ギンレイの映画とか

ギンレイの映画とか

 ギンレイ以外も

飯田橋にあるギンレイホールにデジタルシステムが入ったと聞き、まだやる気があるのを知って、又ギンレイ・シネマクラブに入ろうと決めた。
これを期に、最近つとに怠けていた感想文という駄文をつけてみることにした。

 監督の自伝的映画。70年代のある夏を描いている。この頃の中国というと文化大革命を省くことは出来ない。それは主に反省を含んでいる。つまりいき過ぎた時代、それによる不幸、名誉回復など。ニュースでもよく取り上げられたが、当時の人々の考え、その後のことなど思うことは多いのではないか。日本では中国のこととして、あまり気にしなかった人が多かったが、大いに気にして文革の思想にハマる人もいた。

 

 この映画ではそのころまだ子どもだった監督にとっては直接彼に対しての波はかからなかった。カバレリアルスティカーナの流れる中(監督はこの音楽がお気に入りのようすだが、私は合わないと思う)なにしろイタリアの農村が思い浮かべられるため、似た感じの音楽を作って付ければ良かった。彼に実際こんな思い出があったのかどうかは知らない。だが昔の思い出は思いっきり美化されているように見える。又、それはそれでいいと思う。文革で荒れた北京は子どもにとって自由に遊べる場が多かった。そこで暴れたり喧嘩したり、ちょっといけないことをしたり、いい思い出作りになっただろう。

 

 映像はきれい、俳優もなかなかよくやっている。当時の雰囲気もよく表れている。だけど何か物足りない。つまるところ、思い出の美化以上のことがないということ。別れは悲しいものだったろうが、それ以外には小さな傷さえない。引っかかりがない。挫折がない。それでいてハッピーエンドでない。紅衛兵はひどい傷を負ったが、彼らよりはましな世代だったといえよう。

 

監督 チアン・ウェン

出演 シア・ユイ、チアン・ウェン、ニン・チン、コン・ユエ、シャン・ナン、タイ・シャオポー、ワン・ハイ、タオ・ホン、ヤオテンアルカー、スーチン・カオワー、ワン・シュエチー、ワン・シュオ、ファン・シアオカン、フアン・ホア

1994年

 アメリカで運転免許を持たない人がいるなんて考えられない。国土は広く地方では公共交通機関が少ないと聞く。買い物ひとつでも車を使ってするらしい。年少の学生は親に送り迎えをしてもらうし、大きくなれば免許をとって自分で運転して通うことになる。このように免許と車がなくては生きていけない。

 

 73歳のアルヴィン・ストレイトは免許を持ってない。しかも頑固、自分で決めたことは絶対にゆずらない。何を決めたかというと、76歳の兄ライルが心臓発作で倒れた、その見舞いに行くというのだ。行けばいいじゃないか。二人の仲が険悪で別れた経緯があって、10年も会っていない。もしかして会えないまま亡くなりでもしたら後悔しきれない。

 

 深刻に考えるほどのことではないと思う。兄弟げんかなんてよくある話だ。病気の見舞いは当然のこと。ただ行き方を難しく自分に課して償いにした。映画のポスター写真が語るように、夕焼けの空の下、小さなトラクターでゆく老人。それそのままのストーリーで、劇的展開はない。事実は小説よりなんとかというけど、この事実は事実でおもしろい。数百マイルもの道程に出逢うのは人、動物、事故でさえスムーズに通り過ぎる。

 

 いくまでの道は楽ではない障害がある。なにしろトラクターがのろい。歩くくらいの速度で道の右端を進む。横を通る車は小さいのから大きいのまでさまざま。道路を鹿がいたり、ヒッチハイカーがいたりして、気がまぎれることは多い。

 

 下り坂でトラクターが故障してブレーキが効かなくなって大事故を起こしそうになる。ちょうどそこは人家のある場所だったからよかった。誰もいない道路ぎわで死んでいたかもしれない。なんとか事故はくいとめた。近所の住民がかけ寄ってくれて、なんやかんや助けてくれるのがうれしい。まずエンジニアがトラクターを調べて故障の原因、どこをどう直せばいいか、さらに修理までやってくれる。たまたまこの町で困り事が起きたのだから、みんなで手助けするのは当然ということ。彼らは暇を持て余していて、いい時間潰しになったようなもの。彼らの無償の奉仕に助けられて命拾いしたアルヴィンは事故にこりたりはしない。あくまでも初心貫徹、それでなくちゃ。

 

 トラクターはのろくても前進を続ければ到着するもんです。道を外れて行くと古びた建物が見えてくる。こんなとこに人がいるように見えない。知らない人の家なら見向きもしないだろう。しかしここを目指してやってきた。こここそ目的地、ドアをノックする。人の影が見える。人が出てきた。兄だ。兄のライルだ。何しにやってきた、という感じではない。けんか別れは過去のこと。久しぶり、様子を見にきてくれた、と喜んでくれた。

 

 頑固なアルヴィンの願いと行動が報われた。ただし一人では成し遂げられなかった。いったい何人の人に助けられたんだ。

 

監督 デイヴィッド・リンチ

出演 リチャード・ファーンズワース、シシー・スペイセク、ハリー・ディーン・スタントン

1999年

 1936年夏、コトフ大佐は別荘にいた。映画の始めの方に彼の威勢をあらわすエピソードが出てくる。軍隊の横暴を一蹴してしまったのだ。なにしろ彼は革命の英雄なのだから。そこに昔からの知り合いであるドミトリがやってくる。彼はコトフの妻マルーシャの恋人であった人物だ。それは10年前のことだった。あの夏が終わり、彼らには別れがあり、それっきりになっていたはずであった。事実、あれは過去の出来事に過ぎない。では、なぜ彼はやってきたのか。

 

 ここからは、謎解きの面白さになる。だが、ただ真実を少しづつ出してゆく面白さだけでない、真実のもつ重さが実に辛い。人間て、歴史の波に翻弄されている時は抵抗のしようがないものなのか、どうしようもない場合もあるのか、と弱気な気持ちにさせられてしまう。今から考えれば、スターリンという怪物が悪の根源だったわけなのだが、その当時はそれを指摘する人もいなかった。というより、指摘するような人物は「消されていた」わけで、戦争中の日本みたいなもので、言論統制が行き届いていた。全体主義の恐さがここにある。権力を持つと、それに溺れるのも、また人間だ。権力を集中されることの恐ろしさは身に染みているはずなのに、いざ、それが自分の手にあると、とたんに王様になってしまう。

 

 映画では、はっきりとは語られていなかったが、コトフは相当なくせ者だったのではないか。革命の英雄というのも、どういう手段でそうなったか、分かったものではないし、ドミトリとマルーシャを引き離したのも彼なのだ。ただ、コトフをミハルコフが演じているため、良い人物に見えてしまうところに落とし穴がありそうだ。だが、そうだったにせよ、コトフを反革命の徒に仕立て上げ、葬り去る仕打ちにでたのは、単なる個人的な恨みによるものになってしまう。

 

 映画の冒頭のピストルによるものと、終わりの出血による自殺に到るドミトリの気持ちはどうなのだろう。個人的な復讐というなら、それが達成されたのだから、喜ぶべきことで、自殺する必要はない。ドミトリがそれほどまで追いつめられてまで、コトフを葬らねばならなかった確たる理由がなければ説明がつかない。とすると、単なる恋人を取られた恨みから、などという卑近な理由ではないと思う。なにせいくらでも深く読むことが出来るような体裁に出来上がっている。簡単な復讐劇ととらえるのがいいと思うが。

 

監督 ニキータ・ミハルコフ

出演 ニキータ・ミハルコフ、インゲボルガ・ダプコウナイテ、オレグ・メシーコフ、ナージャ・ミハルコフ、アンドレ・オウマンスキー、ヴァチェスラフ・チーホノフ、スベトラーナ・クリュチコワ、ヴラディミール・イリン

1994年

 冒頭この映画は不法移民を推奨するものではありません旨のテロップがある。しかし中身は正反対?

 

 インドは中国を抜いて人口世界一の国になった。さらに人が流入されては困る。これはごもっとも。国境の接しているパキスタン、バングラデシュはしかし仲が悪いから密入国する人はいない。そこでスリランカを地図で見てみた。島国で周りは海、ここのどこから海を渡ったんだ。海を前にして進み、次のカットはインドにいる。どこそこと場所は説明されるが、知らない未知の場所で分からない。

 

 スリランカ人のダースは、妻のワサンティ、長男のニドゥ、次男のムッリを連れて、隣国のインドへ密入国する。スリランカからインドには簡単に入れるようだ。実際どうかは不明。問題はその後だ。

 

 インドでインド人にならなければならない。どうすれば良いか、インドの別の地方都市から来たことにする。インドは地方地方で言葉が異なる。それを利用してだます。言語学者なら分かってしまうだろうが素人には区別がつかない。要するにインド人と思わせればいいわけで、この作戦はまあまあ成功する。

 

 家族をここで手助けしてくれるのはワサンティの兄プラカーシュだ。つまり彼は先にこちらに来ていて、ここの状況は把握していてなんでも解決してくれる。こんな強い味方はいない。ずる賢いとでもいうのでしょうか。

 

 頼りになれるのはもう一人いる。一番下のムッリも賢く機転が効く働きで家族を助けてくれる。もっと活躍すればよかったけど、まだ幼すぎた。

 

 インドに暮らし始めて近所の住民たちと仲良くしていく。この国に溶けこんでいく様子はほほえましい。国家が国がといきまく向きには、この映画は良い見本になる。個人の集まりの国が仲良くなくても隣人として親しくすればいい。国なんかなくなった方がいい。

 

 このインド映画なかなかきつく良い。これを鑑賞して見習ってほしい。インド人はこんな対応ができた。ひるがえって日本は、殻に閉じこもってしまった。

 

監督 アビシャン・ジーヴィント

出演 シャシクマール、シムラン、ミドゥン・ジェイ・シャンカル、カマレーシュ・ジャガン、ヨーギ・バーブ

2025年

 1955年福建省、出征した夫 李大喜を待つ阿寧を、退役軍人の阿祥が支えていた。阿寧はまだ戻っていない夫に気兼ねして阿祥との結婚をためらっていた。ある日 阿寧は、自殺した女性の息子 阿明を連れて帰る。30年後 阿明は学校で働き、阿寧と阿祥と仲良く暮らしていた。ある日、阿寧の前夫 李大喜が台湾から帰ってくる。

 

 不幸を両手一杯にかかえた阿寧、阿祥、阿明、そして台湾から来た、少しも良いことのなかった人生を精算するかのように転がり込んできた 李大喜を加えて、精一杯に生きてきた代償が、個人の償いに帰することでしか手段のない、そんなもどかしさ、せつなさ、それはこの国が選んだ二つの選択が二つとも功を奏さなかったことによるとしたら、すがるところのまったくない悲しい結末というしかない。そしてそういう物語の種がまだまだあって、悲劇を作りつつある。為すすべはないのだろうか。

 

 こんなことを考えてみる。社会がその機能を完璧なものとして、個人の生活に圧迫を加えることのない社会になったとする。そのような全ての差別のない社会が出来たとしても、世の中から悩みはなくならないだろう。最終的にたどり着く場所の家族という単位に頑固なまでの人間の業がまとわりついて離れることがないからだ。簡単にいえば、愛情に還元出来る。まあ、世の中が完璧な状態になるわけがないから、いつまでも多くの矛盾を抱えたまま、推移してゆくのだろう。

 

 中国が台湾と大陸とに別れてしまった経緯は政治的なことで、個人の介入し難い事柄であっただろうが、その後の離れ離れになってしまった同胞の不幸を考えると、政治は世直しの働きをしないのか、とむしろ反対の方向に向かう政治というものに不信感を覚える。形は違うが、分断された国々には同じような状況が生まれ、同じように個人を不幸にした歴史があり、今だ解決していない状態にある。ささやかな人々の幸福への追求を妨げるものが政治であったら、それは政治なんかじゃない。

 

 三すくみの三人がかろうじて一緒にいられたのは、この状況を作ったのが自分たちではない、というその一点にあったのではないか。でもそうは言っても、不自然な関係を固定するのは辛いものがある。その要である阿寧が祭りの夜に亡くなってしまうのは、物語としてはほっとする終わり方であろうが、実際はそううまくことが運ぶわけではない。

 

監督 ウー・ツーニウ

出演 チャン・リーウェイ、タオ・ザール、リウ・チョンユアン、トン・チエ、リー・チャン

1992年

 アルコール中毒は単に酒に溺れるだけのことと思っていた。ロナ(シアーシャ・ローナン)の症状は中毒の最悪な例だろう。彼女は自覚してリハビリをし、アルコール依存症断酒グループに参加している。断酒して何日目かが表示されるが、数字が増えたり減ったり、これはどうも失敗を何度も繰り返しているようだ。本人の自助だけでは遂行することは不可能だ。本当にやめたいなら入院して24時間監視付きにしなければならない。病気の完璧な治癒には相当な覚悟が必要だ。

 

 ところがこの病気は底なし沼にハマったようなものだ。再発の可能性は大きい。酒はどこにでもある。手に取ることも買うことも飲むこともできる。屈強な誰かの監視がなければ負けてしまうおそれがある。さりとて病院のベッドに拘束することはできない。

 

 身体の行動の自由を保証した上でのアル中対策や如何に。いろいろ手は尽くされているが、成功するほうが少ないという。依存性薬物、ドラッグの中にアルコールが含まれる。ニコチンもそうだし、なかなか魅力的なブツは多い。それらの全てを禁止することは出来ても、歴史をみると禁酒法は失敗し、悪の組織に金儲けさせただけに終わった。麻薬も似たようなことで根絶にはほど遠い。

 

 この映画は薬物依存症キャンペーンではないが、アル中の恐ろしさはよくえがかれている。彼女は最愛の恋人にも去られてしまう。彼は彼女の良き理解者だったが、最後には離れていった。

 

 環境を変えて今度は成功するか。新しい男の知合いができた。先は分からない。酒を介しての付き合いは無理だろう。相手が下戸だといいね。というより飲める人と付き合ってはいけない!

 

 断酒に終わりはない。何日から何年へ、たとえ10年経っても一口でも飲めば元に戻ってしまう。ロナの今後も見たい気はするが、心配のほうが大きい。

 

監督 ノラ・フィングシャイト

出演 シアーシャ・ローナン、パーパ・エッシードゥ、ナビル・エルーアハビ、イーズカ・ホイル、ローレン・ライル、サスキア・リーヴス、スティーヴン・ディレイン

2024年

 淀川さんが指摘している「二人のホモ説」は、同意出来ないというか、今回も分からなかった。無理してそう思えないわけでもなかったが、この映画で見る限り、その必然性がない。ナポリで遊び戯れている以前の二人、または知りあった時のトムとフィリップを知らないと判断できない。ストーリーは複雑ではないのだが、どうもすっきりしないのは、二人がアメリカ人という設定なのに、フランス人にしか見えないことだ。アメリカで映画化していれば問題なかったのだ。だからフランス人がイタリアに遊びに行って、アメリカの父親から連絡があって、フランス人の恋人を争って、、、という話にとられても仕方ない出来になっている。

 

 そうか、アメリカ人だけど、フランス映画だから、フランス語を話させているのか。アメリカ映画がよくやる手の逆か。そう考えると分かりやすい。でも、アラン・ドロンはフランス人にしか見えない。どうやら、アメリカで再映画化されるようだから、それを見るか。でも違う映画になってしまうだろうし。これはこれでいいのだ。というより、こっちの方がきっといいはずだ。

 

 金持ちの息子と貧乏人、金を持っていることが、どのくらい行動に自由が増すことか、そしてそれを見せつけられる側にとっては、みじめな気持ちを抱くことになる。金持ちになったことがないので、トムの気持ちしか分からない。だからといって、トムのように殺人を犯す気はない。一つの殺人は次の殺人を引き起こす。フレディに気づかれて、彼を殺してしまう。ホテルの自室での殺人、死体の始末は大変だ。サスペンスとして、このくだりは秀逸だ。

 

 この突発的な殺人事件でもトムは見事に警察をだまし通す。イタリアの刑事リコルディも相当優秀そうに見えたが、案外抜けてる。二つもの殺人を犯しながらも、逃げおおせそうになる。ほとんど成功しかかるところまでいくから、最後の「キメ」がぐっと効いてくるのだ。この点も、目を皿にして見た。

 

 フィリップを殺して船から流す。あのまま海に沈んでしまえば最後がないはず。海の流れは相当激しそうだったから、あのロープがスクリューにからまった、というのは無理があるかな、とも思えないこともない。といって、そうならないとも言い切れない。実際には、長いロープがスクリューにからまってしまっているのだ。98%くらい成功して、最後の最後に手から漏れた水。電話に呼ばれたトムの笑顔で暗転、映画ならではの終わり方だ。FINの出た後もえんえんとタイトルロールが流れないのがいい。ごく短く音楽が流れて終わる。最後にきちんと聞かせてくれたのだね。

 

監督 ルネ・クレマン

出演 アラン・ドロン、マリー・ラフォレ、モーリス・ロネ、エルヴィール・ポペスコ、エレノ・クリザ、フランク・ラティモア、ビル・キームズ

1960年

 家族で戦争は話題になりにくい。楽しい話ではないし、第一いつどんな時に話せばいいのか。戦争に行った父に戦争のことを聞くのははばかれる。父さん戦争でなん人殺しましたか、なんて聞けますか。自慢話でも思い出でもない、たぶん忌まわしい記憶でしかないものを。

 

 この父娘の場合、父デレクの故郷ワルシャワに娘ルーシーと一緒に訪れる。実状は娘が父を誘ったのだ。彼女はライターとして、いわば父を取材したのだ。反して父は消極的だ。あの忌々しい記憶は思い出したくない。辛かったことは忘れたい。

 

 父娘の気持ちはすれ違う。ルーシーは父の協力はなくても、決めてあった計画を実行していく。積極的に前に進む。どうやらここでは現ナマが効くらしい、と父の行動から知った。何か頼む時に現金をそっと出す。それで願いは叶う。簡単かつ確実な方法だ。これが通じないところだったら使えないやり方だ。堅物ばかりの日本だって、裏に回れば金は有効に使える。

 

 父が暮らしていたアパートの一室を訪れる。招かれざる客を変える方法はここでも金だ。父の家族が使っていた食器を出してもらう。買い取ることになり、買い値は250ドル。そしたら味をしめた相手はどしどし出してくる。山のようにたっぷりと美しい器など。コーヒーカップ一式が250なら、これは数万ドルと言う。出ると思えば言うものです。ルーシーは出した。父のためなら出す。祖父のコートも買った。

 

 ポーランドでアウシュビッツは外せない。世界中から多くの人が訪れる。それらの一人一人の戦争の記憶、戦争への想いは異なる。特に戦争を体験した人にとって、戦争は忘れることは無理だ。

 

 いつまでもすれ違いの父と娘。それが崩れたのはアウシュビッツでだった。ガイドの説明を制し、自らの言葉で語り始めた。

 

監督 ユリア・フォン・ハインツ

出演 レナ・ダナム、スティーヴン・フライ、ズビグニエウ・ザマホフスキ

2024年

 ポスターのイラストのどぎつい色のように映画の出来も又どぎついのものだった。原色で塗り固めたようだからといって、アルモドバルなら、ほどよく薬が効いていて毒にはならない。だが伊丹十三のはあくが次第にきつく出てきているように思える。特にこの映画は最悪に近い。

 

 彼の言いたいことはよく分かる。病院で患者は医者たちの実験材料のように扱われ、不必要な延命に苦しむのは本人であり、家族であるのだ。家族が枕元に寄り添い、知り合いが駆けつけ、安らかに死を迎えることが出来なくなっている。誕生の瞬間から、死の床まで管理され、本人の意志の働かない状況になっている。

 

 そもそも、人間の命までもが試験管から生まれることもあるし、遺伝子の研究が進み、その全てが解明された暁には、どんなことになるのだろう。病気を克服することは人類の夢であった。その夢がかない、次に生命の仕組みをもコントロールし、人間が今いる「人」でなくなってしまう時が到来するのだろうか。現代はそれを目指して進んでいる途上段階にある。

 

 神がいるとして、神からみたら人間なんて不完全な存在なのだから、その人間が生命を解く鍵を手にした時の危険さは神でなくとも心配で心配で堪らない。「死」をどの段階で判断するかにしたって、きちんと決まっていない。普通、心臓が停止したら死んだものと思ってさしつかえないのに、脳死という基準をむりやり持ち出してきて、ようするに脳死状態の内に心臓だのの移植をしてしまおうという魂胆。心臓が停止してしまってからじゃ、うまく行かないから、心臓がしっかりと動いている内に切り取って移植するためには、別な判断で死を認定しなければいけなくなる。脳が死んでいないという状態なら、その人はまだ死んでいないとするから、植物人間ができる。人間の生きている機能のかなりの部分を器械に肩代わりさせて、その人に意識があるならともかく、自分が生きているのか死んでしまったのかの判断も出来ない物体が「生きている人間」と言えるのか。

 

 人間がこの世に生を受け、生まれてくるのに本人の意志が働く余地はない。これは仕方ないことで、それだったら死ぬ時はしっかりと死んでいきたいと思う。普段健康な時には死ぬことを考えたくない。死は自分にはやってこないとまで思っている。実際死ぬのはいやだし、だからといって医者の功名心の餌食になるのはとてもいやだ。私が実際どのように死を迎えるかは分からないが、病院のベッドに縛り付けられた状態で生きながらえるのは絶対にいやだ。この映画は見た人にこんなことを考えさせる働きがあり、そういう意味では充分存在意義のある映画と言えよう。

 

監督 伊丹十三

出演 三國連太郎、津川雅彦、宮本信子、木内みどり、高瀬春奈、熊谷真実、三谷昇、田中明夫、村田雄浩、渡辺哲、南美希子、清水よし子、左時枝、高橋長英

1993年

 かしこい娘が父を助ける話の代表は「アイ・アム・サム」、状況は違うが中国版サム。父は小馬シャオマー、娘は木木ムームー。中国語をカタカナで正確に書くのは難しい。

 

 いっそ漢字でいいんじゃないかな。でも読み方が問題。日本語読みがいいか中国読みにするか。例えば毛沢東モウタクトウかマオツートンか。中国語で読むのが正しいし、他の言葉でも本国の読みになっている。でも日本人にどう聞こえるか、聞き方によってカタカナでどう書くかが違ってくる。拼音ピンインの文字列を日本語でどう記すかは、たぶん決まっていると思う。ぴったり同じには思えないし正解はない。

 

 離婚して離れていた元妻がムームーを連れて行ってしまう。そこから父と母の子どもをめぐるごたごたをが始まる。

 

 決められた親権を自分に都合よく判断して、決めていた年齢になったから連れ戻したのです、と言われてもとまどうだけ。ムームーの気持ちが第一じゃないか、と言いたい。当のムームーは父とずっと一緒だったから、離れていた母は見知らぬ他人に近い。これは無理のないことだ。

 

 離婚はやむを得ない、無理して一緒にいることはない。子どもをどうするかが重要だ。最善は子どもに選ばせるのがいいと思う。この二人の場合、父は聴覚障害者だが娘はコーダとして父を助けている。母は離婚時の取り決めで、もうすぐ娘と暮らせることになっている。ムームーはずっと一緒にいる父が好きだ。母はよく知らない。

 

 でもここで母親が強引でないのが幸いだ。娘の手を両方からつな引きになったら大変だから。

 

 シャオマーの職場の仲間たちも近所の人たちも皆いい人で悪人はいない。どうもこれは泣かす映画らしい。感動作をうたってる。

 

 最近の中国映画は喜劇か泣かせるのが多い。社会的問題とか政治不正は扱わない。政治向きの話は作りにくそうだ。政府の意向に逆らえないから、こんな話になってしまう。悪くはないのだが、しっかりした主張のある硬派なのを見たい。

 

監督 シャー・モー

出演 チャン・イーシン、リー・ルオアン、ホアン・ヤオ、ヴィヴィアン・ティエン、チャン・ルオナン

2025年