ギンレイの映画とか

ギンレイの映画とか

 ギンレイ以外も

飯田橋にあるギンレイホールにデジタルシステムが入ったと聞き、まだやる気があるのを知って、又ギンレイ・シネマクラブに入ろうと決めた。
これを期に、最近つとに怠けていた感想文という駄文をつけてみることにした。

 富澤ユリが上京して俳優をめざしたがうまく行かず、故郷の下関に帰る。何かをめざすと東京になるのは需要があるからだ。仕事が多くある、特に俳優のように特殊な仕事は演じる場やテレビ局、撮影所のあることが必要だが、東京である決定的な理由はない。舞台なら東京でなくてもあるし、テレビ局、撮影所もある。

 

 東京以外でも俳優できなくないか? 山の中や過疎の地域ではない、映画館や劇場のある地方都市なら劇団もあるだろう。そこに潜り込めばなんとかなりそう。東京で役をもらえなかったのに田舎で俳優はやはり無理か。仲間たちとほそぼそ芝居を続けるのならなんとかなりそうだ。

 

 俳優や芸人志望の人はいくらでもいるだろう。そして皆が東京に行く。大都市に集中した俳優志望者の競争率は高まるばかりだ。これはどちらが先かという鶏卵論にはまり込んでしまうだけだ。解決はつかない。競争率の高い大学に入るための方法を解いても全面的解決にならない。志望者全員を無試験で合格させたら学校は人で溢れる。教室にも入りきれない。教師は足りない、まともな授業は開けない。いっそ抽選で決めるのはどうか、ただし卒業は難しくする。

 

 勉学はともかく社会に出てからの生活、つまり生活費を稼ぐ方法が問題になる。仕事はなんでもいい、好きなことをしたい、有名になりたい、政治家になって社会貢献したい。働かないでぐーたらしたい、これも選択肢に入る。

 

 ユリは父が経営するFM局の手伝いを始めたが、局は経営危機だ。スポンサーが降りるといってきた。放送局にとってスポンサーが一番だ。金をスポンサーが出さなければ終わる。悲しい立場だ。地方のFM局でさえこうだ。全国展開する放送局は放送法で許認可権が政府にある。放送の内容まで毎時審査されるようだ。地方のFM局が審査されることはないと思うが、リスナーがいなければ成り立たない。身近な内容で、かつ役立つ放送。どうすりゃいいんだ。

 

 局では色々と試してみる。ラジオで朗読、小説の朗読は実際にある。小説を読むのではなく聴く。読むのが苦手な人はいる。黙って聞いていれば読んだのと同じ効果がある。これなら簡単だ。しかも朗読者は朗読に長けた俳優などがする。たぶんじっくりと聴けば楽しめると思う。私は読む派なので聴いたことはほぼない。

 

 小泉八雲の怪談「耳なし芳一」をゆかりの下関から放送することになる。全国各地にゆかりの話がある。童話でも小説でも唱歌でも良い、いくらでも放送にのせられるじゃないか。工夫次第で生き延びれる。はたしてユリはここに居続けるのか、東京に戻れるのか。ユリの代わりに俳優の深町友里恵を注目しよう。

 

 旅行に行った時、その地方の放送を聞くことがある。今は東京にいても地方のラジオを聴けるようになっているようだが、やはりその土地にいる時に聞くのがいい。下関のFM局、あったら聞こう。

 

監督 グ・スーヨン

出演 深町友里恵 加藤雅也 大後寿々花 西尾聖玄 山崎静代 佐野史郎 大和龍之介 澄田壮平 伊藤由紀 IKKAN 坂牧良太 鎌田秀勝 サトウヒカル 加賀成一 福場俊策

2023年

 座頭市は見たことがなかったので、いちおう見ておかないといけないかなと思った。痛快な部分も少しあったが、おおむね暗くて辟易。一本見たから座頭市はもういい。

 

 暗い原因は平手御酒のためと思われる。演じるのは天地茂、この役にぴったり。座頭市はずいぶん若く精力がありそう。今回のフィルムセンターで上映された60年代の日本映画は私がまるで見ていない頃のもので、しかもこの映画のように有名なのがあって、それでもどうしても見たいと思わせるものがなくて、行こうかどうか迷うことが多い。

 

 これで50年代とかそれ以前だと無条件で見たくなるのはどうしてだろう。日本映画の内在する力が60年代にはすでになくなっていたのかどうか、きちんと見ないで何を言うかと思われるかもしれないが、行く気を起こさせる映画という点では現在の日本映画が一番なくなっていると思うし、それならまだ60年代には少しはあったと思う。こうしていくらかでも見に行っていることがその証拠にもなっている。誰に対して証拠立てているわけではないが、強いて言えば自分に対してだ。

 

 座頭とはどういう意味か、盲ということかあるいは按摩ということか。とにかく彼はめっぽう腕が立つ、だから表面上は下手に出ているようでいて、腕には自信があるからどんな危険なところへも出向いていく。映画の主人公はほとんど死ぬことはないから無鉄砲なのだ。たまに死んだりすると意外に感じるし、主人公は死んではいけない。

 

 でもこの映画の主人公のように絶対に死なない決まりになっているのは先が読めて面白くないこともある。決闘しても勝つに決まってるから安心、これではスリルがない。特に今回は相手が平手御酒だから、彼は自滅するに決まっているし、実際にそうなる。敵味方に別れているといっても表面上のもので、それぞれに付いているのは一時のものでしかない。やくざの出入りの手助けみたいなものだから、ぜんぜん危機感がない。なんだろう、この映画は。重く陰鬱な印象に終始していて見ている者の気持ちも沈む。娯楽に徹するなら明るいのがいい。

 

監督 三隅研次

出演 勝新太郎 万里昌代 島田竜三 三田村元 天知茂 中村豊 真城千都世 毛利郁子 南道郎 柳永二郎 千葉敏郎 森田学 舟木洋一 市川謹也 尾上栄五郎 山路義人 堀北幸夫 福井隆次 菊野昌代士 越川一 志賀明 浜田雄史 愛原光一 西岡弘善 木村玄 千石泰三 谷口昇 細谷新吾 長岡三郎 馬場勝義 結城要 淡波圭子 小林加奈枝

1962年

 新聞の紹介記事で俳優が実際に演じた画像を元にアニメにしたという。それに興味を持った。どんな具合になってるか楽しみ。

 

 映画では人の動きを取り入れてCGにしたりはよくあった。アニメにするということは、人物の動作仕草などを逐一動画化されたのかと思ってしまった。これが大間違いだった。というか私の勝手な思い違いだった。

 

 実写のおおまかな動きをアニメにしたようで、そこからは例えばあんずちゃんから森山未來が透けて見えない。二つの映像が頭の中で重なることはない。かけた労力の割には結果が伴っているように思えなかった。

 

 人が演じる実写とアニメあるいは漫画の違いはある。でも実写に近いアニメもあるし、この映画のようないわゆる漫画の絵の場合、実写からは一番離れている。それなのに実写からアニメにしたのが分からない。そういう痕跡が見えない。逆からみると、和尚の漫画顔そのままの人物はいない。猫は架空すぎて語れない。完璧にアニメなのに実写を介した理由を知りたい。

 

 気になった部分はさておきアニメに入ろう。夏休みの海のある田舎のたたずまいは懐かしさと思い出を連れてきてくれる。私の田舎は海辺でも山でもない、田んぼが広がる平凡なところだが、ここでは田舎と言えばこれ、という感じの典型で描かれている。

 

 そこにいま人気の猫を出す。しかし猫が言葉を話すとして、こんな感じかな。歳は30を超えて37歳の化け猫、化けて人間になった。猫が人間に取り憑いて化け猫になったのではない、猫のまま化け猫に変身した。化け猫の定義はこう変わったらしい。

 

 しかしこの化け猫は怖くもないし可愛くもない。憎たらしい兄ちゃんだ。猫が人間になるんだったら、本当に化けてほしい。可愛らしく化けるのは反則だ。

 

 せっかくこれだけ豪華な俳優を揃えたのだから実写版を作っても良かったんじゃないか。あんずちゃんをどうするかが問題だが、ここは思い切ってアニメのままにする。どうせ違和感のある役だから違和感満載にしましょう。

 

監督 山下敦弘 久野遥子

出演 森山未來 五島希愛 青木崇高 市川実和子 鈴木慶一 水澤紳吾 吉岡睦雄 澤部渡 宇野祥平

2024年

 植物科学者ロバート・キャンベルは若き科学者レイ・クレインとアマゾン奥地で極秘の研究に励んでいた。ロバート・キャンベルは秘密主義者のように研究内容をレイ・クレインにも内緒にしていた。これでは一緒に研究しようがない。何か深いわけがあるようなないような変な具合なのだ。

 

 アマゾンに分け入って何かをしようとするのは、なにも木を必要とする人たちだけではないようだ。ロバート・キャンベルは深いジャングルの中でゴルフをしている。そのためにそこにいるわけでもないのだが、そんなのんびりとした研究のようだ。そんな様子を見たレイ・クレインが驚くのももっともな話だ。このいっぷう変わった男はいったい何を研究しているのだろう。

 

 そこが、この映画の鍵になるところで、大したことはない、ということでもないのだけれど、何か現実味がないので、切羽詰った感じがしない。癌の特効薬が植物から見つかったら、それは良いことだろう、すばらしい仕事に違いない。それを阻むのが森林を破壊する者たちと同一なのだから、相当な悪人に仕立て上げられたものだ。全ての人間の福音になるものを見つけたのに、それが「悪人たち」によって消滅させられようとしている。それを救うのは、悪人と同じ人間であった、なんていう話、アップルゲイトは承知しないだろう。森をちょっと見て、全てが分かったつもりで、頭で考え出したお話のようだね。解決をサスペンスに持ち込もうなんて、相当おかしい。

 

監督 ジョン・マクティアナン

出演 ショーン・コネリー ロレイン・ブラッコ モンテイロ・ダ・シルヴァ ホセ・ウィルケル

1992年

 クリスマス休暇は家族が集まって祝う大切な時期だ。お正月のようなものですね。日本はなぜかクリスマスまでも導入して祝うように何でも取り入れるけど宗教ぬきでやってる。もちろん少しだけど教会に行く人もいます。私も家のそばの教会に行ったことがある。雰囲気は好き。

 

 そんな大事な行事に行けなくなるのは悲劇でしょう。でもそうは言っても用事とか事故とか、どうしても行けない事態になることはある。このハイスクールの生徒の何人かがそうなった。要するに試験の結果が悪くて、そのままだと落第する。そこで先生が助け舟を出してくれた。

 

 追試するという、これは良かった。でもクリスマス休暇はなくなり、全寮制の学校だから家に戻らず、ここにこもって試験勉強しなければならない。しかも試験範囲が新しい課題となる。それなら落第でもいいか、となりそうだが、卒業後の行先が決まってる。これはどういうこと? 卒業もしてないのに大学が決まってる。アメリカの大学は高校の卒業を確認しないで入学を許可するってのか?

 

 高校もそうだし大学はさらに金がものを言うらしい。寄付の額でなんでも出来てしまう。アメリカの学校は私立ばかりだから金がかかる。金がかかるのは日本以上、日本では国立大学の学費値上げが問題になっている。アメリカはそんなもんじゃないらしい。もっともアメリカの有名大学は格が違う。アメリカのみならず世界各国から入学してくる。学費が高くても先々を考えると元が取れる、そうなってるらしい。

 

 さてほとんどの学生が去って学舎は寂しくなった。マサチューセッツは北部にあり冬は寒く雪が降る。夏に雪の場面を見ると目に涼しく感じる。6月の東京はほぼ夏なのでそう思う。でも実際雪に降られたら寒く凍える。実感を伴うために雪の場面は冬に見るべきだ。あるいは館内に超冷房をかけるのも良い。

 

 4人いた居残りが1人になって、先生、学生、食堂の料理長だけがここでクリスマスを過ごすことになる。ここから俄然面白くなってくる。3人は図らずも擬似家族になって暮らすことになったからだ。

 

 家族は仲良くするのがいいが、そうは行かないことがある。むしろ仲たがいして口もきかなくなったりする。この擬似家族はそうならないどころか本物の家族で失ったものを見つけて、あらたに家族を作ったみたいだ。自分の犠牲を払ってでも助ける。家族なら出来ることだ。

 

 本当の家族がうまくいかず、偽の家族が頼りになる、この矛盾。でも擬似が長引けば本当の家族のようになるでしょう。それで助け合って解決するならいいじゃないか。自分が犠牲になれば助かる人がいる。それでさしあたり解決になるなら、問題ない。

 

 これを悲しい結末と感じるか、4人をまとめて総括すれば悪くない結果と言える。教師は損な役目だ。でもそれも悪くないと当人が思っているようだ。

 

監督 アレクサンダー・ペイン

出演 ポール・ジアマッティ ダイバン・ジョイ・ランドルフ ドミニク・セッサ キャリー・プレストン ブレイディ・ヘプナー イアン・ドリー ジム・カプラン ジリアン・ピグマン テイト・ドノバン

2023年

 アンジェラ・ベネットは、コンピューターの専門家。今日もインターネット上をあちこち飛び回っている。自宅で出来る仕事だ。いいなあ、らくちんな仕事だなあ、とうらやましい。だが、そんな仕事ゆえの危機に遭遇してしまうのだ。内容はたわいのないもので、ようするにコンピューターのセーフティーガードのソフトを売らんがために強引な陽動作戦に出るというもので、そこにいる邪魔者をなんとか片づけようとし、かたややられまいとする話。そこが、現代の最先端インターネットに絡んでいるというのが目新しいところ。

 

 政府の機密データが盗まれてしまう。そのディスクの争奪戦となる。書類なら盗んでも持ち出すのが大変だが、データは内容は膨大でも持ち歩きもできる。従前のスパイ活動とは様相が変わっている。

 

 個人の情報がコンピューターの中にインプットされ、本人の言葉より、その情報の方が優先されるというおかしな状況がもはや到来している。コンピューターが単に個人の趣味や仕事の補助に使われているだけならいいが、データベースの重要な部分に使われ、絶対化した権威になってしまっているのが行き過ぎなのだ。これは燃料問題に次ぐ深刻な問題になりつつあるのではないか。使われている機械がなりかわってしまうという、まだ2001年になっていない時点であの映画とは違う形ではあるが、同様なことが起きつつあるのだから。

 

 インターネットは面白い、だとか世界が開ける、とか盛んにそう喧伝されているが、はたしてそうだろうか。普通のデータベースより近づきやすいし、いろんな情報をかいま見たり、暇つぶしには最高のおもちゃかも知れないが、あれほど持ち上げるほどのものでもあるまい。まあ実際にやったことはないから、実体はどうなのか分からないが、通信はやってもあの領域は後回しにするつもり。

 

 私がインターネットをのぞいたとしてもこの映画の主人公のような達人ではないから、狙われるようなことには決してならないから安心していい。それにしても、あんなこと、実際にはないよね。そうあって欲しい。

 

監督 アーウィン・ウィンクラー

出演 サンドラ・ブロック ジェレミー・ノーザム デニス・ミラー ダイアン・ベーカー レイ・マッキノン

1995 年

 何の説明もなく社員がたくさんいる部屋が写る。課長室にいる人は課長だろう。何かにおびえている様子だ。主任と相談をしている。仕事のことを話すようではない。打ち合わせの予定を決めている。仕事の時間以外の予定、つまり時間外の予定?とこれには?が付く。オフィスでもなく時間外に誰かと打ち合わせ、何だか変な会社だな。

 

 ここは会社ではなく役所だった。それも東京の省のつく役所、1952年なので、東京もまだ整備されておらず焼け跡や空き地が方々に見える。彼らの職場は焼け残ったビルを改装して使っているような感じだ。ビルというビルは薄汚れた外装を見せている。この後ぐんぐん景気回復、生活向上へとなっていくのだが、ここではまだ雰囲気さえ見えていない。

 

 だが建設局管理課の連中は景気が良さそうだ。給料は薄給だろうが別な方面からの収入がある。簡単に言うとワイロですか、やひな男が役人の部屋にずかずかとやって来ては、親が子にあげるように金を渡す。今夜のバー代に使うのですかね。要するに官民ズブズブ状態。今でこそパーティー券問題で揉めてるが、この頃は官民ピッタリ息の合ってること!

 

 いくら隠そう隠そうとしても実態があるんだから隠せやしない。民が官に付け届けをするのは常識、そうやって社会がうまく回ってるんだから、問題あるの? と言われてるみたい。でもこれだけあけすけにやられると、この役所で正義づらするわけにもいかない。小田切はたぶん入ってきた当初は、ここは変だ、悪いことしてる、やめてほしい、と思って課長に進言したことだろう。でもそのうち部屋の雰囲気に染まり、悪貨は良貨を駆逐する、良貨は悪貨に駆逐されることになる。そうなったら引き返すこともできず、安易にもらえるものは貰っとく、これに陥る。

 

 荻野課長は妻が結核で高原で療養中、金が掛かる。しかし汚職仲間の三好主任が左遷されたのを機に業者との付き合いを止そうと決めた。ところが新しく主任になった小田切は若く進取の気質があるので頼もしく思っていたのに期待が外れ、散々かき回されることになる。愛人の取り合いになったり、めちゃくちゃだ。汚職を平気でする役人は家庭生活もダメ、正しい愛も築けない奴らなのです。

 

 彼らを称して現代人とはよく言った!昔も今もの現代人は変わっちゃいないってことです。これなら現代の現代人を描けるね、こんな現代人はなくなりはしない。

 

監督 渋谷実

出演 池部良 小林トシ子 山村聰 高野由美 山田五十鈴 多々良純 伊達信 山路義人 水上令子 安部徹 芦田伸介 高松栄子 日夏紀子 望月優子

1952年

 字幕でこれが詩人、この人が主人などの説明があり、要するに説明解説がないと理解しにくい映画ではないか。それは私の理解力の低さもあるだろうが、そもそも難しい作りになっている。特にポーランドの歴史を知っていないし、監督がそれぞれの人物に何を託しているのかでさえ、掴めない体たらく。私が理解できるような映画ではないのだ。

 

 だけど、同じような例では、「こうのとり、たちずさんで」がある。あれは分からないなりに、分かった。それは映像の持てる力に大いに関係があるようで、アンゲロプロスは映像作家なのだ。かたや、ワイダはこの映画の場合、映像では勝負していない。セリフを逐一吟味してゆけば、少しは理解できるきっかけくらいは見出せただろうに、ビデオでない通常の映画の早さには乗せ切らない情報の量にあっぷあっぷしてしまった。

 

 ポーランドが近隣の諸国に占領され、ポーランドという国が一時消えていた頃の話。祖国がなくなっている状態は想像できない。侵略する方の国も嫌だけど、侵略されるのももっと嫌なことだろう。特にポーランドは歴史的にいつの時代も完全な独立はなかったと聞くと、現在のポーランドを思わないわけには行かない。

 

 やっとどこからも開放され独立出来たのに、今度は内部がばらばらだ。傷ついた小鳥がゆっくりと羽根を休める場所がない。今はポーランドに限らず、あそこらへんの国が抱えている問題は共通している。だから小異を捨て、大同に付くことこそ今必要なことなのに、こういう時にもそうはなれない。長年に渡るきしみのようなものが今どうしようもなく絡まってしまっていることに思いを馳せなければならないだろう。この映画を見て、こんなことくらいしか思い浮かばなかった。

 

監督 アンジェイ・ワイダ

出演 ダニエル・オルブリフスキ エヴァ・ジエンテク アンジェイ・ワビツキ フランチシェク・ピェチカ マレック・ヴァルチェフスキ イザァ・オルシェフスカ マヤ・コモロフスカ ミエチスワフ・ウォイト エミリア・クラコスカ マレック・ペレペチコ

1973年

 企業活動が全世界に広がり、金儲けのためなら何でもするしどこへでも行き、国や国境はないに等しい。もちろん自国の産業を守るための関税はあるが、抜け道はいくらでもある。大企業は税金は払わないし交付金までもらっている。TOYOTAはその代表。

 

 世界は資本主義社会だから、企業は資金を集めるため株を発行し、儲けの多くを株主に還元する。儲けを作った社員に出す給料は少なく抑え、内部留保が増え続ける。

 

 そんな社会は変わる。21世紀中に変化すると思う。変わる時は変わる。次世紀は素晴らしい100年になる。あるいは大失敗して滅びる。人類の過渡期が来る。それをみたい、知りたいけど無理だろう。

 

 サカイヒデキのいる会社の仕事内容は何だ。商社だろうが、物品を動かすだけにとどまらず、産地をアメリカのモンタナにして和牛を育てる計画を立てる。それがどれだけ無謀なことか、当のモンタナの牧場主やカウボーイは分かっている。自分たちになんてことさせるんだ、と怒りかつ呆れている。実状を知っているのは彼らなんだ。

 

 井浦新はアメリカ映画主演と頑張っているが、役のせいかぼやっとしていて、英語もおぼつかない感じがマイナスに思える。もちろんそういう役を演じているのは分かるけど、彼自身がこの人物に見えてくる。もっとカッコよく全てテキパキと解決する役をやって欲しかった。無理なお願いか、話がこうだから変えようがない。彼がアメリカで本物のカウボーイになれたならいいのだけれど。

 

 日本が無理な要求をして彼らを困らせている。やはり郷にいれば郷に従うでなくては物事は進んでいかない。彼らと共に何年か暮らしてみればいい。実際彼はそうして分かっていき変わっていった。相手の実態を知らずにこちらの要求だけを押し付けるやり方は通用しないことを知れ。

 

 アメリカの牧場の話で「荒馬と女」があった。野生の馬を捕まえて売る仕事の話。カウボーイは無くなることはない。牛を扱い育てることは無くならないからだ。

 

 カウボーイは具体的に何をする人たちだろう。馬や牛を飼う。酪農家も含まれる。何かイメージが限定できない。飼う牛を和牛に変え、高級食肉にして売る。そもそもアメリカで和牛が商売になるだろうか。食べるビーフは今まで食べてきたのでいいと思ってるんじゃないか。和牛がうまいのはわかっている。でもそれは和牛の本場で食べるものだ。観光に来て食すものだ。正式に和牛と名のれない和牛もどきに高い金は出さないだろう。

 

 日本の商社が狙った商売は外れるに決まっている。失敗するであろうプランは失敗に終わる。彼が人間的成長をすれば仕事での失敗は問題でなくなる。

 

 國村隼の使い方、間違ってない? 彼は狂言回しにもなっていない。

 

監督 マーク・マリオット

出演 井浦新 ゴヤ・ロブレス 藤谷文子 ロビン・ワイガート 國村隼

2023年

 小説と映画の違いはあまりない。映画化するにあたって、小説のこまかな部分がけずられたのは仕方のないことだし、全てを描く必要はない。文章と映像は表現方法が異なるからだ。原作はずいぶん前に読んでいた。カール・セーガンらしさのよく出た小説で、私はとても好きだ。SFというと荒唐無稽なものか、哲学的になってしまいがちだが、さすが現役の科学者らしい描き方で科学的背景がしっかりしている。

 

 アインシュタインの相対性理論によると、光より早いものはないという。だから、いくら早い乗り物が出来ても最高が光速なのだから、一番近い恒星でも4.5年かかる。実際には出発してから次第に速度を上げていき、半分の地点に来たら減速していかなくてはならないから、よけい時間はかかる。でも、その時間は地球上の時間であって、ロケットに乗っている人にとっては時間が遅くなるから、案外短い月日しかたたない、とかなんとか複雑なのである。ようするに光速の壁が厳然としてあるから、いわゆる宇宙旅行はとてつもなく困難なことになる。だから地球に宇宙人がやって来る気遣いはない。だが、この広大な宇宙に生命がある恒星がわが太陽系だけだというのは寂しい。この映画のせりふで言うと、「空間がもったいない」となる。

 

 人々の寝静まった夜に星を見つめる仕事を選んだ人たちはロマンチストだと思う。天に数多く輝く星がただの光の点でしかなかったら、探求する気も失せてしまうのではないか。この映画のような試みは実際になされてはいるが、現実にE・Tから情報をたずさえた電波がやってくることはないかもしれない。その確率が多いのか少ないのかさえ分からない。あてのない研究で終わってしまう可能性もある。だが人類が火星に行こうとしているということは、人間の探求心のあらわれであり、それは押さえようのないことだ。この好奇心がいいにつけ、悪いにつけ、人間の文明を発展させてきた。だから、この映画は希望的観測の最も良い部分を拡大してみて、こうなった場合のシミュレーションのようなものだ。

 

 ヴェガから意味のある電波が地球に届く。地球あての電波だ。それも中身を解析し、それにそって次なる作業をしてくれることを望んでいる、誰かからの手紙だ。それはボイジャーの円盤より、ずっと具体的で積極的な内容だ。あてのない相手に中身の濃い電波を送ることは無謀なことか、あるいは建設的なことか。地球からこのような電波をどこかに向けて送ることになったら、どんな内容になるだろうか。

 

 カール・セーガンは科学者として本を書いた。彼はキリスト教などの宗教についても関心はあった。厳格に科学的アプローチしていけば、宗教と科学の矛盾にぶつかる。古くは地動説、比較的新しくは生命の起源などだ。科学者は宗教家の世迷い言などに耳を傾ける必要もないのだが、そうもいかない場合がある。日本だから、のんきに宗教を語れるのだ。問題ある宗教めいたものが事件を起こすようなことがあるが、多くの人は宗教に対して真剣ではないように思う。宗教は人間の考えた気休め、あるいは当てにならないにもかかわらず、あてにしたい頼りたい誰かを想定したものだろう。その誰かを特定の人間にするわけにもいかないから、神という存在を作ったのだろう。だから、世界中には数え切れない神がある。

 

 科学的にしか物事を考えないでいても、人間には悩むことがあり、その解決は対人間あるいは神頼みすることも対処法の一つになる。それは煎じ詰めれば個人の問題になるし、その解決策はどういう方法であってもいいじゃないか。

 

 お頭の痛くなるようなことはさておいて、科学的またはSFとしてこの映画を見てみよう。電波がどの周波数で来るかが問題だ。これはいろいろなことが言われていて、きっと分かりやすい基準になる元素の周波数にするはずだとか、あらゆる周波数で探すわけにいかないから、とにかく当たりをつけて、しかもどの恒星を候補にするかも次の問題。太陽系くらいの規模と年齢が最もいい。なぜなら、この太陽系は生物が現にいるのだから、それに近い環境があればそれだけ、生命の発生もあったと考えられるからだ。あまり遠すぎると電波での応答に時間がかかりすぎてしまうから数十光年くらいが適当だ。それだけ絞り込んでも、数万の星を探査しなければならないことになる。めちゃくちゃ手間のかかることだ。それもほとんど確実性のないことなのに。

 

 次に、光速を超えて旅する方法はどうか。この映画ではワームホールを使った空間旅行をしている。ワームホールはホワイトホールとも呼ばれ、ブラックホールの出口のことで、ブラックホールから入った物質の噴出口になっている。そういうホールとチューブがあって、そこを通れば何光年も何十光年もの距離を一瞬にして移動できるらしい。ワープの一つの方法で、理論としてはありうることらしい。だが、実際にはブラックホールの内部がどうなっているか分からないし、多分とてつもない圧力でつぶされてしまうことになりそうだ。それに耐えうる物質で乗り物を作らなければならない。その他さまざまなまるで分かっていない問題が山積みになっている。だから、ヴェガからやってきた設計図どおりに作った乗り物が、どのような仕組みになっているかは地球人には理解できなかった。

 

 エリー・アロウェイが設計通り作られた機器に乗り込み着いた地で見たものは、彼女の幻覚だったのか、あるいは本当のことだったのか。私はこう考える。彼女は実際にワームホールを通ってヴェガにゆき、更に別な場所にゆき、ある星の上についた。そこで見た海や人はヴァーチャルリアリティのようなものだったのではないか。恒星のまわりを公転している惑星上の生命が地球に通信してきたのは事実なのだから、そこに彼女を連れてきたのなら、あんななにもない星であるわけはない。建物があり、生物がいるはずだ。それがなかった、ということはどういうことか。

 

 原作者がまた登場する。ここで明らかな文明を見せたり、宇宙人があらわれたりするようなことは避けたかった。その替わりに彼は天国を見せた。しっかりした解決をつけるのではなく、別な回答を用意したのだ。それはまことに微妙な問題の現時点での最良の答になっている。

 

監督 ロバート・ゼメキス

出演 ジョディ・フォスター マシュー・マコノヒー ジョン・ハート ジェームズ・ウッズ トム・スケリット デイヴィッド・モース ウィリアム・フィクナー ロブ・ロウ アンジェラ・バセット

1997年