こんにちは、みなさんお元気ですか?

本日は、わたくし臣(しん)が住む茨城県筑西市の歴史・文化財の紹介です。
歴史・文化財の記事は実に、平成25年に書いた「太平洋戦争における 筑西市民の思い出を語る講演会」以来、約3年半ぶりとなります。

そして、今回ご紹介するのはこちら↓

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筑西市中舘の施無畏山延命院観音寺(中館観音寺)にある伊達行朝廟(だてゆきともびょう)です。

筑西市公式ホームページの文化財解説によると↓

『廟は、観音寺本堂の裏手にあり、俗に伊達行朝の墓といわれています。
行朝は、仙台伊達家始祖朝宗より7代目に当たります。
廟の中には、高さ約1m(3尺)の石碑があります。碑面はかなり磨滅していますが、正面に「延命院殿念海円如大居士」と刻まれ、左右に「貞和四戊子歳五月九日寂常州真壁郡伊佐荘当中村城主伊達宮内大輔行朝公塔」と刻まれています。
行朝墓と刻まれていないことからも供養塔と思われます。』

となっていますが、これだけでは伊達行朝と観音寺の関係がよくわかりません。
そこで、現地の説明板に書かれている解説も併せてご紹介します↓

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現地説明板の解説↓

『伊達宮内大輔行朝公塔
延元3年(1336)足利尊氏は武家政治の再興をめざし、京にあって北朝を擁立して征夷大将軍となり、後醍醐天皇は吉野に追われ南北朝の争乱が起こった。
興国4年(1343)奥州伊達郡赤館(福島県)にあった伊達行朝は、一族の旧地である伊佐城(下館市中館[注:下館市は合併して現在筑西市。中館の表記は正しくは中舘])に入り南朝に組した。
行朝は北畠親房をたすけ、関城大宝城と相呼応し、尊氏の武将高師冬の軍と戦い、孤軍よく死守したがついに陥落し北朝方に降った後、行朝の供養塔が観音寺境内に建立された。
碑面は摩滅しているが、表に「延命院殿念海圓如大居士尊儀」側面には「貞和四戊子歳五月九日寂常州真壁郡伊佐荘当中村城主伊達宮内大輔行朝公塔」と刻まれている。
いずれにも墓とは刻まれていないことから考え、供養塔ではないかと推定される。
平成5年3月31日 筑西市』

以上の現地説明板の解説で、「筑西市中館が伊達行朝の一族の旧地」であったことは解りますが、まだちょっと説明が足りません。
そこで、もう少しだけ付け足すと・・・

そもそも伊達氏は、常陸国伊佐郡(いさぐん・いさのこおり、現在の筑西市の一部)をおさめていたとされる常陸入道念西(仙台藩伊達家では念西を伊達朝宗に比定)が、源頼朝による奥州征伐で息子たち(吾妻鏡によれば、常陸冠者為宗、同次郎為重、同三郎資経、四郎為家)が手柄を立てた事により伊達郡を拝領、次男の為重等とともに伊達郡に下り「伊達」を名乗ったのが始まり。
念西の長子である為宗は、伊佐氏を継いで伊佐為宗と名乗っています。
伊達行朝は念西の子孫で、行朝の子孫が後の仙台藩伊達家に繋がります。
伊達行朝の旧地とはそういう意味で、伊達氏発祥の地は奥州伊達郡ですが、更に遡れば筑西市(伊佐郡)に辿り着くのです。

また、現地説明板では伊佐城と観音寺の関係が不明ですが、現在観音寺が建っている場所こそ、伊佐城跡とされる場所なのです(ただし、伊佐城の所在地については諸説あります)。

ちなみに文化財の指定は受けていませんが、ここ観音寺では貞治3年(1364年)から600年以上、伊達行朝公の供養のために法華三昧という行事を続けています。

本当は他にも「もう少し説明が必要では」と思うところがあるのですが、話が長くなってしまうので、それについてはまたいつか記事にさせていただきたいと思います。


というわけでみなさん、筑西市が仙台伊達氏ゆかりの地だということをご存知でしたか?


■このブログ内で伊達氏・伊佐氏について触れた記事

天台宗施無畏山延命院觀音寺HP