NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。織田信長の上洛作戦。足利義昭の岐阜への旅。甲賀と信楽と紫香楽。六角氏と甲賀。斯波氏と紫波。南面の桜に「こころ旅」。志賀理和気神社。刀根坂・小谷城・明智光秀・細川藤孝・浅井長政・和田惟政・村井貞勝・不破光治。

 

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麒麟(42)賀の牙城


コラム「麒麟(41)湖を越えて…」では、織田信長の天下布武、浅井長政とお市、朝倉氏と斯波氏、西の丸と京極竜子、立政寺の柿、近江国の人間模様などについて書きました。

今回のコラムは、大河ドラマ「麒麟がくる」の第26~28回に関連し、信長の上洛作戦の前半(福井から岐阜まで)と、甲賀・斯波・信楽などについて書きたいと思います。


◇義昭は福井から岐阜へ

コラム「麒麟(41)湖を越えて…」で、近江国(滋賀県)と越前国(福井県東部)あたりの武家の概要を書きました。

足利義昭が織田信長に、自身とともに上洛し、室町幕府を再興することを要請し、信長はそれに応じ、上洛することになりましたね。

足利義昭と織田信長は、美濃国(岐阜県)の岐阜の立政寺(りゅうしょうじ)で始めて面会することになります。
この二人をつなげたのが、明智光秀、細川藤孝らです。

ここまでのコラムで書いてきましたとおり、足利義昭は、朝倉義景の越前国(福井県東部)に滞在していましたが、1568年7月18日に越前国の一乗谷を出発し、7月25日に岐阜に到着しています。
面会は7月27日だといわれています。

この日程は、史料「明智軍記」の内容です。
日程は史料によって異なりますが、だいたい、ついやした日数や行程は同じです。

約7日間の岐阜への旅ですが、この比較的短い距離(約120キロメートル)を一週間もかけています。

将軍などが移動することを、「動座(どうざ)」と言いますが、このゆっくりとした動座にも、政治的・戦術的な意味が隠されています。


◇福井への先遣隊

信長は、1568年7月に、和田惟政(わだ これまさ)、村井貞勝(むらい さだかつ)、不破光治(ふわ みつはる)、島田秀満(しまだ ひでみつ)らのうちの数名を先遣隊として越前国に送り込みます。


〔村井貞勝・島田秀満〕

村井貞勝は、信長の古くからの家臣で、後に「京都所司代」として、京の管理や公家との交渉を行う武将です。
貞勝は、島田秀満とともに、織田信長の数々の陰謀や暗躍、交渉を行ってきた武将です。
想像ですが、特に村井貞勝は、武功や陰謀というよりも、卓越した交渉力を備えていたのかもしれません。
京のしたたかな公家たちと渡り合えるほどの交渉力がなければ、京都所司代に使命されるとは思えません。

この村井氏と島田氏の二人は、「美濃攻め」の際に、西美濃三人衆との交渉にもあたった武将たちです。
ようするに、交渉事の達人たちです。
織田氏にとって敵である朝倉氏が絡む、今回の「岐阜への旅」ですから、どんな不測の事態が起きるかわかりません。
交渉で危機を乗り越えられるような家臣でなければ、安心して行かせられませんね。


〔不破光治〕

不破光治(ふわ みつはる)は、美濃国の「西美濃三人衆」と同じように、かつては斎藤氏の家臣で、「西美濃四人衆」と呼ぶときは、彼が入ります。
三人衆と同様に、斎藤氏から織田氏の家臣になりました。

信長は、織田軍新入りの「西美濃三人衆」には、後に上洛作戦で別の大事な役目を与えます。
不破氏を含め、この四人はライバルでもあります。
今回、不破氏にもしっかり活躍の機会を与えたのだと感じます。

不破光治の領地は、今の岐阜県不破郡です。
ようするに、義昭が岐阜までやって来る道のルートの事情(道の状況、敵の動向ほか)に精通しているということです。

もし不測の事態になった場合、義昭を関ヶ原周辺の山々を強引に抜けさせ、美濃国まで脱出させなければなりません。
義昭が、朝倉氏の越前国に戻ることはもちろん、浅井氏のもとに長く滞在させることも絶対に許されませんね。
状況によっては、義昭を強引にでも岐阜に連れてこなければなりません。
それには、この地を知り尽くし支配している不破氏が最適ですね。

不破氏からしたら、まさか西美濃三人衆のチカラを借りることなど許されませんね。
信長の人使いとは、このような心理をついたかたちが非常に多いのです。


〔和田惟政〕

和田惟政(わだ これまさ)は、大河ドラマ「麒麟がくる」の中でも描かれていましたね。
ですが、この段階で、信長の家臣というわけではありません。
足利義昭が奈良を脱出し、まず向かった先が、この和田氏のいる甲賀でしたね。

もともと和田氏は六角氏の家臣でしたが、その後、13代将軍義輝の時に、将軍家の幕臣になりました。
義輝が京で三好勢に討たれた時に、惟政は、たまたま甲賀に戻っており難を逃れました。
実は、義輝の不興を買って、地元で謹慎していたといわれていますが、よくわかりません。

それで、京で義輝が討たれた後、奈良の東大寺にいた、義輝の弟の義昭を、細川藤孝、三淵藤英、一色藤長、仁木義政、米田求政らとともに脱出させ、自身の館のある甲賀に連れてきたということです。
個人的には、奈良の支配者で、三好氏の家臣である松永久秀が、陰謀であえて彼らにそうさせたと思います。
これには朝倉氏も一枚絡んでいたと思います。

この奈良脱出の際に、義昭一派が、近江国の六角氏のもとではなく、和田氏の甲賀に向かったことこそ、ミソですね。
まさに、後の信長の「上洛作戦」への道しるべにも感じます。
歴史は不思議ですね。何かが坂道を転がっていくようです。

* * *

和田惟政は、この脱出の後、義昭が信長のもとへ使者として送った人物です。
ですから、義昭と信長の間をとりもつ人物でもあります。
彼は、キリスト教でもあったので、後に、宣教師のルイス・フロイスと信長の間をとりもつことにもなります。
惟ちゃんの人生…、いろいろ、とりもってます。

* * *

足利義昭と織田信長の間で苦労した武将はたくさんいましたね。
もちろん、明智光秀、細川藤孝もそうですが、この和田惟政もまったくそうです。

彼の家は、甲賀武士の有力土豪のひとつで、領地は甲賀の和田地域です。
室町幕府の幕臣にまで出世し、足利義昭の信頼も相当に厚かった人物です。
まさに、甲賀武士団を取りまとめる存在になり、後に甲賀勢は信長の配下となっていきます。

人生の終盤は、義昭と信長の間で、たいへんな苦労をすることになります。
信長よりも4歳ほど年上ですが、わりあい、早くに戦死しました。
でも、キリスト教弾圧や義昭追放を見ずにすみましたね。

ただ、義昭と信長の間で苦労する明智光秀や細川藤孝らとは、少し違うスタンスにも感じます。
今回の大河ドラマ「麒麟がくる」には、義昭を支える人物として、姿での登場はありませんでしたが、義昭の信頼度は藤孝らと遜色なかったのかもしれませんね。
彼について、また機会があれば、その人物像をご紹介したいと思っています。

* * *

その和田惟政が、今回、信長の要請で、義昭のもとに向かったと考えられます。
実は、惟政のこの時の行動はよくわかりませんが、岐阜の面会時には近くにいたようです。
義昭は、和田惟政の顔を見て、さぞ安心したことでしょうね。

いずれにしても、信長が、この和田惟政を使った理由として、近江国の六角氏を強く意識し、けん制したのは間違いないと思います。
信長のさすがの人選です。


◇信長の人選術

前述したとおり、この和田惟政こそ、後に甲賀の武士と信長をつなげた人物です。
後に信長は、甲賀の忍びと深い関係になり、伊賀者たちと対立することになります。
秀吉も信長を継いで、甲賀と結び、伊賀と対立します。
家康は、甲賀も伊賀も上手に手中にします。
さすが家康です。
後で、あらためて書きます。

* * *

信長は、自身の代理の人選がいつも見事ですね。
威圧や圧力、陰謀まがいの交渉ばかりでなく、ちょっとした配慮を欠かしません。
人間のつながりも重視します。
信長自身の家臣だけでなく、外部の人間もしっかり使いこなします。
外部の人間には、しっかり「見かえり」も用意します。

日ごろから、人材情報を集め、それぞれの人間の強みを把握していたのは間違いありません。
「桶狭間の戦い」の勝利も、その成果そのものですね。

相手を喜ばせてこその交渉であり、人材集めだ…。
たしかに強大化していった武将たちは、皆そうでしたね。
「シブチン」と「ドヤ顔」の武将の末路は、みな渋い…。

後の光秀の家臣団は、比較的偏った人材集団にも感じますが、信長家臣団の個性豊かな顔ぶれには驚かされます。

ずっと後、上手い交渉や接待ができない、まじめで頑固な光秀は、いつも信長に怒られるのです。
「秀吉をみならえ…。お前のほうが大先輩だぞ。陰謀だけ冴えていてもダメだ。このキンカ頭!」。

信長の見事な人選術については、おいおい書いていきますが、彼は、最後の最後に人選を誤ってしまいましたね。
とはいえ、ある頃から、信長も人選に苦労するようになるのですが…。
どいつも、こいつも…怒!

* * *

信長は、「桶狭間の戦い」での勝利という大成功体験で、その人物像が大きく変わったと、以前のコラムで書きましたが、次に変わるのが、この上洛の後の大きな出来事の頃です。
頭蓋骨の盃で酒を飲む人物像は、この後につくられていきます。

人を見極める優れた眼力で、人選を誤らない…、細かな配慮ができる…、そんな信長がどんどん変わっていきます。
この上洛作戦の前と後で、相当に変わることになります。
それは、どんどんエスカレートしていく感じです。

* * *

日本に限らず、世界の歴史には、時折、悪魔のような武人が登場してきますね。
信長の歴史を見ていると、悪魔の武人とは、こうして作られていくのかというのがわかるような気がします。
もし自分自身だったら、悪魔にならずに済むだろうか…、そんな気持ちにさせられます。

誰が、特定の人物を「悪魔」として人選するのでしょうか…。
その誰かは、悪魔さえ、消し去ります…。


◇岐阜までの道

さて、義昭が越前国を出立する前に、前述の信長が行かせた先遣隊と、義昭・明智光秀・細川藤孝らの交渉が行われたと想像します。
どの道を使って岐阜に向かいますか…?

越前国から美濃国に直接向かえば、最短距離で、最短日数で行けますが、それでは、信長の思惑とは異なります。
信長は、あえて遠回りのルートで、近江国をゆっくり通らせてから、義昭一行を岐阜に向かわせました。

ここから、史料「明智軍記」の内容を書きます。

* * *

足利義昭は、岐阜行きに大喜び…、文献には、わざわざ、そんな様子が残されています。
7月18日に、越前国(福井県東部)の一乗谷の安養寺を出発します。

一乗谷を出る際は、朝倉氏の重臣の前波景定(まえば かげさだ)の兵500名が警護しました。
越前国の敦賀(つるが)までやって来ると、朝倉一族の朝倉景恒(かげつね)が迎えにきており、500名の警護が加わります。

* * *

お話しを、ちょっと寄り道…。

大河ドラマ「麒麟がくる」では、俳優の手塚とおるさんが演じる「朝倉景鏡(かげあきら)」が、朝倉義景(演:ユースケ サンタマリアさん)の息子の暗殺に絡んでいましたね。
朝倉一族の内部抗争については、前回コラムで少し触れましたが、前述の敦賀で待っていた朝倉景恒も、景鏡も、どいつもこいつも、影だらけ…。
競争、抗争、陰謀、暗殺まみれの朝倉一族です。
最終的に、朝倉家の崩壊は、自滅に感じます。
おまけに、大喜びの足利義昭は、なりふり構わず褒美を与えるものですから、朝倉内部の抗争を助長させます。

* * *

さて、警護が1000名にまで膨れ上がり、越前国(福井県東部)と近江国(滋賀県)の国境にある北国街道の刀根坂(とうねさか / 久々坂峠・柳瀬峠)に向かいました。

大河ドラマなどの時代劇では、主要な武人たちしか移動しないような印象も受けますが、将軍の動座には、おそらく近習や幕臣(三淵氏・一色氏・仁木氏・伊勢氏・若狭武田氏ほか)はもちろん、女性や子供、侍女などの従者もたくさん同行するはずです。
おそらくは、総勢2000名ほどはあったと思われます。
福井から滋賀県の長浜までの間で、敵の襲撃はまず考えられません。

この刀根坂に迎えに来たのが、近江北部の浅井久政(長政の父)とその親戚たちです。
また行軍の人数が増えました。
今の滋賀県長浜市の木之本あたり来ると、今度は当主の浅井長政が迎えにきました。

そして浅井氏の本拠地の「小谷城(おだにじょう / 滋賀県長浜市)に案内し、大歓待します。
足利家のいずれ将軍になりそうな人物が、自身の城に来るなど、子々孫々の誉れですね。
一族みな、生涯に一度は会いたい人がやって来たのですから、おそらく相当な盛り上がりだったと思います。

「義昭さま、これが織田殿の妹で、私(浅井長政)の正室のお市でございます」。
「ほう、噂には聞いておったが、たいそうな美貌じゃの~。信長殿にも、息災(そくさい)にしておったと伝えるぞよ。それにしても、たいへんな、もてなしじゃのう~」。
こんな会話があったか、なかったか…。

おそらく「お市」は、義昭側の女性陣の接待をしたでしょう。
交渉相手の武家の女性陣を味方に引き寄せるのは、戦国武将の戦術の鉄則です。
女性陣へのお土産は、接待の必需品ですね。
でも時には、あえて亭主と分断させます。

この小谷城での盛り上がりの話しは、すぐに日本中に伝わることでしょう。
信長からしたら狙いどおりでしょう。

「義昭様は、朝倉を見捨てて、浅井の城に行ったそうだぞ…。義昭様は、いったい次はどこに行くんだ」。

ここで、朝倉氏の者たちは、小谷城から越前国に帰っていきます。

入れ替わるように、織田方の前述の村井貞勝と不破光治らが小谷城に迎えにやって来ます。
おそらく、織田勢と朝倉勢のはち合せは避けたと思います。

* * *

別の史料には、今の滋賀県彦根市あたりで、前述の織田家臣の村井、不破、島田が、義昭一行が近江国に入るのを1000名あまりの兵とともに待っているとあります。
相当な兵数です。
おそらく義昭が長浜に到着するのにあわせて、彼らは彦根から長浜に向かったと思われます。

この時に、浅井長政は、自身の家臣の磯野員昌(いそのかずまさ / 後に信長の家臣)らを、六角氏からの攻撃に備えて配備させています。
六角勢を「箕作城(みつくりじょう / 滋賀県東近江市)から出させないようにしたと記述されていますので、今の彦根市と東近江市の中間あたりの位置でしょうか。

滋賀県の琵琶湖の東岸は、北から長浜市、彦根市、東近江市の順に位置しています。
ですから、義昭が長浜に到着するまで、織田勢は彦根で待機し、浅井氏と連携し、六角氏を東近江の地から出させないようにしたと想像します。

信長は、足利義昭に、あえて遠回りの琵琶湖の東岸を通らせ、六角氏に、朝倉から浅井、浅井から織田への「義昭の岐阜行き」を見せつけたのかもしれません。
たいへんな挑発にも感じます。

ただ、六角氏が、もし信長に味方する気があるのなら、いいチャンスです。
喜んで警護の姿勢を見せるという機会でもあった気がします。

でも、足利将軍の警護は、この時代の直前では、本来は六角氏が長く担っていたのです。

「もはや、将軍を守るのは、お前ら六角ではなく、朝倉でもなく、このオレ(信長)さ…」。

* * *

ここで、織田・浅井連合軍と六角氏の間で戦闘が起きる可能性もあったでしょうが、そうなると、六角氏は、周辺国の武将たちをすべて敵に回す可能もあります。
六角氏が、無茶な行動をとるのは、まず不可能だったと思います。
かたちとしては、限りなく「幕府軍」に近い軍に、弓をひくことになります。
それに、陰謀暗躍得意の六角氏が、こんな見え見えの信長の挑発にのるとは思えません。

とはいえ、六角氏は、織田信長に、浅井氏と六角氏の婚約を破棄させられ、将軍のお世話と上洛作戦を奪われ、この近江国内で目の前で挑発され、六角氏と甲賀衆の分断工作(後で書きます)までされています。

自尊心の高い名門武家の六角氏には、信長に加担することは、たいへんな屈辱だったかもしれませんね。
浅井長政が、すんなり信長と同盟を結ぶのとは、わけが違う感じがします。

* * *

義昭の岐阜への旅は、戦闘が起きることなく、無事に行われました。
浅井長政は、中山道の関ヶ原付近の、近江国と美濃国の国境(おそらく「寝物語の里」の付近)まで義昭を警護してきました。

義昭の、福井から岐阜までの旅は、まさに信長の大軍事行動そのものだと感じます。

さて、ここまでの道中で、肝心の明智光秀と細川藤孝のことが出てきませんでしたね。


◇岐阜までの別コース

今回の義昭と信長の面会の立役者である明智光秀と細川藤孝ですが、別の史料では、この義昭一行とは別行動をとったように書かれています。

細川藤孝は、福井県大野市を経由して、美濃国に入ったとありますから、越前国(福井県東部)から美濃国(岐阜県南部)に入る最短ルートで岐阜にやってきたようです。

明智光秀が500あまりの兵で、細川藤孝を美濃国で出迎えたとありますが、これほどの人数がどうして光秀のもとにいたのでしょう。
かつての美濃国の明智庄(岐阜県可児市)から、これほどの人数を集められるとも思えません。
織田勢の一部が加わって、光秀を助けたとも感じます。

おそらく、今回の旅費や関係費は、おおかた信長が出したものと思います。

明智光秀と細川藤孝は、岐阜に先回りし、義昭が来るのを待っていたのだろうと思います。

「義昭さま、長い道中、誠にお疲れさまでした。琵琶湖や近江は楽しまれましたか…。信長殿とは数日後に会いますので、まずは美濃国の名物を食され、疲れをおとりください」。

義昭が岐阜に到着し、今回の信長の「上洛作戦」の半分程度は終わりました。
ここからが大問題ですね。


◇甲賀の紫色

さて、先ほど和田惟政(わだ これまさ)のことを書いたときに、甲賀(こうが・こうか)のことを書きました。

この甲賀(滋賀県甲賀市)という地域は、大きな琵琶湖と伊勢湾に挟まれた、内陸部の山あいの地域です。
とはいえ、山国のような険しい山々ではなく、小さな丘が連続する、比較的平坦な山地のような地域です。
海や琵琶湖の近くの平野という雰囲気ではありません。

この甲賀のすぐ南に「伊賀」という地域(三重県伊賀市・名張市)があり、忍者組織としては、時代によってライバルであったり味方であったりしました。

* * *

忍者のお話しは割愛しますが、この「賀」だらけの滋賀県周辺ですが、この「賀」は、奈良時代に、朝廷から、おめでたい地名に変えなさいという「好字二字令」が出され、日本中に「賀」地名が生まれた名残りです。
滋賀、志賀、加賀、佐賀、多賀、芳賀、古賀、賀茂、佐賀野…、もういいがな。
国名も漢字二字に統一されます。
日本人の漢字二字好きは、このあたりからかも…?

「近淡海国(ちかつあわうみのくに)」も「近江」となります。
ちなみに「遠淡海国」は「遠江(とおとうみ / 静岡県中央部)」です。

* * *

この甲賀(今の滋賀県甲賀市〔こうかし〕)という地域は、かつての「紫香楽宮(しがらきのみや)」があった場所です。
もともとの漢字表記は「信楽宮」です。「甲賀宮(こうかのみや)」ともいいます。

奈良時代の740年に、聖武天皇が奈良の「平城京」から「恭仁京(くにきょう / 京都府木津川市)」に遷都し、そのすぐ近くの山あいの地に、保養所として「信楽宮」をつくりました。
おそらく、保養所であると同時に、政治的・軍事的な意味合いが強かったと思います。
非常時の脱出先、軍の待機場所であったのかもしれません。
ですから、このような山あいの地域に、軍事的・文化的・産業的に進んだ地域ができました。
決して、「信長が楽しむ宮(場所)」ではありません。

「信楽」が「紫香楽」に変換した由来は、私はよく知りませんが、「し」文字を「紫」の漢字に替えることはよくあります。
飛鳥時代の604年に、当時の政権は、「冠位十二階」をつくりましたね。
その機構の中に、「七色十三冠」という制度があり、647年から648年まで施行されました。
この当時、最高位の「大徳」のみが使える色は、濃い紫色です。
次の冠位「小徳」の色は、薄い紫色です。
天皇や、聖徳太子などの皇族、蘇我馬子ら蘇我氏などは、この冠位の上にいる立場で、冠位を与える方々です。

冠位十二階は、その後、冠位十九階、冠位二十六階と変化していきます。

後の律令制では、紫色の上位に黄丹(おうだん)色、さらにその上位に白色が追加されます。
神職などの白色は特別な色です。

横丹色は皇太子のみの使用となり、親王と正従三位以上の者のみが紫色の使用となります。
その後、天皇のみに「黄櫨染(こうろぞめ)」という茶色系の色が使われることになります。

先般の令和の新天皇即位の礼の際に、天皇陛下が着用されていた色ですね。
ですから紫色は、皇族などの最高位の方々のみに許されていた色です。

* * *

日本人には、古くから「修辞(しゅうじ)」という、言葉の漢字表記を美しく替えたり、意味を変えたりする、漢字変更の慣習がありますね。
現代の日本社会にも、だじゃれを含めて、漢字に親しんでいます。
「信楽」を「紫香楽」に替えても、不思議はありませんね。
「紫色を使用する皇族の方々が、山あいの保養所に来て、花々の香りを楽しむ場所」という意味にも感じる、この漢字表記は、とても素敵なセンスだと感じます。
「信楽」のほうは、「信楽焼」「信楽高原」などの名に残っていますね。

「甲賀(こうか / 市名は「こうが」読みではありません)」は、この地域の豪族の「鹿深(かふか)」氏の名前が由来のようです。
鹿という動物は、夜に山に帰り、昼間に里に下りてきますね。
奈良公園では今でもそうです。
きっと奈良の都と同様に、このあたりの深い山々に、たくさんの鹿がいたのでしょうね。

市名の読みを「こうか」か「こうが」に決めるのに、何らかの投票をしたというから、面白いですね。
歴史ファンからしたら、やはり「こうか」のほうが、歴史も含めて、効果絶大…えらい!
歴史ある名称は、面白いですね。

いずれにしても、「賀」の文字があることから、奈良時代の影響を受けていることはよくわかります。
戦国時代の読みが、「こうか」だったのか、「こうが」だったのか知りませんが、「甲賀効果」は六角氏にも織田氏にも絶大でした。
このことは、後で書きます。


◇紫波の斯波、斯波の紫波

〔ちょっと脱線〕

先日、NHKーBSプレミアムで放送していますテレビ番組「にっぽん縦断 こころ旅」(歴史探訪番組ではなく旅番組です)を見ていましたら、岩手県紫波(しわ)郡紫波町の旅が放送されていました。

紫波町は、盛岡市の少し南にあり、花のエーデルワイスに似た「ハヤチネ ウスユキソウ」でよく知られた「花の百名山」のひとつの早池峰山(はやちねさん)のふもとにある、北上川流域の町です。

前回コラムで、織田氏や朝倉氏のかつての主君が「斯波(しば)氏」だと書きましたが、その斯波氏の発祥地がこの岩手県の紫波町だといわれています。

斯波氏の「斯波」も、「信楽」から「紫香楽」にしたように、「斯波」を「紫波」に修辞したのかもしれません。
あるいは「紫波」から「斯波」の名前が生まれたのかもしれません。
さらには、別のルートで「紫波」と「斯波」が生まれたのかもしれません。

* * *

「斯(し)」は、人の道を求める正道のような意味もありますね。
斯学、斯道…。

「斯(か)かる」は、「このような」という意味もあります。
時代劇ではよく「かかる仕儀(しぎ)にて候(そうろう)」とかの台詞がありますが、個人的には、おそらくこの「斯かる」ではないかと感じています。
「かかる(正道を求める)仕儀にて、我々は、足利尊氏殿とともに、鎌倉と京をめざし、北条を討ち果たす…」。

それに「斯」には、「斤(おの)」がついているように、道具の「斧(おの)」を意味しています。
斧は木を切る道具であると同時に、古代の重要な戦争の武器です。
「斧」の漢字には「父」が「斤」にのっかっていますが、「父」はもともと「斧を手にした男親」を象形した文字です。

斯波氏は、「紫」から「斯」に、いろいろな意味を込めて変更したのかもしれませんね。
後で書きますが、その逆も考えられます、
あるいは、地名と人名を使い分けたのかもしれません。
各地の武将名には、地名と読みが同じで、漢字が違うケースは少なくありません。


◇志賀理和気神社(赤石さん)

この「にっぽん縦断 こころ旅」の放送回では、紫波町の「赤石神社」が紹介されていました。
私は、この放送で初めて、この神社の存在を知ったのですが、この神社の別名にドキッとしました。
「志賀理和気(しかりわけ)神社」です。
何…?

これから社殿を建て替えると、番組内で言っていました。
今は古式の八幡造りにも見えましたが、次は、ありがちな権現造りになりそうです。
今は、可愛らしい灯明の提灯が社殿の「のき下」にたくさん並んでいます。
灯りが灯されたら、さぞ美しい幻想的な光景になることでしょう。
歴代の社殿の歴史を知りませんが、この光景が消えることは、何か惜しい気がします。

「志賀理和気神社」で検索していただけましたら、多くの方々が写真入りブログ等で紹介していますので、どうぞ御一見あれ…。
一度、訪れてみたい地になりました。

* * *

この神社の境内には、赤色の大きな石が「霊石」として祀られています。
もともと、北上川の川底には赤色の石が多いそうです。
何か火山の影響なのでしょうか、よくは知りません。
地元の方々は、この神社を「赤石さん」と呼んでいるようです。

実は、斯波氏がこの地に来た時に、北上川の川底の赤色の石が、川の水面を紫色に染め、その川波が美しく輝いていたことから、この「紫波」の名称がつけられたという説もあるそうです。
斯波氏の名前が先にあり、それにちなんで、「紫波」の地名が生まれたという説です。

ということは「斯波」の「波」とは、北上川の波のこと…?
個人的に、美濃国の斎藤道三の「二頭波」は、海ではなく、木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)の大激流の波だと思っていますが、この斯波の波も、北上川の波なのかもしれません。

戦国武将の南部氏が岩手を支配していた頃は、この神社は「南部一の宮」として隆盛を誇ったようです。
この南部氏は、甲斐国(山梨県)からやってきた源氏です。

* * *

では、もともとの神社名の「志賀理和気(しかりわけ)神社」の「志賀理和気」とはどんな意味なのでしょう…。
「志賀」…、「理」…、「和気」…、歴史ファンなら色めきたつ用語の連発です。
なんだ…この名称は…?

畿内の都に関連しているのは間違いないと感じます。

「志賀理和気」の中から、「志」と「和」をつなげれば「志和」となります。
志和 … 紫波 … 斯波。
志和 … 斯波 … 紫波。

がぜん興味が沸いてきました。
この「志(こころざし)」とは何ぞや…?

滋賀県の「滋賀」の「滋」との関係は…?


◇南面の桜に「こころ旅」

さらに、この「にっぽん縦断こころ旅」では、この神社の参道の「南面(みなおも)の桜」という、樹齢700年の桜の古木を紹介していました。

普通に考えたら、桜の木が700年も、もつはずがありません。
50~60年がいいところです。

そして、この桜の古木には、藤原頼之と桃香という娘の、悲恋話しからのハッピーエンドの伝説が残っているようです。
これが縁結びの聖地にならないはずがありませんね。

* * *

藤原頼之は、鎌倉時代に源頼朝の家臣として活躍しました。
三河国(愛知県豊田市御立町の高橋)の出身でしたが、この一族は、後の1285年の霜月騒動(しもつきそうどう / 北条家の鎌倉幕府内の御家人どうしの争乱)の余波で、下野国(栃木県)の宇都宮氏の配下になったようです。
宇都宮氏も、藤原系の有力武家です。

霜月騒動で敗した安達氏は、藤原系の有力武家ですので、当然、多くの藤原一族に影響を与えたはずです。
伝説では、1331年に、藤原頼之がこの紫波にやって来たそうです。

藤原家は、大きな公家の家系ですから、当然、京にも、鎌倉にも、平泉のあった東北にも、たくさんの一族がいたはずです。
平泉の奥州藤原氏が滅んだのは1189年ですから、この伝説は140年後のお話しです。
どんな用事で、頼之が、紫波にやって来たのかは知りませんが、3年ほど紫波にいて、京に向かうことになったようです。

紫波に残された頼之の恋人の「桃香」という娘の句です。
岩手県には、ひょっとしたら「桃香」名の女性が多い…?

「南面(みなおも)の、桜の花は、咲きにけり、都のひとに、かくと告げばや」。
なかなかの句ですね。

そして頼之は、京にこの娘を呼び寄せるというお話しです。
この夫婦、もう一度、自身たちのお手植えの「南面の桜」を訪れたのでしょうか…。
見事なハッピーエンドです。

* * *

樹齢700年であれば、斯波氏の誰が見ていたのでしょう…。
坂上田村麻呂は、さすがに見ていないでしょうが…。
この700年にも、何かありそう…。

* * *

それにしても、俳優の火野正平さんが自転車で旅をする、このNHKのテレビ番組「にっぽん縦断 こころ旅」では、観光パンフレットにも登場してこないような、全国各地の知られざる名所がたくさん登場してきますので、楽しみに見ています。

語られつくした観光地ばかりが、名所ではありませんね。
地元の人でさえ気がついていないことも、たくさんあります。
私も、歴史ファンの目線で、番組内の通りすがりの石垣や石塔に目がとまることも少なくありません。

歴史に埋もれた名所を、活かすも殺すも、その地元の人々次第なのかもしれませんね。
どんな些細な内容でも、語り継ぐとは大事なこと…。
観光パンフレットは、地元に金を落としてくれますが、実はそれ以外は何も残してくれないのかも…。
「こころ」を守っていけるのは地元の方々…。


◇甲賀の牙城

さて、信楽、紫香楽、甲賀、紫波の話しを経由して、本論の甲賀と六角氏のつながりの話しに戻したいと思います。

足利義昭の頃の少し前の時代、9代と10代の足利将軍の時に、足利将軍家と六角氏の間で争いが起き、戦争となった時に、六角氏は甲賀に逃げこみます。
甲賀の武士たちは六角氏をかくまい、そこから甲賀と六角氏の深い関係ができます。

六角氏の本拠地は琵琶湖のほとり(今の東近江市)で、そこから山間部の甲賀まで、おそらく20キロメール程度の距離です。
山歩きですが数時間以内に到着できるでしょう。

この時に、甲賀の武士集団の武力の強さが全国に知れ渡ります。

信長は、上洛作戦の時に、六角氏と甲賀の武士たちの関係性を断とうとしました。
六角氏の武力を削ぐのが目的です。

これには、甲賀者のライバルである伊賀者たちとすでにつながりのある徳川家康を利用したともいわれています。
この時の家康は、同盟とはいっても、信長の家臣も同然です。

家康が伊賀者たちや伊勢勢と組んで、甲賀を攻撃するぞと圧力をかけ、攻撃されたくなかったら、六角氏との関係を断てと脅したともいわれています。
甲賀武士たちの助力のない六角氏は、たいへんな戦力ダウンです。

そして、前述しました、甲賀勢の中心人物の和田惟政が、織田氏寄りとなり、甲賀勢をとりまとめて、信長の配下としていきます。

後に伊賀は、逆に信長と猛烈な敵対関係になります。
その戦いのことは、次回以降のコラムで書きます。

信長の死後は、秀吉が甲賀勢を受け継ぎ、徳川勢への監視隠密活動をさせます。

家康は後の江戸時代に、伊賀者も、甲賀者も、上手に手なづけ、日本国内の監視隠密活動を牛耳ります。
家康は、早い時期から、両者を味方にしようと考えていたと感じます。
とにかく、家康は、日本国内の有力な二つの暗躍集団を支配下におかないと危険すぎます。

もちろん服部半蔵は伊賀者で、家康の大切な家臣。
皇居(江戸城)の半蔵門は、彼の名前からです。

家康を「伊賀越え」で助けた「多羅尾光俊(たらお みつとし)」は甲賀者で、六角氏から織田氏へ、そして豊臣氏へ主君が変わります。
信長が本能寺で死に、甲賀勢は、次期天下人候補の家康に恩を売っておいたということです。


◇賀の国の遺産

武田信玄の甲斐国の甲州流忍術は、山本勘助が伊賀から甲斐国に伝えたといわれています。

後に、紀州徳川家の吉宗(後の8代将軍)は、紀州国の大隠密集団を、そのまま江戸に連れていき、江戸幕府の大隠密集団ができあがり、江戸時代の大陰謀が始まります。
この紀州者こそ、甲賀や伊賀の者たちです。

信長が、伊吹山に大薬草園をつくれたのも、彼らの薬学の知識があったからこそだと感じます。
信長は、けがや病気を治すのは、祈祷や信仰ではなく、薬だと強く意識していたと思います。

滋賀県の製薬医療産業のもとは、彼らの忍術をベースにした薬学や化学が「おおもと」といわれていますね。

滋賀県近江八幡市の近江兄弟社がつくったあの軟膏「メンタム」(今は近江兄弟社のメンタームと、ロート製薬のメンソレータム)のパッケージの顔が、あの可愛らしいナースではなく、もし信長の笑顔だったら、これほど売れただろうか…。
それはそれで、武将たちには、「効き目」がありそうですが…。
今の時代…、むしろ信長ドクターの顔もありかも…?

滋賀の甲賀や伊賀の忍者たちのお話しは、このあたりでドロン…。
ドロンが、若い世代に「効き目」があるのだろうか…。

いずれにしても、「忍び」がいない武将は、強くはなれません。

今回のコラムも、このあたりでドロン…。

信長の上洛作戦の続きは、次回コラムで書きます。
岐阜から京までの道のりが、本当は難関のはず…。

* * *

最後にひと言…、滋賀県の「滋賀」は、さらに古くは「志賀」「志何」「斯我」という明記もあります。
まさか、斯波氏の「斯」と同じ…。
「斯我、我はそこにいたり」…斯波氏は、この近江国にいたのか…。
それなら、斯波氏の「波」は、琵琶湖の波なのか…?

* * *

 

 

コラム「麒麟(43)一か六か(イチかロクか)」につづく。

 

2020.10.25 天乃みそ汁

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