これはあとがきです。

ご興味のある方は、こちらもご拝読ください。

 

 

 

私たちは、いつも他人と比べようとします

 

近所を散歩するときと同じ服装で

友人の結婚式に参加する人は、

あまりいません。

 

服装だけでなく、しゃべり方や振る舞いも

その場に合わせようとして

周りを観察して自分と比べます。

 

 

比べる目的はその他にも

レベルの高い人をうらやんだり

逆にレベルが低い人を見つけて安心しようとしたりします。

 

 

動物は生存本能の中に

強い遺伝子を残すためにオス同士が競ったり

メスが好みで選ぶシステムがあります。

 

その点は、人間も同じでしょう。

 

でも、人間は、遺伝子を残すこととは別に

文化の伝達を本能に組み込みました。

 

 

 

例えば、絵画がうまいことや、物語を作れること

動物的な生存には直接関係がありません

 

だけど、それらのスキルの有無や優劣を比べて

上下の格差をつける傾向があります。

 

ですが、スキルの全てが人気とは限りません。

のび太は、あやとりやピーナッツの投げ食いでは

誰にも負けないスキルがありますが

誰にも「優れている」とは言われません。

 

 

 
「私は、あの人よりも、この部分が優れているのに、
 この社会では報われない」

ということが、現実社会では大いにあります。

 

 

 

「比べる」ということは

競争すること

協調すること

必ず必要ですが

 

必ず格差を生みます

 

 

そして

生存にかかわる特性の優劣と

文化に関する特性の優劣が

混ざりあって、引き離すことができないので

よく、人は混乱し、とても悩むことがあります。

 

 

そんな時にはよく、

「幸せに生きるためには、人と比較してはいけない」

という言葉を耳にします。

 

 

だけど、比較することは動物としての行動原理なので

簡単にできるはずがありません。

 

そうすると、それを正当化するルールや

神さまの教えを語って、それを守り実行しようとして

さらに、捉われていくことがあります。

 

 

人間の本質の中には

他人と比べて、競争し、協調することで、

個人と社会を育てる特性があります。

 

その本質に気付き

個人と社会の性質を理解して

また、許容すること

 

私達は「比べる」ということの

本当の意味を味わうことができるのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これはあとがきです。

ご興味のある方は、こちらもご拝読ください。

 

 

 

神や魂が区別できないこと
 

つまり

 

固有の神や、個別の魂はないということは

これまでに書いてきました。


「ない」というと、すごく否定的に捉えられるかもしれませんね


もう少し正確に言うと

何やら神的なエネルギーや、私たちには観測できない物質(?)は


私たちの肉体の内外を含む


全宇宙に漂っているかもしれませんが

それらは

境界を作ることはできない
区別することはできない

ということだと思っています



自分の魂が、どのタイミングでこの肉体に宿ったのか
深く深く深く、考えてみてください。


受精した瞬間でしょうか
受精卵が着床した瞬間でしょうか
初めに受精卵の細胞が分裂した瞬間でしょうか
それとも、脳ができたときでしょうか


仮に、これらのどれかの瞬間だとしたときに
受精する前の
父の精子と
母の卵子は

誰の魂なのでしょう?



それぞれが父・母それぞれの魂だとしたときに


受精しなかったそれらは、いずれ分解されます


そのとき、父・母の魂は何になるのでしょうか

 

 

 

 

 


ニワトリの卵に、親鳥の魂があるとしたときに


目玉焼きを食べた私には、その親鳥の魂が宿るのでしょうか



魂が区分できるかについて、詳しい考察はこちら

 






時間的、空間的に

とても細かく

 

とても大きく

観察したときに

魂は、どうやっても分けられそうにありません。


これは、神さまも同じです。


山の神さま と 平地の神さま と 裾野の神さま は

いつもどこかで 境界を争っているのでしょうか






自分の魂 と 自意識
錯覚 と 創造 と 神

これを混同してしまうのが
人間の性質なのでしょう

これに、認知バイアスがうまく働いているんでしょうね

 

 






では、魂や神的なものがないのかというと

そうではないかもしれません




単に、区別できないだけで

私の身体にも

隣の人の身体にも

吸う息にも

高い空にも

宇宙の星にも

 

星のない空間にも

観測できる宇宙の外にも



見えるもの、見えないもの

全てのものに



観測できない 

 

区別できない

 

何かが


流れているのかもしれません



それは決して、区別はできませんが


たまにチャンネルがあったりして

何かを感じたりしたときに



それを人間のフィルターで意味付けしようとして

区別してしまうのでしょう

 

 

これはあとがきです。

ご興味のある方は、こちらもご拝読ください。

 

 

 

 

血液型性格診断 といえば

一度も目にしたことがない
という人は少ないはずです


A型の方は、きっとこんな感じ。

 

 

マメな性格で気配りもうまく、誰とでも合わせることができます。ただ、少し慎重になりすぎて用心深くなったり、あれこれ考えてしまうクセがあるようです。いったん夢中になると他のことが目に入らなくなることもあります。親しみやすく表裏のない性格で人をひきつける魅力があります。やや根気に欠けるものの、物事を多角的にとらえて分析することができます。

 

 

 

どうですか?







ちょっと当たってるかも?


と思った方、いるかもしれません。









実は、これと全く同じ文章を

B型、AB型、O型のそれぞれにも同じように


「あなたの血液型による性格はこんな要素があります」

 

と伝えられると、過半数の人が、
 

「当たってるかも」
と感じるそうです。


これは、バーナム効果と言われるもので


実際には

誰にでも当てはまる曖昧で一般的なことであるにもかかわらず

これは自分(または自分の属する集団)のことを指しているのだ

と感じてしまう心理的効果です。


神社のおみくじなんかも

ありがたく引いて

「今の自分にピッタリな言葉が書かれてる!」

と思ってしまう人もいますが

おみくじは、ただの有限のパターンに過ぎません。

まさに

「誰にでも当てはまる曖昧で一般的なこと」

が書いてあるに過ぎないのですが

やはり、

「神社」という神聖な場所で引くという行為も相まって

「一般的」ではない、自分への言葉と捉えてしまうのでしょう。




バーナム効果だけに限らず
私たちは、様々な認知の歪みの中で生活しています

確証バイアス
正常性バイアス
ダニング=クルーガー効果
ハロー効果
自己奉仕バイアス 
…などなど


認知バイアスと呼ばれるそれらは、
偏見や先入観によって、認識の歪みや思考の偏りをもたらします。




社会についての分析で述べたように

 

 


私たちは、仲間とそうでない者とで
その対応には、絶対的な差をつけます

親の死と、友人の死と、隣人の死と、隣国の人の死と、遠方の国の人の死と、
長年可愛がったペットの死と、動物園の象の死と、足下のアリの死と では、
どれも、その感情には差があるでしょう。


…というのは極端な例ですが

だけども、普段の生活でも

あの人が言うことと
この人が言うことと
TVの中のある人が言うことが


一言一句同じでも
聞き手の捉え方は違うでしょう

そこには、認知バイアスによる歪みがあるのです。



こう書くと、認知バイアスが何やら悪者のように感じますが


工業用語でバイアスは、補正のことを指します。

バイアスは、少しずれたものを調整するときに用いられます。


だけど、バイアスを入れすぎると真の値から大きくズレることもあります。




ある物語の中で、

AIが人間に対してこう言いました。


「私、分かったんです。人間は、みんな、認知症なんです」


私たちが認知症というと
疾患のある人のように捉えてしまいますが

フラットでロジカルな視点で視ると

人はみな、認知症を患っていると言えます。



だけど、お互いがお互いを

曖昧に解釈しながら、

適度にバイアスを調整して、

適切な距離を取って暮らしていくことで、

社会はなんとかうまく回っています


そうやって“普通”に暮らしている人の多くは、

自分が認知症だと思う人は少ないのではないでしょうか。



正常な人と認知症の人との間には

実際は境界はないんですが

自分は “常に” 正常だ」という認識(誤認)が強すぎると、

相手や周りが間違っている」という思考に陥ってしまうことがあります。


そこに、社会の歪みや争いが生まれてしまうかもしれません。



自分自身のことを、信じると同時に疑う 


なにやら難しそうですが、


この、表裏一体のことに


何かの気付きがあるような気がします

 

これはあとがきです。

ご興味のある方は、こちらもご拝読ください。

 

 

 

 

 

神については、こちらでコンコンと書きましたが…

 

 

もう少しカジュアルに書いてみたいと思います。

 

神さまというと、イメージするのは人それぞれ。

 

キリストやヤハウェみたいなのとか

アッラーとか

ミカエル、ラファエル、ガブリエルみたいな天使とか

シヴァやガネーシャとか

ニニギノミコトやコノハナサクヤヒメとか

 

今年は辰年だから、龍の神・龍神も話題に挙がりますし、

龍は蛇が神格化したものとされることも。アステカとか。

 

 

この神さまたちが話題に出るとき、いつも思うんです。

 

彼らはいつから、その神さまになったんだろう、と。

 

国や地域や宗派によって、発音が違ったりしても、

同一の神さまとして認識されていて、

描かれる姿形も、特定のルールというか特徴があります。

その神さまにまつわる物語の特徴もありますよね。

 

これって、人類史の前からいたのでしょうか。

 

いや、人類史後でしょ。どう考えても。

 

 

 

ナメクジの脳が発達して、地上に君臨したとしたら

 ( 火の鳥であったなぁ [未来編]の最後ね )

神さまはナメクジの姿形に似ているでしょうね。

 

 

 

いやいや‼ と思った方もいるでしょう。

そうですね。形のない神さま

太陽神、山の神、大地の神なんかもありますね。

 

山の神は、沈降して海底に沈むと、海の神?

平地な部分は、平地の神?

 

太陽神は、太陽ができる前は、何神だったんでしょう?

 

 

魂の区別については、こちら↓で考察しました。

 

 

この記事では、私たち自身の魂を主眼に書いていますが、

 

神さまについても、同じことが言えると思っています。

 

 

 

区分けされた時点で、それは本当の神さまではなく、

 

人の意志の鏡に映ったものを見ているのではないでしょうか。

 

区分けできない神さまは、全時空に充満していると

私は考えています。

 

 

人々がそれぞれに、神さまに意思を込めて見てしまうから、

 

全ての人が、統一の神さまを感じることはできないのでしょう。

 

 

ということは

 

他人が信じる神さまを

 

自分が信じることができなくても

 

不思議ではないということですね

これはあとがきです。

ご興味のある方は、こちらもご拝読ください。

 

 

 

私たちは、他人とのコミュニケーションで、よく悩みます。
理由は、その人や、ケースによってさまざまです。

でも、結局は、個々の考えや、思考の仕方が違うから、

そして、他人を、理解したい、理解しなきゃいけないという
遺伝子に刻み込まれたかのような性質があるから、


相手に理解してもらえない
相手のことが理解できない

これが大きくなると、私たちは悩みます。


「信じる」というときに、
他者への見返りを望んでしまうことも同じですね。

 

 

 


私たちは、他人のことは、絶対に(完全には)理解できません。
だって、自分じゃないから。

だけど、本来は、
仲間でいることに、
理解する必要は、ありません。

「理解はできない」
 けど
「許容する」 (注)末尾

これを全ての人ができると、
社会は円滑に、平和になるんでしょう。



とは言っても、これは全くの理想論でしかありません。
 

 

食文化の違いは、「理解できない」ことで

何故か、攻撃的になる人が多い感じがします。

 

クジラ食や犬食や昆虫食の場合はどうでしょう。
「理解はできない」人でも、「許容」はしてもいいと思います。


ヴィーガンから見た通常食主義者、または、その逆は、
「理解」しなくてもいいけど、「許容」すればいい話であって、
「強要」すべきことではありませんよね。


その他にも例えば、

死刑制度がない国が、死刑制度がある国に対して、
「理解できない」なら制度の廃止を「強要」すべきでしょうか。
それとも、文化の違いを「許容」すべきでしょうか。


一家に一丁 銃がある文化を
「理解」はあんまりできませんが、

治安や情勢や国民文化・気質を考慮すると、「許容」はできそう。

もちろん、持つ持たないの判断とは別の話ですが。
 

 

集団の中に、虐待や殺人や小児性愛を好む人がいて、
「理解はできない」けど「許容します」なんて、
そんなものは個人も社会も、絶対に許容し得ません。

 

だけど、集団の中には、平均の範囲の中の人と、

いわゆるイレギュラーな個体は、必ず現れます。

 

 

そんな、イレギュラーと出会ったとき、

私たちはどうすればいいんでしょうか。

隔離?弾圧?排除?

 

 

私たちは、他者を「理解」することはもちろん、

「許容」することも、完全にはできないのかもしれません。

 

それでも私たちは、私たちが関与できる社会の範囲で、

「許容できる」領域を広げれば、

その人が関わる社会は、僅かでも平和に、

心は、僅かでも平穏になりそうな気がします。


 

(注)

 「許容」よりも、「寛容」の方が

  国語辞書的には、より意味合いとして正確っぽいです。

  ただ、私が初めに出会った言葉を大切にして、

 「許容」を使うこととしました。

これはあとがきです。

ご興味のある方は、こちらもご拝読ください。

 

 

 

人を信じるということについて、

こんな言葉を紹介します。

 

相手を『信じる』という言葉は

その人自身を信じているのではなくて

自分が理想とするその人の人物像に

期待をしてしまっていることの方が多い。

 

だから人は、ときに裏切られたと思うが

 

それは

 

その人が裏切ったというわけではなくて

 

見えなかった部分が見えたというだけ。
 

本当の『信じる』とは、

見えない部分がみえたときに

揺るがない自分がいる ということ

 

これは、

2020年の映画『星の子』で主演を務めた芦田愛菜が、

映画の完成イベントでコメントしたものだそうです。

 (注) ネットニュースの日本語が不自由だったので、意訳と修正を入れています。

 

「見返りを求めない」とか、

「自分と他人は違う」とか、

そんな言葉が来るのかと思わせて、

 

揺るがない自分がいる ということ

 

とくるとはびっくりマークはてなマーク  ポーン

 

もうこれって

『信じるということ』の回答を超越して

 

生きること』の回答では?

 

 

このときから、私は芦田愛菜先生と呼んでいます凝視

 

ちなみに当時、芦田先生は16歳!?

 …同じ歳のころ、わしゃゲームしかしておらんかったよ真顔

 

 

まぁ、この心があれば最強でしょうね。

 

 

だけれども

こうはなかなか思えないのが

人の性(さが)でもあるのよね…

 

それはそれで、しょうがないとも思う。

 

だって、人は社会性の動物なんだから。

 

 

仲間を作ろうとするし

仲間との距離を探ろうとするし

お互いの役割を見つけようとするから。

 

もちろん、その中で

 

見返りを求めたり

利害関係を認識したりするのは

 

人間として自然なことなんです。

 

 

人や社会の習性として

どうしようもないことがある中で

 

自分にとっての理想的な考えや行いに

どうやって近づけようとするか

 

これが、幸せに生きることのコツだと思いますグッ

 

実は、ポイントは、自分にとっての

というところだと思う。

だって、みんな違うんだもん。

 

全部はモノマネはしなくていい。

きっと、その先には答えはないから。

イイトコ取りオカメインコがいいんです!

 

 

ちなみに、

芦田先生の主演映画『星の子』は、

あるカルト宗教にのめりこんでしまう両親を持つ

高校生の主人公が、

家庭と宗教と外の社会の中で、深く悩み葛藤し、

彼女としての答えを出すお話です。

 

だれが悪いとも言えないんです。

彼女の決意が果たして未来の幸せにつながるのか?

もしかすると、彼女は後にその決意を変えるのかもしれない。

 

なんとも言えない

でも、他人の人生の中での葛藤や、決意に至る心の動きは、

その人自身にしか、決して分からない。

もしかしたら、自分自身も気付かない心があるのかもしれない。

そんなことに気づかせてくれるいい映画です。

 

 

ではまた

ふとん1ふとん2ふとん3

 

ようやく、書き溜めていたものを上げ終えたわけなんですが、

 ぜひ、ご一読ください ↓↓こちらから↓↓

 

 

 

フリはこんこんと長いんですが、

言いたいことは、最終項ってことです。

 

 

最終項のタイトルは、

宮崎駿監督から取っちゃったみたいになってしまって (´;ω;`)

本当ならば、もっと練って考えたかったんですが、

めんどくさくなってしまって魂が抜ける

 

 

 

宮崎駿と言えば、

NHKのプロフェッショナルの密着でこんなことを言っていました。

 

「世界っていうのは、

 キレイなものじゃないんですよ。

 もっと、ドロドロとしたものなんですよ。」

(おぼろげな記憶ですが、確かこんなこと)

 

全く同意だなー!!と、思ったわけです。

 

で、番組は「君たちはどう生きるか」の制作密着だったんですが、

ナウシカを思い出しました。

 

皆さんご存じですか?

「風の谷のナウシカ」

 

映画は1/3のぶつ切り尻切れトンボです。

あれはただのエンタメなので。

原作のコマーシャルですわ。

 

 

宮崎駿の書きたい(描きたい)ことは、

もちろん原作です。

是非読んでくださいませ。

 

 

あの物語を読むと、

 

善悪って、一体なに?

 

っていうのを、すごく考えさせられます。

 

しかも、

トルメキア王国と、ドルク連合国との2つの大国の抗争と

辺境の地の風の谷

そして、旧人類

 

たったこれだけのコミュニティ同士で、

あれだけのドロドロがあることを考えると、

 

現在の私たちが生きる社会は、

 

それはもう、ドロドロのドロドロなのは、

当たり前なことでしょーよと。

 

そんな中で、

 

どう生きるか は、それぞれの自由だし、

 

どう生きられるか の制約があるのも事実。

 

だけれども、どう生きようとするか は、

 

やっぱり大事なことだと感じるってこと。

 

 

 

ということで、

あとがきと、補足と、書き漏らしたことを

ポツポツと書いていこうと思います。

筆者がこれまで述べてきたことを表面的に見れば、

 

 「神はいない」

 「魂はない」

 「物事に選択肢はない」

 「人生に意味はない」

 「善悪はない」

 

と、ネガティブな結論と思われるかもしれないが、

これは正しい捉え方ではない。

 

これらを正しく言い換えると、

 

「固有の神は存在し得ない」

 「魂は区別し得ない」

 「物事に選択肢はないが、未来を見ることはできない」

 「人生への意味付けは生きることの原動力にもなるし、捉われにもなる」

 「善悪は全ての視点において異なり、“絶対真理”としての善悪はない」

ということである。

 

前述との明らかな違いを理解いただけるだろうか。
 

 

筆者が本書で述べたいことの主意は、

つまり、以下の通りである。

 

 

私たち人間は、一見すると他の動物と一線を画して、

生きることの使命を持って選ばれて、

産まれてきたように感じてしまいがちだ。

 

あるいは、

産まれてきた理由や、生きることの意味を見つけようと努力する。

 

しかしこれは、

人間が手に入れた『言語』を発端として発明されてきた

ミーム』『想像力』『複雑な社会性』『神的なもの

 

これらによる錯覚である。

 

 

人間は、

宇宙から素粒子に至るまでのあらゆるものと同等に、

ただただ産まれ消えていくだけの存在だ。

 

しかし、

このことを受け入れまいとするのが、

人間の性(さが)でもある。

 

『想像力』によって文明を発展させたことと引き換えに、

生老病死の『苦悩』を背負った。

これを解消するために、他の動物よりも圧倒的な想像力によって

『神的なもの』や『魂』を発明し、

文化や宗教などと融合して『希望』と『捉われ』の綱引きの間で、

バランスを保ちながら生きて行くことを強いられている。

 

 

「はじめに」にも述べたように、

本書は個々の信心を否定するものではない。

 

 

あくまで筆者によって世界を分析した結果を記したものである。

 

その上で、

神的なものの活用は人々が苦悩を解消して生きるために、

とても便利で有効な手段であると認識している。

 

一方で、そのバランスを失うと、

神の視点による『善』に捉われて、

本来の「私」の自由な心を奪われる原因にもなり得る。

 

 

私たち人間は、

人間社会の視点においては常に非情で不平等であり、

それ故に苦悩と共に生きることを強いられる。

 

その中で、自分自身の考えや意思で、

生きている意味や理由に希望を見出すことが出来れば、

その人は幸せな生き方ができるだろう。

 

しかし、それが見出せない境遇にいる人は、

眼前に現れる神やスピリチュアルなものが示す教えが

希望の光となり得る。

 

そして、

『神』や『魂の転生の仕組み』『教義』による、

生きることへの『意味づけ』によって、

 

非情で不平等な社会や人生の『理由』を説明し、

それによって、不安が軽減される。

 

人間にとって、

理解できないことは最大の不安であるから、

これを解消してくれるものを無意識的に欲するのだ。

 

 

この世界は全てが複雑に関連しているので、

誰かが善行を行ったとしても、

必ずしも社会全体が平和になるとは限らない。

 

誰かの善行の影響によって、

因果が連なり、

どこかで何かの悪を生むかもしれない。

 

また一方で、

誰かの悪行が、

誰かの善や平和を生み出すかもしれない。

 

ある人が善い行いをしても、

世界のどこかで必ず殺人者は生まれるし、

必ず戦争や虐殺は起こる。

 

戦争や虐殺の場面に出くわすことによって、

その誰かは善の心に目覚めるかもしれない。

 

人間だけが特別ではなく、

全ては波の泡粒のように干渉しあいながら、

 

一粒一粒が

生まれ、

消えていく。

 

そして、

ただただ、それが繰り返される。

 

これが世界の現実である。

 

 

そもそも、

私たち人間の思考や行動に選択肢などなく、

その人が属する社会の中で、

その人が起こす行動が善であるか、悪であるか、

全ての結果は、

はじめから決まっているのかもしれない。

 


未来が選択できない決まりきったものだとしても、

生きることを決意して生きる

 

これを選択しようとしてもがくのが、

人間らしさではないか。

 

これこそが美しいことだと、筆者は思う。

 

ただ漫然と生きるのも、

生きることを決意して、もがきながら生きるのも、

 

経過と結果は同じかもしれない。

 

であるならば、筆者は後者を選択しよう。

 

たとえ『意味がない』ことだとしても、

それが人間らしい、と

 

『私が』思うからだ。

 

 


最後に、私の人生で出会った言葉の中から、

一つを紹介して本書を終わりとしたい。

 

友よ私に2つの力を与えてください
変えられないものごとを受け入れる勇気と
変えられるものごとを見つけられる賢さを

 

【神・魂・人間】 /了

この項では、これまで述べてきたことから、

要点を以下の通りまとめる。
 

 

人間と動物には区別がないが、

人間は複雑な言語を手に入れたことによって

文化を発展させ、

 

遺伝子に加えて、『ミーム』の伝達が

種の生存維持の目的に組み込まれた。

 

 

 

 

思考と想像力の発達は、

未来を予測する力を得て

文化の発展に寄与したが、

同時に、『生老病死』の苦悩を持つこととなった。

 

これを解消するために、

再び想像力の力を借りて、

神的なものを発明してきた。

 

神的なものは、苦悩の解消とともに、

社会の規律維持にも活用され、

 

その社会の善悪の判断基準として

強い信奉とともに確立されてきた。

 

神的なものの発明と並行して、

人間にとって最大の苦しみである『死』は、

魂の存在によって、転生や昇華に希望を見出した。

 

 

しかし、私たちを含む全てのものは、

「固有の魂」を持つことはない。

 

 

時間的・空間的な視点によって、

魂を分ける境界はない。

 

であるからして、

私たちが感じる「固有の魂」は、

「個別の神」の存在も含めて、

 

私たち人間が得意とする想像力によって

作り出されたものであると考えるほうが自然である。

 

 

魂が切り分けられないことと同様に、

観測されている『今』が複数に分裂することもできない。

 

 

『今』の刹那の直前は、

やはり一つに定まっており、

その一瞬の直前も、また同様である。

 

過去に分岐がなかったように、

未来にもおそらくは分岐がない。

 

 


私たち人間は社会性の動物であり、

したがって、社会の善悪基準の中で

個の善悪と常にすり合わせながら過ごしている。

 

集団内には当然ながら個の歪みがあり、

一定の領域の中を普通として、

領域外を異常と見るのが

人間の性(さが)である。

 

いわゆる異常が集団内にあることは、

動物として、

また社会性の生き物として見たときの

集団の生存維持の仕組みであるが、

 

集団内にいる個体は、

集団全体の維持のための仕組みであることを理解し得ない。

 

したがって、この違いがあることの意味付け・理由付けに、

無条件に正しいとされる神的なものの存在や教えが、

すんなりと嵌まりやすい。

 

 

これによって、私たちの人間社会は、

神的なものとの結びつきが容易かつ強固となる。

 

 

あらゆる視点から見れば、

真理としての善悪はない。

 

波の泡沫のように、

善が悪を、

悪が善を産み出し、

 

ただただ互いに関連しながら、

現れ消えていくだけなのである。
 

私たち人間は社会性の動物であり、

また、他の動物よりも言語と創造の力に長けているため、

複数の視点を持って思考し行動する生き物だ。

 

であるから、私たちは、

 

 個の視点

 他者の視点

 自身の属するコミュニティの中での、自分の視点と、他者の視点

 他のコミュニティの中での、ある人の視点と、また別の人の視点

 物語の中にしか実在しない人の視点

 人以外の動物の視点

 植物の視点

 モノの視点

 

などのあらゆる客観視を持って、物事を視ることができる。

 

『文化』『ミーム(meme)』の伝達が

社会の行動原理に組み込まれているので、

 

過去の歴史に思いをはせ、

未来を想像するという、

時間的に異なる視点を持つこともできるだろう。

 

 (ミームについてはこちらをご参考↓↓)

 

 

さらには、

地上の自分を宇宙から俯瞰で視たり、

宇宙の始まりを客観的に創造したり、

 

あるいは、

「神」の視点にも立つ場合もある。

 

 

それぞれの視点で「真理」を探求しようとしたとき、

全てにおいて合理的に整合する答えは果たしてあるだろうか

 

5ー3項でも述べた通り、善悪は立場によって異なり、

また、絶対的な俯瞰で視た場合に、

物事を善悪に二分することには、全く意味がない。

 

 

 

物事は表裏一体であり、

全てにおいて相関関係がある。

(物事や物質の相関については、こちらをご参考↓↓)

 

 

であるにもかかわらず、

 

私たち人間は、同時に複数の視点で視る、

あるいは、完全に平等に物事を視ることは

決してできない生き物だ。

 

世界の中心は、どうしても自分自身であり、

自身に近い社会の方が、外の社会よりも僅かであろうとも重要視される。

 

遠い国の何千人の死よりも、

やはり近くにいる伴侶との死別の方が

悲しみは絶大だ。

 

 

ここでの言及は、

決して私たちの思考のあり方を批判しているわけではない。

 

この感覚は、社会性を持つ私たちにとって至極当然のことであるし、

自身と自身の近隣の社会を仲間と感じて、

自身が属する社会の存続を守ろうとすることが、

その社会の維持と発展に欠かせないのだ。

 

これが

私たち人間の性(さが)であり

人間社会の性質であると言える。

 

 

しかし、その社会は残念ながら完璧ではない。

 

複数の個が共存しあう集団であるため、

ある個の善悪と、

他の個の善悪と、

集団全体としての善悪とに

必ず齟齬(食い違い)が発生する。

 

ここに、神的なモノや言葉が絡もうものなら、

さらに悲劇的だ。

 

無条件に正しいとされる神的なモノの教えは、

実際には、その社会が守りたい、

または守らせたい道義的・道徳的モラルや、

ルール、教義が組み込まれているわけであるが、

 

これらは必ず、個の善悪的思想と合致しない領域がある

 

このときに、

その人が多角的視点で、

いろいろな位置から視ることが出来れば、

ナニモノにも陥ることはないが、

 

神的なモノや特別な他者、特定の社会通念のみの視点しか

信じられない思考のままでは、

 

そこには苦悩の道が待っているだろう。

 

次回、6章より、ようやく結言の章です