古代の倭人とは、縄文人、古代中国に在住した縄文人の同族(殷、秦、斉、羌族などが弥生時代末期以降の渡来人として来日する)、そして、揚子江(長江)中・下流域の水稲を作り始めた呉の太伯の末裔が日本列島に移住した人々などからなり、古代の原日本語を喋る人々を総称して倭人と呼んだと考えられる。
彼らは後期旧石器時代の頃から自由に海を渡ることが出来たことが黒曜石の分析で考古学的に証明されている(参考)。
中国の国務院発展センターの張雲方も、3千余年前に倭人の記述が中国の史書に存在したこと、3065年前頃から興った周王朝の初期に倭人が朝貢した記述かあること、春秋戦国時代末期の斉の文化と日本(倭)の文化がよく似ていること、揚子江(長江)中・下流域の河姆渡文化の稲作農民の末裔が日本列島に渡来して倭人になったこと、倭の文化が殷と秦にも関係があり、そして、秦が滅亡した漢代に東夷と呼ばれた国々は実は倭人が建てたであろうことを指摘している。
中国人科学者の断片的な理解ではあるが、倭人が日本列島どころか大陸にも存在したとの理解は重要である。
指摘1
前漢の呉楚七国が漢の皇帝に反発していた東夷の国々であった。
指摘2
紀元3世紀の三国時代、卑弥呼が朝貢した魏の国は倭と同族と考えられる。そして、呉と蜀がそれぞれ河姆渡文化(呉・越)と漢の末裔であろう。
参考
① 倭人と倭人文化の謎
国務院発展センター 張雲方
紀元前千余年前に、中国の史書に登場した「倭人」は、その後、歴史の闇の中に忽然と消えた。
そして千年以上経った『後漢書』や『魏志』の「倭人伝」の中に、「倭人」は再び登場する。この「倭人」はどういう関係にあるのか。それは謎とされてきた。
私は、斉(注1)の文化を研究してきたが、斉の文化と倭の文化が意外にもよく似ていて、一脈通じることを発見した。そこで私なりの仮説を立ててみたが、これはまだ十分に成熟したものではない。
しかし、「レンガを投げて玉を引き寄せる」という喩えもある。これを一つのたたき台として、多くの専門家や学者が、さらに広い視野から深く、倭の文化や斉の文化を考察するきっかけになればよいと思い、敢えて私の仮説の一部を提起することにした。
古代の「倭人」はどこにいたか
後漢の王充が著した『論衡』(注2)の中に、周王朝(紀元前1046~紀元前256年)の初期について、こういう記載がある。「周時天下泰平、越裳(注3)献白雉、倭人貢鬯艸(注4)」(周の時代は天下が泰平になり、越裳は白い雉を献じ、倭人は不老草を貢いだ)
これまでの学術研究では、この「倭人」は現在の日本人を指す、とされてきた。
古代の「倭人」は、長江の上流域の雲南、貴州、四川一帯に住んでいたのではないかと思う。『史記』の中に記述されている滇、夜郎、且蘭、邛都、昆明、雋、徙、筰、冄、蜀、巴などの国は、いずれも「倭人」によって建てられたと私は見ている。
不幸なことに、多くの「倭人」の王は、秦の始皇帝や漢の武帝に討伐されてしまった。「倭人」の建てた国々も消滅した。しかし国家は滅亡しても、「倭人」の創りだした燦然たる文化は、消滅しなかった。「倭文化」は、「倭人」の国家が消滅する前に、すでに広く伝播し、国が滅んだ後も依然としてその影響力を失わなかったのである。
燦然と輝く「倭文化」
新石器時代の初期、「倭人」が主に暮らしていたのは雲南の滇池一帯であったろう。彼らは水稲栽培の創始者であり、黄河文明と比肩できる長江文明を生み、育てた人々である。彼らは黄河文明とは違い、「高床式」と呼ばれる竹製の住宅に住んでいた。主食は米であり、黄河文明の主食である粟ではなかった。
「倭人」は雲南から川に沿って発展し、その文化を東アジアと東南アジアに伝えた。「倭人」の一部は、長江を下った。河姆渡遺跡(注5)で炭化した稲のモミや、高床式の住宅が発見されている。また一部の「倭人」は北上し、山東半島に到達し、ここで徐、淮、郯、莒、奄、莱などの小国を建てたと思われる。漢代にこれらの国々を「東夷」と呼んだのは、「倭人」によって建てられたからだと私は思う。
『史記』の「呉太伯の世家」(家の伝記)によると、周公の長男である太伯は、世継ぎ問題で呉に行き、そこで「断髪、文身(刺青)」し、国を建てた。「断髪、文身」は「倭人」の習慣であり、太伯に帰順した千余の家は、「倭人」であったに違いない。
『晋書』の「倭人伝」の中で、日本の「倭人」が自ら「太伯の後」と称しているのは、「倭人」が日本にまで到達していたことを示している。また『後漢書』の「三国志」に、「倭人」は「黥面文身」(顔と体に刺青)する、と記載されているのも、それを裏付けている。
「卵から生まれた」共通の伝説
『史記』の「殷本紀」の中に、殷の祖先に関する物語がこう記載されている。
「殷の契の母は簡狄といい、帝嚳の次妃であった。ある日、外出して川で浴していると、玄鳥が卵を落としていった。簡狄がこれを拾って呑むと、身ごもって契を生んだ」
この「契」こそ、殷の初代の王、湯王の始祖である。
同じような故事は、『史記』の「秦本紀」にも見える。
「秦の先祖は、帝顓頊の苗裔で、孫に女脩という者がおり、女脩は機を織っていた。玄鳥が卵を落としていったので、これを呑むと身ごもり、大業を生んだ」
顓頊は黄帝の孫であり、黄帝の名を借りたのは、自己の正統性を吹聴するためである。実は秦の血統と黄帝とは、なんら血縁関係はない。
面白いことに、徐国(注6)にも同様の卵の故事がある。『博物志』の「徐の偃王志」の中に、こういう記載がある。
「徐君の宮人が孕んで一つの卵を生んだ。不吉と思い、これを水辺に捨てた。独居の母は犬を飼っていたが、ある日、この犬が水辺で捨てられた卵を見つけ、くわえて母のところにもって来た。母は嫌がらず、これを孵化し、ついに一児を得た。偃(注7)でこの児を得たので、偃という名前にした。宮人はこれを知りてついにこれを引き取って育てた」
韓国の済州島にも、「三人の神人」に関する物語がある。それは、三神人が漢拏山に登って見ると、東の海より泥封された木箱が流れてきて、これを開けると、中に鶏卵の形をした玉の箱があり、中には三人の国王の娘が入っていた。三神人は三人の娘と結婚した、というものである。
こうした「卵から生まれた」という物語はすべて、帝王が自らの絶対的権威を樹立するためにわざと神秘化したものだとは言え、それが同一の文化の伝承であることは疑いのない事実である。「卵生」の源流は、「倭人」のトーテムの文化にまで溯ることができる、と私は考えている。
徐福の東渡の手がかりに
「倭人」に関する史料は乏しく、「倭人」や「倭文化」などについて全面的に解明することは不可能である。ただし、「倭人―東夷―徐国―斉文化―東渡文化」という線は、「倭人文化」や徐福(注8)を考察する手がかりとなるだろう。まったく無関係に見える古代文化の中に、内なる関連を発見するのは、心が躍ることである。(0810)