こんにちは。
茨城県の大井川和彦知事は昨日4月13日の記者会見で、外出自粛要請を全県に出すとともに、県内全ての県立学校を5月6日まで休校にすると発表。新型コロナウイルス、いよいよここ茨城も大変な状況になってきました。

さて話は変わって・・・
早いもので桜の季節は過ぎてしまいましたが、本日も懲りずに、わたくし臣(しん)が住む茨城県筑西市の桜をご紹介します。

以前書いた中舘観音寺(施無畏山延命院観音寺)のすぐ近くにある、八幡神社の桜です↓


境内の一部にはブランコや滑り台などが設置され、公園になっています↓


一の鳥居↓


二の鳥居↓



八幡さまと呼ばれる神社
八幡神社(諏訪八幡宮)
筑西市中館字八幡三八〇番地
当神社は、口戸の羽黒神社、大関の鹿島神社とさらに林の星宮神社、野の野村神社と二等辺三角形をつくる位置にある。
文治ぶんじ年中(一一八五~一一八九)伊佐朝宗(伊達氏の祖)は伊佐城主となった時、諏訪・八幡両神社を奉斎し、守護神として、累代崇敬した。
建仁けんにん二年(一二〇二)別当の観音寺とともに再建した。
明治六年四月村社に列格。同七年御神木より発火、社殿類焼しその後再建した。
同十四年上屋を新築した。
昭和二十七年十月二十四日宗教法人認証。
祭神・・・誉田別命ほむたわけのみこと(八幡神はちまんかみ)建御名方命たけみなかたのみこと(諏訪神すわかみ)
境内神社・・・弥栄町神社(素盞嗚尊すさのおのみこと)
祭祀・・・例大祭 十一月二十五日
施設・・・本殿間口二.五間、奥行二間。弊殿間口二間、奥行二.五間、拝殿間口三間、奥行二間、手水石、神明鳥居一基、狛犬一対、灯籠一対
中館村とは、「杉山私記」(明治二十七年発行)によれば、元中村と称す、その昔、東西に入江あり、その中央に住居せし、故にその中にむらがると言ふに依り、中村と号す、その後承平じょうへい年中(九三一~九三七)平将門追討の時の館の跡に田原藤太秀郷は三館を築きとき、その中館なるがゆえに今の村名となる。
「尊徳全集」によれば、江戸末期(天保年間)、下館藩領の当村は、天明、天保の飢饉で疲弊していたが、二宮尊徳先生の報徳仕法ほうとくしほうを受けて、立派に立ち直った。
荒れ地を起き返し、新田を開発し、人心を一新して、勤労きんろう、分度ぶんど、推譲すいじょう、至誠しせい、積小為大せきしょういだいを実践し村は救われたのである。この報徳の教えは今も受け継がれている。
平成二十一年三月吉日
贈・撰文 景観形成市民の会
管理者 中館八幡神社氏子中


桜と二の鳥居、狛犬、拝殿です↓


しだれ桜と拝殿↓


何の史料をもとに書かれたか記されていませんが、前述の案内板には、「文治年中」に「伊佐朝宗」が「伊佐城主」となり「諏訪・八幡両社を奉斎」した、とあります。
これは、文治5年(1189)の源頼朝による奥州合戦に参加した伊佐朝宗(『吾妻鏡』によれば常陸入道念西)が、伊佐郡の地頭職を安堵され、諏訪・八幡神社を建立した、という意味でしょう。
伊佐朝宗(常陸入道念西)は、奥州合戦の戦功により拝領した伊達郡に居を移して「伊達」を名乗り、後の仙台藩伊達氏の祖になった人物とされています。
つまりここ八幡神社は、伊達氏の祖ゆかりの場所、その伝承が残る場所なのです。

また案内板にもあるように、すぐ近くにある中舘観音寺(施無畏山延命院観音寺)は、ここ八幡神社の別当だったと思われます。
別当とは、神仏習合(神と仏は一体とする考え)が行われていた江戸時代以前に、神社を管理するために置かれていた寺のこと。
観音寺周辺は、鎌倉御家人である伊佐氏の拠点・伊佐城跡と考えられており、観音寺境内は伊佐城跡として茨城県指定文化財(史跡)になっています。
八幡神社境内は指定範囲外ですが、観音寺と一体的に営まれていたのであれば、八幡神社もまた伊佐城の一部、或いは極めて関係の深い場所だったことが推定されます。

こちらは本殿覆屋(上屋)↓


そして本殿↓


ちなみに、下館市史掲載の田宮左兵衛氏所蔵「下館領内神社寺院并縁起旧跡」によると、元文元年(1736)、仙台藩主伊達吉村が江戸から仙台への帰途、観音寺に詣でて伊達行朝廟(延命院殿御廟)に参り、ここ八幡神社(諏訪八幡宮)にも金百疋を奉納しています。


というわけで、話は「八幡神社の檜」に続きます。