ギンレイの映画とか

ギンレイの映画とか

 ギンレイ以外も

飯田橋にあるギンレイホールにデジタルシステムが入ったと聞き、まだやる気があるのを知って、又ギンレイ・シネマクラブに入ろうと決めた。
これを期に、最近つとに怠けていた感想文という駄文をつけてみることにした。

 本編が終わって、ラクの話〈番外編〉がつづく。なんの番外かと読み続けると、300ページ余りの話のオチが記されている。野生の少年モーグリがラク(ジャングル)でオオカミに育てられトラ、クマ、ヒョウ、シカ、ヘビやイヌなどの動物を仲間とし、やがて人間とも付き合うようになり、成人になって人間社会に戻る。しかし仕事は森林省のラクでの公務だった。人に戻った彼の特技はもちろん野生動物たちと人間をつなぐことだ。

 

 オオカミに育てられた子どもはいたが、多くは成人になる前に亡くなっていた。人間社会に戻り溶け込むことの難しさを超えた存在になったモーグリ、彼のラクにおける生活の詳細は小説を読んでいただければ知ることができる。ディズニーのアニメも作られたし、映画にもなっている。しかし想像力を逞しく働かせる小説で読むことが最上の方法だと思う。

 

 ジャングルと聞くと地球上のどこのことになるだろうか。アフリカ大陸には動物はたくさんいるが、ジャングルは想像しにくい。ブラジルのアマゾンは熱帯雨林でジャングルとは言わない。では具体的にジャングルがどこに存在するのか。

 

 答えはジャングル・ブックにある。つまりインドにある。ただし100年以上経って現在のインドは変わってしまっているはずだ。ジャングルは現存するか、インドでホンモノのジャングルで映画を撮ってもらいたい、希望します。

 

 ラドヤード・キプリングは1865年英領インドに生まれた。少年時代インドに暮らし、のちイギリスに行ったりインドで新聞記者をしながら小説などを書くようになった。小説家として華々しい活躍をしたが、インドの影響は常に残っていた。

 

 訳文でしか読んでないが(原文はとてもムリ)、生き生きとした描写が想像力を引き出してくれて、画像が浮かび出してくるようだ。あえて言えば映像は必要ない。ジャングルは野生動物の世界だ。動物に人間は残念ながら含まれない。人間は動物を捕獲したりハンティングで楽しむことでしか参画しない。あるいは捕まえてきて動物園で見せ物にする。動物にしてみれば自然の中で生きるのがいいに決まっている。見せ物やショーで芸を披露することは虐待に等しい。見たければこちらから出向いて、ちょっと覗かせてもらうくらいが良いのではないか。モーグリのようになれば動物も文句はないはずだ。

 

 人間と人間以外の生物との共生はできる。モーグリと同じようにすればいい。動物の言葉を使ってコンタクトする。世界中の人間同士の会話はAIでできるようになった。動物との会話も将来きっとできるようになると思う。その際、人間の論理を持ち出さないことが重要だ。なぜなら人間同士の争いが再現されるだけだから。愚かな人間側に来てもらうことはない。

 

 動物には個々の生き方がある。生きるために植物や獣を食べる。弱肉強食は必然の掟だ。なんでも構わず喰らう人間より猛獣のほうがまともだ。必要以上殺しはしない。腹が減ったら捕まえて食べる。それにしても人間は動物界の風上にも置けない。無駄に頭脳を大きくしたのが間違いだったかもしれない。

 この映画のことは本で読んでいたし、たしか今井正が一番好きな映画だ、と言っていた。それなのにフィルムは失われていて、幻の傑作として名のみ聞くものだった。それが京都の個人所有のものが発見されたという記事を新聞で読み、そしてその上映会が行なわれることを知って、もうこれは見逃す手はないと駆けつけた。恐ろしいほど晴れた空の下、列を待つ。どの位の人が並んでいただろう。年配の人がほとんどだ。彼らは前にすでに見ているのだろうか。

 

 結論から言うと、発見されたものが完璧なものでないこと、フィルムの状態が良くないこと、がこの映画の全貌を、当時の躍動感をいちじるしく弱めるものになっていることを指摘せざるを得ない。だから、きっとすごい映画なんだろうな、と想像して補うしかない。ただし、まったくない状態から考えれば、断片でも見られたことは素晴らしいことではあるし、見て良かったとは思う。

 

 大河内伝次郎は東映の時代劇に家老の役で出ていたのを見て、その程度の人(脇役)だと思っていた。あとから、昔は主役級の役者だったことを知って驚いたことを覚えている。

 

 そんなことは随分あった。あの笠智衆もまったく知らなかったし、映画だから昔のものを見ることが出来て、あとから知っていくことも出来た。だから昔の映画を見ていて、ここに出ている人今いくつになっているのだろうかと、思わず計算してしまうことがある。スクリーンの中で元気に生きて動いている人がもしかしたら、もういないかもしれない。今だったら、まだ全ての人にそういう思いを馳せる必要はないかも知れないが、これであと50年もたったら、いや、100年たったら皆な死んでる、なんて悲しい。

 

 舞台の人なら、死んで舞台に立つことは出来ないから、そういう目にあうこともないだろうが、死してもなお観客に見てもらえる。動く絵に出た人の宿命だ。死なないまでも、年を取ってゆく自分を置いて、映画は時を止めたまま、ほぼ永遠に残される。残すための芸術、映画は本来そういう特殊な位置を占めている。

 

 昔のものはともかく、これからはフィルムでは難しいことも、別な手段でならごく簡単に残せる方法が出来たから、これからの人は例えば、何百年も前の人々の暮らしを見ることが出来るようになるわけだ。

 

 そんな目で見える記憶がこれから膨大に蓄積されて、どのように管理されてゆくのだろう。映画とか、テレビの作品ならともかく、どうでもいいようなものまで、残ってしまう。

 

 薄れゆく記憶だから、尊いものであったものが、いつでも取り出せるものになってしまって、いつでも見ることが出来るようになったら、かえって見ようとする意欲がなくなってしまうかも知れない。少なくとも個人の記憶は鮮やかな映像に残しても、当人だけの慰めになるだけで、しかも写真ならともかく、動く絵が記憶を固定させてしまって、本当の記憶はどうでも良いものにしてしまう恐れがある。旅行に行って、写真ばかり撮っていて、どこも覚えていない、なんてことある、そのビデオ版だからもっとひどいことになっている。

 

 映画は別、きちんと管理して、残しておかないと、この映画の轍を踏むことになってしまう。残っていてよかった。

 

監督 伊藤大輔

出演 大河内傳次郎、木下千代子、沢村春子、市川市丸、嵐珏松郎、嵐岡若、中村仙之助、片岡小亀、尾上竹雀、金山欣二郎

1927年

 政治弾圧は国民を分断し片一方を抹殺する。その芽は小さくても潰されるべくねらわれる。チェジュ島であったことが台湾にもあった。

 

 阿月の兄の隠れ家は丈の高いサトウキビ畑で、阿月は毎日食べ物を持っていき話をした。兄は腕時計を渡して針を回し、先のことを想像する。来年、再来年、5年後、10年後のこと、明るい未来をかたる。見通せない未来は霧の中にある。先のことは明るい未来で戦争もない、迫害も弾圧もなくなっている。希望を持って未来を語る2人、彼らのささやかな希望はぜったい実現されてほしい。

 

 兄がなぜ犯罪人として追いかけられているか。国の将来を真面目に考えてるのに何故。祖国を憂うるに二種ある。単純に言って右か左、どっちだって国を想ってることに変わりはない。方法の異なりは話してみればわかる。誤解があっても、話してみればそういうことだったのか、と納得することもあるだろう。話し合いはまとまらなくても良い。決裂したって構わない。自分らだけが絶対的に正しいわけではない。間違いもある、荒削りな考え方がそうやって正されていく。暴力を伴う争いに未来はない。

 

 処刑された兄の遺体を引きとるため、嘉義から列車に乗って台北へ向かう。殺しておいて、取りに来い、とはなんという言い草だ。どんなところに置いてあるかわかったもんじゃない。それを見せられた時の阿月の心情は察するにあまりある。人間の尊厳さえないがしろにされて捨てられていた。

 

 そもそも台北に着いてからの行状がすごい。これが冒険活劇なら許せる場面の連続。ひとつ困難をのりこえると次の問題が起きる。それをどんどん片付けていき、最後はめでたし。とはいかない悲しさが残る。

 

 日本は韓国にも台湾にも大いなる迷惑をかけた責任がある。歌にアンサーソングがあるように、映画で応えてみてはどうか。

 

監督 チェン・ユーシュン

出演 ケイトリン・ファン、ウィル・オー、9m88、ツォン・ジンファ、リウ・グァンティン、ビビアン・ソン

2025年

 中国がどんなに辺鄙な所かは、なんとなく知っている。田舎と都会の相違も大きくあるようだ。中国映画からでさえも、そういったことが強調されるくらいだから、外国人が彼の地を訪れたら、自国とのとんでもない落差に驚くだろう。この映画は、そういった外国人(この場合日本人)が、考えること、行動すること、また思うこと、勢いでやってしまうこと、などが次々と出てくる。そのどれもが、経験していないにかかわらず、きっと自分もそうしてしまうだろうな、と思うことばかり。けっきょく日本人は一色なんだと、確認させられる状況なのだ。

 

 日本人が中国の奥地に、思いがけず行ってしまうと、どうなるか。とこうなる。そこは仙人が出てきそうだ。仙人のかわりに、空を飛ぼうとする鳥人がいる。腕に大きな羽をつけている。彼らは実際に飛んでいるように見える。飛び方を教える先生もいる。子供の生徒もいる。中国の山奥に、空を飛ぶ人間がいたとしても、不思議じゃない気がする。その反作用で日本や日本人がやってきたこと、すなわち自分が、とても醜いことのように思われてくる。その上、ここには日本人の典型、サラリーマン、やくざが揃っているのだから、典型はますます先鋭化していく。すなわち、思いきり反省し、日本を捨てる。自分のなさけなさをなげき、この地にとどまってしまう。これまた日本人なら多くの人がしそうな行動なのだ。

 

 この場所にいるような感覚にさせられた観客は、案外いい気分になってこの映画を見ている。やくざの行動が意外でもなんでもなく、自分も彼と同じことをしてしまうかも、と思わせる。

 

 冷静に考えてみると、この教訓めいた話が椎名誠原作というのも納得できる。いかにも彼らしいじゃないか。一時の気の迷いかもしれないが、悪くはない迷いだ。こういう話が成立するのは今で言えば、中国しかないように思う。チベットもそうかもしれない。とにかく、地球上はかなりの範囲、開発されつくしているから、こういう話が作られる土地は地球にとって貴重だ。また、分かり切った場所の分かり切った話を見せられるより、こうした思いがけない意外性もまた貴重だ。少し無理を言えるなら、もうちょっととんでもない話になっても良かったように思う。

 

監督 三池崇史

出演 本木雅弘、石橋蓮司、マコイワマツ、王麗黎、奥田智彦、徐光輝、港雄一、吉瀬美智子

1998年

 子どもを育てるのは絶対的な義務ではないが、誰かが育てる必要がある。多くは両親が育てる。その際、いくつまで育てる責任があるだろう。成人になるまで、18歳か20歳、あるいは甘やかせて大学卒業まで。

 

 ロランは母親エステルがいつまでも離してくれなかった。それには事情があった。ロランが生まれつき内反足だった。治療法はある。手術してギプスをすれば歩けるようになる。それなのにエステルは一切の治療を拒否した。ロランは立つこともできず、ねころんだままはい回るしかない。それでも腕で方向転換して家の中で動きまわる。

 

 ちゃんと治療すれば治るのに外にも出さず、家にいっぱなし。学校にも行かせない。市民課の人が来ても断るばかり。ロランは家にいて寝ころがっている。外で寝転がるわけにはいかないので外出はさせない。

 

 母親はこのままではいけないとは思わない。この部屋で大人になるまでいさせるのだ、という感じに思える。この家族の権限は母親にありという法律があるかのようだ。ロランを守りたくて他の誰にも触れさせたくない。そのくらいの勢いに誰も反対しない。

 

 でもこのままだと文字も読めない。それは兄弟に助けてもらって読めるようになった。でも他の勉強はどうなる。

 

 シルヴィ・バルタンはどんな関わりがあるんだろう。これが楽しみだった。有名歌手が好きになって強引に会いに行って、なんてのではなかった。大人になったロランが初めてシルヴィ・バルタンと会う場面、有名人だから緊張してうまく話せない。

 

 学校にも行かないロランがシルヴィと遭遇するまでになる経緯は単なる出世物語ではない。でももちろん母親の力は凄まじかった。雨にも負けず雪にも立ち向かい前進する母に尻を叩かれながら、けっきょくちゃんとした職業を得た大人になった。このくだりは思い出すだに嬉しくなる。母親に反発しながら結果的には従いつつシルヴィ・バルタンには会えたし、それ以上の関わり合いもした。

 

 原作者の自慢話ならそれでも良い。こんな気分のよくなる自慢なら聞いてやろう見てやろう。

 

 俳優が良い。エステル役のレイラ・ベクティ最高、ロラン役ジョナタン・コエンはもちろん、子役のロランからすばらしく育っていくし、60年代のパリの街角、車、ファッション、歌はもちろんシルヴィ・バルタン。全てに目が行きとどいている。

 

監督 ケン・スコット

出演 レイラ・ベクティ、ジョナタン・コエン、ジョセフィーヌ・ジャピ、シルヴィ・バルタン

2024年

 ローレル(ウーピー・ゴールドバーグ)は、ウォール街での出世を目指していたが、同僚のフランクが昇進し、彼の下で働くことにがまんできず、ローレルは独立して自身で会社を立ち上げる。それでも男性優位のウォール街では女性であることで誰からも相手にされなかった。そこで架空の白人男性カティをでっち上げると、ローレルの会社は急成長を遂げ、業界内ではカティの名前が知れ渡った。

 

 この邦題はだめだ。ハル・アシュビーの「チャンス」のイメージが強くてほぼ同じなのは許しがたい。とはいえ、「チャンス」自体がBEING THEREなのだから、これもしかたないかな、と思う。安易な題名を付けるからこういうことになる。どちらの題名も中身とフィットしていない。ちなみにこの映画の原題はThe Associate 。

 

 それはさておき、主役にすえる人に合わせた映画作りをしてもらえる、というのは役者にとって幸せなことだろう。それはただ単に主役になった以上のことだからだ。いわゆる主役をはれる役者になること自体が大変なこと。その上、その価値をより高める努力があって、ようやく彼女のような俳優になれる。ウーピー・ゴールドバーグを初めて「カラー・パープル」で見た時、現在の彼女は想像できなかった。あまりにも過酷な運命にもてあそばれる女。あれも彼女一流の演技だったのか。それにしても、その後の活躍はすごい。

 

 彼女自身の出世物語と重ねて見られるのが、この映画の彼女の立場だ。相当優秀な社員で、重役候補でもあるし、彼女もそれを疑っていなかった。なにしろ実績がある。ああそれなのに、年齢も実績も下の男性に追い越されてしまった。

 

 アメリカは実力主義だというから、彼の方に力があるのなら仕方ない。だが、そうではない。彼が男性であるということで、というか、彼女が女性であることから、重役にはなれないのだ。こんなことがあっていいのだろうか。あってはならない。それで、そんな会社は辞めて、新しい会社を作るが、ここでも女性であることの壁がある。女性では相手にもされないのだ。特に金融コンサルタントという職種だからかもしれない。昔気質の世界、これは日本でもそうだ。大切な金を女にまかせるなんて、ということ。ここからあとは、ミセズ・ダウトファイアと化す。

 

監督 ドナルド・ペトリ

出演 ウーピー・ゴールドバーグ、ダイアン・ウィースト、ティム・デイリー、べべ・ニューワース、レイニー・カザン、オースティン・ペンドルトン、イーライ・ウォラック、ジョージ・マーティン

1997年

 気になる俳優がいる。今作のスティーヴ・クーガンがそうで、それだけで見にいった。スティーヴン・フリアーズ「あなたを抱きしめる日まで」、ジョン・S・ベアード「僕たちのラストステージ」などで堅実でいて気をぬいた演技は安心して映画に入っていける。

 

 ペンギンは久しぶりに行った水族館で身近に見た。京都駅に近いところに水族館? と思ったが、京都は海に接していたんだ、と納得。京都はお寺ばかりではない、当たり前だけど。いつか京都の海を眺めてみたい。

 

 1976年のアルゼンチン、南米は政治が不安定。アルゼンチンも例外ではない。軍人が政府に口を出すと碌なことにならない。武器を持ってるからね。それでも通常の暮らしはある。

 

 ペンギンは突然現れた。ウルグアイに息抜きに行った時、重油にまみれた姿を見た。水鳥が重油で真っ黒になった姿はニュースで見た覚えがある。たしか重油輸送船が座礁して重油が海に流れ出たのだった。

 

 ペンギンが油まみれ、助けるしかない。ホテルにつれて帰りバスタブで洗う。洗ってみたらきれいになった。ちょこちょこと歩く姿もかわいい。ペンギンを飼うのも楽しそうに見える。水場のプールでもあれば問題なし。バスタブでもなんとかなる。

 

 国境をなんとか越えてアルゼンチンに戻った。ペットとして飼うことにした。名前はサルバトール、鳥だけど飛ばない、歩くけど速くない、こんなペットいてもいい。飼ってる人いるんじゃないか。海に返そうとしても彼のところにもどってくる。どうやらなついてしまったようだ。

 

 ペンギンをどうするか、どうしようもない、自分の行くとこに連れて行くしかない。トムは仕事が英語教師で、この学校の生徒は成績も態度も良くない。教室では一応おとなしくしているが、真面目に勉強する気はない。そんな時ペンギンを教室に連れて行ったらどうなるか。さいわい小さいペンギンなので運べる。生徒たちの反応は意外にも大騒ぎにはならない。

 

 他国のこと他人のことはあえて無関心を装って心を開かなかった。でもペンギンが開いてくれた。新たに知った人たちが反政府派として逮捕され、トムも捕まってしまう。

 

 政治家が強権を発揮すれば、いやいやながら国民は従う。軍隊や警察は仕方なく仕事だから従うしかない。アルゼンチンの警察は怪しそうに見える人物を捕まえて数日牢に入れる。一応やることをやらなければならないから、捕まえられた側はあきらめる。つまり上部が変われば下も同じように変わる。

 

 ペンギンと人間の違いは何か考える。頭脳があるかどうかだ、動物は生きるために子孫を残すために生きる。人間のように頭を持つとろくなことを考えなくなる。ある程度の知能なら、戦争にはならない。そのくらいで済むんだから、人間がこうなったのは頭脳が発達したためだ。この世の中で賢く生きるには何も知ろうとしないことだ。これは矛盾する言い方になるが、わかっていて目をつぶるのは辛いがわからない状態なら困る事は無い。しかし正しく物事を理解する人がきちんと判断して、そんな人が増えれば独裁者は消える。でもそうならないし増えるばかり、ペンギンになろうか。

 

監督 ピーター・カッタネオ

出演 スティーヴ・クーガン、ヴィヴィアン・エル・ジャバー、ビョルン・グスタフソン、アルフォンシーナ・カロッチオ、デイヴィッド・エレロ、ジョナサン・プライス

2024年

 なによりも主役のチャップリンを演じる人にこの映画の成功がかかっていると言っても差し支えないだろう。誰もが知っている人物、誰もが放浪紳士の姿を思い浮かべられる人物、誰もが愛して止まない人物、そんな人物が映画で蘇る。

 

 これはいつか誰かがきっと取り上げるだろう題材であったが、難しさも又立ちはだかっていた。その困難さを難なくクリアーしたと言えるかどうか、これは難問だ。彼の80余年に及ぶ生涯をもれなく描こうというのは無理があるし、ある部分を切りとって話を濃くした方が得策かもしれない。だがそうすると、他の部分が見えなくなってしまう。この映画は企画するのは容易だが、実際に作る段になると難しさがグッと増す。

 

 今、この映画化を実現しうる唯一無二の人、リチャード・アッテンボローが最善の方法で映画にした。2時間25分という短い時間の中で、チャップリン自身を、チャップリンの映画を、チャップリンのたたかいを、詰め込むことは本当は不可能なことなのに、それを可能にした功績は多いに認められる。

 

 今までいろんな機会で彼のことは聞き知っていたから、この映画から特別に新しい事実を得たことはないが、生身の人間が映画という架空の空間ではあっても、彼の生きた時代、彼と関わった人々、彼が抱えた悩みを見せられたのは胸に迫るものがあった。

 

 天才チャップリンでも、映画の創成期にハリウッドに行かなかったら、舞台のコメディアンで終わっていたかも知れない。彼が持てる才能を開花させる土壌を得たからこそ、存分な仕事をすることが出来た。一度掴んだ運をどのように活かすか、これは映画の興業や彼の人気とかに、はっきり数字になって現わせられるものだから、彼がどんなに強運だったにせよ、彼の映画が多くの人々を引きつけたことは運が良かったからだけではない。

 

 努力もしただろう。だが彼の天分が映画という新しい芸術で花咲いたのはほとんど僥倖ではないか。音楽家とか絵描きなら自分のペースでやればよいのであって、これが映画を作る人では特にその揺籃期には技術革新の波に翻弄され、かなりの人が消えていった。チャップリンにもその危機は訪れた。彼が作った映画のほとんどは音のないものであり、トーキーには最後まで抵抗し、どうしようもない最後の最後に声を出した。これが意味不明の言葉、意味を持った言葉を発するのなら、どうしても発言したいこと、このように彼は思いを胸に深くためこんで、彼の表現方法である映画という手段を使った。それがどんなに社会的に大きな波紋を投げかけるかを知りながら。

 

 彼はただの映画人という枠を越えた人物になっていた。彼の行動がどのくらいの影響力を持っていたかは、今私が知る由もないが、当時のFBI長官フーバーは彼を共産主義者としてマークしていたし、どんなに汚い手を使ってでも彼を葬り去ろうと試みた。50年代にアメリカを吹き荒れたアカ狩りの嵐に、チャップリンは直接晒されることなく、40数年暮らしたアメリカを去り、以後20年間訪れることはなかった。

 

 彼はアメリカが自分を捨てた、と思っていたし、アメリカ人が自分の映画をもう愛してくれなくなったと思い込んでいた。だから、1972年にアメリカのアカデミー協会から招待を受けた時、迷っただろう。石もて追われた国に再び見舞えることが出来るのだろうか、アメリカの人たちから又非難されるのではないか。アメリカの良いところ、悪いところ、みな知っているつもりでも不安だ。祖国イギリスからも、第二の祖国アメリカからも見離されたらどうすれば良いのだろう。

 

 アカデミー会員はすなわち仲間たちだ。苦楽を共にした分かり合える友人たちだ。彼らは、50年当時にもりっぱに抵抗した、非米活動委員会を困らせた仲間たちなのだ。むげに扱うわけもないのに、舞台の袖で彼の映画の一部が上映されるのを見、その反応を、暖かい拍手を聞き、涙ぐむ。この実際の映像は見たことがあるが、彼の涙と、感謝の言葉が思うように出てこない、あのチャップリンの顔が思い出される。映画ではあえてここの場面の寸前で終わりになるが、あの場のチャップリンはロバート・ダウニー・Jr.の名演でも復元不可能だったろう。

 

監督

リチャード・アッテンボロー

出演 ロバート・ダウニー・Jr.、ジェラルディン・チャップリン、ダン・エイクロイド、モイラ・ケリー、アンソニー・ホプキンス、ケヴィン・クライン、ダイアン・レイン、ケヴィン・ダン、ミラ・ジョヴォヴィッチ、ペネロープ・アン・ミラー、ポール・リース、ジョン・ソー、マリサ・トメイ、ナンシー・トラヴィス、ジェームズ・ウッド

1992年

 映画を見たことのない人がいる。しかも自分の話す言葉ケチュア語の映画がない。世界を見わたせば、そういう人は多いと思う。世界中に何千とある言語、廃れゆく言葉の方が多いと思う。どんどん減って最後の一人になる。孤独だろう、話す相手がいないのだから。生物の絶滅の原因は人間によることが多い。対して言葉の消滅は他文化の侵略による。これ以上生半可なことを書いても何の価値もないのでやめる。

 

 映画をスクリーンないし壁に投影させて見せるのを映画鑑賞とする、これを映画を見たことにするならば、そんなに難しいことではない。自分の町に映画がやってくる。簡易なスクリーンを張って映画を映す。夏休みの夜の校庭で見た覚えがある。映画館のあるところでもあったことだ。映画館とは違った特別な体験だった。映画館は日常にあり、校庭のスクリーンは滅多にない経験だった。

 

 シストゥが映画を知ったのは風に飛ばされてきた新聞の広告だった。なんだかわからないけど魅力的な写真で映画を紹介している。これはおもしろそうだ。映画の広告写真と惹句に惹きつけられた。広告は功を奏した。

 

 映画の存在を知ったアンデス地方の小さな村に住む少年は村人たちに知らせる。世の中には映画というものがあって、たいそう面白いらしい。

 

 離れた町に移動映画がくる。そこにシストゥを行かせて映画を見てくる。シストゥは村に帰って皆に映画の話をする、ということが村民会議で決まった。

 

 この村では何事も村人の話し合いで決めることになっている。この民主主義がステキじゃないか。人が少ないからできることだし、みんなで話し合うのも外の梢の下で、のどかなこと。

 

 語り手のシストゥの手とり足とり口を動かし表情大きく目を輝かせて語る語るかたる。村民にとって映画は聴くものだった。話を大げさにするのも芸のうち。

 

 映画を語る話芸がある。小説のあらすじを話すのは芸にならないのに、映画は芸になる不思議。映画は演劇だから人が演じる。小説で人物が動くのは読む人の頭で再生されたものだ。だから読む人ごとに違う映像が作られる。映画は与えられる映像に依る受動である。ある程度限定されて届いたものは観客の創造を許さない。狭い部分を楽しむ。これがまたいい。

 

 話題にした映画は観客に大いなる共通項をくれる。そこであーだこーだ言ってればいい。他人に提供する話芸に程遠い話でもいいじゃないか。シストゥは良い見本だ。ああ言うふうに映画を話したい。

 

監督 セサル・ガリンド

出演 ビクトル・アクリオ、エルメリンダ・ルハン、メリーサ・アルバレス

、アルデル・ヤウリカサ、ベルナルド・ロサード、フアン・ウバルド・ウアマン

2019年

 香港が中国に返還になったのは、1997年の7月のことだった。この映画はその前年1996年末から始まる。いよいよ来年、という時期に香港の人々はどのような気持ちでいたのか、あるいはどのような雰囲気だったのか、のいくつかの例をあげている。全ての香港人を代表しているわけではないが、これを作った人の感じ方であり、たぶんかなりの人が同調するのではないかと思う。

 

 だが、香港の誰もがこのように感じたかは分からない。じたばたしてもどうにもならない、と考えた人がほとんどではないか。アメリカやカナダに逃れた人もいるらしいが、香港ならではの仕事や、香港に愛着のある人がほとんどだろう。また外国に行くには少なからぬ金がかかる。海外脱出組と報道されていたのも、俳優とかの金持ちたちの動向だった。普通の人がわざわざ慣れ親しんだ土地を離れるわけにはいかない。一応これから50年はこのままの政治体制でいくということでもあるし。何も変わらないはず、という半面、中国の強硬姿勢もちらちらとのぞき見えることへの不安も確かにある。これが最も心配な点だ。もっとも、50年経たない内に、東欧やソ連で起きたことが中国でもあるはず、という希望的観測もある。これは、多分ありそうだと思う。だけど、中国はしぶといから、どうなるか、予測することは難しい。

 

 ジョンはイギリス人のジャーナリスト、香港に住んで15年になる。イギリスが香港という植民地をどのような意識で見ているのか、軍事的な重要性は大きくはないだろう。大英帝国の栄光も今は昔となり、とすると香港は最後の植民地となるのか。奢れるもの久しからずとは、よく言ったものだ。だが今のイギリス人の中で、植民地があるということを誇りに思っている人はあまりいないだろう。国内の問題でそれどころじゃないからだ。

 

 私が香港をどのように考えているか。中国の一部であり、中国としては一番発展した場所という認識であり、ここにはイギリスは入っていない。たぶん実際の香港に立ったとしても、イギリスの影はあまり見えないだろう。なにしろ中国および、中国人の勢力はすごい。地球上のどこにもいて、それなりの影響力を持っている。そんじょそこらの弱小民族ではない。中国人は10億余りもいる。これはとてつもなくすごいことだ。今はアメリカが一番でしゃばっているが、いずれその地位は中国にとって替わられることになりそうな気がする。

 

 中国本土と香港の関係も微妙だ。それはきっと中国人でないと分からないことかもしれない。というのは、この映画と、あとに見た「ラブソング」とで、ほのかに見えてきたことがある。すなわち、同じ中国人といっても、大陸の、台湾の、香港のとそれぞれに異なる人たちなのだ。大陸内でも人種もさまざまであるし、人口が多い分、複雑にからまった構成になっている。それを全て把握しろ、と言われても無理だ。こうして少しずつ映画からでも理解していくしかない。全ての人々が分かり合えたらいいが、そうもいかない。だが難しいことでも努力して理解することは大事だ。

 

 この映画での男女は二人とも香港に一時停止している状態といえる。この地にこれからもずっといるのか、又は自分の生まれた土地に帰るつもりなのか。あやふやな安定していない自分を意識しつつ、97年7月に香港にいること、を意識しなくてはならない。イギリスが中国の一部から去ることになって、彼もある決断を下す。

 

監督 ウェイン・ワン

出演 ジェレミー・アイアンズ、コン・リー、マギー・チャン、マイケル・ホイ、ルーベン・ブラデス

1997年