150年前の明治元年(正確には慶応3年)に堺事件が起きた。
堺の町の治安維持に従事していた土佐藩士が、フランス海軍の兵士
11名を殺傷した事件である。
20名の土佐藩兵士が切腹と決まり、刑場で11名まで切腹をした所で、
その凄惨な姿に、残る9名は切腹中止となった。
その9名は土佐藩に返され、この四万十市入田村に流罪となった。
そして9名の中の一人、川谷銀太郎が不幸にも病没したのだった。
その彼を偲んで150年忌慰霊祭が8月5日に、現地で行われた。
前夜、はるばる堺市から「堺事件を語り継ぐ会」10名の方々、
川谷銀太郎の郷里、香美市から2名、
堺事件関係者の子孫の方が2組、
そして地元の方50余名が参加して盛大に前夜祭を行い、
堺事件関係者と、川谷銀太郎を偲んだ。
慰霊祭の挙行には地元の広井健二氏の思いが深く関わっていた。
その彼の思いをお伝えしたく、彼の文章をご紹介します。
淡々と歴史の事実を並べるだけでは、こうした追悼の儀式は
多くの人の心に響かない。
9名の流罪者は、明治改元の恩赦で9月8日に無罪になった。
川谷銀太郎はその3日前、9月5日に病死したというから、
本人も悔しいにちがいない。
広井氏は、何か堺事件に縁のある人物だったのだろうか、
本年2月23日に堺市で行われた堺事件150年忌法要慰霊祭に
偶然参加したことから、彼は51年前の記憶を呼び覚まし、
川谷銀太郎の死に対して、感じるものがあったと思われる。
今回の盛大な慰霊祭を企画し、運営するという大役を果たした
広井健二氏に敬意を表します。
完