今回からロック・ライブの会場としてのラウンドハウスについて紹介。

今回は1960年代後半から70年代半ばまでの、いわゆる「アート・ロック」の時代。

 
 
 

現在定着しているラウンドハウスのイメージは、かつて60年代末〜70年代の「ロックの伝説的会場」というものだろう。しかしラウンドハウスはそもそも演劇用の劇場として設立され、あくまでロックの公演は演劇が休演となる週末のイベントだった。単純計算するなら演劇公演の方がロック・ライブの6倍多いことになるため、ロックよりむしろ演劇の伝説的会場というイメージになりそうなものだ。なのになぜロックのイメージが固着したのか。

 
 
 
 

芸術運動と社会運動

 

60年代末のロンドンにおけるロック・ムーブメントの特徴は、一方で享楽的なスウィンギング・ロンドン(※1)に内包されつつも、その一方でヒッピー・ムーブメント(※2)がもたらした左翼思想やリベラル思想をも内包していたことだ。簡単にいえば、単なるらんちき騒ぎでもあったが、平和や福祉の社会運動でもあったのである。

 

この運動の発祥をたどると、1966年ジョン・ホプキンズを中心に組織されたロンドン・フリー・スクール(LFS)にあるようだ。LFSでは移民地区の貧困層の生活向上活動を行っており、その資金集めのためロック・ライブを開催する。ホプキンズはUFOクラブを設立し、当時無名ながらも最新で独自のロックを演奏するミュージシャンを集めた。こうしたミュージシャンは演奏場所がかぎられていたので、互いの思惑は一致する。以後こうしたチャリティ・ライブが新たなロックを育てていくことになる。

 

この関係性がラウンドハウスと合致した。というのもラウンドハウスは単なる劇場として始まったわけではなく、50年代に登場した現代演劇のための劇場だったからだ。それ以前の演劇はシェークスピア作品のように形式化されたもので、主に富裕層や上流階級の娯楽だったが、一方の現代演劇は題材を庶民生活に定め、テーマを社会批判や問題提起に置き、当時の社会運動の機運を内在していた。

 

当時イギリスを含む西欧諸国は共産主義の拡大を警戒していたため、現代演劇は検閲や公演場所の制限にさらされていた。そのため現代演劇作家アーノルド・ウェスカーが中心になり、開かれた劇場としてラウンドハウスの設立となった。このあらましはすでに本ブログ第15回で説明したとおりである。

 

(※1)スウィンギング・ロンドンは、1960年代後半に起こったロンドンの若者主導の文化気風。

(※2)ヒッピー・ムーブメントは、1960年代後半にアメリカ西海岸を中心に起こったカウンターカルチャーで、保守的な社会制度や価値観を否定し、自然回帰や愛と平和を訴えた運動。

 

 

 

 

 

ロックの会場

 

ラウンドハウスは1964年に劇場化を開始したものの、資金問題により改装作業は継続的に進められることとなり、最初の演劇作品が上演できるまでにはその後4年ほどかかることになる。そうした資金獲得の一端としてラウンドハウスは外部にレンタルすることとなり、劇場完成よりも2年ほど早くロックのライブに貸し出されることとなった。当時若者を狂乱させたロックであれば確実な収益が期待できたし、また当時のロックは大掛かりな機材に頼ることなしにライブが行えた。

 

ちょうどそのタイミングにロックの伝説的イベントが重なる。それが1966年10月に開催された『インターナショナル・タイムズ(『it』)』の創刊パーティである。『it』は前節で述べたジョン・ホプキンスらによって創刊された新聞で、リベラルな情報とアートの総合紙であり、イギリスのヒッピー世代の要求に応えるものだった。

 

『インターナショナル・タイムズ』第1号

バックナンバーは、公式アーカイブで現在も読むことができる

 

 

このパーティーは正確にいえばロックのライブではない。よくいえば享楽的な総合アート・イベント、悪くいえば無節操なレイブ・パーティーである。会場内は奇妙で極彩色の照明に彩られ、その中で裸の男女がゼリーにまみれて這い回るパフォーマンスや、当時としては奇妙な即興音楽が演奏された。こうしたパーティーは従来の音楽演奏のように耳を傾けるものではなく、空間全体に身を委ね幻惑体験を楽しむものだった。90年代以降のテクノ/エレクトロニカのレイブ・パーティの原型といえるかもしれない。

 

当時のロンドンでは、こうした混沌としたパーティ・イベントが密かに行われ、最新のアート・イベントとしてさまざまな業界人が集い交流していた。こうしたパーティーがその後の70年代前半のアートロックを生むことになる。その主な会場となったのが先に紹介したUFOクラブマーキーであり、その立役者となったのが先述したジョン・ホプキンズたちである。このイベントで演奏されたのがいわゆるサイケデリック・ミュージックであり、その代表的なバンドがソフト・マシーンピンク・フロイドだ。

 

『インターナショナル・タイムズ』創刊パーティーのビラ

 

 

こうしたパーティ・イベントはドラッグの温床になったことから警察の取り締まりを受けるようになり閉鎖されるようになる。また当初は小さなライブハウスやクラブで行われていたが、若者の間に広く知れ渡るにつれて大きな会場が必要になった。そこで中規模会場であるラウンドハウスが選ばれることとなる。

 

 

 

 

 

1970年代前半

 

1968年の夏になるとラウンドハウスの改装が進み演劇公演ができるようになり、ロックのライブは演劇の休演日となる日曜日へと追いやられる。かといってロック・ライブが衰退することはなかった。週末のライブ・イベントは常に盛況で、1970年以降になるとかつてのパーティー・イベントは姿を消し、そこから育った新たなロック、いわゆるアート・ロックのライブへと変化する。

 

特に1970年の春アート・ロック狂乱の年となった。ラウンドハウスが平日までもロックに解放され、連日のロック・フェス会場となったのだ。3月にはアトミック・サンライズ・フェスが行われ、4月にはポップ・プロムスが、そして5月にはカムデン(ロック)フェスが行われ、ロック・ファンが当時最新のロックを求めて一斉にラウンドハウスに集った。

 

(左)アトミック・サンライズ・フェスティバル

(右)ポップ・プロムス

 

 

この春のロック・フェス、特にカムデン・フェスは好評だったことからその後定番となり、71年、72年とラウンドハウスで行われることとなる。当時の出演者をリストアップすると、グラム系、プログレ系、メタル系の錚々たる面々で、70年代ロック・ファンであれば誰もがタイムスリップして観に行きたくなるだろう。


カムデン・ロック・フェス(左から1970、1971、1972年)

 

 

 

 

次回の第2回は70年代半ば以降、パンクの時代について。

 

 

 

 

 

【参考資料】

 

書籍『Off-Centre Stages: Fringe Theatre at the Open Space And the Round House, 1968 1983』(University of Hertfordshire Press)Jinnie Schiele著、2006年8月30日

 

論文『1960年代, ノッティングヒルにおけるロンドン・フリー・スクールのメディア戦略 : John 'Hoppy' Hopkinsの「ハプニング」の作り方』西川麦子 著、「甲南大學紀要 文学編 166号」pp87〜104、2016年3月30日


音楽新聞『Melody Maker』(IPC Media)1966年〜1983年

 

論文『戦後イギリス若者文化再考―「スウィンギン・ロンドン」とその余波―』楠田真 著、(日本大学 総合社会文化 甲第4858号)2014年3月25日

 

書籍『ピンク・フロイドの狂気』 (P‐Vine Books) 、マーク・ブレイク著/中谷ななみ訳、 2009年1月16日