樋口真吉の痕跡を訪ねて中岡慎太郎館に行ってきました。
この幕末維新博の企画の中の
「四国の戊辰戦争」の講演を聞くのも狙いでした。
この錦旗を新政府から土佐藩に運ぶ役を樋口真吉が受けていた
ことで、樋口真吉の名前は、確かに出ていました。
ただ、それ以上の情報は中岡慎太郎館にはありませんでした。
しかし、何点か面白い発見がありました。
➀山内容堂公のこの手紙には驚きでした。
徳川家への恩顧を重んじる容堂公は公武合体派であり、
将軍に大政奉還を進言しましたから、討幕派に組しないと思われていたのに、土佐藩は討幕派になっていました。
その契機になったのは何か?幕府が朝敵になったことかと思いますが、この手紙に「200年来の徳川への恩は、1月3日までに尽き、幕府を助ける道はなくなった・・」と松山藩征討の命令書に書いていたのです。
この手紙を見たのは初めてでした。
②鳥羽・伏見の戦いで勝利した新政府は、土佐藩を褒賞していたのです。
幕府軍が優勢の中、討幕派は何とか勝利しました。
慶喜将軍が朝敵になったことのショックで、江戸に逃げ帰ったことが
敗因だと言われていますよね。
この勲功として、土佐藩は、1万5千両に賞金と、2本の刀を貰っています。
何とか土佐藩を討幕派につなぎ止めようとした思惑が見えてきます。
③樋口真吉が迅衛隊に加わっていた。
流れとして新政府から与えられた錦旗を運んでいたので、そのまま
討幕隊に加わったとは思っていました。
今回、改めて迅衛隊を調べてみたら、その名簿に真吉の名前が正式にありました。
この迅衛隊は新たに1月6日に組織された征討軍で、1月13日には
土佐を出発した新米の部隊です。
しかし、中身は素晴らしい近代的部隊でした。
部隊に医療班(野戦病院)のある部隊でした。
また現代風に給料が現金で支給され、郷里との手紙のやり取りまで
可能な部隊でした。
そして規律が厳しいものでした。
軍紀を順守させるために裁判役を置いていたんです。
樋口真吉は、まさに裁判役として登録されていました。
銃も7連発のスペンサー銃を装備していたとか。
これは南北戦争後にアメリカが売り込んできた銃です。
会津戦争までやり遂げて、帰郷する際には京都で明治天皇に謁見して、労をねぎらってもらったと言います。
この迅衛隊の規則が、その後の日本の軍隊の原型になったとも言われています。
この写真は樋口真吉のものですが、右側に銃が映っています。
会津戦争の帰途、横浜で写した写真だと鑑定されています。
龍馬より20歳年長の樋口真吉には、戊辰戦争に従軍した間、体力的には厳しかったのではないでしょうか。
戦闘に加わることはなく、荷駄隊を指揮しながら、部隊の裁判役を任としていたようです。
明治3年、真吉は東京で永眠しました。
樋口真吉と中岡慎太郎はそれぞれの日記に、互いに名前が残されています。
もう少し研究すれば、二人の関係が何か見えてくるかもしれません。
往復400kmを超えるドライブでしたが、有意義な訪問でした。
完