これはあとがきです。

ご興味のある方は、こちらもご拝読ください。

 

 

 

私たちは、他人とのコミュニケーションで、よく悩みます。
理由は、その人や、ケースによってさまざまです。

でも、結局は、個々の考えや、思考の仕方が違うから、

そして、他人を、理解したい、理解しなきゃいけないという
遺伝子に刻み込まれたかのような性質があるから、


相手に理解してもらえない
相手のことが理解できない

これが大きくなると、私たちは悩みます。


「信じる」というときに、
他者への見返りを望んでしまうことも同じですね。

 

 

 


私たちは、他人のことは、絶対に(完全には)理解できません。
だって、自分じゃないから。

だけど、本来は、
仲間でいることに、
理解する必要は、ありません。

「理解はできない」
 けど
「許容する」 (注)末尾

これを全ての人ができると、
社会は円滑に、平和になるんでしょう。



とは言っても、これは全くの理想論でしかありません。
 

 

食文化の違いは、「理解できない」ことで

何故か、攻撃的になる人が多い感じがします。

 

クジラ食や犬食や昆虫食の場合はどうでしょう。
「理解はできない」人でも、「許容」はしてもいいと思います。


ヴィーガンから見た通常食主義者、または、その逆は、
「理解」しなくてもいいけど、「許容」すればいい話であって、
「強要」すべきことではありませんよね。


その他にも例えば、

死刑制度がない国が、死刑制度がある国に対して、
「理解できない」なら制度の廃止を「強要」すべきでしょうか。
それとも、文化の違いを「許容」すべきでしょうか。


一家に一丁 銃がある文化を
「理解」はあんまりできませんが、

治安や情勢や国民文化・気質を考慮すると、「許容」はできそう。

もちろん、持つ持たないの判断とは別の話ですが。
 

 

集団の中に、虐待や殺人や小児性愛を好む人がいて、
「理解はできない」けど「許容します」なんて、
そんなものは個人も社会も、絶対に許容し得ません。

 

だけど、集団の中には、平均の範囲の中の人と、

いわゆるイレギュラーな個体は、必ず現れます。

 

 

そんな、イレギュラーと出会ったとき、

私たちはどうすればいいんでしょうか。

隔離?弾圧?排除?

 

 

私たちは、他者を「理解」することはもちろん、

「許容」することも、完全にはできないのかもしれません。

 

それでも私たちは、私たちが関与できる社会の範囲で、

「許容できる」領域を広げれば、

その人が関わる社会は、僅かでも平和に、

心は、僅かでも平穏になりそうな気がします。


 

(注)

 「許容」よりも、「寛容」の方が

  国語辞書的には、より意味合いとして正確っぽいです。

  ただ、私が初めに出会った言葉を大切にして、

 「許容」を使うこととしました。