日本人の英語でもっとも誤解されている語はyouであるということは、長年にわたって多くの英語のネイティブスピーカーが指摘しています。本来は、こういった問題を文法事項として取り上げて、その解決を図ることは、和製の英文法書にしかできないことではないかと思います。

 それは日本人の英語講師などにも言えることです。英語のネイティブにはできない日本語と英語のことばの仕組みの違いを明らかにして学習者に提示する。これこそ腕の見せ所でしょう。

 まず、ネイティブが指摘するyouに対する誤解についての記述を紹介します。

 

私は何年も日本で英語を教えてきて、日本人の英語学習者に、youを一般の人々の意味で使わせることが非常に難しいことを痛感しています。…現実には、人々一般を表すのに、weよりもyouのほうがずっとよくつかわれているのです。しかも注意すべきは、そのように使われたyouは I も含む概念だということなのです。I の反対語としてのyouではないのです。

           T.D.ミントン『ここがおかしい日本人の英文法』1999

 

いずれにしても、「一般論のyou」は、会話・文章を問わず、頻度のきわめて高い、ごくふつうの言い方なので、「二人称のyou」との区別も、英語の基礎として学ぶべきことである。が、なぜか、私が教えている大学生の多くは、区別するどころか、「一般論のyou」の存在すら知らないようだ。 

           マーク・ピーターセン『ニホン語、話せますか』2004

 

 同様な指摘は昔から多くあります。初版1967年のW.A.グロータース『誤訳ー翻訳文化論』で、翻訳家が一般論の人をさすyouを「君」という2人称に誤訳してる例を挙げています。

 日本人が誤解しているという指摘で共通しているのは、文法書で総称人称と呼ばれる「一般の人」を指すyouが使えていないと言う点です。その裏返しとして、youを「あなた」「あなたたち」を指す語であると思い込んでいるということです。

 

「駅へはどう行けばいいですか?」という質問を例に考えてみましょう。私だろうが、きみだろうが、他の誰かが主語だろうが、駅へ行く経路には関係ありません。だから、日本語では、人を限定するような不要な主語を立てません。

 ところが英語では、Could you tell me how to get to the staiton ?のように、youという主語を立てて聞くことになります。情報としては不要なはずの主語を立てなくてはならないことは、現代英語の文法的仕組みの特徴を反映しています。

 

 そもそも言語にとって、主語は不可欠なものではありません。古代サンスクリット語には主語はなかったと言われています。松本克己は、主語という概念を前提とした、西欧の言語学の在り方を改めることから始める必要があると主張しています。

 機能語youの文法的な働きを明らかにするために、まず、行為者を表す文法的仕組みから科学していきましょう。

 

 実際に2人のあいだで交わされる会話で考えてみます。

 一人の人が「先に食べなさい」と云えば、話し手、聞き手のどちらが先に食べるという行為をすることを意図しているのでしょうか。この会話が交わされている場にいなくても、われわれ日本語話者は話し手が聞き手に先に食べるように促していると分かります。

 また「先に食べちゃうよ」と言えば、話し手が先に食べることを言っていると分かります。

 いずれも「わたし」「あなた」などの独立した人称詞は使っていませんが、行為者は誰かが分かります。それはなぜでしょうか?

 

 言葉で行為者を表す仕組みには、英語のように独立した主語を立てる以外に、語尾の屈折によって示すという方法があります。上の例では「~なさい」「~ちゃうよ」という動詞語尾によって、だれが食べる行為をするかわかる仕組みになっているのです。

 よく日本語は主語がなく曖昧だという指摘がありますが、言語学的な観点から言うと多くの場合的外れです。行為者を示すときに、独立した主語で示すか、屈折によって示すかは、言語の仕組みの違いであって、国民性などの社会科学的な観点はまた別の問題です。

 外国語を学ぶときに文法説明が有用なのは、たとえ社会科学的な問題があったとしても、それを言語学的な説明で埋めるからです。埋められないとすれば、その文法説明が稚拙だということです。

 

 例えばラテン語の動詞amoは「わたしは愛する」という意味です。語尾の-oが「わたしは」という一人称単数を示しています。ラテン語は動詞の屈折で行為者が分かる仕組みの言語なので、独立した主語は必要ありません。

 これを英語に訳すと I loveになります。動詞loveの現在形は-Sがあるかないかだけなので、主語の人称を示すことができません。過去形や法助動詞はそもそも人称に関わらず全く変化しません。現代英語は屈折を失った言語なので、動詞形で主語を示せないのです。その代わりに発達した機能語である人称代名詞などによって、主語を示すという文法手段を使うというわけです。

 

 言語によって行為者を表す仕組みは違います。その仕組みの違いにより、独立した人称代名詞の文法的役割も異なるのです。つまり日本語の「きみ」と英語のyouでは、文法的働きが根本的に違うということです。

 では、人称代名詞とはいかなるものかを掘り下げていきましょう。

 

 日本語の「きみ」と「ぼく」はもともとは3人称です。漢字で書くと「君」と「僕」です。つまり「君主」と「下僕」という君臣の関係を表したものです。もともとは話し手や聞き手を表したものではなかったのです。

 まだ言語が身の回りの人としか交わされなかった昔を想像してみましょう。その場にいる話し手と聞き手は固有名で呼ぶなど他の手段で表すことができます。また、語尾の屈折で行為者が分かれば独立した人称代名詞は必要ありません。

 だから、「君」と「僕」というような、3人称を表す言葉が先にできて、あとで抽象的な1,2人称に転用されたのです。

 「あなた」にしても同じです。もともとは「こなた」「そなた」「あなた」「どなた」という遠近感にもとづいた指示語、いわゆる「こそあど言葉」から転用されたものです。

 

 古代サンスクリット語に主語という概念がなかったのは、優先度が高くなかったからでしょう。1,2人称という抽象的で一般的に広く用いられる概念が重宝するのは、言語が広い社会で通用するようになったときです。それは人類がつくる社会が大きくなったときと軌を一にするはずです。

 言葉は、社会性を帯びるにしたがって、個別具体的な内容を持ったものから一般的に広く汎用できる意味へと変容していきます。これを言語学ではgeneralization(一般化)と言います。

 もとは君臣関係という限定的な間柄で使われていた言葉が、話し手、聞き手という広く一般的に使われる意味に変化するのはその典型例です。

 

 英語は屈折という文法手段を失った代わりに、機能語という文法手段を多用します。機能語とは、もともと意味内容を持った語(内容語)が文法機能を担う役割に特化した語です。内容語が機能語へ転用されることを文法化grammaticalizationと言い、その過程で意味の一般化が起こります。

 現代英語は、古英語期には豊富にあった内容語の屈折を失い、1500年ごろに成立したとされています。英語の人称代名詞は、失った動詞の屈折に替わり、行為者を示す機能語として登場してきたと言えます。ただし、それは内容を表すという機能です。

 

 現代英語の成立期に起こったことは、文法的仕組み自体の大きな転換です。それは、内容語の文法性を示す手段として、屈折が廃れ、語の配列と機能語に替わったことです。

 

 例えば、ラテン語amoとの比較で分かるように、屈折を失った内容語のloveには品詞はありません。in loveなら名詞、will loveなら動詞というように、inやwillという機能語が先行することで、はじめてloveの文法的役割が示されます。

 英語の人称代名詞も機能語です。内容語に先行して、後続する内容語の文法的性質を示します。内容語のloveは、my loveなら名詞、I loveなら動詞になります。機能語myが先行するか I が先行するかで内容語loveの文法的性質を示すことができるのです。同様に、機能語youは、内容語loveに先行しYou loveの型をつくることで、loveが動詞であることを示します。

 

  現代英語の動詞は、屈折という文法手段を失ったため、主語どころか品詞さえも決定できません。品詞という文法性を示すのは、機能語だけではなく、語順にもよります。You loveという語順ならyouは主語、love youの語順ならyouは目的語になります。

 つまり、You loveと語を配列することで、youが主語であり、loveが動詞であることが決まるというのが現代英語の文法的仕組みの根本なのです。

 

 人称代名詞の機能において、重要なことは主語の内容を表示するとではありません。それ以上に重要なのは、語を配列することによって、単語の品詞を決めるという働きを担うということです。

 つまり、現代英語の人称代名詞(主格)は、本質的に形式的な主語であるということです。

 

 ピーターセンは次のように述べています。「“you”は誰でもないのだ。強いて言えば、漠然とした「読者」を一般的に指している言葉なのだが、英語の構成上必要となる代名詞にすぎない。」

 

 英語の構成上必要になる代名詞を、もう少し拡張すると、もともとは指示語が文法化して機能語になった語です。例えば、itやthatやthereなどです。

 

1) It was clear that something bad had already happened.

 (何か良くないことが起きているのは明らかだった)

 

2) There is a good restaurant near here.

 (この近くには良いレストランがある)

 

 it、that、thereはもともとは指示語です。しかし、ここに示した用例にある語はどれも具体的なものを指してはいません。

 用例1にあるit、thatはこの文を構成するために置かれています。このときitは形式上の主語などと呼ばれることがあります。このようなitは意味内容を失っています。だから和訳にも現れません。

 用例2にある文頭のthereは、後の語の存在を知らせるために置かれています。形式的な主語と呼ばれることもあります。もとは場所を指す言葉ですが、ここではnear hereが場所を指しているで、there自体は場所を指すという意味内容を失っています。だから訳出されることはありません。

 

 では、先にあげた駅への道を尋ねる表現はどうでしょう。下に改めて用例3として示します。

 

3) Could you tell me how to get to the staiton ?

 (駅へはどのようにいけばいいか教えてもらえますか)

 

  駅への道を尋ねるとき、ふつうは一般的な行き方を聞きたいものです。だれが行くかは関係ないので、意味内容を表す主語は要らないのです。意味を限定するような主語は、情報としては余計です。「あなたはどうやって駅へ行きますか」という訳は日本語として不自然ですが、事情は英語でも同じです。

 「あなた」に限定して、その人独特の駅へのたどり着き方を教えてもらっても困るわけです。だから日本語では主語を置かないという言語学的に合理的な手段をとります。一方、英語はその仕組み上、you tellというように語を配列しなけらば、語の文法性が決定しません。だから、意味内容は無くても形式上主語をおくのです。

 

 誰にでもあてはまる一般的なことを言うときの主語は、weでもtheyでもyouでも構いません。

 we、theyは内容語として意味的に自分から近い、遠いという感覚があります。自分と他者を隔てるような表現にもなりえます。それに対してyouは中立的な語です。

 T.D.ミントンが言っているように「人々一般を表すのに、weよりもyouのほうがずっとよくつかわれている」「youは I も含む概念」「I の反対語としてのyouではない」は機能語として性質を示しています。ピーターセンの言う「“you”は誰でもないのだ」も同じことです。

 つまりyouは、もともと相手を指す内容語ですが、文を構成するための形式的な主語としておかれるという文法的役割に特化し意味内容を失ったのです。

 

 用例1.2,3に使われているit、there、youはいずれも機能語です。機能語は文構成上形式的に置かれていますが、いずれも意味内容を持ちません。それは内容語が文法化して機能語へ特化するときに見られる意味の漂白化とよばれる現象です。

 いずれの用例でも、これら機能語が日本語に訳出されないのは、意味内容を失ったからです。

 

 itは「それ」と具体的に指す内容がある用法と、機能語として意味を失った場合があります。thereも「そこに」と具体的に指す内容がある用法と、機能語として意味を失った場合の用法があります。同様に、youにも「あなた」「あなたがた」という具体的に指す内容がある場合と、意味内容を失った場合があるというわけです。

 

 機能語の意味の消失という現象は言語一般に見られます。日本語の「ぼくはきみが好き」では、「ぼく、きみ、好き」という内容語だけでほとんど意図は伝わります。「は」や「が」は、「ばく」、「きみ」という内容語に、主語、目的語という文法性を与えることに特化した機能語なので、意味内容を失っています。

 日本語では、語尾の屈折で行為者が分かるときや、一般のだれにでも当てはまることを述べるときは、独立した主語を置きません。

 

 一般の人を指すと説明されるyouは、誰がやるかは関係ないという文脈です。つまり日本語なら主語を置かない方が自然な時に使う語として適しています。

 用例で確認しましょう。

 

4)Caillou:  If you run at the pool, you could slip and fall over.

  Lifeguard:  Exactly. Here. Now you can be a lifeguard too.

                                             『Caillou and the Water Race』

     (プールで走ったら、すべって転んでしまうこともあるんでしょ。)

   (その通り。これで、今すぐ、君も監視員が務まるね。)

 

 この用例では、Caillouの方は、だれもが守るべきプールの規則を言っています。文脈上、特定の主語を明示するとおかしいので、意味を失った形式的な主語としてyouを使っています。

 もしこれを「あなた」という意味で使えばどうでしょうか?Caillouは監視員に対して話しかけてyouを使っています。「あなたが走ったら…」なんて言うと監視員が走るという意味になります。この文脈でyouを聞き手を指すと解釈すると、おかしいことは明らかでしょう。

 実は、この場面で交わされた会話の前に、プールサイドを走る子供たちがいたのです。だから、Caillouはその子たちのことを頭に描きながら、表現としては意味内容の無いyouを主語として選択し、一般的な内容として話しかけたのです。

 これに対して、Lifeguard(監視員)の方はCaillouを指して「君」という意味でyouを使っています。

 

5)Your cells need enery to help you grow, move, talk, think, and play.

                                                                         『The Magic School Bus』

( 細胞には、成長し、移動し、話し、考え、遊ぶのを助けるためにエネルギーが必要

   なのよ)

 

 この用例は、先生が生徒たちに、人体の仕組みを教えている場面です。人であればだれでも、話したり、遊んだりするために細胞にはエネルギーが必要です。一般論のyouの典型です。

 試しにこの英文をChatCPTに翻訳させると、冒頭のyour callsを「あなたの細胞は」と訳し、後のyouは訳出しませんでした。生徒が複数というのは文脈が無いのでいいとしても、「あなたの細胞は」と訳出すると、「他の人の細胞は違うの?」といいたくなる気がします。

 だから無理に訳出すると、英語のネィテブスピーカーから誤訳と判断されるのでしょう。逆に、発話するときには「人ってよく~するよね」という感覚でyouを使えばいいということです。意味内容を失った機能語youに意味を与える必要はないのです。

 

6)You're going to fold it into two. You can make this bigger or smaller. 

      We are trying to get this bag. And you fold it into two equal parts.

                      『Superbook Love Special』

  (これを2つに折ります。大きいのと小さいのを作りますよ。この入れ物を作る

   のですよ。それからこれを2つに折って同じものを作ります)

 

 この用例は、贈り物の入れ物を手作りする方法を、実演しながら説明しているところです。実際に、工作をしているのは説明している人ですが、youを使ったり、weを使ったりしています。

 作り方の説明なので誰が作っても同じものができます。主語は余計な情報ですから、日本語では主語を立てません。誰がやってもかまわない場合、英語でも主語は余計な情報であることには変わりありません。ところが文法の仕組み上、主語を置かざるを得ないので、意味内容の無い機能語youやweを使っているのです。

 

7)How do you spell it, Mr. Webster?

  (ウェブスターさん、これって、どういう綴りだっけ?)

 

 英語はだれが綴ろうが、一般的に決まっているので、ふつう、主語は誰でも関係ありません。だから、文法化が最もすすんで意味を失ったyouを使います。このとき、Mr. Websterというのは単なる呼びかけになっています。このyouはウェブスターさんと特定しているわけではないということです。

 

 ところが、これは文脈次第なのです。もし、これが米語辞書を編集したNoah Websterなら、事情が変わるかもしれません。今日、英国式のtheatreと米語式のtheaterなどに見られる綴りの違いは、ウェブスターが改革したものです。

 ウェブスターは、普及した単語ではなくても自分流の綴りを通したと言われています。今の英語と米語の綴りの違いもウェブスターによるところが大きいのです。また、米国で開催されるspelling beeとよばれる綴りを正確にできるかを競う大会で、参照する辞書がWebsterであることもその事情が関係しています。

 

 英国から独立して間がない時代に、米語の地位向上を目指して信念をもってつづり字改革を率先して実践したウェブスターなら、youは「あなたなら」どうつづりますか?という意味にもなりえます。そのような場合、文末のNoah Websterはyouのことを指していることになります。

 つまり、youの意味は、他の機能語と同じく、文脈によって変わるのです。

 

 言語はもともと具体的で限定的な内容を指します。それが社会一般に広く使われるようになると、その場にいなくても正しく伝わるように文法機能が必要になります。文法は社会の広がりとともに発達していきます。

 そのとき人類は、新たな語を0からつくるのではなく、内容語を屈折させたり、内容語を機能語に転用したりしてきたのです。

 youを二人称という動詞の語尾で表した概念と関連付けるのは、内容語として翻訳するときの方便に過ぎません。意味内容とは別の英語本来の文法機能の説明にはなっていないのです。

 

 日本人がyouを理解しなというのは言語の仕組みの違いも関係あるでしょう。しかし、日本語と英語の根本的な文法的仕組みの違いには全く触れないで、youを人称代名詞と呼び「内容語」としての意味内容に過ぎない「きみ」「きみたち」が基本と教えるのは、そもそも文法説明と呼ぶに値するのか疑問に感じます。

 むしろ、英語の使い方とは全く異なる日本語をタグ付けすることによる弊害の方がよほど問題です。英語の代名詞を本来仕組みが異なるラテン語から借用した人称と結びつけることで、学習者が機能語としてのyouを使えなくなることを助長しているともいえます。

  

 「人称」はラテン語の動詞の語尾の屈折で行為者を示すことに由来します。屈折言語は、動詞の屈折で行為者を示す仕組みなので、機能語が未発達です。だから人称という概念は、そもそも意味内容を失う機能語としての文法機能を全く想定していません。現行英文法はラテン語文法をベースに記述されているので、機能語という発想がまるでないのです。実際に「機能語」という用語を積極的に使う学参は無いように思います。

 「人称」という概念を借用して、英語の代名詞に当てはめて説明するのは、1つには標準語の規範としての英文法がラテン語を理想的な言語としていることです。しかし、それだけが理由ではありません。

 西欧の多くの主要国では古典として、公教育でラテン語文法を習います。その上、イタリア、フランス、スペインなどの諸国は俗ラテン語と言われる英語とは別系統のラテン系の言語です。だから、「人称」になじみがあり、よく理解しているのです。

 

 ところが、多くの日本人学習者は、人称が本来動詞の屈折に基づく概念であるという基本的なことすら知らないでしょう。基本すら実際には知らないのに、「総称人称」などと説明されても理解できないのは無理もありません。

 ラテン語の動詞が示す人称は、話し手と聞き手とその他の単数・複数です。この中にはそれらをすべて含む一般の人を示すものはありません。だから、実際の言語には無い「総称人称」という架空の概念の文法用語を創作したのです。

 

 「一般論のyou」は学校文法が想定しているより身近に使われているという英語のネイティブの指摘はよくあります。話者が自身の行為をyouを使って 表現するような場合もあります。

 

8)Little Bear "It's good to get dirty before you take a bath."

                                       ――Little Bear | Little Bear's Bath

   (汚れたってかまわないよね、お風呂に入る前なんだから)

 

 この用例は、屋外にいたLitte Bearが家のお風呂へ向かう途中でぬかるみで転んで泥んこになったときのセリフです。転んで泥んこになっているのも、これからお風呂に入るのも、話し手のLittle Bear本人です。ところがお風呂に入るという行為の主語を I ではyouと表現しています。これを「あなた」と訳せば明らかな語訳になります。

 

 もう少し詳しく文脈を言うと、このセリフはお風呂に入るように母親に言われて、家へ入る途中でLittle Bearが転んで泥んこになったという状況の発話です。それを見ていた母親に対して言った言葉なので、聞き手である母親は、転んで泥んこになっているのもこれからお風呂に入るのもLittle Bear本人であることを知っています。

 話し手と聞き手の間では、お風呂に入るのは誰かというのは言わなくても自明です。このような場合、日本語では主語を置かないのが自然です。

 言葉は言いたいことを相手に伝えるものです。どの言語であれ自明なことは言わなくてもいいのはかわりありません。現代英語は語順が文法機能を持つため、意味内容としては不要でも英文の構成上義務的に主語を置かなければいけないのです。そのときに形式的な語としてSの位置に代名詞を置くことになります。

 特に行為者を明示する必要が無い状況では、人称代名詞の中でもっとも意味の漂泊化が進んだyouがよく用いられるということです。

 

 もちろん従来の「一般論」という説明もできなくはありません。しかし、「一般論のyou」というのはずっと昔から文法書にも載っています。それにもかかわらず、日本人はyouを使えないと指摘され続けているという状況は変わっていません。実績として、「一般論」という説明では英語のネイティブの感覚は説明しきれていないということを示唆します。

 itは形式主語と呼ばれることがあるだから、同じ代名詞youが形式主語であっても不思議ではないはずです。学習者がyouという語を適切に使えるようにするという目的を考慮すると、「“you”は誰でもないのだ」というネイティブの文法感覚は、意味内容を失った形式主語であるという説明が適します。

 

 相手を指すという内容語としてはyouではなくても構わないのです。Hi,there.というようにもともと指示語のthereを転用することもあります。guysでも構わないし、everyoneでもいいのです。しかし、文の構成上形式的に置く語としてよく使われるのは機能語のyouなのです。

 

 文法化が進んで意味内容を失った機能語は、日本語で言うと「てにをは」などの助詞です。それらは内容語が主語であるとか目的語であるとかの文法性を示します。

 機能語はその言語の文法的特徴を表し、母国語話者はその扱いに長けています。その一方で外国語として学ぶ人が苦手とするところでもあります。学習文法で第一義的に扱うべきは機能語の文法的働きです。

  和製の英文法書にしかできないことは、日本語と英語の文法的仕組みの違いを明確に示すことです。そうして学習者が日本語を離れて、実際に使われる英語に向かう姿勢を作ることです。それこそが和製の文法書や日本人教師こそなしえることだと思います。

 

 100年以上前に、「現代英語は屈折を失った代わりに語の配列と機能語が文法性を示す言語である」と見抜いたHerry Sweetは次のように記述しています。

 

 We call such words as the and is form-words, because they are words in form only. When a form-word is entirely devoid of meaning we call it an empty word, as opposed to full words such as earth and round. It is easy to see that the and is in the earth is round belong to this class of form-words. Although is sometimes has the independent meaning ‘existence,’ as  in Troy is no more, it is easy to see that in the earth is round it has no meaning of its own, and serves only to show that the word which follow it―namely round―is a predicate, or, in other words, it serve to connect subject and predicate. We see then that is, though it has no independent meaning, has definite grammatical function―it is a grammatical form-word.

   Henrry Sweet『A new English grammar : logical and historical』1891

 

(私たちはtheやisなどの単語を形式語form-wordsと呼ぶ。なぜなら、それらは形式上の単語であり、意味を持つ単語ではないからだ。形式語が完全に意味を持たない場合、私たちはそれを空語empty wordと呼ぶ。earthやroundなどのような完全な単語とは対照的な語だ。theとisはthe earth is roundの文中でこの形式語のクラスに属していることは容易に理解できる。Troy is no moreという文脈などで、isは時として独立した「存在」という意味を持つことがあるが、the earth is roundでは独自の意味を持たず、主語と述語を結ぶ役割だけを果たす。つまり、isは独立した意味を持たないものの、明確な文法的な機能を持っていることがわかる。それは文法的な形式語である。)(しんじ訳)

 

 Troy is no more.のisはたまたま「存在」という意味を持つ

 The earth is round.のisは意味を失ったempty wordで文法的機能を持つ

 isの本質は主語と述語を結ぶ役割をもつ文法的な形式語

 

 この指摘はisと同じ機能語であるyouにも当てはまります。

 

 人称代名詞youは、内容語のときの名残りで文脈上たまたま「聞き手」を表す場合がある

 機能語youは文法化に伴い意味内容を失った語で、英文の構成上だれでもいいときに形式的に置かれる

 youの本質はSVを構成するためにSの位置に置かれる役割を持つ文法的な形式語

 

 採用するのに100年以上遅れはしましたが、youが使えないと指摘され続けた日本人が今後採用すべき文法説明は、これではないでしょうか。日本の学習文法の文法説明で重要なことはyouと「きみ」とは全く文法機能が異なる語であることを明確にすることです。それは、生きた用例に向き合い英語ネイティブの持つ文法感覚に近い語感を育てていくためのものになるでしょう。