終戦直後の佐世保市と現在 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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佐世保中心市街の現在と終戦直後の比較した。東部から南東部の住宅街が拡大している。

旧日本海軍の軍港がそのまま米国海軍の軍港になって、そのまま続いてきたことが理解出来る。

日本の海上自衛隊の基地としては、佐世保市街から外れた南東部に居候するように、戦後に建設されたようだ。

左下のドライドックは佐世保重工業のもので変化は無いが、米国海軍の艦艇の保守の役割があったのであろう。


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佐世保中心市街、グーグル2018年1月時点

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佐世保中心市街、1945年9月


参考

① 佐世保の旧軍事施設 精密に 1945年9月、上陸に備え作製 米軍の機密地図入手 市教委

長崎新聞(2018.1.5、参考)

佐世保市教委は、米軍第5海兵師団が1945年9月の上陸に備えて作製した佐世保の地図を入手した。旧日本軍の軍事施設の位置や、6月の佐世保大空襲の被災範囲を精密に記している。原本は市立図書館で収蔵。図書館内の郷土資料室で複写を公開する。

市教委によると、地図は終戦直後の45年8月25日に撮影した航空写真を基に9月11日に作製した。縦約50センチ、横約46センチ。同師団を主力とする占領軍は22日に上陸を開始。23日にかけ約3万人が上陸したとされる。

崎辺地区内の最初の上陸地点を「GREEN1~3」のコードネームで記載。旧日本軍のレーダーや高射砲、旧海軍施設など主な建物、地下のトンネル式弾薬庫の位置まで正確に落とし込んでいる。佐世保大空襲の被災範囲は細かな網掛けで記している。機密事項を意味する「SECRET」のスタンプが押されている。

約3年前に米海軍佐世保基地の関係者が個人的にオークションで入手。提供を受けた市教委は、公開することに問題がないかなど、基地側に調査や確認作業を進めてきた。川内野篤学芸員は「当時の防衛体制といった市内の状況や、日本側の抵抗も想定して米軍が用意周到に準備していたことが分かる貴重な資料」としている。

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米軍が1945年9月の上陸11日前に作製した佐世保の地図(佐世保市教委提供)


② 海上自衛隊

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