大阪セミナー・東京セミナーを下記の日程で開催いたします。

詳細はHPをご覧ください。HPこちらから
 
 
大阪セミナー 4月6日(土)・7日(日)
東京セミナー 3月22日(金)・23日(土)

 

型稽古を繰り返すことによって、

身体内に型意識が芽生えていきます。

 

「身体内に型意識が芽生える」とは、

いかなる場合でも型によって生じた内部感覚が

オートマチックに再現できるということです。

 

もちろん、空手の型稽古の目的は

流派によって異なりますので、

この型意識と言った場合もその捉え方は様々です。

 

当会の場合の型意識とは、

身体を巧みに操作することではなく、

身体そのものの状態のことを指します。

 

つまり、

自分の意図で腕や足などの身体を操作するのではなく、

手に意図をこめたときに、

身体そのものが型稽古によって生み出された身体状態に

変化することを意味します。

 

ですから、型によって効果的な突きを学ぶとか、

あるいは受けの方法を型で学ぶというような稽古方法にはなりません。

 

型の突きや受けの動きを頭で

考えて技として使えるようになるということではないのです。

 

そうではなく、突きという動作、受けという動作が、

すべて型意識として身体に収斂(しゅうれん)されていくことに

型稽古の意義があります。

 

(*収斂(しゅうれん)とは「複数の物が互いに異なる性質・指標などをもっている状況から同質化・相似化が進むこと」)

 

そして、その収斂がどのくらい進んだか、

型意識がどのくらい芽生えてきたかを知るために、部分稽古を行います。

初心者のうちは、部分稽古は座った状態で行います。

これは座った方が身体に捻じれが生じにくいからであり、

 

ほんの少しの力で相手の軸が崩れれば、

動きの質がある程度、型意識として収斂されていることになります。

 

その確認が取れれば次は分解組手に移行することになります。

サンチンの型は、形状そのものが内部感覚の表現であり、

 

そしてその形状そのものに力の源泉があります。

 

 

 

形状が力の源泉になるには、形に生命力を持たせなければなりません。

 

 

 

それには思考の強化が必要になります。

 

この場合の思考の強化とは、イメージの有機化です。

 

 

 

有機化されたイメージは、単なる視覚的なイメージではなく、

 

生体反応を伴うものです。

 

 

 

たとえば、レモンをイメージすれば酸っぱさを感じ、

 

幼いころの記憶を思い出すと身体が温かくなるように、

 

それは生命力を持ったイメージのことです。これを有機的イメージと呼びます。

 

 

 

型稽古の目的は、繰り返し、繰り返し型が要求する形状を保持しながら動くことで、

 

型を身体の記憶像にし、生きた、生命力をもったものにすることにあります。

 

 

 

そうなってはじめて型はその人自身の命が吹き込まれ、生きたものになり、

技をかけることが可能になります。

 

 

 

型で技をかけるとは型の動きを考えながら技をかけることではありません。

 

それは単なる型のパターン練習にすぎません。

 

 

 

そうなると型に縛られてしまい、通常の筋力的な力になってしまいます。

 

 

 

それは浸透する力ではなく、ぶつかる力です。

 

 

 

型は忘れることによって、有機的イメージ身体という「透明な身体」になるのです。

 

 

 

型で技をかけるとはこの「透明な身体」によってかけるのです。

 

それは決して怪しげな、不可思議なことではなく、限りなくリアリティのある身体感覚をともなったものなのです。

 

 

 

型は忘れるためにあり、この忘却の恵みにこそ、型稽古の意義があります。

 

 

 

身体の記憶像にまで高められた型は、はじめて忘れることができます。

 

しかし、忘れたとしても、それは

内的に解放され、生命力をもった現実的な作用力として生き続けるのです。

 

 

 

木剣やトンファーなどの武器で相手に崩しをかける場合は、

手先で武器を扱うことができなければなりません。

 

そのための前提条件として、手の解放が必要になります。

この解放の意味は、手が自在であるということです。

 

武器を扱うためには手が自在であり、意のままに動かせなければなりません。

 

このように述べると、それは誰でもできることのように思いますが、

意のままに手は動かすことはできません。

 

もし私が意のままに手を動かすことができると信じているのであれば、

ピアノやギターなどは誰でもすぐに弾けるようになるでしょう。

 

しかし、実際にはそうはなりません。

 

一般的には手順を正しく繰り返し練習しなければ、

よほどの天才を除けば、誰でもピアノもギターも弾けるようにはなりません。

 

武術においても同じです。

 

ピアノやギターが美しい音色を出せるかどうかが術だとすれば、

武術における手の術とは、「手のほんのわずかな動きで大きな出力を生み出せる」かどうかです。

 

マッチ箱を横にするくらいで相手を崩せるかどうかになります。

 

それができるようになるためには、正しい手順が必要です。

 

それが型稽古です。手順を省略すれば、全く意味がなくなってしまいます。

 

目的を達成するためにはそのための正しい手順が必要です。

 

手順を飛ばしたり、省略したり、変えたりしてしまえば、目的を達成することはできません。

 

 

よくあるパターンとしては何年も型稽古をしていて、

その目的が叶わなかったりすると、目的そのものが変更される可能性がでてきます。

 

つまり、先ほどのマッチ箱を横にする程度の力で崩しができることが目的であれば、

 

その目的が相手に自分の体幹の重さをかけて崩しをかけるという目的に、

 

あるいは遠心力をかけて相手に崩しをかけるという目的に、

 

あるいは背骨の強さで相手に崩しをかけるという目的に、

 

あるいは身体の体幹部のインナーマッスルの強さで崩しをかけるという目的に

 

そういう目的に変えられてしまえば、

 

当然その目的を叶えるための動きと手順も変更される可能性が出てきます。

 

つまり型が変えられる可能性がでてきます。

 

そうなると何が正しい手順や動きであるかがわからなくなってきます。

 

何をもってして、何に向かって稽古をしているかがはっきりしたうえで稽古をしなければ、

 

稽古そのものに意義を見いだせなくなるでしょう。

 

場合によっては型そのものが必要ではなくなるでしょう。

 

マッチ箱を横にする程度の手の力で崩しをかけれることが目的であれば、

 

その目的を叶えるためには、

それにふさわしい型の手順が必要となります。

その手順は一つも省略することなどできないのです。

武器や道具を使って相手を崩す際には、動きは細かく慎重であるべきです。

 

小さな動きを実現するためには、使用する道具や武器が自分の身体と一体となり、

手の感触が均一であることが不可欠です。

 

ただし、単に棒を円を描くように動かすだけでは相手に制止されてしまいます。

 

重要なのは円運動そのものではなく、棒を握った手の質感を一貫して保つことです。

 

つまり、棒と自分の手が衝突しないようにすることが不可欠です。 

このためには、胴体部分から手先に向かって力を発生させないよう心掛けます。

 

 

胴体内の筋肉はできる限り重力線と調和するようにし、

体幹部分を使って相手を崩そうとするのではなく、

 

体幹部の筋肉はあくまで姿勢を保持するためだけに働く必要があります。

 

技は主に手の内のみで行い、特に二の腕の筋肉を使わないようにします。

そのためには二の腕部分の筋肉が胴体部分に繋がっていなければなりません。

 

このためにはサンチンの型稽古が行われます。型稽古を通じて腕がどのような動きをしても、

 

常に胴体と螺旋状に繋がっているようにならなければなりません。

つながりが切れてしまうと、姿勢力が作用しなくなります。

 

姿勢力は相手を倒すためではなく、衝突しない「手の作用力」を生むために存在します。 

 

この理念は幼児期の身体の発達にも通じます。

 

繊細な指の動きができるようになるためには、まず姿勢力が必要です。

 

バランスをしっかりとれるようになって初めて折紙のような繊細で複雑な手の動きが可能になります。

 

姿勢が崩れると、紙を折る指の関節や手首の関節が紙と衝突し、

 

正しく自分の意図(エネルギー)を紙に流すことができません。粗大運動と微細運動の関係です。

 

したがって、棒で相手を制することは、

折り紙を折るような微細な動きと同様に、繊細な手の感覚と姿勢力が不可欠です。

この手の感覚は書道や絵画や楽器演奏と通じるものがあります。

 

この点において空手は格闘技に留まらず、武芸としての芸の一部であり、

「手の調和」と「姿勢力」が重要な要素となっています。

型の内形は、イメージが作用力に変換される意識のプロセスを指します。

手に棘が刺さったり、火に触れたりする際の手の引っ込める反射作用に似ていますが、

この反射は痛い・熱いからという思考ではなく、感じた瞬間に手がすでに引っ込んでいるのです。

つまり、この反射は意識を超えた時間の中で生まれるものです。

 

同様に、イメージの作用力も相手が感知する時間がないため、気づいた時には軸が崩れたり、倒れたりします。

これらは思慮する余裕のない世界で起こる出来事です。

 

ただし、その成立過程には違いがあります。

 

棘や火による反射は本能的であり、脊髄反射に基づいていますが、型の内形は身体の質感を統一化する動きが繰り返され、そのイメージが脳に刻印される結果です。

これは単なるイメージではなく、イメージが生じた瞬間に身体がその状態になるというものです。

つまり、イメージが自分の身体の状態を変容させるのです。

これは外面的には見えませんが、身体内部ではイメージが起きた瞬間に微細振動が生じています。

この振動が他者への作用力となりますが、

頭で考えた体の動きが相手に伝わるのではなく、

自分の身体状態が相手に転写されるものであり、

これは瞬時に起こります。

 

相手はそれを感知できないのです。

 

それは通常の時間感覚を超えた時間で起きており、

夢意識(半トランス)に似ています。

たとえば、夢の中で通りを歩いている最中に誰かとぶつかり、

言いがかりをつけられ、殴られて倒れる出来事が起きたとします。

そのような出来事は実際の時間で測れば5分か10分くらいでしょう。

 

しかし、夢の中ではほんの一瞬、数秒の出来事です。

内形というイメージの作用力も、

この夢意識に類似しており、通常の時間感覚を超えています。

そのため、技をかける際の心は、この夢意識状態に近いものである必要があります。

自分の動きを自分で行うものではなく、

自分の動きを夢のように遠くで見ているような状態に持っていく必要があるのです。

 

内形の作用力は心の状態が大きく影響します。

わずかな心の変化でも身体の質感が変わってしまいます。

相手を倒そうと思うだけで、

身体は夢意識から目覚め、イメージによる作用力は消失します。

 

この場合のイメージの作用力とは一般的なスポーツのイメージトレーニングとは異なります。

スポーツのイメージは動きに焦点が当たっていますが、

武術のイメージは動きというよりは身体の質感を問題にしているのです。

イメージ通りに動くというより、どのような動きをしても内部感覚としての身体状態に変化が起きないようにするということです。

そのため「上手くやろう」とか「相手を倒そう」、

そういう考えや思いが少しでも湧けば、

身体の質感が変わってしまうのです。

 

つまり、思慮という「我(が)」が介入すると型の内形という作用力は失われるのです。

そのため、型の内形が身についたら、心の修練が次に来ます。

つまり、どんな出来事が起きても夢の中にいつづけるための意識の集中が必要です。

これはぼんやりと何も考えない瞑想的な集中ではなく、明瞭な夢意識に没入するような集中度を高めることが求められます。

この集中度の高い意識状態は表情としても現れます。これを「観の目」と呼ぶことがあります。

古流の「サンチンの型」及び「身体術」についての講習会のご案内

 

今回の講習会では、サンチンの外形の作り方のポイント及び内部感覚の手掛かりを一触を通して学びます。型の挙動一つ一つの意味を説明しながら、正確な型作りを目指します。特に型において最も重要な肩の入れ込みなどができているかを検証するための補助運動を行い、正しい腕の回転の仕方や頭の位置などを確認します。そして型作りにあわせて座り技を行います。今回は座り技を繰り返し受けることによって、統一体への手掛かりを内部感覚として体験します。また一人稽古の時に、型ができているかどうかを絶えず検証できる補助運動やポイントなども合わせて紹介します。今回のセミナーでは組手などはなく、あくまでも型の形成について学びますので、年齢を問わず、初心者の方、男女問わずどなたでも参加できます。

 

古伝の型による身体術の形成にご関心がある方の参加をお待ちしております。

 

 

 

 

日時:1日目 2024年2月23日(金)

           12時30分~15時30分 

       

場所:フィットネス&道場(札幌市北区北十三条西3丁目2113条ビル日向道場1階)

 

定員:4名程度

*定員になり次第締め切ります

 

参加費:20000円

 

参加ご希望の方、申し込み欄から必要事項をご記入の上お申し込みください。

参加申し込み欄

 

ご質問等は以下のアドレスで受け付けております。

info@shinseikai.website

手が臍の下、足が鳩尾と繋がる感覚があってはじめて肚感覚が芽生えてきます。

そしてこの感覚として捉えた肚を頭部の中心で圧搾することで「力」が出現します。

 

頭部の中心で圧搾するとは、不思議な表現のように思われるかもしれませんが、呼吸のことです。

 

しかし、それは一般的な呼吸とは異なります。胸式でも腹式でもありません。

 

肚を圧搾するという表現から、

息を激しく吸ったり、激しく吐いたり、

あるいは腹にぐっと力を込める呼吸と思われるかもしれませんが、

 

そのような呼吸ではなく、頭の中心である鼻根を通して行う、

吸うでも吐くでもないくらいの静かな呼吸のことです。

 

実際に胸や腹が膨らんだり、へっこんだりすることはありません。

 

循環系である胸部の動きは極めて静かなものです。

 

その呼吸が上手くいけば肚の圧搾を導き、「力」を生み出すことができます。

 

繰り返しになりますが、それはお腹に力を込めるような呼吸法ではなく、

 

あくまでも頭の中心が導く、静かな呼吸です。

 

その呼吸によって身体の腹部に新たな機能が生み出されます。

 

そしてその機能が、「力」を放ちます。

それは、一般的な力の出し方とは異なり、

外面上はほとんど静かで動かないため不思議な力のように見えてしまいます。

 

しかし、決して不思議なものではなく、身体内で、複雑な同調作用が生じた結果、

 

解き放たれる「力」です。手と足という四肢代謝系と頭部感覚系が、

 

胸部循環系が同期した結果新たな感覚系として生じた肚感覚が、放つ「力」のことです。

 

そしてその力は、骨を通して放たれていきますが、

部分的な骨ではなく全身の骨を通して放たれる微細振動という律動のことです。

 

しかしながら、そのような力は頭で考えてもできるようにはならないため、

 

サンチンのような不可思議な形状と動きをするような型がつくられたのでしょう。

 

 

型を決して変えてはいけない理由は、型稽古でしか、

肚という新たな感覚系を生み出すことができないからです。

 

もちろん、新たな感覚系とは言っても、

昔の人の多くがもっていた感覚だったのではないでしょうか。

 

その古くて新しい感覚を取り戻すことが一つの文化衝動になれば、

型稽古は、武道だけでなく、

心身養生の観点からも役に立つのではないかと思われます。

「突き」を行う際には、直線的な動きの中に回転がかかるようにします。この回転は見かけ上のものではなく、外形上は見えない内形の回転です。具体的な回転の手法は、型の手順が指導してくれます。自らの意図や恣意的な動きでこの回転を引き起こすことは、通常は不可能です。自分の考えで身体内部に回転をかけようとすると、身体が捻じれ、結果的に回転はかからず、ひねりという力の突きになってしまいます。型がなぜ重要なのかと言えば、この内形としての回転力が生まれるからです。回転を意図的にかけようとすると、大きな骨を動かさざるを得ません。腰骨や肩甲骨などの骨を使用してしまうのです。これは、故意に身体を動かそうとすれば、これまでの動きの延長線上でしか動きの質感が得られないためです。突きのベースとなる型はサンチンですが、その奇妙な立ち方や動きは、自分の意図が及ばない筋肉群や骨を活かすためです。統一体とは身体全体が活性化されることが必要です。そのためにはこれまでの生活で使っていた骨や筋肉群だけでは不足します。他の骨や筋肉群を生かす必要がありますが、それを頭で行おうとすると不可能です。頭は自らの生活経験で得た動きの質感以外の領域にアクセスできません。従って、大人にサンチンの型を教える際、最も大切なのは「結び立ち」を解く方法を伝えても、ほとんどの人がそれを実行できません。教えるほど型が求める動きではなくなります。頭がその動きの質感を理解していないため、どれだけ言葉で伝えても、その動きの質感を頭で把握することはできません。そのため、一定の期間は自然なままに任せる以外に方法がありません。身体がその動きの質感を好むまで待つ必要があります。 一方で、小学校低学年の子供たちは、非常に迅速に「突き」を習得することがあります。これは、彼らが大人に比べて身体の受容力が圧倒的に高いためです。彼らには身体の受容力を妨げる「癖」がほとんどありません。特に「暴力的な動きの質感への好み」といった癖はほとんど見られません。子供たちが持つこの素直な心身の状態が、「突き」に回転力を持たせる動きを容易にします。回転力を持たせるためには、型の正しい形状と手順を厳守することが非常に重要です。初めは動きが硬直して感じられるかもしれませんが、やがて身体はその動きの質感を好むようになります。これは幼少期に持っていた質感と関連しています。ただし、この質感は学校教育が進むにつれて薄れていきます。しかし、型稽古を積むことでこの質感が再び現れます。そうすると、身体が頭と対話し始め、頭は徐々に自分の中にある「暴力的な動きの質感」に気づいていきます。肘に、手首に、膝に、腰に… 暴力性が潜んでいたことに気づき始めるのです。その気づきによって、自分の意図が「忍」に変わり、律動的な動きの質感が少しずつ全身に広がり始めます。古伝の「突き」が相手を傷つけず、自分も傷つけないのは、それが律動的な回転力と調和的な動きの質感を伴った身体文化に属しているからです。もちろん、一般的には「突き」という言葉は破壊力として捉えられがちであるため、多くの人は突きを律動的、調和的なものであるという考えには違和感を覚えるかもしれません。そのため、ここで言う律動的、調和的な突きと言う考えはごく一流派の考えに過ぎないことを付け加えておきます。したがって、 「突き」を相手に行い、その相手が悶え苦しむことに焦点を絞るのであれば、サンチンの型稽古における内形はその意味合いが全く変わってしまいます。自分が何を目的に「突き」の稽古をするのか、そして子どもたちに何を目的に「突き」を教えるのか、その目的をはっきりさせることは、稽古以前において、非常に重要な目的意識となることは言うまでもありません。 これにより、「突き」の稽古が、単なる技の習得や相手にダメージを与えることだけでなく、より深い意味や目的を持つものとなります。指導者や生徒が共有する目的意識がクリアであることは、技術の向上だけでなく、精神的な成長や調和的な動きの質感の理解にも寄与します。それによって、空手の「突き」が単なる力の行使ではなく、律動的で調和のとれた身体文化の一環として捉えられるでしょう。

「締める」という言葉は武術的な身体の形成において頻繁に使用されますが、同時に誤解を招きやすい表現でもあります。例えば、腹を締める、肘を締める、脇を締める、肛門を締めるなど、この言葉が力を加えることを指すものではなく、むしろ相反する力を同居させて形状を保持することを指します。この形状保持は質感の要素であり、型稽古や武道の基本原則に関わるものです。

誤解が生じやすいのは、「締める」を力を入れる行為と捉えてしまうと、単なる力技に過ぎなくなり、本来の質感が失われるからです。相反する力を同居させた状態を保持することは、力が相殺され、つまりゼロの状態にあることを意味します。ただし、ゼロの状態は何もない状態ではなく、むしろエネルギーが高まっている状態です。

 

手のひらを締める場合も同様で、生命線を中心に相反する力を同居させ、手のひらをゼロ化します。木刀を握る際も手の平をゼロ化し、膝や足裏も同様に相反する力を保持します。特に脇の締めは重要であり、脇は、この漢字が示すように力が三角形を形成しているため、その頂点に力が集中します。脇がしまるとは、この力が三角形の頂点で相殺されている状態を指し、脇を操作するのではなく、手や足から生じる力によって自然に脇がしまる状態を意味します。

 

武器術においても、武器を使うという発想を捨て、武器を自分の一部として感じることが重要です。相手を崩す際には、物と自分が分離していると力が衝突してしまいますが、物を一部として感じることで自分の力と調和させます。物を持つ際には物の重さ以上の力を使わないように心掛け、物に触れたときに身体の質感が変わらないようにします。これが身体の質感を保持し、相手を崩すための基本です。

 

物と一つになるためには、日常の動作も稽古になります。茶碗を丁寧に持つ、コップを大事にする、扉を開ける際も注意深く行動することで、物と一つになる感覚を養います。手を一部として感じ、手と腕、腕と体幹部が一つになるように努め、日々の生活を通じて質感を磨くことが大切です。物に触れることの重要性を理解し、その結果として物と一体となり、力の調和を生み出すことが、武術においても基本的な要素となります。

 

私たちは自分の腕を自分のものと思っていますが、案外それができていない場合があります。自分の腕を自分の一部にしていない自分の腕を自分で持ててないという場合が多いようです。

 

それは近代化以降、生活様式の変化が進む中で、全身を一体として使用する機会が次第に減少していったことが、手の使用に変化をもたらした可能性があります。特に手の動きが部分的なものになったため、手は身体から分離された存在となりました。日本文化はもともと身体を統一的に使用する傾向がありましたが、ペットボトルのような形状や重さのものでお茶を飲む習慣が浸透することで、手が身体の中心から切り離されたと考えられます。

ペットボトルで水やお茶を飲む際、多くの人が親指と人差し指で持つ傾向があります。同様に、コーヒーカップもその形状から親指と人差し指、中指で挟むように持つことが一般的です。昔はペットボトルやコーヒーカップが存在せず、湯呑を使用していた時代では、左手で湯呑を支え、右手を添えて飲むことが一般的でした。これらの違いが手の質感に変化をもたらしたと考えられます。

 

ペットボトルやコーヒーカップを持つとき、親指側に加わる力が強調されます。この結果、手の内部の質感が親指側と小指側で異なり、手の繋がりが肩で止まる状態が生まれます。この状態では、武器などを使用して相手を制することが難しくなります。親指側と小指側の質感の違いが、手の統一感を崩す要因となるのです。

手の内部感覚を繊細にするためには、触れる際に衝突が生じないように心掛ける必要があります。物に触れる際や人に触れる際に、対象との調和を大切にすることが重要です。この調和が手の内部感覚を繊細にし、手を自分の一部として認識する基盤となります。日常的に物に触れる際に丁寧で大事に触れることは、手の内部感覚を養う優れた稽古となります。茶道なども手の感覚を高めるための有益な稽古の一環です。