ギンレイの映画とか

ギンレイの映画とか

 ギンレイ以外も

飯田橋にあるギンレイホールにデジタルシステムが入ったと聞き、まだやる気があるのを知って、又ギンレイ・シネマクラブに入ろうと決めた。
これを期に、最近つとに怠けていた感想文という駄文をつけてみることにした。

 まず美しい山岳地帯の風景が見られるバーバラ・ダゲンの店はどこにあるんだ? そんな疑問がわいた。英語の話される国らしくない。

 

 客の三度目の結婚式のドレスのボタンで一悶着あって、車で店に戻るとちゅう事故現場に遭遇した。この事故には事件が絡んでいそう。それを察知したバーバラの選択が始まる。

 

 見過ごす、は無い。救助する、もない。したがって警察も救急車も呼ばない。魅力的な魅惑的なブツが目の前にあれば飛びつくのは当然です。ここからの展開が観客の一人として思ってもみなかったことになっていく。

 

 彼女の発するChoices, choices…は普段は声に出さなくても、常に次の一歩を決める言葉だ。次どうする?あれとこれどっち? 決められないこともあるけれど、この場合決めなきゃならない。決めてしまえば行動するだけ。ここはスイスということで、あとからスイスに変換した。スイスのイメージに似合わない! それはともかくここから始まるバーバラの大活躍は、なんと第3部まであるのでした。その都度Choices, choices…とつぶやく。

 

 バーバラの武器は腕力でも拳銃でもない。仕事で使っているものを有効活用してます。それは映画を見れば分かるし、やり口も見せてくれる。でも実際にあんな具合にうまく行くものですか? 彼女はそれまでにあれをあのようにやったことがあったのでしょうか。相当な練習、訓練をしないと出来ない特殊技能に見えるんですけど。どうでしょう。

 

 ところがほぼ成功。彼女の解決法は全てあれなので、うまくいって解決する、ってわけでもないのが悲しい。術は持ってても成功に導いてくれるわけではないのです。ハッピーエンドとは決していえない終わり方を、どう考えたら良いのでしょう。

 

 これはゲームそのものです。面白い仕掛けがあって、それにしたがって操作して成功したり失敗したりする。コントローラーは持ってないけど、参加している気分を味わえる、という新感覚の映画なのでした。十分に映画を楽しんだ気持ちにはなれなかった、残念。

 

監督 フレディ・マクドナルド

出演 イヴ・コノリー、カルム・ワーシー、ジョン・リンチ、K・カラン、ロン・クック、トーマス・ダグラス、ヴェルナー・ヴィールマイアー、キャロライン・グッドオール

2024年

 この映画は子どものころ見てこわかった覚えがある。この映画のどの部分を覚えていたかというと、地下のラドンの巣の卵の殻をやぶって出てきた幼虫の大きなことだった。人間を襲ってきた小さな幼虫がラドンの子どもの餌なのだから、ラドンの大きさが想像出来る。

 

 なにしろでかい。あと最期を迎えるラドンを印象深く覚えている。ラドンの最期は悲しくも噴火口の中だった。モノクロの映画だとばかり思っていたら、きれいなカラーだった。色の出方が今のカラーとは違うようで、あざやかであとから着色したような不自然さが、これまたこの映画に合っている。夏の暑さが伝わってくる。ちょうど「太陽がいっぱい」と似ている。

 

 今のカラーは自然でいいけれど、そこになんらかの感情が入り込めない自然さになっている。画家が自分の色を持っているのに対して、フィルムは平均点すぎて物足りない。カメラマンはどこで自分を出せばいいのだろう。こまかいことを言えば、違いを見出すことが出来るのだろうが、素人には分からない。きれいな場面は場面なのだが、画面からにじみ出るものがないと、それ以上の感情を映像からは受けることが出来ない。

 

 この映画でいえば、夏の暑さ、ラドンと卵の大きさ、模型なのに大きさを感じさせるおおざっぱな画面。今つくるとすると、CGになるから、あざやかすぎて雰囲気が出ない。この映画の九州が舞台になっているのも興味深い。東京をぶっこわすのがこの手の映画のパターンだと思っていたからだ。

 

 福岡の街を徹底的に壊す場面なんか見事だ。当時の街のようすがよく分かる。実際を知っている人が見たら、興味深い映像だろう。なんとかデパートとか、街の看板も本当にあったものを再現したようだし、電車も私鉄がラドンの作る風によって吹き飛ばされる。画像は迫力に欠けるところはあるものの、なかなか健闘していると思う。なにしろ、手作りで一つづつ作っていかなくてはならなかったのだから。それを本物っぽく壊したり、燃やしたりするのも大変だっただろう。こういう技術は大切にしたい。日本が最初ではないけれど、後から始めたのにアメリカを追い越した。

 

 今は別な方法でずっと見事に作ることが出来るけど、まだ中途半端だ。それだったら、こっちの方が生々しくて好きだ。

 

 ラドン誕生の原因は水爆実験だ。本当にそういうこと(ラドンのような生物が現れること)があって、人間を驚かせたら面白いのに。それでも、ミサイルで怪獣をやっつけようとするか。それじゃあ、まったく反省がない。いっそ、人類を滅亡させた方が他の動物のためになる。怪獣映画で私が見たのはこれと「モスラ」くらいで、評判の「ゴジラ」は一本も見ていない。「キングコング」はテレビで見てとても印象的だったことを覚えている。勝間くんちで見たのだった。勝間くん元気かな。

 

監督 本田猪四郎

出演 佐原健二、平田昭彦、田島義文、松尾文人、山田巳之助、小堀明男、村上冬樹、高木清、三原秀夫、津田光男、千葉一郎、向井淳一郎、熊谷ニ郎、今泉廉、門脇三郎、須田準之助、松本光男、白川由美、水の也清美、河崎堅男、如月寛多、中谷一郎、榊敬二、緒方燐作、鈴川二郎、重信保宏、黒岩小枝子、大仲清治、中田康子、宇野晃司、中島春雄

1956年

 怪我をしたスタントマンのロイが、骨折で入院している少女アレクサンドリアに物語るストーリーは抜群に面白い。うす暗い病室と、反転してロイの話は舞台転換のようだ。


 要するに二幕ものの舞台を鑑賞する気分だ。ただし舞台とは違い、映画のスクリーンに展開するのは活動大写真。フィルム上の傷もないデジタル映像は綺麗だ。最近はこんな映像に慣れてしまって、綺麗は当たり前になっている。そんな目で見ても、これは美しい。


 見るべきはロイの語る冒険活劇だ。地球上のどこかにある建造物とは思えない、デジタルで作ったかのようだ。実際はどうだったのか。20年も前の技術、デジタル映像はあった。でもこれは実際ある景色だろう。想像すれば創造できる。


 言葉は抽象的で想像の余地がある。ところが映画は映像で見せなければならない。具体的な絵を作る必要がある。小説は1人で書けるが、映画作家は作業の領域が広い。ロイの語りと革新的な映像の繰り返し。


 私の目はどうしても派手派手な作り話の映像に向いてしまう。でもそれは作者の狙ったことだ。そのために長年かけ撮影場所を探し、特写したような画像を作った。それだけでいい、内容はどうでもいい。映像にワクワクするのは映画ならではだ。こういう映画もたまにはいい。


監督 ターセム

出演 カテァンカ・アンタルー、ジャスティン・ワデル、リー・ペイス、キム・ウイレンブローク、エイデン・リスゴー、ショーン・ギルダー、ロナルド・フランス、アンドリュー・ロッソ、マイケル・ハフ、グラント・スワンビー、エミール・ホスティナ、ロビン・スミス、ジートゥー・ヴァーマー、レオ・ビル、マーカス・ヴェズリー、ジュリアン・ブリーチ、クトゥッ・リナ、カミーラ・ヴァルドマン、エルヴァイラ・ディーチュ、エマ・ジョンソン、ダニエル・カルタジローン、ニコ・ソウルタナキス、ジョン・ケイメン、カレン・ハーケ

2006年

 題名だけ知るまぼろしの映画。こういうのは見ておくに越したことない。案外な拾いもののことがあるからだ。それで見てみたら、ひどく古くさい映画だった。

 

 どうしてこういう映画があるのだろう。例えば年代だけの古い映画はたくさんあるが、古くさいと思うのはまた別な話だ。簡単に言えば、良い映画は古くならない。黒澤明や小津安二郎のものはそうなっていない。映画が必要以上に時代におもねたりすると、後から見ると、滑稽に見えてしまう。この映画はとてつもなく変ではなかったが、テンポといい、出演者といい、気味の悪いほど陳腐だ。

 

 歌はうまいが、服装があか抜けていない。顔も現代的でない。とまあ贅沢を言ってはいけないが、どうもそんなことが目につく。映画自体の力で、そんなマイナスはなくせるはず。きっといい映画はそうなのだろう。

 

 並木路子を主人公に歌手志望の少女の話をお手軽に作った、そんな印象の映画です。歌謡映画を楽しめばいいのです。彼女が望んでいた舞台は成功するだろう、多分。これで「りんごの歌」と共に紹介される映画「そよかぜ」は見た、と言えることになった。

 

監督 佐々木康

出演 並木路子、上原謙、佐野周二、斎藤達雄

1945年

 原作漫画家の武田一義さんの記事を新聞で読んだ。天皇がペリリュー島を慰霊訪問していたことから関心を持ち、調べていって漫画を描いたそうだ。この映画はそこからのアニメで、たぶん原作全体をきちっとアニメ映画にしていると思う。

 

 漫画の漫画たる絵の感じは戦争に合わない。本来なら人の演技する実写で撮るべきだ。でも戦争は殺し合いで傷ついたり血が出たり死んだり、と普段目にしない場面がある。それをそのまま撮ったらどうなるか。残酷シーンの連続で、上映に適さなくなる。

 

 実際あったことを映像にするのは技術的にはできても、観賞に耐えない。映倫の基準からも離れてしまえば、自主規制するか上映禁止になるだろう。戦争を描くにはそれだけの覚悟がいる。殴る撃つ切る焼く、傷つく撃たれる焼かれる殺される。実際あったこととは言え、映像で見せられるのはつらい。単なる裸だって隠さなければならない部分がある。映像は真実を写さない。他人の心の奥を覗けないように、誰もにある身体の表面さえ公開できない。

 

 しかし原作者はあえて従来のマンガにこだわった。子ども向けの可愛い表現を、戦争の残忍さに似合わない表現法を取った。

 

 アニメの三頭身くらいの軍人が行進している。たくましくも勇ましくも見えない。20歳そこそこの青年が軍人になって南洋の孤島に来ている。島はすでにアメリカ軍に包囲され狙い撃ちされている。

 

 この島に留まって持久戦に持ち込むしかない。つまり殺されるのを待つだけだ。アメリカは最終的には勝てる戦いだが犠牲は出る。アメリカ兵だって同じだ、殺られるかもしれない。優位な状況であっても、相手は死にものぐるい。どんな急襲を受けるかもしれない。このあたりは「木の上の軍隊」に似ている。

 

 戦争は終わった。本土にいれば敗戦はたちまち伝播する。ここから日本人はたくましい狡さを発揮する。昨日の敵は今日の友になるのだから。国内はそんな具合に対処した。国外はどうだったか、ましてニュースの伝わらない場所では。諸島に展開していた軍隊には大本営からの連絡はない。それどころかどこからの知らせさえない。

 

 孤島の軍人は敗戦を知らず、またアメリカのビラにも反応せず、いつか神風が吹いて日本が勝つと信じている。自国を優秀と思いたい心境は分かる。でも実際の状況はどうだ。始める前からアメリカに勝つ見込みはないと分かっていた。それでも戦争を始めてしまった。戦争は終わらせるのが難しい。どこまで負ければ、どこで降伏すればいいのか、その時点での戦争責任者なりの矜持にかかっている。いや矜持なんて立派なことではない、責任を取りたくないので止めないのだ。

 

 1万人いた兵士がたった34人になっていた。

 

監督 久慈悟郎

出演 板垣李光人、中村倫也、天野宏郷、藤井雄太、茂木たかまさ、三上瑛士

2025年

 姉のスジは朝鮮戦争のどさくさでまぎれてしまった妹オモクを探し当てたにもかかわらず、すぐには名乗り出ずに、二人の男の争いに巻き込まれてしまう。本来なら姉スジ妹オモクの再会から二人が手と手を取り合って助け合わなければならなかった。同じ土地にいるのに、まったく立場を異にして、まるで敵対するようになってしまった不幸。妹はともかく、姉のスジは悪いと思う。分かっていたのに、行動を起こさず、自分の安穏な生活に入ってしまった。姉は割と大きな会社の二代目と結婚し、妹の夫はその会社の社員。経営者と労働者という天と地の差はないものの、そこに姉妹のきずながうまく結べないもどかしさがあった。

 

 姉がそんな立場にいなければ、きっともっと早く姉妹の仲を取り戻していたはず。姉には妹を捨てたという負い目があった。それは戦争という通常でない場合の選択だった。いくらでも言い訳はできたのに、また妹は幼なすぎて事情をよく分かっていなかった。そして姉の思い過ごしから、何十年ものロスを生じさせてしまった。

 

 戦争というと、日本では52年も前のことであるのに対し、韓国では朝鮮戦争とベトナム戦争もあった。それだけ戦争に傷つけられていれば、どれだけの心と体の傷が残っているか想像出来る。戦争に正義はなく不幸を作るだけだ。

 

監督 ペ・チャンホ

出演 ユ・ジイン、イ・ミスク、ハン・ジニ、アン・ソンギ

1984年

 動物はたくさんの種類があるというのに、食すのは少ない。それは多分人間が実際食べて、ほとんどがうまくなかった。その結果うまかったのを常食にしているのだろう。また野生の動物だと、捕まえるのが大変だし、飼って育てられるのだと都合が良い。そうこうするうちに、今のようになったのだろう。

 

 さて、象はうまいのか。映画ではビーフのようにうまいと言っている。監督は食べたのか。だけど食べたくても、肉が手に入らないだろう。このように動物園にいる象が死んだ時でしか食べる機会はないはず。また機会があっても、この映画のように食べたりすることはないと思う。

 

 動物園の飼育係役の笠智衆が今まで思っていたよりずっと喜劇的で面白い。病気にかかって死にそうな象を本当に心配しているのかどうか分からない変な人を演じている。飼育係といえば、動物に最も近い人だから、ひとかたならぬ愛情を持っているはずなのに、肉を食べてしまう。自分のところで飼育している鶏でさえ、食べるのには躊躇するではないか。それとも、ありがたくいただくのも愛情というものかもしれない。

 

 あの研究所のようなところは何を研究しているんだ。動物病院でもないし、死んだばかりの象を食べちゃうんだから、無謀といえば無謀だ。科学者としての正しい対処をしているとは到底思えない。これは喜劇だから、そんな無粋なことを言うこともないのだけれど、一般庶民が偶然手に入った何だか知らない肉を食べたのなら、分かるんだけどねえ。この設定自体に無理がある。

 

 何かの伝染病で死んだ象で、その肉を食べた人間が30時間後に死んだという例があるという。こういうことは科学者らしく、文献を調べて分かった。それで確かに我々は30時間後に死ぬのだ、と信じ込んでしまう。5人の男たちなのだが、独身もいれば、新婚も、年輩もいて、それぞれにここで死んでしまうわけにはいかない者ばかり。それは当たり前のことで、死ぬ準備の出来ている人なんてそうそういるわけはない。

 

 血清があれば助かるということで、なんとか時間に間に合うように取り寄せることになる。東北から上野に汽車で着くというので、みんなで上野へ。着いてみれば、5本の内、1本は壊れていた。助からないくじ引きを引くのは誰か。いろいろあって、看たて違いでめでたしめでたし、となるのだが、なんとも大騒ぎをしたものだ。庶民からすれば、大学の先生たちがまぬけなことをした、となる。

 

監督 吉村公三郎

出演 横尾泥海男、植田曜子、神田隆、村田知英子、原保美、奈良真養、岡村文子、安部徹、朝霧鏡子、日守新一、高松栄子、空あけみ、笠智衆、文谷千代子、若水絹子、志賀美彌子、中川健三、遠山文雄、西村青兒

1947年

 ピクニックというより遠足でした。故郷は遠きにありて思うもの、と室生犀星は詠んだ。私は彼の詩集に親しんだ時期があって金沢に一人旅したこともある。犀川の土手を歩き詩作に励んでみたりした。

 

 外国映画のほとんどは土地勘がないため、人物が移動してもどこがどこか分からない。極端に言えば一駅先でも道が違っても別なところになる。それが地方が違えばよけいに分からない。

 

 映画は内容は知らないほうが良いが、見る見ないを決めるための情報は必要だ。この映画は老女二人の故郷へのピクニック、プラス若いころの思い出を含む、このくらいの知識を得て決めた。青春回帰のノスタルジーに浸れるかな、さて。

 

 ソウルは坂が多い。ソウルタワーまで歩いて向かったら疲れた。帰りの下り坂は楽だった。旅行を決めるとき坂の存在は重要だ。長崎、倉敷、函館、行きたくても坂が邪魔をする。熱海の梅園もそうだった。おっと、映画に関係なかった。

 

 彼女らの故郷は南海という。海の見える静かな村に戻れば知り合いばかり。戻ってみれば思い出が蘇る。友人たちも迎えてくれる。思い出は良いことばかりではない。でも昔の思い出は良かったと思いたい。人によって覚えてることが違ったりする。それで同じ出来事でも違う印象になる。思い違いもあるし、遠い過去はさらに記憶は薄れている。

 

 60年という年月を実感できるほど生きた人にドラマはある。映画になるかどうかは分からないが、長い年月のどこかに物語は潜んでいると思う。戻れる故郷があるのはいい。誰かが待ってくれればもっといい。

 

 それで、このラストシーンは衝撃的になるのですか。そう思わせるように作ってある!

 

監督 キム・ヨンギュン

出演 ナ・ムニ、キム・ヨンオク、パク・クニョン

2024年

 この映画の紹介を見て、「わんぱく戦争」の作り直しじゃないかな、と思っていた。そしたらあんのじょう、そうだった。だけどパンフなんかでは、そのことに触れられていない。隠さなくてはならないことはないだろう、又は映画会社の関係でまずいことでもあるのだろうか。去年の「マルセリーノ・パーネ・ヴィーノ」も「汚れなき悪戯」のはずなのに、それについて一切触れられていなかった。うしろ暗いところがあるわけでもないのに。

 

 原題は、「ボタン戦争」になるけど、日本語だと別な意味になってしまうから、別な邦題を考えなくてはならない、これはいい。だが、「草原とボタン」なんて気取りすぎだ。内容からしても、いっそ「わんぱく戦争2」にしても、差し支えないと思うのだけど。

 

 舞台がアイルランドで、戦争というのも、なまなましすぎる感じがするし、フランス映画をそのままアイルランドに持ってくること自体がそもそもの間違い。違う国なのだし、随分雰囲気の異なる国民性なのだから。

 

 わんぱく戦争」を見てからずいぶん経っているから、かなり忘れちゃているけど、ちびのジュディスがかわいくて、大人たちもおっとりしていて、フランスの田舎ののんびりとした喜劇だった。それをアイルランドにもってこようったって、これはうまくいかない。というか、前のと比べるからそう思うのであって、この映画を独立したものとして見れば、そんなハンデはなくなる。それでも、やはり生真面目になりすぎる印象が強い。

 

 意味なく争うことはよくあることだ。私自身の思い出としてはないが、よく聞く話だ。住む地域が違うだけで、それが喧嘩の種になる。この映画のように、誰がいつどうして、が省かれて、とにかくあいつらとは仲良くしない、だけが残っている。馬鹿な話で、大人は相手にもしていない。どうせ、子どものささいないさかいでしかないし、自分たちにも覚えがある。ボタンをとられることは、最大の侮辱になっているようだ。だから、WAR OF THE BOTTON ボタン戦争。子どもの喧嘩だから、武器はパチンコ、枝、素手くらいなもので、怪我してもたいしたことはない。大人の喧嘩=戦争からみれば、かわいいものだ。ガキ大将はもちろんいる。こういうところはどこも変わらないな、と思う、今の子どものことは知らないが。どうなのだろう、年齢の違う子どもたちが集まって喧嘩したりは、今はないだろうな。喧嘩はいけないとは思うが、まったくないのも寂しい。こうして見つけた喧嘩相手が一生の友になることもあるのに。昔は良かった、というのを全ての事柄に当てはめることは出来ないが、今の方が断然いい、と自信を持って言えることは少ないと思う。

 

 森の中に作った隠れ家は子どもたちの宝物だ。中をきれいに整え、なにかといえばそこに集まって作戦会議。学校が公式な場所とすれば、ここは家以外では最も大切な所。ただ、この映画ではたいして活躍してはいなかったが、パンフ言うところの、「スタンド・バイ・ミー」での木の上の小屋と同じ働きをしていたのだろう。木の上、洞窟、小屋、あるいは古屋などが子供たちには神聖な場所になる。楽しさがもう一つ足りなかった。

 

監督 ジョン・ロバーツ

出演 ジョン・コフィー、エヴィーナ・ライアン、ポール・バット、コルム・ミーニー、リーアム・カニンガム

1995年

 話の流れはパリタクシーとほぼ同じ。こちらはなじみの東京なので身近な感じ。観光で来たことのある人なら、ここもあそこも行った行った、と思い出をたどるだろう。

 

 東京でも都会ばかりで、ゴタゴタしたせせこましい住宅街や商店のたち並ぶ所は出ない。いわば観光名所のダイジェストっぽい。高野すみれの家のあった柴又のようなのを東京を代表とするのは無理があるかもしれない。東京と言ってもオフィスビル、商店街、高級住宅から団地までいろいろある。

 

 彼女の人生は酷いものだった。時代がそうさせたように語ってたが、昔の男はみな彼のようだったか。私の例を挙げてみよう。父は母を殴ったか、見たことはない。家に帰ってきて一言、水、なんて言ったか。家事は妻に押しつけて威張っていたか。そんなことはなかった。いちいち比較するまでもない。逐一みていく必要はない。悪例ばかりの男だった。

 

 時代がそうした部分はあっただろう。ああいう男を許容することや、男はそういうものだと考え、行動するのが当然とされていた。疑うことはあったかもしれない。時代は変わる。人は変わる。時代は人が動かし、人は時代を形作る。相互の作用は複合的で複雑だ。

 

 肝心の所は話せない。事件を起こすのではない、そうせざるを得なかった。結果的には重大な事件を起こした。やり口は思いがけなさ過ぎる。ああいう復讐の仕方があるとは。

 

 犯罪の償いは済ませた。彼女はそこから生きていく。新しい事業を始めるべく行動する。アメリカに渡ってネールアートを習う。

 

 彼女の行動力はたいしたものだ。あの事件はその一環でもある。できれば良い方向に使って欲しかった。何はともあれ終わりよければ全てよし、としよう。

 

 原作のフランス映画と比べざるを得ない。タクシー運転手の主役感が薄れている。キムタクはどうやってもキムタクでしかない。悪たれをつく不良中年になれない。彼はシャルルより恵まれている。失業寸前でもないし、金欠でもない。娘の入学金を工面のため金が要る。これはまあ何とかなる金額だ。音大を諦めさせる手もある。

 

 観客の同情を買わせるほど緊急事態ではない。木村拓哉、金持ってない? いや役の上でしょ。そう見えない、そう思えないのだから仕方ない。

 

 いっぽう高野すみれはどうか。倍賞千恵子、蒼井優とも満点。現在までの人生の満足感はある。これからは安心して他人に命を任せよう。そう決めて、葉山に向かった。今までいろいろあった。思い出すのはつらいことだった。でも誰かに話せる機会を得たのは良かった。

 

監督 山田洋次

出演 倍賞千恵子、木村拓哉、イ・ジュニョン、蒼井優、迫田孝也、優香、中島瑠菜、神野三鈴、マキタスポーツ、北山雅康、北村優来、小林稔侍、笹野高史、大竹しのぶ

2025年