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日本の政教分離の独自性⑦END(信長以後〜まとめ)

さて、四国・中国・近畿地方は台風の真っただ中。近隣の皆様、くれぐれも警戒をお願い致します。という私も近隣・・・というか現場にいるのですが、不思議なほど静かです。



日本の政教分離を論ずるにあたって、ずいぶんと信長に入り込んできた。ある知り合いから「これって政教分離論というか、信長論じゃないですか・・・」との指摘を受けた。的確すぎて反論できない。



今日は信長以降の日本を俯瞰してこの項を終了したいと思います。



前回までで、結局のところ宗教をめぐる連鎖的な争いを止めるためには、結局暴力や騙し、といった手段を弄しては到底不可能であり、そのためには厳正中立な態度を取ることが不可欠だということです。



あるいは何百年間にわたる血みどろの争いに当事者が疲れ果て、お互いがお互いに「もういいかげんやめよう」と感じるようになるか・・・。



カトリックとプロテスタントの争いは収束しつつある、と言われるが、おそらくこれは後者のパターン。



今世紀になってもキリスト教とイスラム教の争いは激化しつつあります。ブッシュ大統領がタリバンとイラクのフセイン政権を、オバマ大統領がオサマ・ビン・ラディンを殺害したとき、「これはイスラム教との戦争ではない」と繰り返し主張された。逆にいえば、そういう見方が一般的であるが故に、それを打ち消すために行われたコメントとも思えます。



キリストとイスラムの争い、これをカトリックとプロテスタントの抗争の歴史に照らして考えると、同じようにお互いに疲れ果てるまで、今後何百年といった争いが続く、という不気味で悲しい予測も湧き上がってきてしまいます。



しかし、日本ではある天才の御陰でそれがピタリと止んみました。



一方物事には「功罪」というものがあります。それは私が好きな信長だって例外ではありません。公平を期すのならば、その負の遺産にも焦点を当てない訳にはいきません。



信長は、安土に自分自身を本尊とした寺院を創建し、「現人神」のような態度を取り始めます。この寺院の救済は専ら現世利益。



津本氏の分析を下敷きにしつつ、信長の言い分を想像すればおそらくこうなるのではないでしょうか。


「延暦寺、本願寺といった存在は来世での救済を唱えて莫大な信者を集めているが、そんな来世など存在するかわからないものに帰依するなんて馬鹿げている。そんな連中より様々な政策を実施して実際の庶民の生活を潤わせている儂こそが、最も崇拝に値すべきじゃないか。」



皆さんお気づきかもしれませんが、その後の政治権力が宗教を利用する、という日本独自の構図もまた、信長が事始めなのです。



そしてその路線は秀吉の「豊国大明神」、家康の「東照大権現」と踏襲されていきます。



また、明治維新後の新政府は、神道・・・日本教といったほうが相応しいかもしれません・・・の主催者である天皇家を国家君主に祭り上げます。

これも、天皇家の方から積極的に政治の実権を握ろうとした、というものではありません。時の明治政府には「不平等条約改正」という大願しか頭にありません。そして西欧に習って只管「富国強兵」。そんな風潮の中でヨーロッパのカトリック教会を見て、おそらく大久保か伊藤辺りが「日本にもこれに比肩する本尊を・・・」といったノリで君主の座に付けることを考えついて実行したのではないでしょうか。



というのも明治維新の時に天皇家をそのように祭り上げるのに適した風潮があったことも手伝ったのだと思います。知識人の中に「尊王思想」がそれまでにない程までに信仰として高まっていたのです。



これは読者のかたによっては不遜ととられる方もいるかもしれませんが、説明をしやすくするためにあえて天皇家の評判を株価に捉えて、日本史におけるその推移を俯瞰すると、必ずしも一定ではなかったと考えます。



おそらく後醍醐天皇が建武の新政に失敗して、南北朝の騒乱が発生した室町時代に、天皇家株価は底を打ちます。「天皇などいらぬ。宮中に木造でも飾っておけばよい」といった発言が時の有力者から公然と出てしまう始末。海音寺潮五郎氏などは室町幕府三代将軍:義満が、天皇の地位の簒奪を画策したと主張しますが、私はそういう事件が起こっても不思議ではない世相だったと考えています。



その後の信長や秀吉も、天皇の権威を凌ぐ存在になりたいという願望を抱いていたようですし、家康も「天照」に対する「東照」を自称して自己を神格化し、天皇の権威に対抗しようとする姿勢を抱いていたのは明らかです。


江戸時代の川柳などを見ても、幕府の中傷は御法度でししたが天皇家の悪口は書き放題。明治維新当初も一般庶民のレベルでは天皇家に対する崇拝はさほどでもなし。「俺たちの将軍様」を倒して東京に入った明治天皇に反感を覚えた江戸ッ子は「明治」を読み替えて「治まる明(めぇ)」と揶揄した程です。これが「現人神」として人々の心の中に転換・定着するには「日清戦争」「日露戦争」の勝利という「奇跡」を待たなければなりませんでした。



幕末における武家や知識人における「尊王思想」の高まりについては、幕府が自分の政権の安定と下克上の終結を狙って採用した儒教朱子学が、山崎安斎・浅見絹斎といった南学派と称される、当初は決して主流とは言えなかった学派における思想の変容と、水戸学派での栗山潜峯らの手を経て、いつのまにか尊王倒幕の思想に変異してしまったことや、本居宣長や平田篤胤による国学の流行が考えられます。



この辺の経緯については膨大な資料群を研究してその経緯を明らかにした山本七平氏や丸山眞男博士、それらの研究成果を敷衍・解説した小室直樹氏、最近では「自称、歴史には門外漢を名乗る」井沢元彦氏による研究成果の継承発展の努力によって知る他はありません。

特に前者は、幕府自らがその体制御持のために官学とした朱子学が、逆に幕府を打倒する「尊王思想」に変化していく経緯を、山本七平氏が「現人神の創作者たち」という大作で明らかにしています。以前に述べた「聖書」を御持するために起草された合衆国独立宣言や憲法が、最近は逆に聖書からの自由を唱える思想にまで変貌してしまった経緯と似たものが感じられ、お薦めです。



ともかく、新政府において、天皇側の主導で天皇を「現人神」に祭り上げたことでないことは確かでしょう。

その証拠に、これは明治維新前に一般的だった神仏習合の影響もあるでしょうが、皇室が決して神道儀式の主催者で一貫していた訳ではないことからも伺えます。皇族の中には厚い仏教信者もいたはずです。現に明治以前は皇族も京都の泉涌寺を菩提寺としてこれに帰依し、孝明天皇以前の歴代天皇の位牌が今でもあります。

ただ、明治政府によって「現人神」とされてしまった以上、その天皇が皇居の仏間で「チーン」とやっていたら体裁上まずかろう、ということで菩提寺とは縁切りになって今に至ります。



ここまで述べたような経緯を経て、日本では宗教団体が例外を除いて主体性を減じ、政治に介入する、ということが殆どなくなってしまったのです。



「創価学会と公明党はどうなる」そのように問われる方もいるでしょうし、この辺は意見の分かれるところでしょう。これはあくまで私の考えですが、世界の他の宗教勢力や、もともと彼らが拠としていた日蓮正宗の強硬さ(言い換えれば教えへの忠実さ)からは乖離し、「一天四海皆帰妙法」のマニュフェストもどこへやら・・・。

公明党は本来の日蓮宗の宗旨といったところからは乖離し、一政党に変貌し、創価学会も元々の「過激な」教団の下部組織としての色を薄め、素朴な気持ちで祖先を敬い供養する人々の親睦団体のようになっていないでしょうか。

それはそれで私は良いとは言わずがな日本的だと思うのです。


(ただ、最近の創価学会の組織中には日本の国益とも日蓮宗の教えにも関係ない、特定の偏った政治思想を掲げる人々に利用されつつあるように疑われる動きも感じられます。誰でも「やる気」さえあれば入会できる以上、氏・素性のわからない人々もフリーパスです。こういった親睦団体は色々な集団、中には政治的に偏った集団に温床を与えてしまうことに繋がり得る点には留意が必要です。)

これは他の日蓮宗派の民間団体にも言えるように思います。私は以前、亡き母親が霊友会に所属し、私も知らない間に会員になっており、おそらく今でも幽霊会員です。一度だけ、霊友会の久遠寺へ参拝する合宿のようなものに参加させて戴いたことがあります。まだ若く、今より偏屈で信心など持ち合わせない態度を示していた私にも、会員の方々は寛容に暖かく受け入れ、接してくださったのを今でも覚えています。

今考えれば驚くのは、その会員の方々へ成田山新勝寺(真言宗)に初詣に行こうと誘ったら、「ああいいよ、行こう。」とついてきてくださったことです。

今にして思えば日蓮の「真言亡国」の教えに背く行為であることは明らか。そんなことを知らなかった私の無知無神経はそれ以上に明らか。



ただ、これは母親も含め、そういった人々から受けた印象ですが、会員の方々は特定の宗派に属しているという意識から、というよりも、広い意味での仏の教えを信じ、ご先祖様の供養や家族、周りのお世話になった人々の幸せを願って、自分のできる範囲で真剣にお勤めをしている、そういう想いなのではないかと感じるのです(日蓮宗の団体に所属しているのは、あえてそれを選んだという人ももちろんいらっしゃるのでしょうが、他の宗派にそういう民間団体が見当たらないので、そこに所属した、ということなのではないかと考えています)。



それが現在の私たち日本人が抱く一般的な宗教観ではないでしょうか。一神教のような「神様中心」ではなく「人間中心」。ある意味穏やか、ある意味曖昧な風土に私自身も安心します。



ただあえて宗教を主体とする政教分離が達成され、宗教が他の国では普通であるところの他宗派への排他性という牙をなくしたことが信長をはじめとする先人の功績であるならば、負の部分も見いだせます。



例えば日本の仏教では「戒律」というものが、殆ど無きに等しいものになってしまいました。浄土真宗を除いて未だに妻帯禁止という「戒律」を公式に解いた宗派は存在しないはずですが、一部の貴重な例外を除いてお坊さんは奥さんを持ち、家庭をもっています。果たしてこれが仏教なりや、という有様です。



また、信長・秀吉の事業を継承した家康によって、本願寺は跡目相続をめぐる内部対立に乗じて東西に分断されて弱体化。檀家制度の創設によって政府の管理下に置かれ、他の宗派と共に信長以前の牙を完膚なきまでに削がれていきます。


更に、宗教法人の税制優遇の恩恵を被って、一部過疎化した地方の寺社を除き、概ねお寺は潤っています。私が以前、ある資格試験の模試を受けに会場の仏教大学を訪れた時に目にした、お寺の子弟である学生さんの所有と思われる高級外車がズラリ並ぶ威容。「一切衆生」救済のために、僅かな布施を頼りに修行に励む方々は極めて少数派です。これ、大乗仏教なりや。


また、宗派間やお寺の間での健全な競争がなくなった結果、宗教としての学説の発展は停滞。使命感の欠如。


例えばですが、オウム真理教のようなカルト教団が出現し不法行為を働きはじめた場合、こういった輩を抑止するのは決して警察や弁護士だけではなく、既存の宗教団体が積極的に立ち上がるべきだったのではないでしょうか。


数々の一流大学卒の若き秀才達が、「瞑想して空を飛んだり、妙なる音楽を聞いたりするということは、本物の宗教でしか起こらない」という大脳生理学の基礎知識を見落とした誤った危険な誤解を逆手に取られる形で、監禁や薬物などといった手法を通じてそれらを体験させられてマインドコントロールに陥り、凶悪犯罪に手を染めて、その結果多くの尊い命が犠牲になってしまいました。



教祖は大乗仏教を標榜しながら、一神教の最後の審判を前提とした終末思想を唱えるという、少しでも宗教に通じていれば5秒で論破可能な無茶苦茶な教示を掲げて部下を凶行へと走らせたのです。



こういう問題は宗派や、キリスト教・仏教という垣根を超えて団結し、そのインチキぶりを告発するのが、卑しくも宗教団体の重要な役割の一つなのではないでしょうか。この点は一時教祖を持ち上げていた複数の知識人、学者を含め、恥を知るべし。



最後に、現在「政教分離」の問題の対象となる天皇制や靖国神社について、若干の披見を付け加えてこの項を終わりにしたいと思います。



天皇制について、これはあくまで私の考えの披見にとどまり、皆さんに「かくあるべきだ」と主張するものではありません。


民主主義と天皇制は矛盾する。学生時代そのように考えていました。しかし年をとったということもあるかもしれませんが、例えば天皇制が崩壊してしまうという状態を想像すると、何かいい知れぬ不安を感じています。


それはおそらく、私の心の中で天皇の存在を日常生活といった「通常性の象徴」と捉えているからではないかと感じたりします。どういうことかというと、国民の幸せを願う天皇・皇后両陛下がいて、その下に私を含めたサザエさんのような平均的な日本の家庭が存在している。そして、例えば天皇制が崩壊し、皇族の方々が処刑されるような事態を想像するとき、ポルポト時代のカンボジアで、手始めに仏教僧が処刑されてその後大量虐殺の恐怖のカオスが襲ったのと同じように、私たちの通常性が根底から覆されてしまうような漠然とした恐ろしさを感じるのです。



ご高齢でありかつ超多忙であるにもかかわらず被災地などを訪れ、しゃがみこむ被災民の方々お一人お一人に目線を同じくして言葉かけるお二人の姿をテレビなどで通じて見ると、正直ホッとするのです。



ですから未来の皇族の方々がその立場の煩雑さなどを嫌って全員がその身分を自ら放棄することを希望するといった事態でもおこらない限りは、できれば日本教の通常性の象徴として、存在して欲しいと願うのです。

最後に靖国神社などへの玉串料の奉納について、これは私の「意見」として自分の考えに責任を持ち、皆さんのご批判を受ける覚悟で申し上げます。


軍隊や警察は必要である。これは以前に述べた通りで詳しく繰り返す必要を感じません。

そして軍隊といった組織を維持するには三つの基本要素が必要だと思います。まず軍事力、その軍事力に携わる人々へ相当な品位を保持できるに足る適切な報酬と尊敬を保てるようにし、そして殉職した軍人に名誉の付与と手厚い遺族保障です。

一般のサラリーマンや公務員と違い、軍人や警察官、海上保安庁の隊員、消防士といった人々は場合によっては任務を達成するために、つまり民間人などを保護するためにその縦のなって死ななければならない立場にある人々です。


「俺怖いからやだ」といったところで緊急避難などといった法理は適用されません。


ですからその一要素を満たすために国のために殉職したこれらの人々を顕彰して弔う公的施設は絶対必要なのです。そうでなければそういう職業に就く人々は使い捨て商品のようになってしまい「やってられない」ということになってしまいます。



そして、今まで述べてきたように、日本社会の宗教構造はその他の世界とは完全に異なっています。宗教団体、靖国神社が主体となって政治に干渉してくることはありえません、それによって他の宗教・宗派は圧迫・弾圧されることもありえません。そうであれば、明治時代に官営で創立され、現に前の大戦で散華した人々が祀られている場所があるのであれば、他の国々が各々の文化的慣習で行なっていることに習い、靖国神社を使えばいいではないか、と思うのです。


これで本テーマに関する私の話はおしまいです。

ここまで読んでくださったことに深謝します。英訳は・・・まぁ追って数ヶ月以内に・・・(汗)。

ご意見・ご指導・ご助言・ご批判・叱責・誹謗・中傷・誤字脱字の指摘。萬歓迎。

日本の政教分離の独自性⑥(信長と安土宗論~顛末)

宗論の内容に立ち入る前に、その理解に必要と思われる仏教、特に大乗仏教についてのアウトラインを若干申し上げたいと思います。


そうしておかないと、宗論がどのように推移して、どのイニングのどんな決定打でその勝敗が決まったのか、多くの一般の方々にはおそらく解らなくなってしまうとおもわれるからです。


大乗仏教では、お釈迦様が菩提樹の下で解脱を果たしてから、死去(「涅槃にはいる」といいます)の間の40年間に、様々な教えを説いたとしています。仏教が広まるにつれて、それまで口頭伝承であったお釈迦様の教えが経典化され、更に、その後新しく発見された、とされる経典なども含めれば、その数は極めて膨大になります。


その全てを纏めて「一切教」などと称します。


そして、これは仏教の最大の特徴なのですが、その他の代表的な世界の宗教、例えば、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教といった宗教と異なり、唯一無二の経典(旧約・新約聖書・新新約聖書ともいうべきコーラン)というものが決まっていないのです。


そこで、その後の仏教徒によって、その数ある経典の中で、どれを自分たちの信仰のよりどころとするか、あるいは重要性のランク付けをするか、優劣の判断を行うことになってきます。これが仏教でいわれる「教相判釈(きょうそう-はんじゃく)」略して「教判」と呼ばれる判断です。


こういったことは、先に述べた他の宗教では起り得ません。例えばキリスト教の中のあるプロテスタント達が宗派を立ち上げ、その開祖の述べたことを教えに取り込んだとします。しかし、それはあくまで聖書に次ぐ教えとしての位置づけが与えられ、聖書の教えや記述と矛盾しない範囲で、二次経典としての役割が与えられるだけです。

ですから、仮に「キリスト教団」を名乗っていても、聖書に上位するような教祖の教えを奉じている団体があれば、もはやそれは「キリスト教」ではありません。おそらくキリスト教徒の人々から見れば、聖書を冒涜するインチキ宗教ということになってしまう筈です。


そして、大乗仏教ではお釈迦様が40年間に説いた教えを記した一切教を、それが説かれた時期や、教えの内容に従って「五時八教」という形に分類しています。大まかに言えば、以下の通り。

  1. 華厳時
    • 期間 - 21日間(一説に31日間とも)
    • 経典 - 華厳経(大方廣仏華厳経)
  2. 阿含時
    • 期間 - 12年間
    • 経典 - 増一、長、中、雑、小の阿含経、法句経などの南伝大蔵経
  3. 方等時
  4. 般若時
  5. 法華涅槃時
    • 期間 - 8年間(うち涅槃経は一日一夜)
    • 経典 - 法華経28品を中心とする法華三部経 、涅槃経

※転記元:ウェキペディアフリー百科事典


大乗仏教でお釈迦様が説いたとされる膨大な「一切教」を読んだ上で、どれが一番優れているかという教判をおこない。その結果によって宗派が分かれてきます。

例えば浄土信仰を掲げる浄土宗,浄土真宗,時宗といった宗派では阿弥陀教他の「浄土三部教」を重要と考えて奉じます。


また、最澄が伝来させた天台宗は、中国の天台宗開祖智顗 (ちぎ)の教えに従って法華経を最上位の経典としつつも、他の経典もそれについで疎かにできない・・・という立場です。これは、日本に広く仏教を伝えようとした最澄の意思によるものだと思いますが、本来の天台宗からすればすこし不徹底です。

これを、法華経のみを唯一の経典とし、その他の経典に一切の価値をみとめない・・・どころか排斥する、という、ある意味本来の天台宗の教えへの回帰を主張したのが日蓮宗です。

その日蓮宗が掲げる法華経のココロが「妙」という一字で表されます。


遠回りが過ぎました。


ようやく話は安土宗論に戻りますが、この「妙」を巡る議論のイニングで、安土宗論の勝敗が決するのです。


この宗論の発端は、浄土宗の霊誉玉念 (れいよぎょくねん)が安土城下で一般庶民に説法を行っていたところに、日蓮宗の若手が「折伏」をしかけたことに端を発します。

これに対して玉念が「お前らのような若造では話にならん。師匠を呼べ。」と応じ、この紛争を聞きつけた信長が、宗論を主催することになりました。


ちなみにこの安土宗論、会場は浄土宗の寺院で行われ日蓮宗側の観客の入場は許されず、千人以上の浄土宗信徒と信長が差し向けた判者と立会人以外は、全て浄土宗徒という、日蓮宗側からいわせれば「籠の中の鳥」ともいうべき完全アウェーの異様な雰囲気の中で行われたのは事実です。


前回転記掲載した安土問答議事録(「信長公記」:大田牛一編著)をご覧下さい。


浄土宗、浄土真宗、時宗といった宗派では、教判の結果先に述べた五時八教における「浄土三部教」以外の経典を軽視ないし無視します。


日蓮宗は法華経のみを経典として奉じ、法華教「捨てます。」ちなみに法華経は上記まとめをご覧になってわかるように、お釈迦様が最晩年に説いたお経ですから、それ以前の膨大な経典を「捨てる」ことになります。


その意味でお互いに自らの最高経典に忠実な原理主義的側面を持っています。


しかしながら、ここは重要なポイントですが、浄土三部教以外にも阿弥陀如来の教えは法華経を始めとする他の経典にも出てきますし、逆に法華経で書かれている「妙」の精神に近い教えは法華経以前の経典にも出てきます。ここから両者に論理矛盾なども生じてくる可能性が出てくるわけです。


そこで、宗論はそういった矛盾を突きあう形で進行して行きます。


「宗論はどちらが勝っても釈迦の恥」と言われますが・・・。私たち一般人には、徒に難解で不毛とも思える議論が丁々発止と展開されるわけです。


そして宗論で決定打となる、浄土側の貞安が放った質問。

「釈尊が四十余年の修行を以って以前の経を捨つるなら、汝は方座第四の「妙」の一字を捨てるか、捨てざるか。」


戦前の日蓮宗学派の第一人者でありカリスマ:田中智学は、この質問をして回答不能な質問を放った「いかさま」と主張します。


「こんな事は全く話にならない、それこそ御釈迦様でも気がつかない事だ。知って居るのは、世界中に唯一人、劫初(こうしょ=この世の初め)以来何億万年にも誰一人、その唯の一人しか知るものは無い、それは大雲院開山教蓮社退魯大和尚聖誉貞安上人唯一人である。『経文』にも『論文』にも『釈義』にも、かつて登録されない珍妙怪奇の『造り名目(つくりみょうもく)』を以て、相手を煙に捲かうといふのは、モー法義論談の分域を通り越して、残るところは貞安の人格問題だ」(雑誌『毒鼓・殉教号』67頁、獅子王文庫発行)


つまり、方座第四の「妙」などという概念は、浄土宗側が作り上げた創作であって全く意味不明。誰も説明できない謎の概念を投げかけて、日蓮宗側が答えに詰まったところを、浄土宗側とその観客、そして浄土宗とつるんだ判者と立会人が「満座一同どっと笑い、法華の袈裟を剥ぎ取」った訳です。

この袈裟を剥ぎ取るという行為は、宗論で負けた以上、袈裟をつける資格がないという含意を持ち、勝敗が決した証となります。


当時の状況と田中智学の分析を併せ読むと、浄土宗側と信長の卑劣は明らか。


しかし・・・です。

田中智学は碩学であるが故に浄土宗側の質問の意図を強いて解釈し、「“方座第四の『妙』”といふのは、追究したら恐らく『方等会座四教並説中第四円教所談の妙』というつもりであらう」(前掲書68頁)と敷衍します。


博学であるが故の研究心と説明意欲の高さが招いた「蛇足」というのはこういうことをいうのかもしれません。皆さんお解りでしょうか。


田中智学のこの分析によれば、浄土宗側の質問は意味不明という論旨とは矛盾し、田中自身が述べるように、説明可能な概念となってしまします。

この田中の「やっちまった」的な「蛇足」を、同時代における浄土宗派の仏教学者:林彦明が冷静に突いて定説の誤りを喝破しているのです。


説明可能な概念を説明できなかったのみならず、知らなかった訳ですから話になりません。

少なくとも田中が言うように「その妙は『方等会座四教並説中第四円教所談の妙』を言いたいのだろうが、それは未だ方便の段階で説かれたものだから真の妙とは言えない。」などといった、何かしらの反論を判者も期待し、浄土宗側も予想していた筈なのです。


それが予期に反して全くなされなかったからこそ、一切教に通じた判者や浄土宗側は意外な顛末に「どっと笑」つたのでしょう。


これで日蓮宗の負けが決したのです。


この結果、日蓮宗側は信長に、強引な「折伏」への謝罪と今後の自粛を誓う詫び証文を出し、信者の町人集も多額の罰金を課せられ、これに応じます。


敬白 起請文(きしょうもん)の事

  1. 今度(このたび)近江の浄厳院に於いて浄土宗と宗論を致し、法花宗が負け申すに付いて、京都の坊主普伝、並びに塩屋伝介が仰せ付けられ候事。
  2. 向後他宗に対し一切法難(非難)致し可からざる之事(今後は、他宗に対し決して非難は致しません)。
  3. 法花一分之儀立て置かる可き之旨、忝く存じ奉り候(法華宗に寛大な御処置を賜りまして、誠に有り難い想いです)。私共法華宗の僧はいったん宗門を離れ、改めて御許可を得てから前職に就かせて戴きます。

天正七年五月二十七日   法花宗

上様、浄土宗様


信長の「八百長疑惑」に対する潔白は証明されたと信じます。


次回、(感動の?)最終回とさせていただきます。

日本の政教分離の独自性⑤(信長と安土宗論~概要)

皆さんいかがお過ごしでしょうか。特に震災に遭われた地域の皆様のご苦労、ご心痛はいかばかりのものか想像すらできませんが、せめてご無事をお祈りし、自分でできる些少な支援金をお送りするように致します。

さて、織田信長の宗教抗争における基本方針とその実行に関して私の考えるところは前回述べた通りです。

日本人が今日、外国の宗教衝突を見て「仲良くやればいいのに。馬鹿だな~。」と笑える宗教的寛容性は、実は四半世紀前の信長からの贈り物である、そう私は思うのです。

さて、もう一つ。信長の宗教勢力に対する方針と実行を探る上で外せない事象があると思います。それが「安土宗論」です。

安土宗論(あずち-しゅうろん)

天正7年(1579年)5月、織田信長が安土城下の浄土宗荘厳院で行わせた、浄土宗と日蓮宗の論争。浄土宗の勝ちとなり、日蓮宗側は詫び証文を書かされるなど厳しく処罰された。日蓮宗の勢力増大を嫌った信長の計画的な弾圧とされる。

(「精選版日本国語大辞典」[小学館]より抜粋。)

これが安土宗論に対する定説です。戦前の日蓮宗研究の第一人者、田中智学氏は「信長公記」や当時の資料を慎重に考証しつつ、信長が仕組んだ企みを論証しています。つまり、日蓮宗弾圧のために、信長が仕組んだ「いかさま」試合である、という考え方が一般的、というか「常識」です。

しかし・・・です。そんな詐欺的手法を弄して宗教団体を弾圧しても、それは今の「日本以外」の宗教を巡る復讐の連鎖を招くだけではないでしょうか。そんな方法を信長がとるでしょうか。

特に、前に申し上げた日蓮宗の特徴を思い出して下さい。


「不惜身命」の覚悟で他宗派の「折伏」に専心する。これが日蓮宗の基本方針です。特に日蓮宗には「法難」という考え方があります。これはどういうことかというと、日蓮宗の信徒の方々が奉じる「法華経」には、この経典の教えを布教する者は弾圧を受ける、と書いてあり、この「弾圧」を「法難」と呼ぶのです。

これを私も含めた一般の方々に解りやすいようにするために、日蓮宗における信仰の構図を強いて簡単に図式化することが許されるならば、下記のような形になるのではないでしょうか。

「法華経」の教えは正しい→だからこの「法華経」を広めるために「折伏」する→「折伏」すると(そこには、「念仏無限」などといった他宗派への全面否定が含まれていますから)弾圧される→「法華経」には「折伏」すると「法難」を受けると予言してある→だから「法華経」の教えは正しい(信仰がスパイラル上昇しつつ冒頭に戻る)

このようにいわば「先鋭化・原理主義化」していくのです。

こういう事情からか、一方で日本の中では民間団体(創価学会、霊友会、立正佼成会・・・)による活動が活発であり、他方で異色の宗派と見られがちです。

しかし、宗教というものを世界的な基準から鳥瞰してみれば、日本で唯一、最も宗教らしい宗派と問われればそれはおそらく日蓮宗です。その世界の諸宗教の中でも(開祖日蓮の教えから逸脱して「折伏」に「暴力」を含めるといった、今日では存在しないか、存在するとしても極めて少数例外な教団、信者を除けば)平和的かつ非常に穏健な方だと思います。

そうはいっても、先に述べたような性格を持つ宗派であることは間違いありません。

「いかさま試合」を仕掛けられておきながら、おめおめと「詫び証文」を書くなどということが有りうるでしょうか。当時の日蓮宗側は「詫び証文」を書かなければ宗徒を皆殺しにする、と信長から脅された、と弁明していますが・・・。

私は絶対にないと思います。「折伏」の過激さを当時の為政者に咎められて鎌倉の海岸で打ち首にされそうになった開祖日蓮が、「すみませんでした。今後行動を慎みます。」とおめおめ屈したでしょうか。

違います。彼は処刑場に連行される間、心配そうに見つめる弟子たちを尻目に「これほど痛快なことはない」と豪快に笑いながら闊歩し、自分を殺そうとする御家人の信仰対象であった八幡神社を通りかかった時に拝殿に向かって「八幡宮よ。今日本で最も知識のある修行者が殺されようとしている。その男には後ろめたいところは何ひとつない。それでもお前はその男を助けられぬか。」と放言し、挑発しています。

彼が不屈の信念を抱き、死すら辞さない決意を抱いていた証拠です。だからこそ、そのような彼の姿を見た人々によって日蓮宗は生まれ、発展したのです。

今の日本人は、これは私も含めて「命をとられるくらいなら・・・」と考えがちですが、それは世界の、そして信長以前の日本では違います。科学が発達していなかった昔は今の人が想像できないほど信心深いのです。「進めば極楽往生。引けば無間地獄」の標語に喜んで進んで信長勢と闘い、命を捧げた一向宗徒の人々のことを思い出して下さい。

井沢元彦氏は安土宗論の後に法華一揆が一件も起っていない事に注目し、定説に疑問を投げかけます。そうなのです。定説に従って「八百長試合」を仕掛けられたのに詫び証文を書かされておめおめ帰ってきた日蓮宗の僧たちを、日蓮宗の信者はどう迎えるでしょう。

まず「詫び証文」を書いてきたこと自体が教団への重大な裏切りですから、八つ裂きにされる筈です。その上で詫び証文の撤回を宣言し、逆に信長への謝罪と宗論のやり直しを要求して武装蜂起するはずです。

信徒の数で一向宗に比肩する日蓮宗、しかも信長が重要な財源としていた町人衆の多くが帰依しています。おそらく日本全土で日蓮宗が同時多発的に武装蜂起し、信長政権は1ヶ月と持たずに潰れていただろうと思うのです。

にもかかわらずそんなことにはなりませんでした。それどころか宗論に参加しなかった教団の幹部や信徒代表まで追随して詫び証文を信長に提出し、以後過激な「折伏」を放棄した彼らは、他宗派の庶民の子供からから街中で馬鹿にされるまでになってしまいます。「皆殺し」の脅しに接して、臆病風に吹かれたのでしょうか。

決して日蓮宗を否定したり馬鹿にしたりするつもりはないことをご理解ください。そして、何が申し上げたいかというと、定説こそ実は結果的に日蓮宗を愚弄しているのではないかということです。そして、上述したような背理法的な論証によってその不都合が強く疑われるのですから、つまり定説自体が間違っているのではないかということです。


この点、八百長否定説をぶち上げた井沢元彦氏の見解を私なりに敷衍しながら、宗論の内容に踏み込んでみようと思います。宗論の内容自体はそれほど長いものではない(おそらく開始から終了まで5分か長くても10分程度)のですが、その筋を理解するために大乗仏教に関する若干の基本知識が必要になると思いますので、非力ながら私なりの説明を試みた上で、皆さんへの判断材料を提供できるように努めたいと思います。


次回に向けてウェキペディアに掲載されている信長公記による問答を転記しておきます。(斜字は私の独自訳です。)(以下転記元URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%9C%9F%E5%AE%97%E8%AB%96


  • 霊誉「私が言い出した事なので、私から発言しましょう」
しかし、貞安はそれを遮って早口で問いを発した。
  • 貞安(浄土宗側)問う 法華八軸(8巻)の内に念仏 はありや。 (浄土宗:法華教の中に、阿弥陀如来の念仏の教えはあるのか。
  • 法華側答う 念仏あり。 (日蓮宗:念仏の教えはある。)
  • 浄土側問う 念仏の義あらば、何故法華は念仏無間 日蓮 が説いた四箇格言 の一つ)地獄に落ちると説くや。 (浄土宗:法華経に念仏の教えが書いてあるのであれば、何故日蓮宗は念仏の唱和は無間地獄に落ちる罪業だというのだ。おかしいではないか。)
  • 法華側答う 法華の弥陀(阿弥陀如来 )と浄土の弥陀とは一体や、別体や。(日蓮宗:法華経に書いてある阿弥陀如来は浄土三部教に書いてある阿弥陀如来と同じか、違うのか。)
  • 浄土側曰く 弥陀は何処にあろうと、弥陀一体なり。 (浄土宗:阿弥陀如来はどこに書いてあろうが同じに決まっている。)
  • 法華側答う 左様ならば、何故浄土門は法華の弥陀を「捨閉閣抛(しゃへいかくほう)[1] 」として捨てるや。 (日蓮宗:そうであれば、何故浄土宗では法華教の阿弥陀如来を捨てよ、などというのだ。矛盾しているではないか。)
  • 浄土側曰く それは念仏を捨てよと云うに非ず。念仏をする前に念仏の外の雑行を捨てよとの意なり。 (浄土宗:それは念仏を捨てろと言っているのではない。念仏を唱える時に、それ以外の雑事を考えるな、と言っているのだ。)
  • 法華側答う 念仏をする前に法華を捨てよと言う経文はありや。 (日蓮宗:念仏を唱える際に法華経を捨てろなどと、経典のどこかに書いてあるのか。)
  • 浄土側曰く 法華を捨つるとの経文あり。浄土経には善立方便 顕示三乗 とあり。また一向専念無量寿仏ともあり。 (浄土宗:書いてある。浄土教にはひたすら阿弥陀如来の教えに専念せよと書いてある。)
  • (法華側曰く)[2] 法華の無量義経には、以方便力、四十余年未顕真実[3] とあり。 (日蓮宗:法華教の無量義教には、法華教こそが40年間でお釈迦様が唱えた唯一真実の教えと書いてあり、それ以前の教えは方便[=一般人にもわかり易いように、お釈迦様が敢えて解り易く唱えた真実ではない教え]とあるが、それについてはどう考える。)
  • 浄土側曰く 釈尊が四十余年の修行を以って以前の経を捨つるなら、汝は方座第四の「妙」の一字を捨てるか、捨てざるか。(浄土宗:お釈迦様の法華経以前の40年間の教えを捨てるのならば、お前たちは方座第四の「妙」までも捨てるのか。)
  • 法華側答う 今言うは、四十余年の四妙中の何れや。(日蓮宗:今言った「妙」とは40年間にお釈迦様が唱えた四つの「妙」の中のどの「妙」を指しているのだ
  • 浄土側曰く 法華の妙よ。汝知らざるか。 (浄土宗:法華の「妙」だ。まさかお前ら、そんなことも知らないのか。
  • 法華側返答なし。閉口す。 (日蓮宗:無言
  • 浄土側重ねて曰く 捨てるか、捨てざるか。重ねて問いし所、 (浄土宗:再び聞く。この「妙」を捨てるのか、捨てないのか、はっきり答えろ。)
  • 法華側無言。其の時、判者を始め満座一同どっと笑い、法華の袈裟を剥ぎ取る。 (法華宗:無言。このとき、審判員始め会場全体がどっと爆笑して、浄土宗側が日蓮宗側の僧の袈裟を剥ぎ取る。)

  天正七年己卯年五月二十七日辰刻


最後まで読んでくださった方々に深謝します。