こんにちは、みなさんお元気ですか?
さて今回は、弘前&平泉の旅4 毛越寺からの続きです。

毛越寺を後にした わたくし臣(しん)とその一行、次に向かったのは天台宗の東北大本山である中尊寺。

中尊寺は、毛越寺と同じく嘉祥3年(850年)慈覚大師円仁の創建と伝えられています。
その後奥州藤原氏初代の清衡が、前九年・後三年の役の戦没者供養と仏国土建設のため大伽藍を造営。
現在「中尊寺境内」は、国の特別史跡に指定されています。

こちらは中尊寺表参道の入り口と、その前にある弁慶の墓↓

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武蔵坊弁慶は源義経に仕えた元比叡山の僧で、兄・源頼朝と対立し藤原秀衡のもとに身を寄せた義経に同行。
秀衡死後、頼朝の威を恐れた泰衡(秀衡の子)に急襲されると、義経を守るため堂の入口に立ちふさがった弁慶は、敵の矢を受け立ったまま死んだ(いわゆる「弁慶の立往生」)といわれます。

こちらは明治42年に再建された本堂↓

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そして国宝・金色堂を守る新覆堂、金色堂はこの建物の中で保護されています↓

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全体に金箔が貼られ、まばゆいばかりの輝きを放つ金色堂(写真撮影禁止のため購入した絵葉書より)↓

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金色堂は奥州藤原氏初代の藤原清衡が天治元年(1124年)に建立したもので、京都府宇治市にある平等院鳳凰堂とともに平安時代の浄土信仰による建築の代表例。
須弥壇内には、藤原清衡、基衡、秀衡の遺体と泰衡の首級が納められています。

ちなみに奥州藤原氏は、文治5年(1189年)源頼朝率いる鎌倉軍に攻められ滅亡。
この奥州合戦には、わたくし臣(しん)が住む茨城県筑西市(当時の常陸国伊佐郡)を所領としていた常陸入道念西(伊達家譜によれば伊達朝宗)も参加していました。
念西はその後、伊達郡を賜って「伊達」を名乗り、伊達家の初代となっています。
藤原氏滅亡後は徐々に荒廃が進んでいった中尊寺ですが、江戸時代には伊達藩領となり、歴代の伊達家当主により堂社が修理されるなど手厚く保護されたそうです。

なお中尊寺は山号を関山と号し、山内の寺塔僧房を総称して中尊寺といいます。
本当にたくさんの建造物・文化財があり、とても全部は紹介しきれません。
今回の記事はここまでとさせていただきますので、お許しください。


というわけで、みなさんは中尊寺にお参りしたことがありますか?