ここで少し視点を変えてみよう。

 

私たち人間は他の動物と異なり、物語を創作し共有をするという特徴がある。

音楽、神話、寓話に始まり、

現代ではファンタジー、サスペンス、ドラマ、SFなど多くのジャンルが、

絵本、小説、漫画、ドラマに映画、実写、アニメーション、CGなど

様々なコンテンツによって制作されている。

 

私たちがこれに触れるとき、その中の登場人物に共感し、

あるいは反感を抱き、喜怒哀楽の感情に揺さぶられる。

 

この時、多くの人が登場人物に魂を感じているのではないだろうか。

 

これはいずれのコンテンツにもよらないだろう。

それでは、そのフィクションの中の人物の魂は誰のものなのだろうか。

 

紙面に印刷された文字を読んだ人の頭の中には、

そこに実際には存在しない景色とともに物語の中の人物を鮮明に描き、

彼らの中に魂を見る。

 

物語の作者は、彼の創作の中で、

自身の頭の中に描いていたものを口伝で伝え、

あるいは文章として記し、

そこに現れる人物に魂を吹き込んだだろう。

 

では、作者が頭の中に描いていた人物の魂と、

読者が感じた人物の魂は完全に一致するだろうか。

 

全ての読者が、一人の作者によって放たれた人物の魂を

同じように共有していると言えるだろうか。

 

あのナウシカの魂は誰のものだろうか。

作者そのものの魂か、

作者の描いた魂か、

原画製作者の魂だろうか、

はたまた声優が吹き込んだのだろうか。

 

いずれも異なるであろうし、

また、関わった人、見た人の数だけの魂があると言える。

 

しかし、関わった人の魂とは別の、

ナウシカその人の魂ではありそうだ。
 

 

前項までで述べたように、魂は実体とセットである必要はない。

したがって、実体のないフィクションの創作物における人物に、

魂が宿ると感じることは不思議ではない。

 

このため、作者と読者、観客によって無数の魂が創造される。

 

ただし、彼(彼女)は実在しないので、

魂が宿ったその人物からの反応による何らかの修正は行われない。

 

つまり、一方的な魂の創造であり、

フィクションの中の人物自身による収束はでき得ないのである。

 


それでは、改めて私たち人間の魂について考えてみる。

 

私たちは他人の魂を知覚することができるだろうか。

 

他人が「私には魂がある。そのように感じる。」と言い、

全ての人が「魂があると感じている。」と伝えたところで、

実際に私自身が、他人には魂があるということを証明することはできない。

 

しかし、多くの人は物語の中の人物に魂を見るのと同じように、

対峙する他人に対しても、彼(彼女)の中の魂を見て感じている。

 

そして、私が感じる他人の魂は、

他人である彼(彼女)自身が感じている魂とはおそらく異なり、

また別の人から見たときの他人の魂もまた、

私が感じる魂とは異なるだろう。

 

つまり魂とは、

見る者それぞれによって創造され、

無数の異なる魂が存在していることになる。

 

では、自分自身の魂も他人の魂と同じように捉えているだろうか。

 

確かに、自身の魂も客観的な視点によって創造されていると言える。

しかし、他人の場合とは異なる点として、

そこには自らの知覚・感覚によるフィードバックがある。

 

ふとした説明不可能な時に胸にこみあげる感覚、

ふいに流れる涙、

めまいを覚えるような衝撃、

目に映る景色の彩度など、

魂・心の動きとともに身体における反応を脳で知覚し、

五感で感じ、

これらを自身の魂のアイデンティティと意識的・無意識的につなぐ作業が行われる。

 

論理的思考の外から受ける反応と身体的な感覚の同一化により、

肉体と魂(意識)の結びつきを強く感じるようになる。

 

つまり、これこそが固有の魂の存在を強く信じるようになる理由ではないか。

 

私たち人間は社会で生きる上で、

感覚を共有することに長けていると同時に、

錯覚的に共有する性質を持っている。

 

自分が感じていることは多くの人にとっても共通であり、

そして、それが真実だと錯覚しやすい。

 

ここに、区別することができない魂を区別してしまうという

人間の性質が働いているように思える。

 

 

次回より、人間の社会性について見つめます