「締める」という言葉は武術的な身体の形成において頻繁に使用されますが、同時に誤解を招きやすい表現でもあります。例えば、腹を締める、肘を締める、脇を締める、肛門を締めるなど、この言葉が力を加えることを指すものではなく、むしろ相反する力を同居させて形状を保持することを指します。この形状保持は質感の要素であり、型稽古や武道の基本原則に関わるものです。

誤解が生じやすいのは、「締める」を力を入れる行為と捉えてしまうと、単なる力技に過ぎなくなり、本来の質感が失われるからです。相反する力を同居させた状態を保持することは、力が相殺され、つまりゼロの状態にあることを意味します。ただし、ゼロの状態は何もない状態ではなく、むしろエネルギーが高まっている状態です。

 

手のひらを締める場合も同様で、生命線を中心に相反する力を同居させ、手のひらをゼロ化します。木刀を握る際も手の平をゼロ化し、膝や足裏も同様に相反する力を保持します。特に脇の締めは重要であり、脇は、この漢字が示すように力が三角形を形成しているため、その頂点に力が集中します。脇がしまるとは、この力が三角形の頂点で相殺されている状態を指し、脇を操作するのではなく、手や足から生じる力によって自然に脇がしまる状態を意味します。

 

武器術においても、武器を使うという発想を捨て、武器を自分の一部として感じることが重要です。相手を崩す際には、物と自分が分離していると力が衝突してしまいますが、物を一部として感じることで自分の力と調和させます。物を持つ際には物の重さ以上の力を使わないように心掛け、物に触れたときに身体の質感が変わらないようにします。これが身体の質感を保持し、相手を崩すための基本です。

 

物と一つになるためには、日常の動作も稽古になります。茶碗を丁寧に持つ、コップを大事にする、扉を開ける際も注意深く行動することで、物と一つになる感覚を養います。手を一部として感じ、手と腕、腕と体幹部が一つになるように努め、日々の生活を通じて質感を磨くことが大切です。物に触れることの重要性を理解し、その結果として物と一体となり、力の調和を生み出すことが、武術においても基本的な要素となります。

 

私たちは自分の腕を自分のものと思っていますが、案外それができていない場合があります。自分の腕を自分の一部にしていない自分の腕を自分で持ててないという場合が多いようです。

 

それは近代化以降、生活様式の変化が進む中で、全身を一体として使用する機会が次第に減少していったことが、手の使用に変化をもたらした可能性があります。特に手の動きが部分的なものになったため、手は身体から分離された存在となりました。日本文化はもともと身体を統一的に使用する傾向がありましたが、ペットボトルのような形状や重さのものでお茶を飲む習慣が浸透することで、手が身体の中心から切り離されたと考えられます。

ペットボトルで水やお茶を飲む際、多くの人が親指と人差し指で持つ傾向があります。同様に、コーヒーカップもその形状から親指と人差し指、中指で挟むように持つことが一般的です。昔はペットボトルやコーヒーカップが存在せず、湯呑を使用していた時代では、左手で湯呑を支え、右手を添えて飲むことが一般的でした。これらの違いが手の質感に変化をもたらしたと考えられます。

 

ペットボトルやコーヒーカップを持つとき、親指側に加わる力が強調されます。この結果、手の内部の質感が親指側と小指側で異なり、手の繋がりが肩で止まる状態が生まれます。この状態では、武器などを使用して相手を制することが難しくなります。親指側と小指側の質感の違いが、手の統一感を崩す要因となるのです。

手の内部感覚を繊細にするためには、触れる際に衝突が生じないように心掛ける必要があります。物に触れる際や人に触れる際に、対象との調和を大切にすることが重要です。この調和が手の内部感覚を繊細にし、手を自分の一部として認識する基盤となります。日常的に物に触れる際に丁寧で大事に触れることは、手の内部感覚を養う優れた稽古となります。茶道なども手の感覚を高めるための有益な稽古の一環です。

 

 

空手の稽古方法には、二通りあると思います。一つは、筋肉を鍛えて、重さやスピードをかけて相手を崩すという、量的なものを重視する稽古、もう一方は、型という質的体験を重視する稽古方法

 

量的内容を重視した稽古としては、1000本突きや巻き藁をついたり、鉄下駄をはいて蹴りをしたりするような、身体を錬磨する、鍛えるというような方法が考えられるでしょう。

 

一方質的内容を重視すれば、型の形態とその質感を重視するという、いわゆる繊細さが稽古に求められます。

 

このような意味において、質的内容を重視する空手は、スポーツや格闘というジャンルよりも、どちらかと言えば芸術の「芸」に近いとも言えます。

 

私が学んだ心道流空手は「武芸」としての空手でした。流祖である座波先生の言葉に「技は心で、型は美しく」があります。私はこの言葉を知ったとき、空手の認識が全く変わったことを今でも覚えています。

 

誰がサンチンという型を生み出したかはわかりませんが、サンチンの型に込められた謎を一言で言えば、「形態美の持つ力」ではないでしょうか。そしてその美の力を最大限引き出すのが、「テクニック」ではなく人のもつ「心」なのでしょう。

「技は心で、型は美しく」 ・・・・

 

相手を倒したい、勝ちたいと少しでも思えば、形態美は損なわれ、技の成立はない・・・ 少しでも・・・

 

そうなんです。少しでもそのような気持ちになると、形態美が消え、技はかかりません。

 

また逆に自分を守りたい、負けたくないと思っても、形態美は損なわれ、技の成立はありません。

 

倒したいと思っても、形態美は損なわれ、自分を守りたいと思っても形態美は損なわれてしまうのです。

 

「形」と「心」の関係は、古伝武芸の世界でははっきりと技にでるのです。

 

私のところでは、私と同様にこの世界に魅了されて稽古に励んでいるとても熱心な塾生たちがいますが、彼らを指導していると、この関係性がはっきりとわかるときがあります。

技が成立するときは、みんな口をそろえて、「なぜかわからないが技がかかった、不思議です」と言います。しかし、何度か技がかかった後、急にかからなくなるときがあります。それは自分の心である我意がでたときなのです。

 

心道流の「技は心で」の心とは「型の心」のことなです。

 

型の心とは、自分にこだわる心ではなく、自分を超え出た時の心。

 

私の師匠の型稽古の口癖は、いつも「自分を守るのではなく、後ろにいる人を守る気持ちで稽古をしなさい」「君の後ろにはだれがいますか」でした。

 

最初は師匠の言葉は抽象的な精神論にすぎないのではないかと思っておりましたが、それが今は真理であるとようやく思えるようになりました。

 

型の持つ形態美のパワーが最大限発揮される心とは、自分以外の誰かを守ろうとしたときなのです。自分にこだわらず、自分を超え出る気持ちがでたときに型の持つ形態美が最大限の力を発揮する・・・・

 

 

「相手を倒したい」と思うと、首に緊張が走ります。あるいは肘に力が入ります。あるいは膝に力が入ります。

 

また、自分を守ろうと思えば背中が縮こまりまます。鳩尾がきゅっと硬くなります・・・・

 

緊張も収縮もともに形態美を損ねてしまう心のあり様です。

 

ほんの少し肘に力がはいるだけで、膝に力がはいるだけで、・・・形態美は崩れてしまいます。
 

なぜならば、身体の各パーツ、手の平、腕、胸、首、脚、膝、腰、頭・・・・各部分は全体とフラクタル構造になっているからです。

 

手の平の質感と足裏の質感、そして頭の中の質感・・これらがすべてフラクタルになっていますので、どこかちょっとでもその形態(内部感覚)が緊張や収縮によって損なわれれてしまえば、同時に身体の他の部分も損なわれてしまいます。

 

この点が、身体を波のように使う連動や身体の部位を固めて力を出す技のかけ方と根本的に異なる点です。

 

内部感覚という部位の質感は、同時に全体を形成しています。単なる部分の足し算が全体を作っているという意味ではなく、

 

部分=全体なのです。

 

そう考えた時に初めて質的稽古のもつ意味合いが見えてくるように思えます。手の平は全体のほんの数パーセントのの質量しかありません。しかし、手の平の質感は同時に全体の質感でもあるわけです。

 

そしてこの質感は型の「形態」とも関係し、そして「心」とも関係しています。

 

型の「形態」」そのものが、身体の質感に影響を与え、その質感が「心」を作っていきます。

 

また逆に心が、身体の質感に影響を与え、型の形態美を損ねてしまいます。

 

心は触ることができませんし、なかなか自分自身で修正することもきません。しかし、型稽古は、身体の質感を変えてくれます。身体の質感が変われば、心も結果として変わっていきます。

 

自分にこだわる心が消えていくとき、限りなく型の心に近づくのかもしれません。

 

武芸としての空手が求める質的体験の魅力はこの変えようのない心の変容にあるように思えます。

 

武術の空手における本質は手の内にあります。

これは通常の筋肉の力とは異なる力を生み出すために

手をゼロ化することから来ています。

 

手のゼロ化とは、手を統一的に使うということですが

これは私たちが本来生まれながら持っているのにもかかわらず、

大人になるにつれて失われていくもののようです。

 

私には孫がいますが、

私はある意味孫からこの「手を統一的に使う」ことの意味を

教えられたように思います。

 

私の空手の上達は孫との関わりがあったからこそだと今では思っています。

 

 

 

孫は一般的な成長基準よりも遅かったため、

娘はずいぶん心配していました。

 

しかし、私は幼児教育に携わってきた経験から、

発達には順序とタイミングがあることを理解していましたので、

さほど心配はしていませんでした。

 

むしろ、遅い発達の中でじっくりと観察することができました。

 

孫が約8か月のときだったでしょうか、

やっとお座りができるようになりました。

 

彼女は大きな和室の扉をつかみ、さっとよこに開けたのです。

それは高さ約2メートルの大きなものでした。

 

私は驚きました。

 

なぜ自分の何倍もの大きさの扉を

しかも座ったまま片手であけることができるのか。

 

それ以来、私の孫への興味は一層深まりました。

 

その後孫は1歳を過ぎても

なかなか立ち上がらることはありませんでした。

 

1歳4か月になっても立ち上がりません。

 

娘はとても心配していました。

 

なかなか立ち上がらない孫は

ただ手でいろんなものを掴んでは離し、また掴んでは離す、

 

そんな単純な行動を繰り返していました。

 

しかし、その掴み方をよく見るととても繊細でした。

 

自分の指を壊さないかのように丁寧につかんで離します。

 

最初は小指側の掌からはじまり、

やがて親指と人差し指で器用に物をつまんで離せるようになりました。

 

孫のその手の動かし方から、

赤ちゃんの手の内は空手の手の内と同様であることに

気付くのにはそう時間はかかりませんでした。

 

親指と人差し指で物をつかんで離すことが

姿勢とどれほど関連しているか、

 

親指と人差し指でモノを掴めるようになるまえに、

小指側の掌で物をつかむことがどれほど大事なことなのか、

 

そしてそのような指や掌の機能がいかに姿勢と関連しているか、

 

このことをいくら強調してもし過ぎることはないでしょう。

 

この手を使えるようになることは

赤ちゃんが2本足で立ち上がり、

歩行できるようになるための大事なプロセスであり、

 

それは同時に武術空手の姿勢から出る突きと

深い繋がりがあるのです。

 

孫が指を一生懸命に使っている様子を見て、私は感動しました。

 

そのしぐさがかわいいと思えたからではなく、

 

孫が自分を立たたせる「力」を本能的に理解していることを

知って感動したのです。

 

人間が他の動物とは異なり、立ちあがり、

二本足で歩けるのは、単に足腰の問題だけではないのです。

 

足で立つためには、姿勢が関係します。

 

そしてその姿勢には大きく手の働きが関係しているのです。

 

もちろん手だけではないでしょう。

もっといろんな複雑なプロセスが絡み合って、

 

そして「心」が降りてこれる受け皿に身体がなったときに

ヒトは自分を立ち上がらせる「姿勢」ができたと言えるです。

 

ある日、孫は私の目の前で立ち上がりました。

そのときの顔を今でも覚えています。

 

ヒトが立つというのは単純なものではなく、

身体全体の問題であり、心の問題でもあり、

特に手の内部感覚とその意識が大きく関係しているのだと思います。

 

ただ、そのプロセスは頭では知ることはできません。

 

しかし、赤ちゃんはその「力」を本能的に知っているのです。

その「力」を「自然の叡智」、「神的叡智」の開示と言ってもいいかと思います。

 

永平寺で修行をされた禅僧の星覚さんは

「私は手(指)で姿勢を作ります」と

その著書の中で言われています。

 

私はその言葉にであったときに知己を得たような思いになり

嬉しくなったのを覚えています。

 

大人になるにつれて、手は分散していき、

その統一性を失います。

 

それは同時に姿勢の喪失でもあると言えます。

 

武術空手の本質は姿勢にあります。

 

そして、その姿勢は手の内にあるのです。

 

その手の内とは、赤ちゃんの手の内に戻ることを指します。

 

大きな扉を座ったまま軽々と開ける手の内に戻ること。

 

空手の突きが

なぜあれほど調和的でありながら「力」を持っているのか、

 

なぜ突きはパンチと違うのか。

 

空手の突きは親指と小指で締めると言いますが、

 

その締めが赤ちゃんの手の握りの感覚と同じだからです。

 

大人のような筋肉がない赤ちゃんになぜあれほどの手の握りができるのか。

 

その握りの内部感覚がまさに「姿勢」そのものだからです。

 

武術空手の観点から言えば、

手が自由になりつつある赤ちゃんはいろんなものを掴んでは落とします。

あのいわゆる「ぽっとん遊び」というものをよくします。

 

今はそれがどれほど重要か理解できます。

 

最近、スタバでコーヒーを飲んでいるときに、

隣の赤ちゃんがナプキンを親指と人差し指でつまんで

床に落としているのを見てうれしくなりました。

 

「神的叡智の開示」が見れて・・・

 

私の孫も同様によくテーブルの上の物を掴んでは落としていました。

 

私が、それを拾ってテーブルの上に置いてやると、

孫はふたたびそれをつまんでは床に落とします。

 

孫とのこのやり取りは私にとって楽しい思い出となっています。

 

もちろん、このような赤ちゃんの行動は、

忙しい現代の親にとっては厄介なものになるかもしれません。

 

しかし、武術空手を修めたおじいちゃんなら、その行為を「ダメ」とは言わず、「これは神的な叡智の現れである」と映り、喜んで孫と関わってくれるでしょう。

 

これからの私の使命は、

武術空手を修めたおじいちゃんを多く社会に生み出すことだと考えています。

 

 

 

「型の術理」と「身体操作」は全く別のものです。

 

技をかける場合、身体操作は文字通り身体を「操作」します。

しかし、型の術理で掛ける場合、身体の操作ではなく、身体と心の「有り様」が問題となります。

 

この区別は、英語で言えば、ある意味わかりやすいかもしれません。

 

身体操作が、to doであるのに対して

 

型の術理は、to beになります。

 

to do or not to do

の世界ではなく、

 

to be or not to beの世界です。

 

型の術理は身体を意図的に操作して技をかける世界にあるのではなく、

型が求める心と身体の状態になって、はじめて技が成立する世界です。

 

なぜ身体操作と型の術理が混同されてしまうかというと

 

その理由として身体操作には次のような特徴があるからなのではないかと思われます。

①接触点の圧がかわらないこと

 

②骨の操作を巧みに行い、筋力から出る力をあまり必要としないこと。(例えば、背骨を波立たさせる、腰骨を抜く、肩ではなく肩甲骨をつかう、肘に向かって骨を繋ぐなど・・・・)

 

③圧のベクトルが2点あること(人差し指から圧をかけ、その圧を消さずに小指側からも圧をかける、膝にテンションをかけ、そのテンションをかえないまま足の甲を使って別のテンションをかけるなど)

 

これらはすべて意図的に身体を操作して行いますが、その操作が相手にはわかりにくいため防ぎようがないというものです。

そして素人から見れば、力を使っているようには見えませんので、まさに神業的と思えてしまうのです。

 

しかし、しょせん身体操作ですから、そのコツさえ知ることができれば、さほど時間はかからず、誰でもできるようになります。もちろん、コツを教えてもらわなければ何年たってもできるようにはならないでしょう。

 

 

一方、型の術理は、身体操作のように意図的に身体を操作するわけではありません。

 

そうではなく、

前提条件として、繰り返される型稽古によって身体の状態を変化させることが求められます。

そして、その身体の変化によって、心にも変化が生じます。

 

つまり、

最初は身体の変化、その身体の変化によってやがて心が変化し、そして変化したその心で技をかけます。

 

もちろんその心とは漠然としたものではなく、その心になれば、身体の質感が変わるというものです。

 

たとえば、何回か梅干を食べたことがある人なら、たとえ梅干を食べなくても、梅干を心に思い浮かべるだけで

唾がでるように、梅干のイメージだけで生理的な変化が生じることはお分かりになるでしょう。

 

型稽古には、それに近いところがあります。型をイメージするだけで身体の質感が瞬時に変わるのです。それが肚感覚と言われるものです。(肚まわりを意図的に操作することではありません)

 

その変化した身体の質感が術理です。

 

つまり術理は、意図的な身体操作ではなく、変化した身体の質感なのです。

(そのような質感をもった身体を統一体と言ったり、一動全不不動の身体と言ったりします。)

 

 

 

型の術理の成立過程をまとめると

 

①型稽古を通して身体の有り様を変える。

②身体の有り様が変われば、心が変わる

③心が変われば、身体の「質感」が変わる。

④身体の質感が変われば、動きの「質感」も変わる

 

 

その質感が術理となる。

 

つまり、

身体操作のようにコツをつかんで意図的に何かを行うのではなく、

 

「型」が求める心身の状態(質感)になれるかどうかが、問題なのです。

 

to be or not to be、それが問題なのです。

Seminar Announcement in Osaka

 

In this seminar, we will delve into the key points of creating the outer form of Sanchin and Naifanchin, exploring the internal sensations through hands-on experience. We aim for precise kata performance by explaining the meaning of each movement in the kata. Supplementary exercises will be conducted to verify essential elements, such as the insertion of the shoulders, with a focus on ensuring the correct rotation of the arms and positioning of the head. Additionally, we will practice seated techniques in alignment with kata formation. Through repetitive reception of seated techniques, participants will experience clues to unity within the body as an internal sensation. We will also introduce supplementary exercises and points for continuous self-verification during individual practice to ensure the kata's correctness.

This seminar exclusively focuses on kata formation, omitting activities like sparring, making it open to participants of all ages, genders, and experience levels.

We look forward to welcoming those interested in the development of physical techniques through ancient kata.

Dates:

  • Day 1: December 23, 2023 (Saturday) 12:30 PM to 4:30 PM
  • Day 2: December 24, 2023 (Sunday) 11:30 AM to 3:30 PM

Location: S&F Style Sakaisuji-Honmachi 4F, 1-5-22 WERT Minamihonmachi, Chuo-ku, Osaka

Nearest Station: 2 minutes on foot from Exit 5 of Sakaisuji-Honmachi Station

Capacity: Approximately 6 participants *Registration will close once the capacity is reached.

Participation Fees:

  • For both days: ¥26,000
  • For one day: ¥15,000

 

If you wish to participate, please send an email to info@shinseikai.website.

 

Or check our website:

 

 

今回のセミナーでは、サンチン外形の作り方のポイント及び内部感覚の手掛かりを一触を通して学びます。型の挙動一つ一つの意味を説明しながら、正確な型作りを目指します。特に型において最も重要な肩の入れ込みなどができているかを検証するための補助運動を行い、正しい腕の回転の仕方や頭の位置などを確認します。そして型作りにあわせて袴腰による腰と腕のつなぎ方についた学びます。袴腰の作用は統一体ではありませんが、骨を繋ぐ感覚の手掛かりとなり、型稽古の初期の段階で必要な感覚になります。今回のセミナーでは組手などはなく、あくまでも型の形成について学びますので、年齢を問わず、初心者の方、男女問わずどなたでも参加できます。

 

古伝の型による身体術の形成にご関心がある方の参加をお待ちしております。

 

 

日時:2024年1月21日(日)

           13時00分~17時00分(4h)

         

 

場所:ビーフィットネス

   熊本県熊本市中央区坪井2-4-25 第2平田ビル1F

   

定員:6名程度

*定員になり次第締め切ります


詳細 https://www.shinseikai.website/

ゼロ化と軸の強さは異なります。

 

ゼロ化を行うときに邪魔になるのが軸の強さです。

 

確かに軸を強めること、

つまり上下にテンションをかけることによって

 

技をかけるものがあります。

 

例えば、相手を引く場合に、

 

相手が腕を使って頑張っている場合は

自分は肩甲骨を使えば、相手を引くことができます。

 

それでも相手が肩甲骨や腰骨などを使って踏ん張っている

場合は、それだけでは引くことができません。

 

普通の人は背中を上下にテンションを張る筋力の使い方

あるいは腹部側を上下にテンションをかける筋力の使い方

を知りませんので、

 

もし、自分が上下にテンションを張って、相手を引けば相手は

その筋力の強さに拮抗できる強さがないため、耐えられなくなり、前方に引っ張られます。

 

ゼロ化とはそのような身体の操作の世界にはありません。

 

つまり、身体の背骨側にテンションをかける

あるいは身体の胸側にテンションをかける

 

そのような緊張を身体にもたらすようなことはしません。

 

テンションをかけるのではなく

身体の質感を統一化させることが第一義的に必要なのです。

 

統一化された身体の質感で相手に触れれば、

相手の重さが消え、軽くなるというもの

 

相手の重さが消えるとは、相手の力が消えるというもの

 

つまり「質量」の問題ではなく「質料」の問題になるのです。

 

軸を強くする方は、「質量」を問題にしていますが、

ゼロ化は「質料」が問題になるのです。

 

「質料」を問題にした場合は

相手をどのように見るか

という意識の問題にもつながっていきます

 

そして相手をどのように見るかは

自分の身体状態によって異なります。

 

自分の身体が統一化された状態で

その質感で相手を見た場合と

 

そうでない場合で見た場合では

 

相手の質料が異なるのです。

 

そのため相手に触れた瞬間に答えがでます。

 

哲学的になりますが、

人体は単なる合理性だけでは説明できない要素が含まれています。

単純な「もの」ではないのです。

 

話がずれましたが、

 

いずれにせよ

背中にテンション、あるいは腹部にテンションをかけて

軸を強くする手法と

 

身体の質感を統一化する手法は

 

全く異なる世界です。

 

軸を強くする手法には型稽古は不要で

そのような力を生み出すための身体の操作を

練習すればわりと短期間のうちにできるようになります。

 

身体の質感を統一化する手法には型稽古が

必要になります。

 

頭でできることではありません。

 

型の心、つまり「形相」が重要になってきます。

 

形相と質料はペア(一対)です。

 

型で崩しをかけるとき、

全くやった感がないのは、

当然のことなのです。

 

「形相」がわかったからです。

 

「形相」が変われば、とうぜん「質料」が変わります。

 

型の身体になれば、なぜ力の「質」が変わるのか

 

「形相」が異なるため、いつも知っている力としての働き(質)では

なくなっているからです。

 

だからこそ、型は変えてはならないのです。

 

型の形相と質料は切っても切り離せないのです。

 

 

 

 

 

 

12月23日(土)24日(日)に大阪でセミナーを行います。

 

型稽古のポイントと一触による身体感覚の養成をメインに行います。

ご関心がある方のご参加をお待ちしております。

 

詳細はHPよりご覧ください。

 

第1回大阪セミナーのご感想

 

*今回は講習会ありがとうございました。螺旋というものを肌で感じられるセミナーで非常に勉強になりました!動画拝見しながら復習したいと思います。

 

*もともと自分の中にあるものを自然に出す、型通りに動くと気持ちがいい等、意識して型稽古をしていきたいと思います。

 

*先日のセミナーでは大変お世話になりました。具体的に分かりやすく教えて頂いたので、今までの疑問が一気に溶けた気がします。当日の動画を参考にして稽古を続けていきますので、わからないことがあれば質問させて下さい。12月の稽古にも参加させて頂きますので、引き続きよろしくお願い致します。

 

*大阪セミナーでは大変楽しく貴重な経験をさせていただきました。ありがとうございます。型をする時に体の中に生じる感覚を少しですが学ぶことができたように思います。その感覚を体が自然に求めるように稽古を続けていくつもりです。また、私は手首が詰まるクセがあることも分かりましたため、それを直せるように稽古をしていきたいと思います。動画の方もセミナーを思い出しながらゆっくりと視聴させていただきます。

 

*セミナー、ありがとうございました。

充実した2日間でした。やはり6人という少人数であったこと、一触があるというのがとてもよかったです。

今までわからなかった型稽古を行うときのポイントなどが明確に分かり、これからの稽古の励みになります。

 

最近あまり道着を着ないで稽古をすることが多くなったが、

 

型稽古をするときは道着を着ると型ができているかどうかわかりやすい。

 

サンチンから、セイサンまでの5つの型を終えた時

道着が乱れていなければ、型稽古はまあまあうまくいったと言える。

 

道着で特に大事なのは、襟元と帯の位置

 

型稽古を終えた後、襟元が乱れていたり、帯が緩んでいたりすると

型が要求している動きができていないことになる

 

襟元が乱れ、胸元がはだけていたり、

帯の位置が変わっていたり、

帯が緩んでいたとすれば、

 

それは本能的な動きの表れであり、型意識が身体にはいっていないことになる。

 

そういう場合は、サンチンに戻り、腕を出したり引いたりしたとき

足を出したときに

 

鎖骨や肩甲骨が動いていないか・・・

 

腰回りが捻じれていないか・・・

 

股関節が緩んでいないか・・・

 

膝に力が入っていないか・・・

 

そのような点を確認して丁寧にゆっくりと

やり直すこと

 

 

 

空手がボクシングなどのスポーツと全く異なるのは

道着を着た時にわかる。

 

ジャージではわからない。

 

ジャージでは、どんな動きをしても

服の乱れは起らないからだ。

 

道着を着てボクシングをすれば

当然襟元胸元は乱れてしまう

 

そうなる必要がある。

 

 

 

空手は逆で、襟元や胸元が乱れてはいけない

 

 

 

空手の動きの質は大きな骨の働きではなく

小さな骨、普段は気に掛けることもないような

小さな骨の働きにかかっている。

 

大きな骨は姿勢を守ることに徹し

動きはいくつもの小さな骨が協調し、

命門にその動きが集約される

 

もし、肩や腰回りが勝手な動きをすると

小さな骨はその動きに依存し、

小さな骨同士が協調することがなくなり、

ただ大きな骨の動きに振り回される

 

下半身もそうである。

 

身体の骨の数は200ほどあるが、その四分の一が

下半身に集まっている

 

その骨たちが協力して動くことが空手の運足の特徴である。

 

なぜ空手にランニングがないのかを考えれば

そのことは良く分かる

 

 

和服を着て走ることがないのと同じである。

 

求めらるのは

走るのではなく

静かに歩くこと

 

床の音がしないように動く

 

それは

薄氷を割らないような歩きである。

 

そういう歩きをすることで

小さな骨たちが協力する

 

もし大きな骨が出しゃばれば、氷は割れる

 

もちろん空手の考え方も流派によって異なるため

このことを一般化するつもりはない。

 

空手の原理が流派によって異なるため

 

同じ名前であってもその世界は

まったく異なる

 

流派によっては背中や腰回りの強さを鍛え、張りをもたせたり、

突きを打った時の衝撃に負けない強さをもつように鍛えるところもある

 

私の空手は背中や腰回りは重力を感じ続けるセンサー

 

 

大きな骨はひたすら姿勢という重力線に身体を添い続けさせるための

働きを担っている。

 

もしそれを十分にせず、身体の動きに口出しすれば、

末端の小さな骨たちの自由な協調的な動きはできなくなる

(社会システムと同じである・・・)

 

 

ボールの上になって、縫物をすることが不可能なことを考えれば

わかる

 

重力線に沿うことがどれほど、手の繊細度を高めるか

どれほど足裏の繊細度を高めるか

 

これはどんなに強調してもしすぎることはない

 

空手の動きの質を図る上で、

ときには

道着を着るのもいい

 

もちろん、道着でなくてもいいのだ

洋装ではなく、作務衣などの和装であればいいのだ

 

一日、和装で過ごして

襟元の乱れがなければ、型が求める動きの質を守ったことになる

 

**************

第2回大阪セミナー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

丹田は力の源泉ですが、肚に力を込めたり、

腹回りの骨を操作することから作られるものではなく、

身体全体が重力線にそって正しく立てた時、

座れたときに現れる小さな点のことです。

 

そしてその点の作用力は身体の末端である「手」の内部感覚に共鳴します。

 

技が「手の内にある」というのは、

手の内部感覚がこの小さな点である丹田を身体の円周上に出現させるからです。

 

身体の円周上に丹田の力が現れるとは、小さなその点が波紋のように身体の末端部である手に向かって広がっていくのではなく、

点という中心部を通り抜けて身体の円周上、つまり四肢である手足が接触している部分に出現することを意味しています。

 

 

丹田をあえて定義すれば、「丹田は身体全体が重力の働きに対して調和して立った時に生み出される小さな点のことであり、それは手に意図が込められたときにはじめて身体の円周上に力となって現れる」となります。