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Webであなたの夢が叶う!

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Webであなたの夢が叶う!のHirokoです。

Webで数学、
数学史からみえてくるもの:ネピアです。

今日は、
紀元後の数学者:ネピアにフォーカスします。

1500
 ネピア (1550~1617)
  (スコットランド)
   著書「対数の規則の叙述」(1614 出版)
     「対数の規則の構成」(1619 出版)

ネピアは、
スコットランドの数学者、物理学者、天文学者、占星術師です。
対数の発見で知られています。


対数の発見

16世紀の天文学者達は、
星の位置を計測するために何十桁もある数値の計算を行っていました。
また、
当時の船乗り達は星の位置を元に船の現在地や進行方向を計算していたのですが、
桁数が非常に多い数値を計算しないといけないため間違いやすく、
航海の安全に悪影響をもたらす原因の一つとなっていました。

これらの事情を知ったネピアは、
桁数の多い掛け算を足し算に置き換える方法として対数を考え出したのです。
ネピアは20年という長い歳月をかけて対数の表を作成し、
1614年に7桁の数の対数表を発表しました。
しかし、
ネピアの対数は複雑だったため、当初は理解されませんでした。
そこへイングランドの数学者ヘンリー・ブリッグスがネピアの元を訪れます。
二人は対数に関する議論を重ね改良していき、
ブリッグスは10を底とすることを提案し、これが常用対数となります。
ブリッグスは常用対数の表を作成することをネピアと約束し、
表を完成させますが、その時にはネピアは既に亡くなっていました。

この対数の発明により計算が簡易になり精度も高くなったため、
大航海時代の長い航海をより安全に行えるようになりました。
更に、
後の時代のフランスの数学者ピエール=シモン・ラプラスからは
「対数は天文学者の寿命を2倍にした」と讃えられました。

明日はオートレッドにフォーカスします。

お楽しみに!

今日も最後まで読んでいただいてありがとうございました。

Webであなたの夢が叶う!のHirokoです。

Webで数学、
数学史からみえてくるもの:シモン・ステビンです。

今日は、
紀元後の数学者:シモン・ステビンにフォーカスします。

1500
 シモン・ステビン (1548~1620)
  (オランダ) 
   著書「小数」(1586 出版)
    10 進法による分数の表現=小数 表示,力の平行四辺形の法則,
    静水の器底に及ぼす圧力はその深さのみに依存する

シモン・ステビンは、
ヨーロッパの旧フランドル地方、
ブルッヘ(ベルギーのブルージュ)で生まれた数学者、物理学者、会計学者です。
十進小数の導入で知られています。


十進小数

小数自体はバビロニア数学の時代から存在していましたが、
小数点を表すものがなかったため、
前後の文脈から数値を判断しなくてはいけないという不便なものでした。
ステビンは、
1585年に出版した「十進分数論」において小数を発表し、
ヨーロッパに小数を導入しました。
ただし、
表記法は現在用いられているものとは異なっており
「0.678」は「6①7②8③」と表しています。
後にジョン・ネイピアによって、
小数点による表記法が提唱されました。


力の平行四辺形の法則

平行四辺形を用いて力の合成と分解を最初に考えたのはステビンでした。
彼は1586年に表した書籍の中で、力の平行四辺形について述べています。


明日はネピアにフォーカスします。

お楽しみに!

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Webであなたの夢が叶う!のHirokoです。

Webで数学、
数学史からみえてくるもの:フランキスクス・ヴィエタです。

今日は、
紀元後の数学者:フランキスクス・ヴィエタにフォーカスします。

1500
 フランキスクス・ヴィエタ (1540~1603)
  (フランス)
   著書「解析法入門」
    数式の記号化,等式の性質,未知数を母音の大文字・既知数を子音の大文字で表す

フランキスクス・ヴィエタは、
フランスの数学者です。
方程式の記述において「係数」という言葉を初めて使用したことや、解と係数の発見で知られています。


文字の使用

方程式ax^2+bx+c=0においてa、b、cを「係数」と呼びますが、
この言葉を初めて用いたのがヴィエタです。
また著書「解析論入門」において、
既知の量は子音b、c、d、未知の量は母音a、e、i、o、u等を用いて表しています。
ディオファントスの「算術」において未知数やそのべき乗は頭文字で表されていましたが、
既知の定数までをも一つの文字で表したのはヴィエタが初めてでした。
ただし、
ギリシア時代から1次は線分、2次は面積、3次は体積として
互いに異質なものとして考えられ、厳しく区別されていました。
そのため同じ次数のものだけが互いに比較されるべきであるという考えがあり、
この考え方からはヴィエタも脱却できませんでした。

明日はシモン・ステビンにフォーカスします。

お楽しみに!


今日も最後まで読んでいただいてありがとうございました。

Webであなたの夢が叶う!のHirokoです。

Webで数学、
数学史からみえてくるもの:ボンベリです。

今日は、
紀元後の数学者:ボンベリにフォーカスします。

1500
 ボンベリ (1526~1572)
  (イタリア)
   著書「代数学 Algebra」 1572 出版
    …方程式の複素数解,複素数の演算

ボンベリは、
イタリアのボローニャ生まれの数学者です。
虚数の研究で知られ、「代数学」という数学書を著しました。



虚数の研究

3次方程式を解く過程で、
解が実数の場合でも途中の段階で負の数の平方根が出てくる場合があります。
これは後に「虚数」と呼ばれることになる概念なのですが、
カルダーノは著書「アルス・マグナ」で3次方程式の解法を示す際に、
この虚数については明確な説明をできないままで終わっていました。
当時は0や負の数でさえまだ認められておらず
「負の数の平方根」である虚数は「役に立たないもの」としか認識されていなかったのです。

ボンベリはこの「負の数の平方根」という概念を重要なものであると認識し定義を与え
「虚数」というものの研究が進んでいくきっかけを作ることとなりました。
1637年にはルネ・デカルトが初めて「虚数(imaginary number)」という言葉を用い、
1777年にはレオンハルト・オイラーが虚数をiと表しました。

明日はフランキスクス・ヴィエタにフォーカスします。

お楽しみに!

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Webであなたの夢が叶う!のHirokoです。

Webで数学、
数学史からみえてくるもの:フェラリです。

今日は、
紀元後の数学者:フェラリにフォーカスします。

1500
 フェラリ (1522~1560 頃)
  (イタリア)
   4 次方程式の解法

フェラリは、
イタリアの数学者で、4次方程式の解法の発見で知られています。
彼は14歳の時に数学者ジェローラモ・カルダーノの家に召使として働き始めましたが、
その才能を認められカルダーノから数学の教えを受け、研究の手伝いをするようになりました。


4次方程式の解法

カルダーノは同じイタリアの数学者ニコロ・タルターリアから、
ある特定の形をした3次方程式の解法を教わりました。
この解法はまだ世間一般には公表されておらず、
カルダーノは「解法を公表しない」との誓いの元でタルターリアから教わったものです。

解法を得たカルダーノは弟子のフェラーリと共に一般的な3次方程式の解法等の研究に取り組みます。
この研究の過程で、フェラーリは4次方程式の解法を発見しました。
これは4次方程式を3次方程式に帰着させるという手法だったのですが、
この手法は一般的な4次方程式にも使える方法だったのです。

後にカルダーノは「アルス・マグナ」という数学書を出版しますが、
この本の中でフェラーリの4次方程式の解法についても記しています。

明日はボンベリにフォーカスします。

お楽しみに!

今日も最後まで読んでいただいてありがとうございました。