こんにちは、みなさんお元気ですか?
ゴールデンウイークに突入し、ますます更新頻度が低くなっているこのブログ筑西歳時記・・・
もう5月だというのに相変わらず、ここ茨城県筑西市内の桜めぐりの続きです。

今回ご紹介するのは市内成田にある二所神社(にしょじんじゃ)、訪れたのは4月中旬のことでした↓

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「二所神社」として文化財指定されていますが、拝殿の額には正一位鹿嶋神宮、鹿嶋大明神とあります(令和5年 写真追加)↓



境内桜は既に散り始めていましたが、それでもとても綺麗でした↓

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枝垂れ桜もあります↓

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こちらは筑西市指定文化財(建造物)の本殿↓

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二所神社の祭神は、「新編常陸国誌」によると、武甕槌命(たけみかづちのみと)、経津主命(ふつぬしのみこと)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、大日霎命(おおひるめのみこと)、相殿として徳川家康、八雷神となっています。二所神社と称するのは、鹿島社(武甕槌命)と別雷神社を合祀したためで、他の祭神はその後合祀されたものと思われるそうです(参照:筑西市公式ホームページ)。

境内にある由緒を記した案内板には・・・

二所神社由緒記
一.鎮座地 下館市大字成田字社之内三八六番地
二.境内 二一五二坪
三.鹿嶋大明神 武甕槌命 雷神社 別雷命
四.由緒
後鳥羽天皇の御宇(平安時代後期)成田五郎助忠此神を領地に勧請し成田鹿嶋神と称し近傍十八邑の鎮守と為す。寿永二年(1182)右大将源頼朝卿が平家追討の時、成田五郎助隆は義経に属し、八島発向時武運長久を奉勧請する。源平合戦の折武功を上げた助隆は源頼朝卿より養蚕川筋十二郷を賜り、郷民と共に神徳を喜び、文治二年(1186)当地に鹿嶋神社を再建し大祭事を執行した。
慶安二年(1649)十月徳川家光公の帰依により祀田五石の朱印を授かる
享保十二年(1727)八月二十一日正一位を奉授される
明治九年(1877)旧暦八月別雷大神を合祀し二所神社と改称する
明治十二年(1880)旧暦八月十日郷社に別格する
五.祭事
大正年代まで西方馬場において流鏑神事を執行並びに近郷崇敬者により煙火奉納打ち上げ競等が行われた。現在では次の祭事が氏子によって執行されている。
元旦祭一月一日 疱瘡祭二月二十五日
例祭旧暦八月二十五日 風神祭八月二十二日
六.本殿 
昭和五十六年一月一日指定文化財となる
七.大榊
天然記念物平成五年十月二十一日市指定となる
八.末社
三日月神社 祭神 月讀命
疱瘡神社 同 大汝遲命
稲荷神社 同 倉稲魂命
天満宮 同 菅原道真
大杉神社 同 大物主命
修復 平成十六年三月三日

と、ありました。

ちなみにWikipediaによると、鎌倉御家人の成田氏の祖に助隆がおり、その孫に助忠がいるようです。由緒書にあるのはこの成田氏でしょうか。であれば、成田氏が養蚕川筋を所領していたのとほぼ同時期に、目と鼻の先の常陸伊佐郡に伊佐氏(伊達氏の源流の一族)がいた事になりますが、詳しい事はよくわかりません・・・。

なお境内では、もうひとつの市指定文化財(天然記念物)・大榊(おおさかき)も見ることができます↓

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榊は温暖な土地を好むツバキ科の樹木で、生息範囲は北は千葉房総地域であり、茨城県では珍しい樹木とのこと(参照:筑西市公式ホームページ)。

また、二所神社では大正時代まで流鏑馬神事と煙火奉納打ち上げが行われていたそうです。
その当時使われていたのでしょうか、花火の筒がおさめられていました↓

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はたして、どのような花火が打ち上げられていたのでしょう。


というわけで、二所神社の桜と文化財のご紹介でした。

■過去に紹介したことのある筑西市内の桜
下館町役場跡(羽黒山清瀧寺跡)の桜