人間の社会形成は、もともとの動物的な集団形成と遺伝に加えて、

知能の発展と言語の開発によって巨大かつ複雑に形成され、

一見すると動物のそれとは様相が大きく異なって見える。

 

では、人間の社会は動物のそれとはどのような違いがあり、

それは私たちの思考や認識にどういった影響を与えているのだろうか。

 

 

例えば、動物界では身体的欠陥がある場合、生存確率は限りなく低くなる。

サバンナの鹿の集団の個体が足に怪我を負って歩けなくなった場合、

これは致命的だ。

そしてハンデを負った鹿を、集団は彼ら全体の生存のために見捨てるしかない。

 

しかし、人間の社会では、彼ら(彼女ら)を助けることが、

集団の(例えば天敵からの襲撃に対して)致命的とはならない。

自身を守る建物があり、治療する医者がいて、

あるいは足を失ったとしても代替の移動手段や義足がある。

 

見捨てる必要が発生しないのだ。

 

この時、私たちは社会の中の「仲間」であることを意識し、

仲間である人間の命は等しいものとして扱われる。

 

集団内の結束は強固となり、結束を害するものは排除されるようになる。

そして、言語を持つ人間は社会の中のルールを、

厳格に、厳密に、緻密に、設けるようになった。

 

私たち人間は、あくまで哺乳類の一種である。

したがって、集団内の個体は、身体的・精神的性質が多種多様である。

同種の蟻の中で、大きさが異なるものがそれぞれの役割で働くように、

同種のキリンの首の長さに違いがあるように、だ。

 

私たち人間の中にもそうした個体差が当然あることは誰もが認識している。

それは、知能、判断、五感、体性感覚なども含まれる。

この中で、厳格に設けられた社会のルールや常識にそぐわない個体も現れる。

この個体は社会のその他の個体または全体に影響をもたらす。

 

 

例えば、通常よりも想像力・分析力に優れ、

現行の一般常識からかけ離れたことを説く人(いわゆる天才)は、

存命中または死後の違いはあるかもしれないが、

社会が持つ知識や技術を飛躍的に発展させることがある。

 

または、一般的な倫理観の欠落や仲間の痛みを感じない人は、

同種である他の人を攻撃したり、ルールを破ったりする。

 

あるいは、近年のLGBTなどで称される人たちも、

社会全体から見た時のイレギュラー・少数派個体として見ることができるだろう。

 

時代や環境によって、天才も攻撃者もLGBTらも、

社会のルールや常識や技術を変容させ、

それによって社会全体の様相が変わっていく。

 

動物界の集団において、

個体の性格分布による集団の中身やサイズが変容するように、

人間の社会においてもその集団内の個体にどのようなものが現れるかによって、

その社会の様相が変わるのだ。

 

 


人間は、技術と言語と社会的集団の形成によって地球上に君臨する種族となり、

個体が生き延びるための選択・判断から、死のリスクが大きく減少した。

食べ物を探し、寝床を決めるときに死の危険はとても遠くなったのだ。

 

そして、人間は生きるための判断指標を、

「生死」から「善悪」に置き換えてきた。

 

社会の中で生き延びるためには、

「社会の中の善」に従い、

「社会の中の悪」を排除することが、

ひいては個人の生存につながるのだ。

 

善はルールや常識、倫理や宗教的教義によって形成され引き継がれていく。

これらの説得力を高めるため、哲学や神話・寓話が作られ、

そこに現れる神やアニミズム的なものに魂が吹き込まれてきた。

多くの人にとって、これは受け入れやすく広く浸透した。

 

こうして、社会のルールと倫理と神が強く結合し、

善悪に従うことが社会の中での人間の道しるべとなったのだ。

 

この善悪の道しるべは、それぞれの社会の文化の隅々に深く染み渡っており、

その社会で生まれ育った者にとっては真理と言っても過言ではない。

 

しかし、ひとたび特定の社会から外に目を向けると、

異なる社会では、そこで形成された善悪があり、

これらは時によって合致しない場合がある。

 

例えば、イスラム圏のある地域では、女性は仕事や勉学など表には出ずに

家にいることが通常であるが、

欧米をはじめとした近代国家では男女同権が求められる。

 

アフリカなどの地域では、盗みを犯したものの両腕は切断される罰を受けるが、

違う地域ではその判断を下した裁判官は糾弾されるだろう。

 

日本を含むいくつかの国や地域では、イルカやクジラを食料とする文化があるが、

欧米などからは野蛮人と批判される。

 

かつては彼ら(彼女ら)の多くも大量にクジラを狩っていたのにだ。

 

中国や韓国で犬を食すと聞くと、

私たち日本人を含む多くの犬食を持たない文化圏の人間は嫌悪を感じる。

 

アメリカでは個人が銃を持つことは、身を守るために必要だと思う人が多いが、

日本ではそうはならないだろう。

 

死刑制度のある国は、死刑制度がない国から非難される。

たとえその国では現行犯で射殺するとしてもだ。

 

このように、善悪は属する社会によって、その判断や程度が異なり、

また時に矛盾をはらむこともある。

こうした、俯瞰で見た場合のバラバラの善悪を、社会ごとにそれぞれが持ち、

それを指標として生活する集団が人間の社会の特徴である。
 

 

次回より、「今」や「善悪」についてもう少し深堀りします