今回はパンク/ニューウェーブの時代のラウンドハウスについて。

 

 

 

経済危機から生まれたもの

 

1974年になると、第27回でも述べたように、ロックのイメージにジャズも加わる。それは1974年にラウンドハウスがロンドン・ジャズ・ウィークの会場となって成功を収め、以後ロンドン・ジャズ・ウィークの会場がラウンドハウスに固定されるからである。

 

この時期は1973年に起こったオイルショックによりイギリス経済が激烈なインフレ。またラウンドハウスは演劇企画に思うように観客が集まらず、経営方針を見直すことになった。その結果積極的に外部にレンタルすることとなり、従来は演劇専用だった平日もロック・ライブに貸し出すようになる。

 

この時期はちょうどロック界の次なるムーブメント、パンクの勃興前夜にあたり、図らずもラウンドハウスはこの新たなムーブメントを先取、そして後押しすることとなる。

 

 

 

 

1970年代後半

 

1976年にパンクの先鋒セックス・ピストルズが登場すると、彼らの破壊行為や人身事故が社会問題となり、多くのパンク・バンドが会場から締め出されることとなる。もともとパンク・バンドは小さなライブハウスを拠点にしていたが、ブームが高まるにつれ次第に中規模会場が求められるようになるものの、そうした会場の多くはパンク排除の傾向が強かった。

 

そうした中でラウンドハウスはピストルズこそシャットアウトしたものの、アーティストを見極め多くのパンク・バンドを受け入れた。

 
  

パンク・バンドのラウンドハウス公演の広告(一例)

 

このようにラウンドハウスは劇場設立以来、常にブリティッシュ・ロックの新ジャンルを受け入れ、その後押しをしてきた。初期にはサイケデリック・ミュージックを、次いでアート・ロックを、そしてパンク/ニューウェイブを支えた。これらがラウンドハウスで育ち、その後に世界各国へ広まっていったのである。これがラウンドハウスが劇場でありながらロックの会場として知られるようになった理由だろう。

 

 

 

 

ロックを支えた運営方針

 

ロックを支えることとなったラウンドハウスの運営方針は、ラウンドハウス・トラストの理事長ジョージ・ホスキンスの手腕によるものだ。

 

ホスキンスはラウンドハウス設立当初から、芸術監督のアーノルド・ウェスカーと二人三脚で運営してきたものの、1970年になると二人の間に決定的な溝ができる。

 

あまりにもウェスカーの夢想的で経済感覚欠如のために負債が増し、またウェスカー自身の作品『友よ』の公演は振るわず短期間で打ち切りになった。そこにホスキンスが差し替えた作品が『オー!カルカッタ!』という、出演者全員が全裸で演じる派手な前衛作品だった(※)

 

ウェスカーは収益のために話題性で上演作品を決めるホスキンスの方針を批判。さらにウェスカーはロックを芸術とみなさず、単なる若者による低俗で一過性の騒動ととらえていたため、ラウンドハウスでロック・ライブを行うことにも反発していた。

 

結局ウェスカーは1970年12月に辞職、その後ラウンドハウスはホスキンス指揮下で収益が見込める作品の選定と、積極的な会場レンタルに舵を切ることになる。

 

ホスキンスの目論見は成功し、その後1975年には劇場設立当初の計画通りにラウンドハウスの改装を終え、また総合施設の併設まで果たすことになる。この間数多くのロック・ライブが行われ、多くのジャンルが育ち、多くのアーティストが羽ばたいていった。


(※)ウェスカーの『友よ』は5週間ほどで終了、それに対し『オー!カルカッタ!』はラウンドハウスで2ヶ月公演を終えると劇場を2度移し、最終的に連続9年半(1970年7月27日〜1980年2月2日)の超ロングラン作品となった。

 

 

 

 

思わぬ終焉


しかし1977年の春に事件が起こる。ホスキンスが病に倒れ、新理事長・芸術監督として外部からセルマ・ホルトが迎えられたのだ。

 

ホルトは現代演劇の演出家だったことから、ラウンドハウスを純然たる演劇専用の会場にする方針に転換、より劇場にふさわしい建物の改装を行う一方で、ロックの完全な締め出しにかかった。

 

ホルトのこの決定は一方で地域住民が訴えていた苦情、つまりロック・ライブの騒音問題や、60年代のドラッグ蔓延のイメージ、そしてパンクの会場としての治安問題への解決策ではあったが、もう一方ではウェスカーの姿勢に近い狭量な芸術観点でもあった。

 

この結果、ラウンドハウスでは予約ずみを含む1978年秋までのロック公演は行われたものの、それ以降は二度とロックのライブが行われることはなかった。その一方でジャズやクラシックのライブにはラウンドハウスを解放し、カムデン・ジャズ・ウィークも継続して行われることになった。

 

こうした状況は、ロック・アーティストやファンにとってはさぞかし不公平に思えたことだろう。もはやラウンドハウスはロックの象徴ではなく、芸術差別の象徴となってしまった。

 

このホルトの方針はラウンドハウスの経営を悪化させることとなり、負債が積もった1983年春にはとうとうラウンドハウスは閉鎖されることになる。ここで劇場ラウンドハウスの歴史が幕を閉じる。

 

現在のラウンドハウスはその後23年を経た2006年になって新たな経営陣により再興されたもので、今ではさまざまなイベントが自由に行える総合芸術会場になっている。

 

 

 

【参考資料】

 

書籍『Off-Centre Stages: Fringe Theatre at the Open Space And the Round House, 1968 1983』(University of Hertfordshire Press)Jinnie Schiele著、2006年8月30日

 

音楽新聞『Melody Maker』(IPC Media)1966年〜1983年

 

演劇雑誌『PLAY AND PLAYERS』(1970年9月号)レビュー:p.43-46

 

新聞『Guardian』1970年〜1980年

 

 

 

次回は『ナショナル・ロック・コンテスト』について。

ラウンドハウスはこのコンテストの象徴でもあった。