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世の中にはたくさんの瞑想法があります。
たくさんありすぎて、それぞれどう違うのか、わかりにくいです。
しかし、今日の話を理解すると、わかりにくい瞑想の全体の見通しが、かなり良くなるはずです。
さて、仏教系の瞑想はイロイロありますが、大きく分類するとサマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想に分けられると言われます。
サマタ瞑想は、ざっくりいうと集中する瞑想です。
ヴィパッサナー瞑想は観察する瞑想です。
サマタ瞑想では、呼吸やマントラ(特定の言葉)などの、1つの対象に意識を集中させます。
ヴィパッサナー瞑想では、1つの対象ではなく、自分の体や心、目に見えるモノや聞こえる音など、イロイロな対象をあるがままに観察します。
仏教系の瞑想では、ヴィパッサナー瞑想が重視されています。
しかし、あるがままに物事を観察する というのは、実はとても難しいことなんです。
ナゼかというと、人の頭の中は、いつもイロイロな思考や感情でごちゃごちゃしていて、散らかり放題だからです。
頭の中で次から次へと思考や感情が浮かんで、それに振り回され、どっぷりとつかっていて、周りがよく見えなくなっています。
それが普通の状態です。
その散らかった頭では、あるがままに物事を観察することができません。
例えるなら、すごくうるさい工事現場で、じっくりと読書をしようとするようなものです。
工事の音がうるさくて、とても読書なんてできません。
物事をあるがままに観察したくても、心が思考や感情でいっぱいでは、観察ができないのです。
サマタ瞑想は、そのにぎやかな状態を、観察ができる状態まで持っていくのです。
工事の音をある程度静かにして、読書ができる状態にするわけです。
サマタ瞑想では、何か一つの対象、たとえば呼吸に意識を集中させることで、心が思考や感情に巻き込まれないようにします。
心をある程度静かにして、ヴィパッサナー瞑想の下地を作るのです。
また、心が思考にどっぷりつかっている状態は、心と体が離れている状態といえます。
心が、思考による空想の世界に飛んでいて、体に収まっていないのです。
あるがままに世界を観察するには、五感を使う必要があります。
五感は体に備わっているので、五感を使って世界を観察するためには、心が体に収まっていないといけません。
心と体が離れていると、五感の情報が心に充分入ってこないんです。
サマタ瞑想によって、思考から抜け、呼吸に意識が向いてくると、心が体に収まります。
そうなるとようやく、五感を使って観察するヴィパッサナー瞑想ができるようになります。
では、どのくらいサマタ瞑想をやったら、ヴィパッサナー瞑想に行けるのでしょうか?
この基準は、流派やメソッドによってイロイロです。
サマタ瞑想をひたすらやってやってやりまくって、究極に集中力がついてからじゃないと、ヴィパッサナー瞑想をやらない流派もあります。
ある程度サマタ瞑想ができたら、さっさとヴィパッサナー瞑想に移る流派もあります。
サマタ瞑想はほぼやらずに、初めからヴィパッサナー瞑想をやる流派もあります。
この辺りは、各流派で、サマタとヴィパッサナーをどのように定義しているか、
二つの瞑想の関係性をどのように捉えているか、によってかなり違ってきます。
それぞれ考え方が違っていて、流派同士で議論になるところです。
私がやっている流派(チベット仏教 カギュ派の瞑想)では、ヴィパッサナー瞑想に移るタイミングは、明確に定められていませんでした。
サマタ瞑想が深まっていくと、意識がクリアになり、自然とイロイロなものが見えてくるようになる。
そうなると、ごく自然にヴィパッサナー瞑想に移行していく。
そのタイミングは人によって異なるので、決まったタイミングでサマタを打ち切り、意図的にヴィパッサナーに移行する、という訳ではない。
そういう教わり方をしました。
この辺りは、本当に流派によってイロイロですね。
次回はサマタ瞑想の次の、ヴィパッサナー瞑想について、詳しく話していきますね!
つづき↓
瞑想の基礎知識!『ヴィパッサナー瞑想』とは?
https://ameblo.jp/shiko-kankaku/entry-12632186882.html
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