古代中国の殷王朝の人々は古代の日本列島の縄文人と同族(Y-DNAハプログループD1b「旧分類D2」)であり、漆文化や宝貝の貨幣文化などを共有していた。
そして、その殷王朝の文化や甲骨文字が日本列島にも伝わり(滅びた殷王朝の遺臣が日本列島に渡来した!?)、受け継いだ縄文人の直接の末裔であろうとされるアイヌ人の文化に残されているようだ。
参考
① アイヌ刺繍に隠された甲骨文字
アイヌ刺繍は家紋のようなもので、各家に固有のデザインが母から娘へと代々受け継がれてきた。複雑に見える図柄も、基本的にはシンプルな文様を組み合わせたものだ。
そういった文様の1つに、「モレウ」という渦巻き文があり、モレウを左右対称に2つ組み合わせた文様は「ウレンモレウ」と呼ばれている。
図は北海道開拓記念館蔵の明治期のものと思われる木綿衣で、ここにもウレンモレウ文様が見られる。ウレンモレウ文様は、よく見ると甲骨文字の「」(真虫)にそっくりの図形を上下左右に反転させたものから成り立っている。私は遮光器土偶などの図柄と同様、おそらくこれも甲骨文字に由来すると見ている。
ただ当のアイヌ社会では、ウレンモレウ文様はコタン(アイヌ社会を構成する最小単位の集落)の守り神であるシマフクロウの目を表していると伝えられてきた。しかし伝承は伝承として、それが成立する以前、この文様の発祥にまでさかのぼれば、殷渡来の甲骨文字に行き着くように思えてならない。
つまり、3千年前の殷王朝滅亡のとき、東北地方北部と北海道へ逃れ来た多くの殷人が、津軽海峡両岸に暮らした縄文人に影響を与え、亀ヶ岡文化を開花させたと考えられるが、アイヌ民族は、土器文様に甲骨文字を採り入れたこの地域の縄文人の直系の子孫であると思うのだ。
シクウレンモレウ文様がクッキリ見える長倉土偶
アイヌ文様の中には、「シクウレンモレウ」と呼ばれる文様がある。ウレンモレウ文様の上に、内側に反った菱形を乗せたような図柄であるが、岩手県軽米(かるまい)町の長倉遺跡から出土した遮光器土偶の胸には、これとそっくりの文様がクッキリと描かれている。
これは偶然の一致ではなく、アイヌ民族は縄文人の直系の子孫であり、アイヌ文様のルーツは縄文の亀ヶ岡文化、さらには殷の文明にさかのぼるからではないだろうか。
またアイヌ民族の彫刻にはウロコ彫りという三角形の連続文がある。蛇のウロコを連想させることから、縄文土器の縄目文様が形を変えたものかと思われる。
ただし、厳密には、中国大陸の殷の民は実は縄文人(山の民、Y-DNAハプログループD1b「旧分類D2」、参考1、参考2、参考3、参考4)であり、日本本土の縄文人と同じ価値観や趣味・嗜好を持ち、漆や宝貝に対して現代の金やダイヤモンドと同じ魅力を感じて、装身具や貨幣にしたと考えられる。この宝貝の採取・運搬を引き受けたのが縄文人(海の民、海人族安曇氏、Y-DNAハプログループC1、参考)と考えられる。
⑦ 漆文化については殷王朝より縄文時代の日本の方が進んでいた