平成の愚禿のプログ -3ページ目

日本の政教分離の独自性④(信長対宗教勢力の抗争の経緯と実態の考察)

皆様いかがお過ごしでしょうか。個人的にだいぶ暑さは和らいできたように思います。日陰に入れば熱風を浴びずにすみますから。


今日で引っ張りすぎた信長の考察を纏めたいと思います。さて、続きです。


奇跡的に首と胴体が繋がった状態で、1570年の大晦日を岐阜で除夜の鐘を聴きつつ過ごせた信長。翌年から彼の巻き返しが始まります。


同時多発的な危機を経験した信長。もう二度とこんな目には遭いたくないと思うのは当然のことです。信長は昨年彼を窮地に陥れた大連合が、必ずしも一枚岩でないことに着目し、各個撃破の基本作戦を立て、まずは裏切り者浅井長政とその同盟者:朝倉義景に標的を絞り、南近江に柴田勝家や羽柴秀吉らの主力を集めて彼らの勢力の弱体化を図りはじめます。


しかし再び朝倉・浅井同盟軍が京都に迫る勢いを示し、比叡山は彼らに駐屯地を提供する形で再び信長に抵抗の姿勢を示します。


この際信長は、比叡山に何度かに渡って「基地の提供をやめて中立に戻れば、寺社領は安堵し、宗教活動の自由は保障する。しかし、敵勢力への支援を続ければ焼き払う」と通告します。


しかし信長の政策によって既得権益を奪われた彼らが「はいそうですか。」と簡単に応じる訳はありません。信長が滅んでしまった方が好都合なわけですから。それに比叡山を焼き払うなど「やれるものならやってみろ」と思っています。最澄の開山以来、日本における仏教の総合大学という権威を自他共に任じてきた彼らです。実は一度だけ信長の先輩ともいえる室町幕府将軍:足利義教から武力攻撃を受けたことがあるのですが、「信長ごときが・・・」と油断していた訳です。


しかし信長は言行を一致させる男であることは前回述べた通り。1571912日、信長は比叡山に攻撃を加え、そこにいた教団関係者と関連施設のすべてを殺害し、焼き払います。

この912日という作戦決行日は特別な意味を持ちます。前回の記事でも申し上げたとおり、昨年のまさにこの日、本願寺が信長勢に攻撃を加えて彼を奈落の底に突き落とした日なのです。

言外に「武力をもって政治に干渉する宗教勢力の末路はこうだぞ」という本願寺含めた全宗派に対する「一罰百戒」のメッセージを込めていた事は明らかです。


さて、これで天台宗の信長に対する抵抗は止みます。唯一の拠点である比叡山を失ったことで事実上抵抗が不可能になったという面もありますが、信長の断固たる姿勢に屈したということではないでしょうか。

そして注目していただきたいのは実はここからなのですが、信長は天台宗が抵抗をやめた後、領地に禁教令を出したり、他の天台宗の寺社や信徒を攻撃、殺害したりするといったことは一切行っていないということです。


「中立に戻れば宗教活動の自由は保障する」という彼の言行は見事に一致しているのです。


次に本願寺対信長の戦争は10年の長きに及びます。

まず、本願寺と信長との戦闘勃発の経緯を振り返ってみましょう。本願寺側の言い分によれば「信長が石山本願寺を明け渡さなければ攻め滅ぼす」といったことに端を発しています。当時マスコミなどがあれば信長側も反論したかもしれませんが、そんなものはありませんし、信長も特に実情を語った資料を残していないので、上記の顕如の言い分が一級資料として定説化しています。


そして信長が本当にそのように本願寺に宣告したのであれば、これは太平洋戦争の直前に日本が突きつけられたハルノートに等しく事実上の宣戦布告です。宗教団体なりの組織であれ、個人であれ固有の正当防衛権、自衛権を持っていると思いますから、本願寺側が信長の反撃に出る行動も正当な行為として十分に頷けます。


しかし、この辺りの歴史研究を行っている神田千里氏はこれに疑問を呈します。ご見解の要旨は「信長の本願寺に対する宣告が事実ならば信長は、宣戦布告をした本願寺にいつ攻撃を受けても即応できるよう臨戦態勢をとるはずである。しかし彼が三好勢を駆逐すべく本願寺近辺に兵を進めた際、信長は本願寺に全く警戒態勢をとっておらず、その結果奇襲による打撃を蒙っている。これは『軍事の天才信長』にありうる過失だろうか。・・・」と。


そうなのです。この際の信長は本願寺が攻めて来るなど全く予想していなかったようなのです。このことは、この当時に織田陣営の幕閣の手になる「細川両家記」という資料を読んでも、本願寺が宗徒に決起を呼びかける早鐘を付いて突然攻撃を開始したとし、この奇襲を受けた織田勢の様子を「信長方仰天」と記していることからも伺えます。


おそらくですが、信長が「安土」にしたかった本当の場所は、実は今の大阪だったのではないでしょうか。というのは後に秀吉はこの地に本拠を築いていますが、唐入りも含めて秀吉の政策はおそらく生前に信長が抱いていた構想のパクリだと思うのです。こんなことをいうと秀吉ファンに叱られそうですが、彼は交渉戦術や人事では天才的でしたが信長のような独創性は殆どないと思っています。

おそらく信長は本願寺に平和的な本拠地の移譲を要請したのではないでしょうか。勿論別途、教団が必要な本拠地の提供や建造費などで相応の援助はすると持ちかけた筈です。


しかし、以前の記事で申し上げたことですが、本願寺は石山に本拠を移す前、京都の山科に本拠地を置いていたところ、日蓮宗を中心とする勢力から攻撃を受けた苦い経験があります。戦国時代の無秩序の中では、騙しあいといった手段も行われていたはずです。

また、これは顕如から信者宛の檄文にも載っていることですが、信長が上洛した際に宮中や二条城の建設、洛中のインフラ再建のために信長から命令に近い多額の資金提供要請を受け、それに応じた背景もあります。


そこで顕如は、信長からの本拠地移譲の要請を「退去命令=宣戦布告」と勘違いしていたのではないでしょうか。


信長と本願寺の争いは先に述べたように10年の長きにわたり、その間5回の休戦を挟んでいます。このうち2回目の和睦は織田勢力の圧迫に耐えかねた本願寺側からの要望が働いていたことは、和睦の印に顕如から信長に名物茶碗が寄贈されていることからも裏打ちされます。

しかし、その後朝倉家を倒して織田勢力圏に組み入れられた越前の国で本願寺一揆が起り、信長の代官領主を殺して織田勢力を駆逐してしまいます。そしてこれに対応して本山が現地の暴走を追認し、司令官を現地に派遣するという行動に出ます。

これに激怒して行った信長の対応が、藤沢周平さんなど多くの「信長嫌い」の方々が挙げる本願寺勢力を、女子供を問わず虐殺した例の「根切り」です。


ただです。織田・本願寺抗争の経緯を客観的かつ慎重に見れば、実は織田・本願寺の和睦→本願寺側からの協定違反という構図の繰り返しであったことに気付きます。仮に両者の抗争の発端が顕如の誤解に基づくとすれば、信長側から本願寺側に先制攻撃を加えたことは一度もないことになります。


そして宗教一揆の特性から、信者は女子供を問わず武器を取ります。しかも「進めば極楽往生、引けば無限地獄」ということを信じているわけですから、並みの大名の軍隊よりも戦意は断然旺盛なのです。


読者の方にはスポーツ、特に格闘技などを行っている方もいらっしゃると思います。また、子供の頃の友達との喧嘩を思い出してみてください。

プロレスであればスリーカウント、ボクシングであればテンカウントを聞くか採点で勝敗が決し、その後はノーサイド。子供の喧嘩もどちらかが泣くか、「すみません。僕が負けました」と言われればそこで終わり。それ以上、相手に危害を加えるということは無いし、無かった筈です。


しかしです。もし、「すみません」と負けを認めた相手に背中を向けた途端、後から殴りかかられたら、しかもそれが一度ならず何回も繰り返されたら、皆さんはどうしますか。


こう考えると当時の信長の気持ちをお察しいただくことが可能かもしれません。つまり、相手が足腰立たなくなるまで徹底的に叩きのめす以外、他に選択肢があるでしょうか。

これを「ある」といえる人のみが、信長を批判できる。私はそう考えています。


更にこれも、延暦寺焼き討ちの後と同じく重要な点ですが、顕如が信長の真意を見抜き、天皇の仲介で石山本願寺を明け渡して最終和睦し、一切の抵抗を止めて中立に戻った後、信長は浄土真宗の宗教活動の自由を弾圧するといった行為を一切行っていないのです。


歴史上の人物なりを評価する際に、何をやったかだけではなく、何をやらなかったか、も判断材料に加えるべきだと考えます。


そしてもし信長が、特定宗教の宗旨や思想を忌み嫌う弾圧者であったならば、粛清は彼が健在である限り止まない筈です。ナチのホロコーストしかり、ポルポトの粛清しかり、です。共産主義を含めた宗教上の「狂信」に基づくジェノサイドとはそういうものなのです。しかもその行為を「自分たちは正しい」と確信して絶対に止めないところが「宗教上の狂信」の特徴であり、恐ろしさだと思うのです。


そうでなくても、前回で述べた1570年に信長が蒙った悪夢を思い出して下さい。このとき彼は、可愛い実弟や、森可成といった子飼いの部下を数多く失っています。そしてこの誘因に比叡山や本願寺の攻撃があったのは紛れもない事実です。


こういう場合、織田家の中には戦死者遺族会のようなものもあった筈です。部下や親類の中には粛清続行を信長に進言した者も少なからずいたかもしれません。


仮に信長が高い自己抑制の精神をもたず、私情に駆られて人を殺す人間だったら、天台宗や浄土真宗の信者を皆殺しにしていたのではないでしょうか。私のようなモラルが人並みの人間が信長の立場になって想像していても、そういう復讐の誘惑に勝てなかったかもしれない、と感じたりします。


しかし彼はそれをせず、強力な独裁権を行使してそれを部下にもさせていないのです。


因みに、義弟の浅井長政の頭蓋骨を金箔の杯にした件は信長の残虐性を表しているのではないか、とおっしゃる方もいます。しかし、時は戦国時代です。裏切り者は必罰しなければ軍事組織内に示しがつきません。今でも通常の国の軍隊で敵前逃亡や外国の軍隊への加担などは極刑です。「義弟なのに・・・」ではなく、全幅の信頼を置いていた「義弟だからこそ」ああしなければならなかった、私はそう思っています。


とにもかくにも未だに日本以外の世界中で続いている、「宗教」を巡る復讐の連鎖が、我が国では織田信長という天才の、涙ぐましいばかりの強靭なモラルタフネスによって、ピタリと止まって根絶されてしまったのです。皆さん、これって驚くべき事実ではないでしょうか。


次回、信長の宗教政策を見て、その鍵を解く上で重要と思われるもう一つの事例、「安土宗論」に若干触れた上で、本題のまとめを行いたいと思います。


だらだらとした記事を最後まで読んでくださった諸兄に深謝します。

日本の政教分離の独自性③(信長崖っぷちin 1570)

こんにちは、皆様いかがお過ごしでしょうか。


さて、さくさく行きますよ(笑)。


信長が「シンプルな社会」の実現を目指してそのための計画を実行に移し、その結果煽りを喰った形の旧寺社勢力(ここで旧寺社勢力とは、座や市への勝手な課税を財源としていた平安時代からの寺社勢力を指し、こういった財源に頼っていなかった浄土真宗などを始めとする鎌倉時代からの新興仏教勢力は除きます。)から恨みを買った、ということが前回までの粗筋です。


ただ彼らは「俺たちの利鞘はどうしてくれるんだ!」と露骨に本心を打ち明けるという形で文句を言うわけには行きません。後ろめたい行為をしてきたのは彼らの方なのですから。ですから彼らは「仏敵」という形で信長を批判し始めるわけです。


これに対して信長もどちらかと言うと偏屈な面もありますから、自らを「第六天魔王」と堂々と自称し、全面対決に突入します。


ただ信長が行ったことを子細に見れば、これは宗教勢力に対してだけではないのですが、彼ほど見事に「言行一致」という言葉を貫き、私情で弾圧や殺生を行ったことはない政治家は他にいない、と確信しています。また騙しといった行為で特定の教団を弾圧したりすることはしてないと思います。

仮に信長がそのような手段を弄していたら、冒頭に述べた政教分離という状態を達成することは不可能だったと思うのです。現にそういう手段を弄して宗派が分裂し、今に至るまでの何千年もの間、恨みの連鎖によって宗教抗争が続いている欧米や中東(特に、イスラム教のシーア派とスンニ派)をご覧いただければ解ると思います。


このことを明らかにするために、ちょっとここで上洛後の信長の動きをラフにスケッチします。


信長は1568年に室町幕府の15代将軍足利義昭を奉じて上洛を果たし、近畿地方の大部分を瞬く間に勢力化に納めます。信長は形上義昭の家臣で幕府を再興するという体裁をとってはいましたが、彼には実現すべき独自の政策があり、義昭を立てる気など内心さらさら有りません。そして義昭側も、「こいつは俺を道具として利用して使い捨てにする気だな」ということに気付き始めます。この点は信長が義昭の実力を侮っていた面もあるかもしれません。そしてこの油断は、信長に高くつきます。


1570年、この年は信長にとって「悪夢の年」となります。

信長は義昭の命令と称して近隣の大名に上洛と服従を呼びかけます。しかし信長のことを「成り上がり者」と蔑んで忌み嫌う越前(今の福井県)の朝倉義景はこの命令を無視します。

しかし、この朝倉の対応は信長にとって逆に思う壺。この年の4月、信長は家康等とともに3万余の軍勢を率いて琵琶湖西岸を北上し、電撃的に越前に乱入して戦備が整っていない朝倉側を大混乱に陥れます。しかしこの作戦が上手くいったのはここまで。ここから、彼の「躓き」が始まります。


信長が妹「お市の方」を嫁がせ絶大な信頼を置いていた北近河(現在の滋賀県北部)の同盟勢力、義弟の浅井長政が突然信長に反旗を翻し、織田勢と京都との補給線に割り込んで朝倉勢と挟み撃ちにする行動に出ます。これは信長にとっては誤算も誤算、大誤算。


信長は最初、この知らせを「虚報だろう」と信じようとはしませんでしたが、浅井離反の報を告げる情報は次々ともたらされてきます。


このままでは桶狭間の今川義元の役を自分が演じることになってしまう。そう悟った信長は家康と秀吉、明智光秀に殿を任せ、僅かな護衛を伴って命からがら京都に逃げ帰ります。更に京都から岐阜に戻る途中に六角氏が雇ったスナイパーに至近距離から狙撃されるも奇跡的に玉が逸れるという椿事にもでくわします。


さてこの難局を乗り切った信長がすべきこと。それは裏切り者の粛清です。信長が本国美濃に戻って陣容を整え、家康の援軍を得て6月に浅井の北近江に進軍します。日本中が信長に好意を抱く人、そうでない人々も含めて「固唾を呑んで」情勢を注視している訳です。ここで浅井・朝倉を迅速に叩き潰さなければ、「裏切り者一人迅速に処断できない男」という評判を受けて織田の株価は大暴落、「天下布武」に重大な支障をきたしてしまいます。


そして織田・徳川連合軍は浅井・朝倉連合軍と姉川で激突し、勝つには勝ったものの長政の首を挙げることができず負けに等しい辛勝を喫しまい、結果的に反織田勢力を勇気付ける結果となってしまいます。


これに乗じた阿波(現在の徳島県)の三好勢が、現在の大阪方面から信長領に襲い掛かってきます。これを撃退すべく信長は同方面に出陣します。しかしここで、信長にとっておそらく生涯最大の激震が襲います。


詳しいことは良くわかっていないのですが、今の大阪城がある辺りには、蓮如が物流の適地と見出した場所に、「御坊」と呼ばれる巨大な都市城塞が本願寺の本拠地として構築されていました。おそらく当時の城塞の規模日本一は小田原城ではなくこの石山御坊だった筈です。そして大量の信徒を抱えた浄土真宗本願寺は、大名数個分の巨大な財力・武力を整えた集団に成長していました。更に根来衆といった紀伊の精鋭鉄砲製造・戦闘集団も配下に納め、まさに西近畿一体に侮り難い軍事勢力として深く根を張っていたのです。


912日、この本願寺が近辺に進出していた信長勢に突然攻撃を始めたのです。本願寺決起の理由については、その時の法主:顕如が信者に蒔いた激によれば、「信長が当方の石山からの立ち退きの要求があり、要求を呑まねば滅ぼす」と脅されたとあります。


このときばかりは、おそらく信長も恐怖と絶望で目の前が真っ暗になって脚が震え、天を仰いだのではないでしょうか。


これに乗じてして一気に反織田勢力は決起します。姉川で討ち損じた浅井長政と朝倉義景連合軍が京都と南近江に進撃する勢いをみせたのです。


信長はとりあえず大阪方面の戦線を放棄し、京都と南近江に主力を集めて浅井・朝倉勢を迎え撃とうとします。京都と、本国岐阜を結ぶ南近江を奪われれば、織田家の破滅を意味します。


信長は南近江で迎撃体制を整えますが、ここで更に信長に脅威が現れます。信長の改革の煽りを喰った旧寺社勢力の代表格、比叡山延暦寺が浅井・朝倉に駐屯地を提供すると言う形で信長に宣戦布告を行ったのです。更に伊勢の本願寺勢力が本山からの指示に従って決起、信長の出身地尾張に侵入して彼の実弟に攻撃を加えます。


信長は可愛い弟を助けに行きたかった筈ですが近江から動けない。結局、信長はこの弟を見殺しにせざるをえませんでした。


四面楚歌に陥った信長は、同時多発的に発生する危機を前になすすべなく立ちすくむしかないように思えました。おそらく桶狭間以上の危機だったはずです。桶狭間の時は一か八かではありましたが、野戦で義元を奇襲するという明確な解答がありましたが、1570年の危機はそんな解答などありません。しかも時間が経てば経つほど織田勢力は破滅に向かって転落していきます。


私を含め並の人間であれば、おそらくこの辺りで心身に支障をきたして自暴自棄的な行動に走るか自殺していたかもしれません。

ちょっと話題は反れますが、昔聞いた戦争体験者の方のお話です。その方はフィリピン戦線における体験としてお話されていましたが、おそらくガダルカナルやニューギニア等の戦線でも同じだと思います。指揮系統が寸断し、情報が遮断された絶望的な極限状態に追い込まれた日本兵が最後に頼った方法。それは「占い」だったそうです。


これはまさにそういう現場を体験し、奇跡的に生還してきた方の壮絶な記憶ですから、笑うことなどできません。人間というのは、何かのきっかけでモラールを喪失してしまうと、おそらそうなってしまうものかもしれません。


しかし信長は天才です。あくまで現実から目を逸らさずより現実的で具体的な論理思考を放棄しない強靭なモラルタフネスを兼ね備えていました。因みに彼は、本能寺の変で死を悟った時も、その後の情勢を予測して自らの遺体を「処理」し光秀に渡しませんでした。この結果、「信長はまだ生きているかもしれない」という臆測がいかに光秀に不利に、秀吉に有利に働いたか・・・(実際秀吉は、近畿に戻る途中で「信長公ご健在」という内容の手紙を、細川や筒井、その他去就を決めかねている周辺勢力に大量にばら撒きます)。


私は、上記の動き全てを裏で操っていたのは、足利義昭だったと思っています。TVドラマなどでは馬鹿殿のように描かれることが多い彼ですが、実は武将としてかなり有能です。将軍に相応しいプライドも持ち合わせていました。


私たちは、とかく歴史を後から振り返ってその善悪を判断しがちです。


でも当時の常識からすれば、征夷大将軍である義昭は今の合衆国大統領、内閣総理大臣。


これに対して信長は守護代の家臣の家柄ですから地方公務員クラスです。その信長が義昭を操り、気に入らない命令は取り消して勝手なことをやり始めます。このようなある意味異常な状態に正当な怒りを感じた将軍から、この逆賊を倒せと呼びかけられたら、みなさんはどちらについていくでしょう。


ですから信長と、義昭およびこれに従った長政や本願寺などの勢力のどちらが正義でどちらが悪だった、と簡単に割り切れる問題ではないと思うのです。ただ、悲しいのは時代が求めていたのは、結果的に室町幕府の再興ではなかったというだけです。


さて戦況だけから見てこれを将棋に例えれば、信長は「投了」どころか頭金を打たれたといって差し支えないような窮地に追い込まれました。義昭の心願成就は目前です。


ところが信長は将棋のルールを変えてしまうか、あるいは対戦相手や立会人の目を盗んで将棋版を逆にするような方法でこの危機を脱します。


一連の危機の首謀者と目される義昭は未だ京都の二条城にいて信長の庇護下にあります。信長はこの義昭を通じて敵対勢力と休戦を斡旋させる、という奇策に出て、事もあろうに義昭はこの信長の要請に応じてしまいます。


何故、義昭がこの斡旋に応じたのか。これによって彼は信長を抹殺する千載一遇のチャンスを逸してしまう訳ですから謎です。おそらくですが信長は義昭に「兄上である義輝様を謀殺した三好や松永久秀に天下を取らせてもよいのですか」などと持ちかけたのかもしれません。更に信長に建てて貰った二条城の暮らしごこちも良かったのかもしれません。とにかく彼はこの要請に応じてしまいます。

大義名分を失った反信長勢力も休戦要請に応じます。


よく、交渉や外交で手持ちの「カードを切る」という表現がありますが、この真骨頂ではないでしょうか。


このとき信長は朝倉義景に「今後の国政は貴殿にお任せします」と勝者の股の下を潜って媚びへつらう負け犬ような態度を示し、内心の怒りは心深くに隠しています。


何故そんなことが察せられるかと言えば、後で朝倉義景,浅井長政らの頭蓋骨から「ドクロ杯」を作って正月の祝の席の酒の肴にするという形でこの怒りが大爆発するからです。井沢元彦氏曰く「こういう人物が実は一番怖い」。


こうして彼にとっては「大厄」とも言える1570年が終わり、無事翌年の正月を迎えます。


次回、もう少しだけ信長の動向をスケッチした上で、彼が成し遂げた政教分離の本題に戻ります。


ここまで読んでくださって有難うございました。

日本の政教分離の独自性②(信長の革命)

皆さんいかがお過ごしでしょうか。残暑はまだまだ続きそうですね。

また、台風が接近中。この週末、私は徳島県の阿南の海岸に赴いたのですが、激しい波が押し寄せ、まさに「砕けて、割れて、裂けて、散るかも」という雄大な景色を目の当たりにしてまいりました。予想進路の範囲にお住まいの方はくれぐれもご注意、警戒願います。

ただ、その土地その土地の稲刈りや秋祭り準備の風景などをみると、「秋、近し。」


閑話休題。


さて前回の記事で私は、日本における政教分離という概念は、国が主体となって宗教を利用するという形での政教融合を問題にしている点において、欧米のように宗教団体が主体となって政治や経済に介入しようとする政教融合を回避しようとするそれと、根本的に異なるのではないか、と申し上げました。


その上で、戦国時代以前における我が国の宗教の状態が昔から現在に続く欧米・中東のそれとあまりことならなかった、ということをラフにスケッチし、最後にこの状況を根本的に変えた人物を示唆しました。


ではその人物、織田信長は、一体どんな社会の構築を計画し、どのようにその計画を実行したのでしょうか。


実は信長、「政教分離」という点を前面に打ち出して何かを実施した、ということはあまりないと思います。


彼は「天下布武」つまり「武力を持って日本を改革する」という標語を掲げて、具体的には楽市・楽座の創設、関所の廃止などの政策を実施した。昔学校で教科書などからはそのように習った記憶があります。


しかし楽市・楽座の創設、関所の廃止なる政策によって、信長が当時のどんな状況を念頭において、そこからどんな問題点を見出し、どのように変えようとしたものなのか、学校で受けた授業だけでは殆ど解らない、と言ってしまえば学校の先生方に失礼に当たるかもしれませんが・・・。


この辺りの事情を多くの専門家の皆様の共著による歴史概説書や、以前、日本経済新聞に連載された津本陽氏の信長一代記「下天は夢か」、「逆説の日本史」の著者:井沢元彦氏、本願寺史研究の神田千里博士などの研究成果を基礎にして、私なりにラフにスケッチしてみたいと思います。


信長が目指した社会、それを「シンプルな社会」と一応定義していみます。そうして、そうでない信長以前の社会を「様々な既得権益が絡み合った複雑な社会」と一応呼んでみます。


信長以前の社会。そこでは一部の例外を除く宗教勢力がその宗旨の違いや信者の獲得を狙い競い合っていました。これが「話し合い」「議論」による競争なら、それは健全で「シンプル」なもの、といえるでしょう。しかし、必ずしもそうでなかったという事情は前回申し上げたとおりです。


そして宗教は教団と言う組織を基礎として活動し、拡大を目指す、という性質がありますから、これは組織体の宿命なのかもしれませんが、時間が経てば腐敗も起こり、既得権益のようなものも出てきます。


偉大な宗教家である最澄や空海といった人々によって創設された天台宗,真言宗といった教団もまた例外ではありません。


こういった平安時代以前から存在する教団は、例えば、職人さんが物を製造する時に、「座」という教団傘下の同業者組合への参加を強制し、その製造に莫大な製造・販売許可料を徴収するということをやっていました。


教団側の言い分はこうです。「こういった技術は元々自分たちが中国から苦労して持ち帰ったり、それを基に創意工夫をして創り上げたりしたたものだから、ただという訳にはいかない。それ相応の実施料を戴く・・・。」とこうなります。


確かに天才空海や最澄、そのほか多くのお坊さんによって日本の技術が進歩したことは確かですが、彼らはそれを一般庶民のために持ち帰ったわけで、当初はそれを基にいつまでも金をせびるような志は全くなかった筈なのですが・・・。


また、市などは、人が集まる場所、当時で言えば門前町などで開かれるのですが、そこから娑婆代を戴く、といったことまでやり始めます。


また、これは寺社勢力に限られないのですが、当時の公道には、その近辺の寺社領主が勝手に「関所」を作っていました。その役割は、治安維持などではなく、専ら通行料の徴収です。


そして寺社勢力も僧兵という名のプロの傭兵による私営の軍隊を持っています。つまり、一般庶民がこれに反感を覚えて勝手に物を作ったり売ったりしようとしても実力行使を受け、不可能だということです。


こういう状況下で経済はどうなってしまうでしょう。製造や物流、小売が滞り、結果的に物凄いインフレになってしまいます。それはそうですよね。すべての製品が上記の過程をへる間に無秩序にコストがかかってしまう結果、その総額が末端の商品の値段に上乗せされて、べらぼうな高値になってしまうのです。その結果、一般庶民には生活必需品の入手すら困難になって、国民全体が困窮してしまう。一部の胡坐を掻いたまま利鞘を貪っている既得権益集団を除いて・・・。


これが、「うつけ」といわれた若き日の信長が野山を駆け巡りながら目撃したであろう「様々な既得権益が絡み合った複雑な社会」の不健全な有様です。


信長による楽市・楽座、関所の撤廃のココロは、つまりこういうことです。

「今まで国民の皆さんが支払ってきた製造実施料、商売の娑婆代、通行料は今後一切支払う必要はありません。その代わり、為政者である私にその10分の1位のお金を納税してくださるだけで結構です。そうしていただければ、その財源を使って、そういう金を巻き上げる輩から皆さんを守り、かつ、道路の整備といった必要なインフラ整備などを行います。」


「天下布武」のスローガンの元で、彼はこういうマニュフェストを掲げて上洛し、実際にそれを実行し始めます。実際に料金などを巻き上げようとする輩が庶民に危害を加えようとすれば、彼のことですから場合によっては信長自ら刀押っ取って現場にかけつけ、そのような輩の首を問答無用で刎ねるわけるわけです。


それによって、一般庶民にとっては、今まで手に入らなかった生活必需品が容易に手に入るようになり、かつ大幅な減税政策を享受したわけですから、必然的に生活は潤い、大喜びだったはずです。


しかも、信長は商業や物流と言った面でこれまで寺社勢力の「聖域」だった分野に割り込んで、そこに適正な課税を行うことによって、大幅な税収増に恵まれます。その結果、政策を実施するための軍備増強やインフラ整備のための財源を得ることになりました。生粋の「護民官」信長の面目躍如です。


改革は順調に進むかに見えました。

しかし、これまでの既得権益を奪われた人々は面白いはずはありません。そこで彼を「仏敵」などといって非難し始めます。


彼が行った政策は決して宗教団体を標的としたものではなく、宗教弾圧の意図もなかったのですが、結果的に煽りを喰ったのが平安時代からの旧寺社勢力だった以上、彼と「比叡山」を始めとした宗教勢力との衝突は宿命付けられたものだったのかもしれません。


続きは次回といたします(・・・ここまで引っ張る必要あんのか?などとおっしゃらないで下さいね。)