劇場としてのラウンドハウスが正式に運営を開始したのは1967年、終りを告げたのが1983年である。現在のラウンドハウスは、2006年に旧団体とは異なる新組織により運営開始された(※1)。今回から数回に分けて紹介するのは、両ラウンドハウスの空白期間となる1983〜2006年についてである(図1)

 

(図1)空白期間

 

 

 一般にネットや書籍に掲載されるラウンドハウスの歴史では、この空白の23年の記述はわずかで、しかも単に放置されて廃墟だったかのように語られる。しかし実際はこの期間には興味深い出来事がいくつか起きている。これもまたラウンドハウスが単なるイベント会場におさまらない理由である。

 

 なお、本項ではラウンドハウスの呼称について、1967年に開館した方を「旧ラウンドハウス」、2006年に開館した方を「新ラウンドハウス」と区別して表現する。

 

(※1)ここで示す空白期間の年号は、あくまで劇場としての正式運営開始、あるいは終了となった年号であり、まったくイベントが行われていない期間を示すものではない。たとえば、旧ラウンドハウスを運営するセンター42が、実際に建物の使用権を得たのは1964年だが、劇場運営の最低限の改装が行われ、かつ演目を初公演したのは1967年である。ちなみに、それ以前に行われた演目外のイベントで最も有名なものは、おそらく1966年に行われたインターナショナル・タイムズ誌の創刊パーティーだろう。新ラウンドハウスもまた同様で、1997年の運営団体立ち上げから2004年の改装工事着工までの約7年間にあっても、いくつかのイベントで用いられている。さらに全空白期間の23年を通して、映画やプロモーションビデオの撮影で何度か用いられている。

 

 

 

 

ラウンドハウスの閉鎖

 

 旧ラウンドハウスが閉鎖となったのは1983年3月末日のことだが、何もこの日に閉鎖が決まったわけではない。決定はその前年である1982年の10月1日に発表されており、この決定は運営団体であるラウンドハウス・トラストの理事会で下された(※2, ※3)

 

 閉鎖の理由は一言でいえば資金難だが、決定打となったのはアーツ・カウンシル(イギリス文化庁外郭の独立行政法人)からの助成金が、運営継続には不十分な額だったことである(※2, ※3)。これはラウンドハウスが公的補助金に大きく依存していたことを示し、その運営が政治や行政の動向に左右されやすかったことを示す。

 

 これまでのネットや書籍でみられるラウンドハウスの解説には、こうした国内政治がまるで説明されず、それがこの23年を静かなものとして誤って伝えている。この空白期間を説明するには多少なりとも政治の知識が必要となる。

 

(※2)Daily Telegraph 1982年10月1日 p19

(※3)Guardian 1982年10月1日 p2

 

 

 

 

1979年の政権交代

 

 イギリスの政治が保守党労働党の二大政党ということは、私たち日本人にも知識があるだろうし、二大政党は日本のそれとも似ていて実感しやすい。たとえば昭和の日本では自民党と社会党が二大政党をなしていたし、現在では、かなりバランスは悪いものの、自民党と立憲民主党が二大政党といえるかもしれない。この二大政党の対立構造こそ最初に抑えておくべき知識である。

 

(図2)二大政党(日本とイギリス)

 

 

 ここで注目したいのは1979年という年である。あくまで旧ラウンドハウスにとってのこの年は、芸術監督であるセルマ・ホルトの新体制により、本格的な改装工事が行われた年にすぎないが、政局に目を向けると、イギリスの国政が激変し、総選挙で保守党が大勝して労働党から政権を奪取している(図3)

 

(図3)イギリスの政権

 

 

 ラウンドハウスと政治との関係について、ここまで聞いてもまだピンとこない人には、今一度本ブログを読み返してもらい、旧ラウンドハウス誕生の経緯を思い出してほしい第15回:関連書籍(1)第28回:ロックのラウンドハウス その1(1966-75)

 

 改めて簡単に説明するなら、当時のラウンドハウスの運営母体(センター42、ラウンドハウス・トラスト)左翼団体であり、労働組合や労働党と密接な関係にあった。つまりラウンドハウスは労働党政権下で誕生し運営されており、政権交代は逆風の不安材料になりうるのだ。不況や財政改革でまず仕分け対象にされるのは芸術予算というのが定番であり、ラウンドハウスはまさにその立場に置かれていた(図2)

 

 そもそも旧ラウンドハウスは、従来の伝統演劇の劇場ではなく、新興演劇や実験演劇のための劇場だった。このタイプの演劇は少数派のために、当然会場は小規模なものになりがちだが、旧ラウンドハウスはこの種の劇場としては、中規模会場を目指す初の試みでもあった。これは運営の多くが手探りで不安定なものだったことを示す。実際に設立時(1967年)の資金繰りから難航し、最終的にイギリス首相ハロルド・ウィルソンのテコ入れでどうにか始動できた。それもこれもウィルソンが労働党員であり、またラウンドハウスの運営団体が労働党支持者だったためである(図3)

 

 

 

ねじれ状態

 

 もうひとつ当時の政治知識で重要なのは、国政とカムデン区政ねじれ状態にあったことである(図4)。つまり国政は保守党に代わったものの、一方のカムデン区政は依然として労働党が支配しており、その後に対立することは確実だった。わかりやすく近年の日本でたとえると、2016年の東京都知事選で小池百合子(都民ファーストの会)が勝利し、自民党政府と激しく対立したあの時期である。

 

(図4)

 

 

 1979年イギリス首相の座に就いたのはマーガレット・サッチャー。イギリス初の女性宰相で「鉄の女」の異名をとり、強いリーダーシップとかつてない大改革を断行したことで知られる。その結果、世界恐慌以来の失業率を生み出す大失態となり、これはロック・ミュージシャンにとって格好のメシのタネとなった。ピーター・ガブリエルのシングル「ドント・ギブ・アップ」(1986年)は、まさにこのサッチャー政権での失業問題をテーマにしたヒット作である。

 

 

 

 そんなサッチャーが改革最大の障害とみなし、数々の策略を講じ攻撃したのが他でもない労働組合である。先述のとおり、労働組合はラウンドハウスの支持母体でもあった。

 

 また当時のロンドン市政はかろうじて保守党支配下にあったものの、労働党勢力は依然として強く、3年後のロンドン市議会選挙では労働党にその座を明け渡している(図4)。これはサッチャーの改革にとって大きな障害であり、後に政府が極めて大胆な攻撃策に出ることとなって、これがラウンドハウスを直撃するのだが、それは追って述べる第54回

 

 

 

 

次回は、ラウンドハウス争奪戦とロンドン消滅について