関門海峡雑記帳、下関とクジラの歴史 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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下関とクジラの歴史1

平成14年4月24日から一ヶ月、下関市で国際捕鯨委員会(IWC)が開催されます。これを機に、下関とクジラの歴史をひもとき、その大要を紹介しましょう。

古代から親しまれたクジラ

下関市考古博物館に、クジラの骨を利用してできた「アワビオコシ」が、展示されています。出土したのは、吉母浜遺跡からです。このことから、弥生時代からすでに、私たちの祖先は、クジラを食用にしたり、骨を生活の道具にしたりしていたことがわかります。

壇之浦での源平合戦においては、クジラの一種イルカが、勝敗を占う手段とされています。イルカが、平家軍の下を潜り抜けると敗者となり、向きを変えて戻ると勝者となる、と占いが出ました。結果は、潜り抜けて、平家は敗者となりました。

クジラは、体の全てが利用できることから、「クジラ一頭で七浦潤す」といわれ、貴重なものでした。永禄11年、下関市の北端、吉母と室津の境界にクジラが流れ着き、その領有をめぐって、両者が相譲らず、争いが起こっているほどです。

江戸時代になると、積極的にクジラを捕る捕鯨業が、さかんに行われるようになり、萩藩、長府藩も捕鯨を奨励援助し、見返りに税を課して収入を得るようになります。捕れたクジラは、売り捌くことによって、税を払うことができました。

このとき、下関の問屋は、港町という地の利を生かし、長門仙崎や長崎県の生月から鯨油・鯨肉・鯨骨などを仕入れ、薩摩や大阪、東北へと売り捌く流通センターの役割を果たすようになります。この傾向は、明治・大正・昭和時代と続き、商業都市下関の、クジラとの関わりの大きな柱でした。

では、クジラは、庶民生活にどのようにかかわってきたのでしょうか。

蓋井島に、七年毎に行われる「山ノ神神事」があることは、よく知られていますが、この祭りの「大まかない」という神事の、買い物控帳に、おばいけ、クジラ油が記されています。

また、今から約140年前、下関で奇兵隊を創設した高杉晋作に、物心両面から支援した白石正一郎の日記には、妻の実家へ尾羽毛を贈ったことが記され、鯨肉は大切な食品であり、贈答品とされていたことがわかります。

鯨油は、灯火用やローソクの原料に使われましたが、稲作の害虫ウンカ駆除のため、水田に散布され、農薬の役目を果たしていました。また鯨骨や内臓は、肥料として大いに利用されて、捨てるところなく利用されていました。

(安富静夫著「関門海峡雑記帳」(増補版)より)


下関とクジラの歴史2
大陸などへ販売を拡張

明治も後半になると、捕鯨の方法も銛や網を使う方法から、近代的な砲を使った「ノルウェー式捕鯨」へと進展し、捕鯨頭数も飛躍的に増加します。

日和山に顕彰碑のある、岡十郎と山田桃作によって、明治32年、日本遠洋漁業が創立されると、その出張所が下関に置かれました。すると、西村宗四郎は、岬之町に、「西宗商店」を創立し、鯨油・鯨肉などの一手販売を行い、北海道から九州・朝鮮・満州・台湾を販路とし、その規模は関西随一を誇りました。

このころ、国内はもとより、満州や台湾を販路とし、海上運輸、木材・食品と多方面にわたって、流通業を営んでいたのが、南部町に建物が現存する「秋田商会」です。その規模は、三井・三菱に負けるなを合言葉とし、機密保持と経費節約から、社内専用の「電信暗号帳」までありました。

クジラに関し、電文を紹介しますと、「鯨頼む」は、「クユ タム」となり、7字が4字で節約できるうえ、電文の意味は、全く不明ということになります。

明治時代は、クジラの流通基地・下関でしたが、明治末の37年、兵庫県明石から下関へ本拠を移し、林兼商店を創業した中部幾次郎によって、クジラとの関わりは、さらに大きくなっていきます。ちなみに「林兼」の語源は、中部幾次郎の祖父・兼松が、屋号を林屋といっていたことによるものです。

(安富静夫著「関門海峡雑記帳」(増補版)より)


下関とクジラの歴史3
南氷洋への捕鯨基地へ

中部幾次郎は、大正7年、土佐捕鯨を買収し、捕鯨業に第一歩を踏み出します。土佐捕鯨には、福志満丸という捕鯨船と、日本一の砲手・志野徳助がいました。

初めての南氷洋捕鯨は、昭和11年に出港。頼りにした人、志野徳助が南氷洋到着前に急死したものの、シロナガスクジラ807頭、ナガス279頭など捕獲し大成功をおさめ、翌年の4月23日に下関へ帰港。全船満艦飾の八隻の捕鯨船は、捕獲の成績順に入港したそうです。

しかし、慣れぬ南極海のこと、次の年には、大惨事が待っていました。気象の急変に気がつかず、三隻の捕鯨船が氷の海に閉じ込められ、動けなくなったのです。船長以下50人は、船を放棄し、氷の割れ目に転落を防ぐため、一人一人竹竿をもち、氷原を十時間も歩き、やっとの思いで救出されたそうです。

やがて、戦争が激しくなると、捕鯨母船や捕鯨船も戦争のために使われ、そのほとんどが壊滅してしまいました。

戦後は食糧難救済のため、国策の一環として、昭和21年から捕鯨が本格的に再開されました。急造の船団は、軍艦を改造して母船とし、小笠原島周辺へ向け、下関港から、軍艦マーチ・進軍ラッパに送られて、勇ましく出港しています。

戦後のクジラは、当分の間、政府によって買い上げられ、他の魚とともに統制食料品で、配給によって庶民の手に届いたそうで、名古屋から東では、これを機に食習慣になったといわれています。

大洋漁業は、昭和24年に本社を下関から、東京に移しますが、捕鯨船40余隻を建造した林兼造船、鯨肉を食品に加工した林兼産業、さらに製氷会社など、関連会社の多くを操業させ、下関市発展の一翼をいなっていました。

昭和40年代のことですが、下関でのクジラの消費量は、鯨肉1000トン、ハム・ソーセージなどに4500トンが使われ、安価で蛋白質が豊富なことから、学校給食にも盛んに活用されていました。

また、下関には、昭和33年開店した大洋漁業直営のクジラ専門レストラン「日新」があり、献立は刺身など23品目と、クジラ和会席、クジラの洋食フルコースがあり、年間13万人の客が訪れました。岡本幸一調理長は、フルコースのできる全国でただ一人のひとでした。

しかし、探鯨機搭載による捕獲率の向上、捕鯨オリンピックと称し各国が南氷洋で覇を競い、日本も昭和34年に第一位となり、最盛期には七船団が出漁、こうした結果は、同60年、商業捕鯨の一時停止を招くことになりました。

(安富静夫著「関門海峡雑記帳」(増補版)より)


初期のノルウェー式捕鯨砲 (萩・北浦のクジラ文化より)

(彦島のけしきより)


参考