「突き」を行う際には、直線的な動きの中に回転がかかるようにします。この回転は見かけ上のものではなく、外形上は見えない内形の回転です。具体的な回転の手法は、型の手順が指導してくれます。自らの意図や恣意的な動きでこの回転を引き起こすことは、通常は不可能です。自分の考えで身体内部に回転をかけようとすると、身体が捻じれ、結果的に回転はかからず、ひねりという力の突きになってしまいます。型がなぜ重要なのかと言えば、この内形としての回転力が生まれるからです。回転を意図的にかけようとすると、大きな骨を動かさざるを得ません。腰骨や肩甲骨などの骨を使用してしまうのです。これは、故意に身体を動かそうとすれば、これまでの動きの延長線上でしか動きの質感が得られないためです。突きのベースとなる型はサンチンですが、その奇妙な立ち方や動きは、自分の意図が及ばない筋肉群や骨を活かすためです。統一体とは身体全体が活性化されることが必要です。そのためにはこれまでの生活で使っていた骨や筋肉群だけでは不足します。他の骨や筋肉群を生かす必要がありますが、それを頭で行おうとすると不可能です。頭は自らの生活経験で得た動きの質感以外の領域にアクセスできません。従って、大人にサンチンの型を教える際、最も大切なのは「結び立ち」を解く方法を伝えても、ほとんどの人がそれを実行できません。教えるほど型が求める動きではなくなります。頭がその動きの質感を理解していないため、どれだけ言葉で伝えても、その動きの質感を頭で把握することはできません。そのため、一定の期間は自然なままに任せる以外に方法がありません。身体がその動きの質感を好むまで待つ必要があります。 一方で、小学校低学年の子供たちは、非常に迅速に「突き」を習得することがあります。これは、彼らが大人に比べて身体の受容力が圧倒的に高いためです。彼らには身体の受容力を妨げる「癖」がほとんどありません。特に「暴力的な動きの質感への好み」といった癖はほとんど見られません。子供たちが持つこの素直な心身の状態が、「突き」に回転力を持たせる動きを容易にします。回転力を持たせるためには、型の正しい形状と手順を厳守することが非常に重要です。初めは動きが硬直して感じられるかもしれませんが、やがて身体はその動きの質感を好むようになります。これは幼少期に持っていた質感と関連しています。ただし、この質感は学校教育が進むにつれて薄れていきます。しかし、型稽古を積むことでこの質感が再び現れます。そうすると、身体が頭と対話し始め、頭は徐々に自分の中にある「暴力的な動きの質感」に気づいていきます。肘に、手首に、膝に、腰に… 暴力性が潜んでいたことに気づき始めるのです。その気づきによって、自分の意図が「忍」に変わり、律動的な動きの質感が少しずつ全身に広がり始めます。古伝の「突き」が相手を傷つけず、自分も傷つけないのは、それが律動的な回転力と調和的な動きの質感を伴った身体文化に属しているからです。もちろん、一般的には「突き」という言葉は破壊力として捉えられがちであるため、多くの人は突きを律動的、調和的なものであるという考えには違和感を覚えるかもしれません。そのため、ここで言う律動的、調和的な突きと言う考えはごく一流派の考えに過ぎないことを付け加えておきます。したがって、 「突き」を相手に行い、その相手が悶え苦しむことに焦点を絞るのであれば、サンチンの型稽古における内形はその意味合いが全く変わってしまいます。自分が何を目的に「突き」の稽古をするのか、そして子どもたちに何を目的に「突き」を教えるのか、その目的をはっきりさせることは、稽古以前において、非常に重要な目的意識となることは言うまでもありません。 これにより、「突き」の稽古が、単なる技の習得や相手にダメージを与えることだけでなく、より深い意味や目的を持つものとなります。指導者や生徒が共有する目的意識がクリアであることは、技術の向上だけでなく、精神的な成長や調和的な動きの質感の理解にも寄与します。それによって、空手の「突き」が単なる力の行使ではなく、律動的で調和のとれた身体文化の一環として捉えられるでしょう。