演劇向きの話と映画向きの話がある。舞台上だけで展開される演劇と、どこにでもいくらでもカメラが動く映画は役割が異なる。手かせ足かせの多い舞台は、その範囲内での工夫がモノを言う。おおざっぱに言えば映像の映画、言葉の演劇。
水と油ほど違う表現様式だが、両者はしばしばコラボする。舞台が映画に映画が舞台になることはよくあるし、その違いを超えて互いを尊重している。
舞台から映画化された作品はほぼ分かる。登場人物が少ないとか室内だけで完結されているとか、ようするに予算の少ない作品は演劇の映画化だ。元の舞台作品を尊重してか、外に出ることもなく爆薬の活躍する場面もない。
つまり映画は全方位で万全だ。演劇は相当な想像力を観客に強いる。映画は万人向けであり、対し演劇の敷居は高い。鑑賞コストの差も大きい。誰でも容易によく行く映画と、演劇を鑑賞するという覚悟のいる舞台の違いは大きい。
試しに相互の観客数を見てみよう。映画は発表されているが、演劇の方はどうか。演劇を統合する機関はあるのだろうか。あるいは税務署などで統計が出ているのだろうか。まあ調べるまでもなく、映画の方が断然多いと思う。何しろ1億数千万人の観客がコンスタントにある。映画は庶民の、演劇は高尚な人のものと心得ている。
体育教師の山本から補習を言い渡された。グラウンド5周かプール200mなら問題なく、体育の補習にふさわしいし、言われたことをやればいいだけのこと。
場所はプール、うん、来た。水のないプール、えっここで何やるんだ?
舞台も映画も見てない人に質問する。どんな補習でしょうか?
思いがけなさ過ぎて想像外の意外さにびっくりした。補習は教師の裁量に任されてるなら、こんなのもありなのだろう。私には意地悪でしかないように思えた。
補習をしながら2人の作業班はミクとココロ、補習に関係ない水泳部チヅルと元水泳部ユイも何となく来てプールに集う。先生の専制に怒り心頭の2人に同情的でありそうで、そうでもないような水泳部。この4人の問わず語りの会話が面白い。授業中でもなく休み時間でもない、時間潰しのような時間と空間にいて語ることは、恋話は少し、主に先生への不平不満になる。何しろこの補習の意味が分からん。ちゃんとした補習させろよ、と言いたい。
そもそもどうでもいいことをさせる先生が悪い。終わりのない作業をさせるのは、やらなくてもいいよ、と言ってるも同然。
先生って生徒の成れの果てなのに、偉そうにしてるのに腹がたつ。年齢だって10歳くらいしか違わない。それなのに大将と家来並みの扱いをされる。
胸に手を当てて10年前の自分を思い出してみてください。先生に言いたいこと、あったでしょう。そして先生になった。立派な教師になりたい、この初志は貫徹されなかった。なぜかそういう先生ばかりに見える。教師の実態は分からない。生徒として相対した先生を見て感じたことがそうだった。その感覚が今も同じようだ。変わらない先生と変わらない生徒がいる。
そして学校の映画は作られ続ける。子どもの生徒の学生の先生の教師の学校の話は、ほとんどの人の経験に合致して、甘いか辛いかの思い出を彷彿させる。これを描かずして他に強力な題材があるか。
監督 山下敦弘
出演 濱尾咲綺 仲吉玲亜 清田みくり 花岡すみれ 三浦理奈 さとうほなみ
2024年