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ギンレイの映画とか

 ギンレイ以外も

 演劇向きの話と映画向きの話がある。舞台上だけで展開される演劇と、どこにでもいくらでもカメラが動く映画は役割が異なる。手かせ足かせの多い舞台は、その範囲内での工夫がモノを言う。おおざっぱに言えば映像の映画、言葉の演劇。

 

 水と油ほど違う表現様式だが、両者はしばしばコラボする。舞台が映画に映画が舞台になることはよくあるし、その違いを超えて互いを尊重している。

 

 舞台から映画化された作品はほぼ分かる。登場人物が少ないとか室内だけで完結されているとか、ようするに予算の少ない作品は演劇の映画化だ。元の舞台作品を尊重してか、外に出ることもなく爆薬の活躍する場面もない。

 

 つまり映画は全方位で万全だ。演劇は相当な想像力を観客に強いる。映画は万人向けであり、対し演劇の敷居は高い。鑑賞コストの差も大きい。誰でも容易によく行く映画と、演劇を鑑賞するという覚悟のいる舞台の違いは大きい。

 

 試しに相互の観客数を見てみよう。映画は発表されているが、演劇の方はどうか。演劇を統合する機関はあるのだろうか。あるいは税務署などで統計が出ているのだろうか。まあ調べるまでもなく、映画の方が断然多いと思う。何しろ1億数千万人の観客がコンスタントにある。映画は庶民の、演劇は高尚な人のものと心得ている。

 

 

 体育教師の山本から補習を言い渡された。グラウンド5周かプール200mなら問題なく、体育の補習にふさわしいし、言われたことをやればいいだけのこと。

 

 場所はプール、うん、来た。水のないプール、えっここで何やるんだ? 

 

 舞台も映画も見てない人に質問する。どんな補習でしょうか? 

 

 思いがけなさ過ぎて想像外の意外さにびっくりした。補習は教師の裁量に任されてるなら、こんなのもありなのだろう。私には意地悪でしかないように思えた。

 

 補習をしながら2人の作業班はミクとココロ、補習に関係ない水泳部チヅルと元水泳部ユイも何となく来てプールに集う。先生の専制に怒り心頭の2人に同情的でありそうで、そうでもないような水泳部。この4人の問わず語りの会話が面白い。授業中でもなく休み時間でもない、時間潰しのような時間と空間にいて語ることは、恋話は少し、主に先生への不平不満になる。何しろこの補習の意味が分からん。ちゃんとした補習させろよ、と言いたい。

 

 そもそもどうでもいいことをさせる先生が悪い。終わりのない作業をさせるのは、やらなくてもいいよ、と言ってるも同然。

 先生って生徒の成れの果てなのに、偉そうにしてるのに腹がたつ。年齢だって10歳くらいしか違わない。それなのに大将と家来並みの扱いをされる。

 

 胸に手を当てて10年前の自分を思い出してみてください。先生に言いたいこと、あったでしょう。そして先生になった。立派な教師になりたい、この初志は貫徹されなかった。なぜかそういう先生ばかりに見える。教師の実態は分からない。生徒として相対した先生を見て感じたことがそうだった。その感覚が今も同じようだ。変わらない先生と変わらない生徒がいる。

 

 そして学校の映画は作られ続ける。子どもの生徒の学生の先生の教師の学校の話は、ほとんどの人の経験に合致して、甘いか辛いかの思い出を彷彿させる。これを描かずして他に強力な題材があるか。

 

監督 山下敦弘

出演 濱尾咲綺 仲吉玲亜 清田みくり 花岡すみれ 三浦理奈 さとうほなみ

2024年

 中国といっても広い、昨日見た「少女香雪」が現代だなんて信じられない。地域格差がとてつもなく大きくて、まるで違う世界が展開しているのが中国という国だ。上海は大都会だし、貿易港のある世界に開けた街だ。したがって、浮き足だった心と、外国に向いた目を持った人が多そうだ。この映画に出てくる人はそういう人たちだ。

 

 その目は近くは日本に向けられ、この映画でも日本に出稼ぎに行っている女性が出てくる。彼女は銀座でホステスとして働き、いい稼ぎをしているようだ。旦那は上海でタクシードライバーをしているが、稼ぎは知れたものだ。国際的出稼ぎが幅を利かせる街、上海。とはいえ、誰もが自由に外に行けるようになっているわけでもないと思うし、完全な自由化には程遠い国だから、まだまだこの辺は流動的な状態だろう。

 

 さて、この映画の主人公はインテリの女性で、研究所のような所に勤めている。彼女の夫は現在アメリカに留学している。離れ離れではお互いを束縛することがないかわりに、かえって自由に行動できるので、心も離れてしまうことも多くなりがちだろう。それは当たり前のことで、彼女の夫がアメリカで、女性と同棲していることが分かったことの反動で、彼女にも大いなる動揺が走り、あやまちをおかしてしまう。夫が浮気をしたんだから、こっちも浮気だ。

 

 だけど、こんな目には目を、は普通は通用しないが、そうなってしまった不自然な生活形態を改善するようにすればよい。それはすなわち彼女もアメリカに行けば良いのである。彼女が煮え切らない態度なのは理由があった。

 

 だが、何もかも解決を見ない限り先に進まないのでは、解決も未来もないだろう。いろいろと、解決させなければならない事柄があったとしても、心残りの人がいたとしても、その全てをクリアーしてからなんて言ってたら、いつまでたっても出発出来ない。万事うまく納まる解決からはほど遠い「解決」をもって、良しとしましょう。家族ばらばらの現状維持に未来はない。

 

監督 フー・シュエヤン

出演 シウ・チンシュアンスン・チュン チャオ・イン チンモン トゥ・ポンシー リー・チーシン

1991年

 中国が第二次世界大戦が終わって国共内戦を経て、台湾が成立したことは知っていても、その詳しいことも後のゴタゴタもよく分かっていない。今は落ち着いているようだが、それ以前の混乱の時期を映画でも見たことがない。大陸での大変な時期は共産党成立からずっと政権闘争ばかりで、もっともひどかった文化大革命など未だに総括も反省もない。要するに中国はその場しのぎというか、体制が維持できていれば良い、という感じで先のことはなんとかなるとでも思っているのだろう。

 

 さて台湾は中国の一地方の別な国だ。国交を結んでいる国は少ない。でも旅行にも行けるし、暮らすこともできる。大陸中国からの観光も盛んだ。現在の平和はたまたまのことか、あるいは安定した状態か。大陸中国の出方しだいで、どうなるか分かったもんじゃない。でも中国もむやみなことは出来ない。

 

 台湾と背後に控えるアメリカなどの有象無象の目がある。もちろん一番大きな対象は台湾本体にある。台湾の政治がどちらかに大きく傾くのも危険だ。しかしそれを利用することも怠らない。日本はアメリカの属国だから無視してかまわない。私は身近なまだ見ぬ台湾が今のままであってほしい。これだけを望む。

 

 中国が中華民国と中華人民共和国に分かれてしまった。いわばそれまでも国内で戦争が繰り返されてきた内戦の最後であった。こんなのはどこの国にでもあったことで、とりたてて言うほどのことではない。

 

 でも国土の大きさや人口の差は大きすぎて比べものにならない。大きな大陸にかろうじて付き添う小さな島とされ、世界からも国として認識されず、国交のある国は少ない。しかし台湾を無視することは出来ず、国交なき付き合いをしている。日本もその一つ。

 

 中国が台湾の独立を認めず、かつ出来れば中国に編入させたいと思っている。それには台湾自体の総意が必要だ。軍事で攻めるのは避けたい。台湾が手を挙げてくれれば文句なし。台湾人だって中国の動きを見ている。香港がどうなったかを知っている。

 

 流麻溝を再開させなくても情報は伝わっている。敢えて反共教育をする必要はない。むしろあの様なことに反省があるのだろう。中身は違っても強引な教育には無理がある。

 

 中国の強引さは今に始まったことではない。台湾はどうか。それはこの映画に見られる偏狭さは大陸のそれと変わらない。体制維持のために強引なことをする。真っ当で国民の支持を得る政治をすればいいだけのこと。それがなぜか反撥を買うようなことをするのは何故か。

 

 政治家が市民国民のために政治を行わないことが原因だ。ほとんどの国がそうなっていて、何も中国だけではない。もちろん日本を見れば分かるでしょう。私たちの払った税金で勝手なことしている。みんなの金を自分の金にしてるんですよ。そんなのばかり。まともな国はほぼないと言える。

 

監督 ゼロ・チョウ

出演 ユー・ペイチェン リエン・ユーハン シュー・リーウェン シュー・タオ ジャン・ユエ

2022年

 ストリッパーのエヴァは仕事場から逃げ出し、あちこちふらふらして後、住み込みの家政婦を始めた。そこはデニスとアルベールのホモのカップルの家。昼間は市役所の窓口係としても働くようになる。エイズ検査で陽性と診断されるが、そのうち普通に母親になりたいと思い始める。

 

 「自由」にうんざりしてしまったら、さてどうすれば良いのだろう。地道な生活に憧れるなんて、まるで寅さんではないか。日本の寅さんが常識からは掛け離れた人物ではあっても、決して悪人ではないように、エヴァも悪いことには手を出したりはしない。むしろごくまともな常識を兼ね備えた女性のようだ。

 

 小屋でストリップをやるのも、ちゃんとくれない金を少し強引な手段でもらうのも、警察ざたになるほどのことではない。男がやっていた麻薬を嫌悪し、別れてしまうなんていうのも普通の神経の持ち主であることの証拠だ。 

 

 彼女が真面目であると考える仕事が、家政婦であったり、公務員であったりするのはフランスでも同じ感覚でそれらの仕事をみているのだなあと思った。彼女が年金や健康保険が付いたりするような仕事をしているんだというしっかりとした証拠に、保険証や給与明細のようなものをきれいに飾り付けるなんて、かわいいことをするじゃないの。それがのちに思いもかけないことに発展していくのだから、人生なんて分からないものだ。

 

 何をどうすれば、こうなるなんていう公式のない世界、でもそれを明日のことは知れないのだから、どうにでもなれ、と考えるのではなくて、自由に選んだ道がうまい方向に行くということって案外に有り勝ちなことじゃないか。心がけ次第で切り開けることもあるようだ。

 

 そう、エヴァは心がけが良いから、願うような生活以上のものを得たのじゃないか。彼女のそれまでの生活に飽きたからこそ、つまりよりよい生活を望んだからこそ手にできたんだろう。どんな生き方にしろ、変えてゆくのは自分だし、そういう気持ちをいつももっていなくてはいけないように思う。

 

 家政婦の仕事って、なかなか大変だ。どんな人か分からない人の家庭に入り込んで家事をするのって、大いに不安なことじゃないか。彼女が仕事をするようになった家がとても風変わりな男二人のいるところで、掃除は掃除機を使えば何とかなるものの、料理はからっきし苦手で、どうなることやらと思っていたけれど、主人たる男二人の方が彼女に輪をかけた人物だったので救われた。

 

 なにせ食事といえば、缶詰めで済ましていたような人たちだったのだ。簡単に掃除を済ませ、出来る唯一の料理であるクレープを作ったら大喜びしてくれて良かった。

 

 二人の男がホモのカップルで、エヴァはどうもホモの人に好かれるらしい。女の人にとってホモの男性って、付き合いやすいんじゃないかと思う。デニスとアルベールというこの二人はともかくとして、もっと近しい友人であるホモがいて、ずいぶん相談相手になったり、相談したり、でもホモゆえにそれ以上になれないじれったさもあるようで。

 

 彼はピーターという名前で、イギリス人の絵描き、ごく普通の生活を求めて行く過程でいろいろな模索の末、落ち着くところに落ち着いたようだ。

 

監督 ヴィルジニー・テヴネ

出演 オーレ・アッティカ フィリップ・バートレット ロッシ・デ・パルマ クロード・シャブロル ジャン・フランソワ・バルメール ベルナデット・ラフォン キザイア・ジョーンズ

1992年

 一階の切符売り場でチケットを買い、エレベーターで9階へ、そこは別世界。この新しい映画館は内装は黒がメインで、最初行った時は真っ暗な印象だった。実際はそうでもなく、しかし明るくはない。シックなイメージを狙っているようで、あの空間にいてどうすれば良いのか迷う。人がまばらなら良いが混んできたらどうなるのだろう。映画館にふさわしくない。らしくないのは特徴でもあるので悪くはない。

 

 古代の遺跡にある宝物を探す人々がいる。宝は主に墓にあるので、墓泥棒にならざるをえない。それは死んだ人の持ち物を盗むことになるので、犯罪になる。盗掘と言わず、墓泥棒なら少しは罪滅ぼしになるかも知れない。でも盗みには違いない。盗み取ったものを研究のためになら問題なく、売り飛ばすのは犯罪で、と区別するのは問題が別だ。いずれにしろ墓をあばき事物を持ち去ることが問題がないわけがない。それが研究のためでも金のためでもあっても関係ない。

 

 盗掘は宝探しだ。金目のものを見つけて売りさばく。そのもの自体の持つ価値は関係ない。高く売れるかどうかに価値を見出す。金銀財宝でなくても美術品など価値のあるものはある。それをガラクタと間違えて捨ててしまったりはまずい。盗掘には専門家の知識が必要だ。素人が適当に墓を暴いても意味がない。金銀財宝なら誰だって分かる。でも貴重な美術品で今まで見つけられていなかったもの、ただのガラクタとして捨てられてしまうか、宝として保存されるかは重大な岐路だ。そこで専門家が必要になる。

 

 イギリス人の考古学愛好家アーサーはどれだけ分かっているのだろうか。そのあたりがはっきりしない。適当にやったら、すごいのを見つけちゃったって感じ。彼のまわりの人物たちは、それぞれ魅力があり別な視点で物語が作れそうだ。その点アーサーに魅力がないのが残念だった。

 

 地下にある宝は相当あるはずだが、勝手に掘ることはできない。どんなものがあり、どれだけ価値があり、掘る価値があるものと認められない限り、後世の人々が見ることのないままで置かれてしまう。たぶんそういうお宝はあるだろう。そう思うと、盗掘も墓泥棒もあっても良いかも知れない。

 

監督 アリーチェ・ロルバケル

出演 ジョシュ・オコナー イザベラ・ロッセリーニ アルバ・ロルバケル ビンチェンツォ・ネモラート カロル・ドォアルテ

2023年

 リュック・ベッソンだけど、やはり1984年という時代には勝っていない。あの当時にしては斬新かつ新鮮なイメージだったろうが、それももはや今見ると古い印象になる。これはでも仕方のないことで、そうならなかったら彼は天才だ。天才はいる。「2001年宇宙の旅」がそうだ。そう、キューブリックはそうそういない。リュック・ベッソンでさえも天才ではないのだ。簡単になれるものではない。

 

 だが、この映画の地下鉄がほとんどセットであるというのは、すごい。物語の始め方が面白い。何か金髪(染めた感じ)の男フレッド(クリストフ・ランベール)が誰かに車で追われている。彼は車ごと地下鉄に乗り込む。セットだからできることだ。しかもセットだから思い切りやれる。

 

 地下鉄には、たくさんの人がいる。彼を追いかけているのは怪しげな男だけではない。警察も追っている。ということは彼は犯罪者なのだろうか。そこに、人妻エレナ(イザベル・アジャーニ)が現れる。彼女と金髪男の関係は? 

 

 どうやらパーティーかなにかをやっている所に彼が出現して、なにか大切な書類を盗みだした様子。それをネタに脅しをかけたみたいだ。書類を金に換えようというのだろう。10万フランと交換という。

 

 そこに地下鉄に暮らす不思議な住民たちの登場となる。この辺のところ、少し前に見た「パリ空港の人々」の空港の住民に似ている。勝手知ったるわが家のように自由に動き回る人たち。そこがまるで治外法権でもあるかのようなふるまい。実際は十分な地の利があるに過ぎないのだが。

 

 恐喝男と地下鉄の住民とが知り合いであった形跡はない。だとすると、住民は彼を面白く思って協力する気になったのか。犯罪者は犯罪者に同情的だ。警察に対する反撥もあるだろうし。だから警察及び刑事たちはお間抜けに描かれている。あんなにたくさん動員してもつかまえられないでいるし。

 

 どうやらパリには地下鉄の下にも更に空間があって住人までいるらしい。オペラ座には怪人がいるから、人が住んでいても不思議じゃない。

 

 犯罪がかっこいいとは思わないが、こうしてかっこよく描かれているのを見るのは悪くない。それにどんな犯罪か分からないし、血が飛ぶような映像がまったくないというのも好ましい。84年に見ていたかった。

 

監督 リュック・ベッソン

出演 イザベル・アジャーニ クリストファー・ランベール リシャール・ボーランジェ ミシェル・ガラブリュ ジャン・ユーグ・アングラード ジャン・ピエール・バクリ ジャン・ブイーズ

1984年

 ナニーが戻る場所はどこだろう。アフリカの海岸のあるポルトガル語を話す国のようだ。アフリカはフランス語か英語だと思っていたが、ポルトガルも植民していたのか。やるなポルトガル。こうして私のささやかな知識が増えていく。

 

 ナニー、乳母は聞き慣れないし、そんな人見たこともない。身近にいたためしが無い。戦前の裕福な家庭には女中と共に、子どもの面倒を見る専門家として乳母がいた。昔の映画で彼女らの存在は知っていた。ただ私の近くにはいなかった。知ってはいてもいない人、不思議な存在。まして外国のこと、こういう例はまだありそうだ。

 

 6歳のクレオにとってナニーのグロリアは母親だ。グロリアにとってクレオは故郷にいる実の息子の身代わりとも言える。子への愛情を全てクレオに注ぐ、そんな気持ち。ナニーは仕事だけど、子育ては仕事じゃない。仕事以上の熱量が必要だ。でも一歩引かなければならないこともある。

 

 いわば出稼ぎではるばるパリに来ている。自分が本来いるべき場所はここではない。家族がいる場所、そこからお呼びがあれば戻らざるを得ない。仕事を打ち切って戻れば良い。だけど簡単に気持ちを入れ替えるのは難しい。工場で製品を作る仕事なら、代わりはいくれらでもいるし、離れられる。

 

 でもクレオはどうなる。毎日めんどうを見て、これだけ大きくなった。この先も見ていたいと思う。まるで我が子と別れるような気持ちだ。それはいい、仕方ないことだ。問題はクレオのことだ。

 

 クレオは気配を感じた、グロリアが行ってしまうと。

 事情は聞いた、もちろん分かる。時が来た。

 別れはつらい。つらくてもやってくる。

 解決はある。クレオが解決させた。グロリアのところに行った。

 言葉が通じない。慣れるしかない。でも慣れない。

 世界が変わった。そこはパリではなかった。とまどった。

 元気な男の子に混じれない。ひ弱な自分を意識する。

 思いきって飛びこむ。目がまわる。

 助かった。

 

 世界は変わった。でも別れはある。これが世の中の定めだ。無理を通すのにも限界はある。それを身をもって知ったクレオ。

 

監督 マリー・アマシュケリ

出演 ルイーズ・モーロワ=パンザニ、イルサ・モレノ・ゼーゴ、アブナラ・ゴメス・バレーラ、フレディ・ゴメス・タバレス、ドミンゴス・ボルゼス・アルメイダ

2023年

 CNNのショービズで見ていると、1位になるような映画はだいたい想像がつく。そこに意外性はまったくないと言っても良い。つまりアメリカ人の好む映画の傾向は、はっきりとしている。まずスターが出ていて、コメディーで、サスペンスがあって、どんな悲しい状況があっても、ハッピーエンドであること。映画館でポップコーンを頬張りながら呑気に過ごす数時間があり、気持ち良く映画館から出られるような映画であること、これがアメリカで当たる条件だ。

 

 もちろんアメリカ映画は全てそういうことを目指して作られているわけではないが、ほとんどがそうだ。だけど、それを責める気はない。なぜなら映画とは、そういうことも考えて作らざるを得ない宿命を背負っているからだ。1本作るのに、数億円かかり、それを回収するには一般大衆に見てもらうしかないのだから。それは芸術至上主義とは相反するもので、そこが映画作家の苦しむところであろう。でも、それは第七芸術と呼ばれる一番新しい芸術である映画の生まれた時から持っていた特性のようなものなのだし、このことは頭に入れて全ての映画作家は作品を生みだしているはずだ。

 

 グリフィン・ミラー、若いプロデューサーだ。彼のもとには、毎日数多くの人が訪れ、電話がかかり、多くのシナリオが届けられる。彼らに会い、話を聞き、シナリオを読み、判断する、何を? 彼がYESと言えば、映画が作られるし、NOならば、映画にはならない。映画を作ると言って、始めに思い浮かぶのは監督だが、実はプロデューサーがGOサインを出さない限り、映画は作られることはない。思い通りの映画を作りたいのだったら、自分でプロデュースをもしなくてはならない。要するに、自分で金を集めるところから始めなくてはならない。理想を言えば、監督は金の心配なんかしないで映画作りに専念すれば良いのであって、と行きたいが、そうも行かないのが厳しいところだ。

 

 彼のところに、絵はがきの脅迫状が届く。その文面から推すと、どうやら以前持ち込みのシナリオを断った相手の一人らしい。盛んに脅しの文句が書かれて、今にも殺しに来かねない様子だ。なんとか対策を立てないと危なそうだ。

 

 ハリウッドの敏腕プロデューサーが歩けば、映画の関係者に会う。この映画の面白いところは、実にたくさんの俳優たちが出て来ることだ。ほとんどが、彼に会うと、手をあげて、やあと挨拶するくらいのものだが、つまり実名で出演という、よくある手かもしれないが、これがただのゲスト出演というのにとどまらないで、あれだけ多くの人が出てくると、ハリウッドを歩けば実際にあの位の頻度で、俳優たちに会えるのじゃないかと期待してしまう。

 

 そんな中で、ウーピー・ゴールドバーグが本人としてではなく、刑事役で出てきたのには意外性がある。彼女こそ、よろこんで、本人として、ギャグの一つでもかましてくれそうでしょ、ところが、逆にとぼけた刑事役を演じてくれたのも、又一興でした。飾ってあるオスカー像を手にして一言いえるのは実際にもらったことのある人でないと、きわど過ぎちゃって、可愛そうかもしれない。

 

 そんな楽屋落ちの顔見せの映画かな、と思ったら大違い。殺人事件が起こって、ミラーが追われるようになる。実際彼が殺したのだから、仕方ないのだけれど、その対応はまるで映画そのもの。ただ映画と、特に普通のアメリカ映画と違うところは、犯人が挙がらないところだ。悪いことをすれば罰があたり、逃げおうせるものではない、というモラルがあり、アメリカ映画がしっかりと描いてきたものを、あえて避けている。アメリカ映画がアメリカそのものを担ってでもいるかのような錯覚に陥っていることを揶揄している。こんな映画を作れる監督はそういないと思う。映画人たちに信用があって、信頼されていて、プロデューサー的な力も持っていて、となると誰だろう、想像もつかない。アルトマンと聞いて、彼はそういう人だったのか、と改めて感心した。

 

 こういう世界は外から見ていても面白そうに見えるし、特にハリウッドのメジャー会社のプロデューサーだったら、まさにこの映画のような毎日を送っているのだろうし、楽しいだろうなと思うが、生き馬の目を抜く世界でもあるから、明日の予測も付かない不安もあるだろう。今日、トップにいるからといって、明日も同じ地位にいられるという保障はないのだ。だから、殺される前に殺す、なんてこともままあるわけで、いつ首が飛んでも不思議じゃない世界なのだ。とはいえ、実際に殺しを決行するのは映画の中だけなんだし、映画の中で、遊んでいる分には実害はない。でも、ハリウッドで一旗上げようとしている若い作家たちが苦労して書き上げたシナリオを一刀の下に切ってしまった「つけ」はなくならないことは理解していたのか。断られた何十、何百もの恨みがあの街を日ごと夜ごと徘徊して、命を狙っていることに気づいていたのだろうか。

 

 映画人の持つ非情さを認めつつ、救われないものへの共感も前面に出し、それでもなお、これだけの映画俳優の協力を得られたということは出演者は皆な、同感したということだろう。こんな映画が実際にハリウッドで作られ、素晴らしい映画になっていることに、改めてアメリカ映画の力を見た。

 

 どんな題材でも上手く料理して、娯楽作にしてしまう手際の良さがアメリカ映画のいい意味での特徴であるとすれば、この映画はまさにその伝統的なアメリカ映画の良さを武器にしながら、しかもアメリカ映画の毒の部分を食べられるように料理してくれていて、大笑いして、拍手しながら楽しんだ。これこそアメリカ映画でなくてどこの映画か。小気味よい大傑作の誕生だ。

 

監督 ロバート・アルトマン

出演 ティム・ロビンス グレタ・スカッキ フレッド・ウォード ウーピー・ゴールドバーグ ピーター・ギャラガー ブライオン・ジェームズ シャロウ・ストックウェル ディーン・ポラック シドニー・ポラック ヴィンセント・ドノフリオ

1992年

 ボクシング映画か、ボクシングは見る気がしない。いろいろあって最後に逆転勝利するのばかりだ。しかも中国映画、泣かせる仕掛け満載に違いない、こう踏んだ。それがどうだ、こんな手できたか。この監督の前作「こんにちは、私のお母さん」は前評判だけで見たが、喜劇役者だけあって演技過剰。

 

 喜劇だから演技云々はさておいて、笑わせると言うより感心させられた。これだけ体を張るのは生半可なことではできない。俳優が太ったり痩せたりするのは珍しくない。しかもボクシング、実際ボクサーはウエイトを落とすのが仕事だ。決まっているウエイトにならないと出られないから、試合以前の調整が重要になる。だったら階級を上げればいいじゃないかと思う。なんなら最重量級にしてしまえば体重を気にする必要が無くなる。

 

 ドゥ・ローイン32歳、体重100キロからトレーニングして痩せていく。ボクシングは細かく決められた体重による階級がある。そこで自分の最も身体の動ける体重ギリギリの階級を選ぶ。彼女はどの階級を目指すのではなく、ボクシングのトレーニングを通して痩せる道を選んだ。

 

 ボクシングを始めた動機は不純だ。惚れた男にトレーニングしてもらおうとした。その願いが叶うのは少しだけ、男が去ってしまえばボクシング熱は下がるはずが、今度は自分の意思でボクシングを続けることにする。スポーツは身体的にも精神的にも楽ではない。高い目標をめざしてするものと思いがちだが、そうでもなさそうだ。彼女があの体型でボクシングを始めたことすら信じられない。

 

 私はスポーツをしたくない。体を動かすのが苦手だ。運動神経がない。身体を思い通りに動かせない。見るのは好きなサッカーはやったことないし、キャッチボールも出来ない。そういう人がいてそうでない人がいる。うまくバランスが取れてると思う。ただしスポーツ愛好家は目立ちたがり屋かも知れない。スポーツに合わせてユニフォームを揃えたりする。個人でやってるのに必要かと思う。観客も参加しているってことでしょう。

 

 映画の内容と映像で痩せていく姿を見せなければならない俳優とが重なっている。彼女の减肥が成功しないと映画が完成しない。このしがらみをどうする。彼女が全責任を負って始めたのでしょう。

 

 ボクシングジムは目立つところにある。活動を見てもらって、できれば参加させる。ジムの経営はどうなってるのか。世界チャンピョンでもいればそれだけで人が来る。チャンピョンの名で集めて次のチャンピョンを作る。

 

 彼女の入ったジムは今はチャンピョンはいなさそうだ。トレーニングコーチが何人かいて選手を募集中だ。身体を鍛えるだけの人がいる。ジムとしてはチャンピョンを目指して欲しい。今回入ってきた太り気味の女性は期待できそうにない。

 

 その彼女がなぜか頑張っている。目つきが違う。痩せてきている。練習試合でも健闘している。これはなんとかなるか、ものになるか、ジムのオーナーからも注目されるようになる。この流れはよくあるボクシング物語だ。

 

 彼女は勝利を目指すのではない、もちろんチャンピョンは夢の夢だ。まともな試合をして出来れば勝利ならいいくらいな気持ち。その結果で痩せていればなお結構。そういう意味でなら彼女は大成功だった。

 

 このくらい変換してくれれば元の作品とも重ならないし、別な良い映画ができたと思う。

 

監督 ジア・リン

出演 ジア・リン ライ・チァイン チャン・シャオフェイ ヤン・ズー

2024年

 

 

 ハーヴァードを優秀な成績で卒業すると、就職は引く手あまた、かなりな好条件が望める。アメリカの大学の勉強の大変さの頂点のその又トップを極めれば、うまい口が掛かるのも当然だ。だが、そういう人材ばかりを集めているこの「事務所」としてはそれは得策だろうか。頭でっかちのエリートが手を染める仕事として、利にかなっているだろうか。全員が特別待遇の優秀な弁護士たち、一人の離婚経験者もいない。アメリカでも奇跡のような環境。年収12,000ドルが弁護士といえどももらいすぎなのには、何か裏がありそうだとは疑わないのか。小説や映画になるのだから、何か犯罪とかに関わっているはずではあるが。

 

 一人の若い弁護士がその謎に挑み、あばいてゆく過程にFBIとマフィアとのせめぎあいの真っ直中に落ち込んで、そのどちらからも消されかねない状況になる。どちらか一方ではなく、その両方からはさみうちされて、結果的にはどちらからも殺されることもなく解決。それも、助っ人はいたにしても、ほとんど一人でやってしまったのだからすごい。

 

 作り話だから、と言ってしまえば身も蓋もないが、スーパーマン的に事件を解決させるのではなく、いわば頭で解いてゆき、かといって、ポワロのようにほとんど動かずに犯人を挙げたのでもない、見ていて小気味よい心地にさせてくれた。

 

 内容としてはかなり込み入ったものなのに、よく分かるように出来ていて、さすが監督が一流だな、と思った。それにしても、シドニー・ポラック、役者としての顔と監督としての作風にかなりの段差があると思う。

 

 彼はいつも四角い箱のようにきっちりとした映画を作る。「トッツィー」はむしろ例外に思える。あれにしても、こまやかな繊細な神経を感じさせた映画だった。彼の映画にも出ていたロバート・レッドフォードの監督する映画は彼の影響が大きいのではないかと思う。

 

監督 シドニー・ポラック

出演 トム・クルーズ ジーン・ハックマン ジーン・トリプルホーン ジョン・ビール ウィルフォード・ブリムリー ゲイリー・ビジー ジェリー・ハーディン エド・ハリス ホル・ブルック ホリー・ハンターテリー・キニー デイヴィッド・ストラザーン スティーヴン・ヒル

1993年