平安時代の国風文化には庶民も寄与していた! | 日本の歴史と日本人のルーツ

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素麺、ウドンの他、ホウトウや麺汁などの麺料理が隋・唐から渡って来た。讃岐うどんは空海さんが持ち帰ったとの伝説があるように、遣唐使が持ち帰ったとの説がある。

しかし、食文化と言うものは、好んで食べる人、製造する人と技術、そして麦などの原材料と生産地が揃って初めて定着する。

遣唐使の帰国時、鑑真和尚などの高僧が渡来したことは有名であるが、多くの民も並行して渡海したと考えられる。彼らは元々、原日本語を喋って、地元民と仲良く暮らしたはずである(参考)。

平安時代後期以降の国風文化は貴族だけの文化では無く、庶民も大いに関わっていたと考えるべきである。


雑談

原材料の小麦は弥生時代には渡来していたが、製粉技術が未熟で青草の段階で家畜の餌としており、ウドンや素麺に使う為には碾き臼などの製粉技術の向上が不可欠である。

正に遣唐使の帰国に並行して最新の製粉技術をも持ち帰ったことが、ウドンや素麺の普及に寄与したとも考えられる。


参考

① 麺食文化の発祥と遣隋使・遣唐使

多彩西安&感動シルクロード(参考)

小麦粉は、紀元前7000年頃にメソポタミアで栽培が始まったとされている。その栽培技術が、シルクロードを通って中国に伝わり、新しい食文化である『麺』が誕生した。このようにして、麺の発祥の地は中国であると一般的には考えられている。中国では前漢時代の黄河中流域の西安、山西省太原、河南省洛陽を結ぶ三角地帯で麺食文化が様々に発展して、各地に広まったものである。


当初の『麺』とは小麦粉のことを指した。その小麦粉を水で、練ったものを『餅(ビン)』と呼び、それを焼いたり、揚げたり、蒸したり、茹でたりして食していた。その中で茹でて食したものが『湯餅(タンビン)』で、これが世界の面のルーツとされている。


勿論餅(ビン0はひも状のものではなく、平たい団子状態であった。練った小麦粉を平たく伸ばして刻んだ『剪刀麺(せんとうめん)』が登場したのは唐代(618~907年)、これが宋代(960~1127年)に及んで『切麺(せつめん)』と呼ばれるようになり、やがて単に『麺』と呼ばれるようになった。


日本には8世紀の奈良時代に中国から渡来したといわれており、当時の古文書に『索餅(さくべい)』『麦縄』『田束』など、中国の麺を表す文字が記されている。渡来には7世紀初頭から始まった遣隋使、遣唐使が大きな役割を果たしたものと思う。


空海の生まれ故郷である香川県では『讃岐饂飩(うどん)は弘法さんが唐から持ち帰った』という伝承がある。空海が密教を学んだ青龍寺をはじめとする各寺院には、麺料理専門の僧が居たと言われており、その技術を持ち帰ったと推測できる。麺文化は日本には空海の100年以来に伝来しているので、初の麺伝来者とはいえないが、『切り麺』など、新しい麺作りの知恵を持ち帰ったことは否定できない。



② めんの歴史


めんのシマダヤ味なウエブ(参考)


紀元前7000年頃、西アジアで栽培され始めた小麦はシルクロードを通って中国へ渡り、めんが誕生。中国の黄河流域からアジアの各地へ伝わったとされています。


日本へは、遣隋使・遣唐使によって伝播されました。大陸を渡り、数々のドラマを経て私たちの食生活の中に定着した、めんのおもしろい歴史をご紹介します。


奈良・平安時代


日本最古のめん類伝来は、中国のお菓子だった!


日本のめん類の歴史は、奈良時代より始まりました。奈良・平安は、中国に派遣された遣隋使・遣唐使によって様々な大陸文明が伝わった、貴族中心の華やかな時代。


唐からは様々な食文化とともに、粉食菓子の一種である唐菓子(からがし)という食べ物が伝来しました。これは、小麦粉や米粉に塩などと水を加えて練り合わせて、蒸したり油であげたもので、貴族の間では主に儀式用の供え物、接待用の高級菓子として用いられました。


この唐菓子の中に、そうめんの原型と考えられている索餅(むぎなわ)があります。小麦粉や米粉に塩水を加えて混ぜ合せ、引き延ばして縄のようにより合わせたもので、我が国最古のめん類と記録に残されています。


めん類の始まりは、豊かな経済力のある貴族だけが食べることのできるものだったようです。



③ 「索餅/さくへい」と「索麺/さくめん」(素麺の起源)


島原「そうめんの山道」(参考)


油で揚げた長崎の郷土菓子「麻花兒」。「よりより」とも呼ばれています。

いまや和食(和麺)ともいえる素麺(そうめん)と饂飩(うどん)。日本の麺文化はどのようにして始まったのでしょうか?

そうめんの起源は奈良時代に中国より伝わった唐菓子が原型だと言われています。「索餅/さくへい・さくべい」と呼ばれていたそのお菓子は、今も長崎県に伝えられている郷土菓子「麻花兒(マファール)」と類似するものだったと思われます。現在のような麺の形になったのはまだまだ後の事。中国で「索」とは太い縄を意味し、「餅」とは小麦粉と米粉を混ぜ合わせたもの(日本でいうおモチの事ではありません)。ですから「索餅」とは小麦粉と米粉を練り合わせ縄状に伸ばしたもの、という意味です。

日本に小麦文化が伝わって、現在のような麺文化が定着するまでを島原そうめんの歴史で紹介しています。

平安時代(794年~1185年)より鎌倉時代(1185年~1333年)にかけては、「索麺サクメン?)」の語が記されている文献(人玄恵僧の「喫茶往来」)が散見できます。サクメン→ソウメンと音便の変化とも考えられますし、「索」と「素」は文字も似ています。「索」とは太い縄状を表す意味で、「索麺」とは文字通り「縄状になった麺」と解することができますね。「大乗院寺社雑事記」や「多聞院日記」(1484年)をはじめ、室町時代の様々な記録から素麺の起源は索麺ではないか?と推測できます。

それ以前の記録には「索麺」という語は見かけることができませんが、「索餅」(サクヘイ・サクベイ?)という語は奈良時代の文書から見つけることができます。「お菓子」的的位置ずけであった「索餅」。「麺」であったと思われる「索麺」。「索餅」と「索麺」・・・両者に繋がりがあるのか否かは、従来異説があり定かではありません。

(最後の遣唐使の記録、円仁著「入唐求法巡礼記」に ほうとうという食物が記され、道元が著した「典座教訓」には麺汁が記されています。)

平安時代にやっと回転式の挽き臼が伝来し、一般的に普及したしたのが江戸時代になってから。このころに水車を動力とした製粉機が誕生し、今の製粉技術の基礎ができました。


④ 仮名文字も唐から持ち帰られて来た(参考)


⑤ 縄文人と同族の古代中国の殷人は消えることなく、唐の時代頃までに日本に渡って来た(参考)


⑥ 楊貴妃さんが日本に逃れてきたと言う伝説(参考)が実しやかに囁かれるのは、彼女の一族をはじめ多くの民も日本に来ていたからでは!


⑦ 原材料の小麦の歴史(wikiより)

中国経由で伝来されたと考えられている日本でも約2000年前の遺跡から小麦が出土しており、伝わったのはそれから遠くない弥生時代であると考えられている。奈良平安期には五穀の1つとして重視された(『和名類聚抄』には「古牟岐(コムギ)・末牟岐(マムギ=「真麦」)」の名で伝わる)。一方で収穫前の大麦・小麦の青草を貴族や有力豪族が農民から買い上げて馬の飼料にすることが行われ、当時の政府がこれを禁止する太政官符が度々発令(751年、808年、819年、839年)されており、稲や粟と比較して食用作物としての認識が十分に広まっていなかったとする見方もある。ただ、これには当時の日本に製粉用の碾き臼がほとんど普及していない、という事情があった。


⑧ 平安時代の宮中の雅な世界も唐から渡って来た