣」の後、彼女は淀君の侍女たちを引き取ったり、処刑された秀頼の子の国松の遺体を引き取って埋葬したりしました。

兄の高次の命を救い、弟の高知は徳川軍で大活躍、豊臣家の後処理…、なかなか肝のすわった女性ですね。
実家の京極家が今日あるのは、すべて竜子のおかげ…?

淀君がおらず、秀頼が生まれず、この竜子が、大坂城の女性たちのトップの地位にいたら、豊臣家はどのような運命をたどったのでしょうか…。

* * *

大坂城には、「西の丸」と呼ばれる区画がありますね。
「大坂の陣」での豊臣家と徳川家との戦いの前後で、非常に重要な役割を果たした「西の丸」です。
この「西の丸」の最初の主こそ、この京極竜子です。
「西の丸殿」と呼ばれましたが、その後、淀君との兼ね合いで、伏見城に移ります。

その後、この「西の丸」には、北政所(おね / 秀吉の正室)がやってきます。
北政所の後に、この西の丸にやってくるのが、徳川家康です。
家康は、ここになんと天守閣を建てます。
ですから、大坂城にはこの時期に、二つの天守閣がありました。
家康が、大坂城を退去した直後に、この西の丸天守閣は、淀君が取り壊しました。

現在残っている大阪城は、徳川時代の城跡ですので、豊臣秀吉時代の城とはまったく別の城です。
天守閣の位置も、お堀も、規模も、まったく違います。
ですから「西の丸」の構造や位置も、竜子の時代とは違います。
でも、「初代 西の丸殿」は、京極竜子です。

それにしても、「京極竜子」という名…、何かの映画にでも出てきそうで、いかにも強そう…。

* * *

家康からみたら、京極高吉の子供たち…、高次、竜子、高知という人物と、姻戚関係は間違いなく使える…、そう考えたに違いありません。
石田三成には到底できない陰謀暗躍力を、家康は持っていましたね。
秀吉の正室の「北政所(おね / 高台院)」と「竜子」は、絶対に敵にしてはいけない…。

そんなお話しは、「関ヶ原の戦い」のコラムで…。


◇深い深い湖の底

ともかく少し整理します。

名門の佐々木宗家を継ぎ、足利将軍家を長く支えてきた近江国南部の「六角氏」、佐々木氏の流れの近江北部の「京極氏」、その京極氏の家臣から一躍台頭した「浅井氏」という関係です。

六角氏と京極氏は連携し、浅井氏に対抗しました。
弱体化した浅井家を助けたのが、同盟関係の越前国の朝倉氏で、浅井長政の正室として嫁いできたのが織田信長の妹のお市で、浅井氏と織田氏は同盟関係を結んだという関係です。

そして、織田氏と朝倉氏は、かつての斯波氏の重臣どうしのライバル関係、敵対関係だということです。
この両氏が連携することはありません。

六角氏は、織田氏と連携したり、敵対したりの繰り返し。
陰謀暗躍が得意の六角氏です。

この間…、ちょっと省略。

その後、「本能寺の変」で織田信長が亡くなります。

浅井氏と織田氏の間の娘が、浅井三姉妹ですが、長女はもしかしたら信長の子で、後に秀吉の側室に。
次女のお初は、京極氏の正室に。
三女のお江は、徳川氏の正室に。

京極氏は明智光秀に味方し、その後、豊臣秀吉に許されます。
浅井氏の娘で京極氏に嫁いだ京極竜子が、秀吉の側室になり、豊臣女性陣のナンバー3になったためです。

京極氏は後に、豊臣家から徳川家康に寝返り、家康は豊臣家を滅亡させます。
豊臣方の六角氏は没落します。

大河ドラマ「麒麟がくる」でこれから描かれるであろう、浅井氏と朝倉氏の運命は、あえて書きませんが、いずれ書きます。

* * *

近江国周辺域で、織田家、浅井家、京極家、六角家、朝倉家が複雑に絡み合い、ものすごい人間模様が繰り広げられ、秀吉の後、徳川家康が、最後にその人間関係を利用し天下をとるという次第です。

「関ヶ原の戦い」の背景に、近江国の人間関係ありです。

日本史の中でも、最高レベルの、姻戚に絡む大陰謀がめじろ押しです。
歴史ファンから見ても、すご過ぎて、ため息が出そうです。
そのお話しは、「関ヶ原の戦い」のコラムシリーズで…。

それにしても、近江国が絡む人間模様は、琵琶湖の水のように、あまりにも深い…。
でも、人間模様のほうは、澄みきってはいません。

いろいろな意味で、琵琶湖の国である「近江国」を越えていくのは、そうそう簡単ではなさそうですね。
本州のど真ん中に、こんな大きな人間社会の「よどみ」が…。

* * *

次回コラムでは、信長の「上洛作戦」の内容を書きますが、実は、大河ドラマのように、すんなり京にたどり着けたわけではありません。
上洛行軍が始まる前に、北伊勢(三重県北部)地域を制圧しておかなければ、上洛行軍の背後を突かれてしまいます。

近江国に入ったら入ったで、六角氏が待ち構えているはずです。
もし六角氏が、近江国に朝倉勢を呼び込んでいたら、信長の上洛軍と激戦必至です。
ただ、そこは一応かりそめにも「なんとなく幕府軍」です。
義昭が信長のもとにいる以上、手を出しにくいのは事実ですね。

信長の敵対勢力がどのような戦術で出てくるのか、まだわかりません。

京都周辺にいる三好勢はチカラを保持しており、大和国(奈良県)では三好勢と松永久秀が戦っています。

とにかく、腹の探り合い、ワナのかけ合い…、足利義昭一派が考えるほど、上洛は甘くありません。
堺の豪商、今井宗久(いまい そうきゅう)が要求する「非武装上洛」など、だいたい実現可能なのでしょうか…。

近江の琵琶湖の波高し…!

* * *

コラム「麒麟(42)賀の牙城」につづく。

 

2020.10.22 天乃みそ汁

Copyright © KEROKEROnet.Co.,Ltd, All rights reserved.

 にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 

 

 

★プロや一般の、音楽家・イラストレーター・画家・書家などの方々、どうぞお願いいたします。

 

 

ケロケロネット