昨年2022年の東大入試の第5問は、教育業界で話題になりました。それは、これまでinformalな表現として、学校文法では扱われてこなかった単数を指すtheyが設問の中で使われたからです。

 東大入試過去問2022年第5問(総合)に使われた記述を紹介します。

                         『0から始める東大英語』

 選択肢a)の意味は「著者は自身の体が好きではなかった」という意味ですから、theirはthe authorを受けています。the authorは単数ですから、theirは単数を指していることになります。

 以下の選択肢b)のtheirは「著者の家族と近所には」という文脈で使われているので、単数をさします。また、選択肢c)のtheyは「著者がelementary schoolにいるとき」という文脈で使われているので、やはり単数を指す代名詞として使われているといえます。

 この設問には「なお、以下の選択肢においてtheyおよびtheirは三人称単数を示し代名詞である」という注釈があります。それは、学校文法では、規範的規則「theyは単数を指して使わない」を守って、単数を示すtheyを扱わなかったからです。受験生に、theyを単数で使うことがあることを周知しているのです。おそらく、試験問題をみて初めて知った受験生もいたでしょう。

 

 英語の代名詞には、性別を区別しない3人称単数の人を指す代名詞がありません。heは男性、sheは女性、itは非人称です。そのため性別が明示できないときには、informalな表現としてtheyは単数を指す代名詞として使われてきました。

 主に次のような場合です。

 

1)性別に関係ない一般的な人を指す場合

  Anyone can do it if they try hard enough.――山田1984

   (だれでも、十分に努力すればできる。)

 

(2)性別が不明の場合  

  Who dropped their ticket? ――ibid.

  (チケットを落としたのは誰ですか?)

 

(3)どちらか一方の性に決まらない場合

 Either Mary or John should bring a schedule with them.――ibid.

  (メアリーかジョンのどちらかがスケジュールを持ってくればいい。)

 

 これらの用法は特殊なものというわけではありません。幼児を対象としたアニメ作品にも普通に使われています。

 

 Somebody sounds like they're having fun. ――Peppa Pig

   (誰かさんが楽しそうにしているね)

  

   A magician never gives away their secrets.

                               ――Ben and Holly's Little Kingdom

 (マジシャンは決して秘密を洩らさないものなんだ)

 

 Peppa Pigの用例は、「誰か分かっているけどあえて特定しない場合」ということになります。

 

 日本の教育では幼児でも知っているtheyという基本語の用法を教えてこなかったのです。和製の英文法書は標準英語を基準としているので、単数を指すtheyを載せていないものもあります。だから、大学受験生が知らないことを前提に入試問題がつくられているのです。

 

 Singular theyは、以前から辞書には載っています。LDCE1995には、次のような説明と用例があります。

 

 use to avoid saying ‘he’or‘she’after words like ‘anyone’,‘no one’, ‘everyone’etc.

 If anyone has any information related to the crime, will they please contact the police.

       『Longman Dictionary of Contemporary English』1995

「anyone, no one, everyoneのような語を受けてheやsheと表現することとを避けて使われる

もしこの犯罪にかかわる情報を持っている人は、どうか警察に連絡してください」

 

 日本の辞書にも以前から載っています。その記述を紹介します。

 

「heやsheの代用として, someone, everyone, a personなどの不定代名詞および性別不明の語を指す場合に用いる。くだけた表現に多く見られるが、時に⦅かたい書⦆にも用いられることがある

 A person becomes a writer because they are deficient. 人は欠陥があればこそ作家になるのだ。」

                      『ウィズダム英和辞典』2003

 

 他の英米の辞書の用例を紹介しておきます。

 

Everyone should do what they think is best.

                 ――Cambridge Dictionary (Online)

 

No one has to go if they donʼt want to.

              ――Merriam Webster Dictionary(Online)

 

An employee with a grievance can file a complaint if they need to.

                               ――ibid.

 

 東大の入試に見られるように、今になってこれまで学校文法が扱ってこなかった

Singular theyが注目されるようになったのは、近年、ジェンダー・ニュートラルが社会問題化してきたからです。

 単数扱いする人を指すtheyとしてのSingular they自体は昔からあった用法ですが、近年話題になったのはそれとは異なるNon-binary theyと呼ばれる新しい用法です。 その違いを辞書の説明と用例で確認しましょう。

 

【Singular they】

性別を問わないまたは分からない単数の人についてhe or sheの代わりに使われる

 If anyone arrives late, they'll have to wait outside.

(遅れてくる人は、外で待たなければいけない)

 

【Non-binary they】

ノンバイナリーの人(男性か女性かのどちらか一方だけをアイデンティティーとしない)がtheyと言われることを好んで使う

 Asher thought they were the only non-binary person at school.

(Asherは、自分が学校でただ一人のノン・バイナリーだと思っていた)

               ―Oxford Learners Dictionary (Online)

 

 小塚暁絵 小田恭子 川守田恭枝『ノンバイナリーの選択としての三人称単数形の

                           they について』2021

 

 non-binary theyは、自らtheyと呼ばれることを求める人が選択して使うもので、以前から使われていた性別が不明、不問の時に使うSingular theyとは異なります。non-binary theyは、近年の用法ですが、singular theyは、少なくとも14世紀ころから使われていることが分かっています。

 

 性別が決まらない単数の人を指すときの表現はいくつか候補がりますが、主に次の3つ方法があります。

(1)Everyone has his own opinion.

(2)Everyone has his or her own opinion.

(3)Everyone has their own opinion.

               ――石川2001

 

 この用例の意味は「みんながそれぞれの意見を持っている」です。Everyoneは規範では単数扱いですから動詞はhasです。しかし、意味は「みんな」なので、複数扱いしても違和感はないでしょう。

 実際に、ネイティブの中には、haveにする方が自然だという人もいます。だから、(3)のようにtheirで受けることはそれほど違和感がないのです。

 これに対して、男女を問わない単数の人を(1)hisで代表させるとは、性差別につながるという問題があります。また(2)は、語順が問題となる上に、冗長な表現に感じられます。日常的に使われる口語には受け入れにくいのです。

 

  (1)he型、(2)he or she型、(3)they型について、Singular theyに関する論文からその変遷を見ていきましょう。

 

「例えばOEDの“they”の項では,“Often used in reference to a singular noun made universal by everyone,anyone,no one,etc.,or applicable to one of either sex(=‘he or she’)”と説明されて,1526年の初出例が引用されている。また,“everybody”の項では,以下の例が1530年頃の初出例として挙げられている。                  

 Everye bodye was in theyr lodgynges.     

 さらに,“their”の項目を見ると,14世紀初頭のCursor Mundiの例が初出として挙げられている。」

         成田圭市『3人称・単数・通性の代名詞:背景と現状』2001

 

 18世紀ころから、性別がどちらかに決まらない場合、規範的規則では(1)hisを使うのが正しいとするようになります。

「18世紀になって,英文法の発達や英語の標準化の動きに伴い,英語の正用法論や規範主義が台頭し始め,その流れの中で,「単数のthey」が非難されるようになった。Bodine(1975)によれば,「男性中心」の思考に支配された文法家たちの打ち立てた規範が「単数のthey」を誤用として退けている。」(成田2001)

 

 この論文(成田2001)には、単数のtheyを誤用としたのはKirbyの1746年の文法書(A new English Grammar)とし、その後のLindley Murrayの文法書(English grammar 1795)が単数のtheyをheにすべきとしたことが記されています。

 

 また、以下の記述は、規範文法というものを、よく表しているので、引用しておきます。

「慣用とかけ離れた規範を説く説教者に往々にしてありがちなことだが,Murray自身も自分の書いた英語において,自らが唾棄した「単数のthey」を使っているとのことである(Wales1996)」(成田2001)

 

 規範文法家は自ら禁止とした表現を、実際には使っていることが分かります。Murrayは英文法史上のビッグネームなのでこのような事実が知られていますが、それは当時に限ったことではありません。

 Professional Writingについて書いたSavannah Taylorは「今日でさえ、規範があるにも関わらず、話し言葉でsingular theyをよく使う人が、書き言葉では使うことを避けようとする。(Altieri, 2003)」と記しています。

 

 英文法の規則とは、標準語としての正しい言葉使いです。実際には日常語として使っているのに、formalな場、特に書き言葉では使わないということはよくあります。英語に限らず日常的なやりとりでは、言葉使いについてそれほど注意を払わないものでしょう。

 

 Debczak2022では、次のように記しています。

「1386年に、単数の「they」が印刷物に初めて登場してからわずか10年ほどしか経たない内に、ジェフリー・チョーサーは『カンタベリー物語』でそれを使用した。ウィリアム・シェイクスピアもこの用法のファンで、『エラーの喜劇』や『ハムレット』を含むいくつかの劇作品に取り入れた。…

 19世紀以降のジェーン・オースティン、チャールズ・ディケンズ、W.H. オーデンなどの作家たちだけが、この規則を無視したわけではない。ほとんどの人々は、口語や文書で単数形の「they」を使用し続け、そのことに気づかないことがよくある。これは今日でも変わらない。

 例えば、“everyone should bring their towel to the beach”や“they forgot their wallet”といった文は、数百年前に考案された規則に従えば誤りだが、日常会話では自然に聞こえる。一方で、これらの例で「they」を「he」や「she」に置き換えるのは、無理やりな感じがする」(しんじ訳)

 Michele Debczak『The 600-Year History of the Singular They』2022

 

 Debczak2022によると、成田2001の記述よりもさらに早い時期にtheyの単数使用が始まっていたことになります。研究が進んでいるということでしょう。

 特に注目したいのは、この中にある“they forgot their wallet”が「だれかが財布を忘れているよ」という意味を表すことです。

 置き忘れられた財布を見つけたとき、その持ち主はだれかわからないことは、ふつうにあるでしょう。常識的には持ち主は単数ですが、性別は不明なので、通性のtheyが使われます。

 日本語だと「財布忘れてる!」でもいいのですが、英語では主語を抜いてforgot で始めると文として成り立ちません。このtheyは、it rains.で使われるitと同じく形式的に置かれているだけです。英語の人称代名詞は、単数とか複数とかの意味内容を示すのではなく、SVを構成するためにSの位置に形式的に置く機能語なのです。

 

 考えてみればわかりますが、youは単数・複数にも使います。同じくtheyも単数・複数にも使うと言うだけのことです。英語の人称代名詞は本質的に意味内容を失った機能語なので、意味内容はそれほど注意されずに使われるのです。

 

 英語では意味内容が重視されない機能語にはストレスを置かず、早く弱く発音します。英語のネイティブは、人称代名詞にはふつうストレスを置かず、しばしば短縮します。それは意味内容を失った機能語だからです。

 ネイティブ感覚はこの現代英語の文法的仕組みを反映しています。数百年前に創られた規範がyouだけを単数に使うことを認めるというのは、使用実態に合わないだけでなく、英語の文法的仕組みとも合いません。

 

 単数の「they」は、14世紀以来、書籍、詩、日常会話で顕著に存在することから、ずっと以前から使われていたと考えられます。18世紀にtheyの単数使用を問題視する規範文法家が現れて以降、19世紀から20世紀にかけて、英米では英語の標準化が政策的に進められていきました。その象徴の1つは、1850年に英国国会法で、singular theyの使用が禁止されたことです。

 論文に掲載されている当時のその条文を引用しておきます。

 in all acts words importing the masculine gender shall be deemed and taken to include the plural,and the plural the singular,unless the contrary as to gender and number is expressly provided.(cf Evans and Evans1957)

                                    山田 政美『現代アメリカ英語の人称代名詞』1984

(すべての法令において、男性の性別を指す言葉は、複数形を含むものと見なされ、単数形は複数形を含むものと見なす。ただし、性別と数について明示されている場合はこの限りではない)

 

 また、アメリカでも、新聞などの書き方のマニュアルを定めた主なスタイルブックが誤りとして使用を禁止します。

 その結果、(1)he、(2)he or she、(3)theyの3通りの表し方を、1990年代のコーパスで分析した、ジャンル別の使用率は次のようになります。

石川 有香『現代英語におけるジェンダーの問題―英語の通性代名詞について―』2001

 

 小説・随筆などinformalな表現が使われるジャンルでは、singular theyの使用率が高くなっています。それに対して、公的な学会や学術誌に提出する論文や新聞では、singular theyを全く使っていません。

 特に新聞では、性別の問題は社会問題になっていたので、単数の人を指す代名詞を使えなくなってしまいます。小説・随筆でtheyの使用が見られるのは、informalな表現を使うのが口語英語では自然であることを反映しています。また、規範的規則「性別不明の単数の代名詞heを用いる」も、ある程度は定着していたことがうかがえます。

 

 このようにジャンルによって偏りがあるのは、規範文法が自然言語の用法を反映したものではなく、社会的価値観によって人工的に維持されるものだからです。性別にかかわらず単数を代表する代名詞をheをとすることを規範としてきた背景は次の記述から分かります。

 

「こうした規範を主張するために文法家たちが用意した根拠は,おおまかには二つに分けられる。一つは,男性の方が女性よりも「優位」であり,女性への言及は男性への言及に従属させられるという,あからさまな「男性優位」思想である。他方,男女の優劣は問題とせずに,「総称のhe」は中立的でありそれ故男女の両方を指すとする考え方に依拠した文法家もあり,この考え方が今日の規範においても大きな影響力を保ちつづけている。」(成田2001)

 

 この論文(成田2001)は20世紀の規範文法が、いかに偏向していたかをよく表しています。言葉の問題には価値観を伴うことが往々にしてあります。だから、英文法は一筋縄ではいきません。

 

「Professional Writingにおいて、文法的に正しく書くことは生命線である。言語を統一する過程では、ルール化が必要になる。その際、規範的な語法(prescribe usage)を望む人々と、実際に使われているとおりに記述しよう(simply describing usage)とする人々の間でバトルが行われてきた。こういった言葉のルール化を巡る論争はありふれたもので、現代のsingular theyの例もその一つだ。(Altieri, 2003)」

  Savannah Taylor『The Use of Singular They in Professional Writing』

            2021

 

 こうした規範による徹底的な縛りは、特に公的な場での言葉使いに影響を与えます。もっとも標準語とは、もともとまちまちだった表現をルールを決めて統一して創るものです。このように規制をしなければ、今の標準英語はなかったのです。標準英語が存在しているといことは、規範的規則によって言葉を規制して統一することに成功したということを意味します。

 

 よく英文法の規則には例外が多いという人がいますが、それは必ずしも正しい見方ではありません。現行英文法は標準語の言葉使いを基本としています。標準語はもともと様々ある表現の中から正用を決めて規則とします。その規則から外れた表現はもともと使われているものですが標準化のために使用禁止にするのです。

 もともとtheyは単数・複数にも使われていましたが、規範的規則が複数だけを正用として認めて単数使用は禁止されたというのが真相です。

 

 規範による規制が盛んだった20世紀当時の単数を指す人称代名詞の使用について、次のような記述があります。

 

「Martyna(1978)[MacKay1980]が

  Before a judge can give a final ruling,

  (he / she / he or she / they) must weigh the evidence.   

 のような表現を与えての実験で調査をしたが,被験者の96%がもっぱら男性が占める職業名の先行名詞についてはgeneric heを用い,もっぱら女性のそれに対しては87%がsheを用いたという。いずれにしても65%がSingular theyとか he or sheよりもgeneric heを用いたという。」

            山田 政美『現代アメリカ英語の人称代名詞』1984

 

 単数を指す代名詞の使用は、今世紀に入り、情報環境の変化や価値観の変化によって様相が変わります。SNSで著名人が自らをheかsheではなくtheyを選択すると表明したことは、世論の形成に少なからぬ影響を与えます。それに反応した米国メディアの主な動きを時系列に従って列記します。

 

2015年11月、The New York Timesが対象者/主語(subject)が、性別を割り当てられたくない場合にMr. やMs.に代わる敬称として Mx.を使用

 

2016年、American Dialect Society(ADS:米国方言学会1889年創設)が、Singular theyを2015年の Word of the Yearに選出

 

2017年、AP通信が、「スタイル2017」で、記事の英文表記で、heあるいはsheと呼ばれたくない人を指すときにSingular theyを使うことを認める

 

2019年、米国で最も伝統のある辞書出版社Merriam・Websterが、Singular theyをWord of the Yearに選出

 

2021年、Modern Language Association (MLA)、the Chicago Manual of Style (CMOS)、the American Psychological Association (APA)など主なスタイルブックがsingular theyの使用を推奨

 

 単数を示すtheyは、社会的な価値観の変遷を反映しています。文法規範は男性優位の社会では禁則にされ、それによって論文や新聞等のformalな文語に単数のtheyは全く排除された時期もありました。LGDPの考え方が浸透していく中で、一転して単数のtheyの使用が広がり、メディアや辞書も使用を認めるようになったのです。

 

 theyの変遷を見ると、規範文法と記述文法の違いがよくわかります。

単数のtheyの使用は14世紀には始まり、18世紀に規範文法家たちがtheyの使用を複数に限ると決めるまでは、複数のtheyと同様に広く使われていた。規範文法家たち(prescriptivists)は、singular theyの使用を禁止する一方で、同じく元は複数だったyouを単数の代名詞として使うことには何の注意も払わなかった。(Oxford English Dictionary, 2019)こうして、youが単数の代名詞として使われることが受け入れられていく一方で、singular theyは複数という箱の中に埋め戻されていった。

  Savannah Taylor『The Use of Singular They in Professional Writing』

            2021

 

 もともとtheyもyouも複数を指す代名詞でした。それはどちらも対応する動詞が複数呼応するareであることから分かります。英語の標準化が始まる18世紀以前は、どちらの語も単数としても使われていました。theyもyouも本質的には、文を構成するために置かれる機能語なので、内容にかかわらず使われるのです。

 規範文法はラテン語文法を理想としています。口語で単数thouが使われなくなり二人称単数に空きができたため、その穴埋めとしてyouの単数使用を認めます。一方でhe、she、itという単数を示す人称代名詞が存在していました。性別不明の場合単数の代名詞はheが正用であると決めて、theyは誤用として禁止したのです。

 youとtheyの扱いの違いは、英語本来の文法的仕組みとは関係ないラテン語のパラダイムに合わせて決められたわけです。

 

 言語学者Pinkerは、文法的「間違い」だと批判されるもののなかには、合理的で筋が通っているものの例の1つとして、単数のtheyを挙げています。説明の仕方が面白いので、一部を紹介します。

 

Everyone returned to their seats.

 (皆、自分の積に戻った)

 

He's one of those guys who's always patting themselves on the back.

――サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』

 (あいつはいつも自画自賛するたぐいの男だ)

 

 Everyoneとtheyは「前件」と「代名詞」の関係にはなく、同じ人間に言及しているわけではない。…この2つは論理学でいう「量記号」と「束縛変項」の関係にある。「Everyone ……」の文は「すべてのXについて、XはXの積に戻った」という意味になる。Xは特定の人や集団を指すのではなく、関係が変化してもそれぞれの項の役割がわかるようにするための記号で、論理学では「プレースホルダ―」という。ここでは、席に戻ったXは、戻ってきたその席の所有者であるXと同一である。「their」はここでは複数を意味しない。1つのものを言及するのでも、複数のものを言及するのでもない。実は何も言及していないのだ。…

 つまり、論理学的には、変項はいわゆる「指示的」代名詞(例えば、heは特定の男性に、theyは特定の集団に言及する)ではなく、したがって、数の一致は要求しない。指示代名詞と変項が別の言語もあるが、英語にはないので指示代名詞で代用するしかない。これらは指示代名詞の同音異義語に過ぎないから、日常語でthey、their、themを選ぶのは適正で、指南役の推奨するhe、him、hisより劣る理由はどこにもない。」(しんじが一部省略して改訳)

                                                     ピンカー『言語を生み出す本能』1995

 

 they、their、themは数式に使われるXのようなもので、数式の記号Xと同じように単数・複数とか性別には関係ないということです。類似の例として、ここで引用されているサリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』にあるyouを「君」と訳していることについて、ピーターセンが「youは誰でもない」として適訳ではないと言っています。

 英語の人称代名詞theyやyouには、特定の誰かを指す「指示代名詞」とは別に、形式的に置く記号として使う用法があるのです。「指示代名詞の同音異義語に過ぎない」というのは言いえて妙だと思います。ラテン語には形式的に置かれる主語はありません。現行英文法は動詞の屈折をもとにした「人称」という発想にとらわれているから、現代英語の文法的特徴にもとづいた「形式的に置かれる主語」が説明できないのでしょう。

 

 規範文法家たちは、しばしば実際に使っている用法を排除して、ラテン語のルールを優先します。人々が実際に使っている表現を科学的に観察して、英語本来の文法的な法則を探求する記述文法家たちは、規範的ルールを非難するわけです。

 

「規範文法家たちの文法書が示す規則には、大多数のネイティブスピーカーが実際に使っている言語の用法に全く基づいていないものがある。そして、それは、どんな根拠によるのかを示しもせずに、いかなる他の言語話者をも差し置いて、著者自身の好みによる判断でマニュアルとする。」

Rodney Huddleston, Geoffrey K. Pullum『Cambridge Grammar of the English Language』2002

 

 規範文法は、もともと、すでに英語を使える人を対象に、標準語を使うように促すものです。だから、実際にネイティブは、昔も今もthey、youのいずれも単数、複数の両方に使っているのですが、学校文法ではinformalなingular theyだけを教育から排除してきたのです。第2言語を習得する人を対象に、英語本来の文法を説明するものではありません。学校文法とはそういうもので、実用を求めるものではないのです。

 

 市販の和製文法参考書の大半は、受験英語を想定していますが、多くの人を対象にしないと売れないので実用性を強調します。標準語のformalな表現としては実用的ではあるので、誤ったことを言っているわけではありません。ただ、受験の過去問にないinformalな表現が抜け落ちているのはよくあることです。

 単数のtheyはその典型例の1つに過ぎません。ピンカーが20年以上前から主張し、ずっと以前から英語のアニメでも使われているような表現を、今頃入試に出たと言って騒いでいるのです。それは近年、社会的に話題になったことを反映しています。

 

  Debczak2022には、次にような記述があります。

「単数形の「they」は、特定の個人を指す場合でも、一般のグループのメンバーを指す場合でも、今日では多くの主要な出版物に受け入れられている。また、これに対する反感もかつてないほど高まっている。この用語は多くのノンバイナリーの人々によって使用されているため、トランスフォビアに基づく攻撃の標的となっている。しかし、単語の「適切な」使用法は、最も声の大きい支持者や反対者によって決定されるものではない。言語の規範は、それを日常的に使用する一般の人々によって形成される。14世紀以来、単数形の「they」が書籍、詩、日常会話で顕著に存在することを考えると、それは英語の辞書に収録されるにふさわしい存在と言えるだろう。」(しんじ訳)

 Michele Debczak『The 600-Year History of the Singular They』2022

 

 言葉遣いには価値観の違いや育ってきた環境などにより個人差があります。実際にふつうに使われている表現が、規範によって規制を受けることはしばしばあります。公の場で使われていなくても、口語や非公式的な場で人々が使う表現は、結局多数派となり規範が追認することになります。

 Sigular theyの変遷は規範というものの本質を表す典型例です。

 

 Sigular theyに限らず、今世紀に入って、欧米の規範的文法書や辞書は、先行する記述文法が認める表現を取り入れる方向に進んでいます。20世紀の規範が禁則としていた、目的格にwhoを使うことや状態動詞の進行形などが容認されていくのは、その流れに沿っています。

 規範はその言語の話者が決めることで、他国語の話者が関与できるものではありません。わが国の公教育では、英米の規範に従うため、英語使用国の大勢が正用として認めるのを待つことになります。結果として、英米で規範として確定しない用法は、幼児対象のアニメでも使われるほど浸透していても、学校文法が排除してしまっています。東大の入試問題は、その現状を示す象徴といえるでしょう。