1974年、北アイルランド。ジェリー・コンロン(ダニエル・デイ=ルイス)は、当局から目をつけられていた。ジェリーの父ジュゼッペ(ビート・ポスルスウェイト)は、息子をロンドンへ逃した。ジェリーは、ロンドンでポールとパディに出会う。同じ頃ロンドンから約50キロ離れたギルフォードでパブが爆破された。ジェリーは、その爆破事件の容疑者として逮捕され、ロンドンに連行される。仲間のポール、パディ、キャロルも逮捕、拘留された。のちにジェリーの父や叔母一家も逮捕された。
ジェリーの家族がテロリストとされ裁判にかけられ懲役刑になる。父のジュゼッペは再審を訴えるが重い病気で衰えて死に至る。ジェリーは、父の汚名をすすぐため、再審請求運動に身を投じていく。
父を理解したのは彼の死後だった。IRAのテロから15年経っていた。
IRAが出てくるのがイギリス映画の常になった感がある。それだけ深刻にイギリスに影を落とした問題なのだろう。時は1970年代、ある意味ではイギリスが輝いていた時、ファッションとか、急先峰で過激なロックミュージックの発信地であった。
イギリスは常に何かを訴え続けている。失業と不景気、それに加え内部に抱える深刻な傷、それがアイルランド問題だ。早い話、北アイルランドを独立させてしまえばいいのだ。詳しい経緯は知らないが、アイルランドの人たちが望むことなら叶えてやればいい。過激な組織が前面に出ているため、話し合いに応じないとでも言うのだろうか。宗教の違いが解決されることはない。
確か最近のニュースでIRAの代表も入った会議を開いたとか、開くとか言っていた。さんざん痛めつけられたから、武器を手にテロに走る気持ちも分からないでもない。だが、それでは多くの人の賛同は得られないだろう。現にこうして彼等の起こした爆発事件で無実の罪の何人かが15年もの獄中生活を強いられたではないか。爆薬を使えば犠牲者も出る。テロと言うのは、確実な一発を絶対者に向けて放つことにだけ、意義を見い出せるものではないか。何でも手当りしだいにではないにしても、狙いはぼやけてしまいがちだ。あのパブにどれだけ無駄死にをした人がいたことか。彼等の心情に同情できる人も殺人には同意できるはずない。
アイルランドの首都ダブリン、街は騒然としている。イギリスの軍隊が街を行く人を蹴ちらかすかのように、武器を持って何かを誰かを追い詰めているようだ。何のために?
冤罪というのか、警察の思いちがいの甚だしさは無実の人生を台無しにしてしまう。警察も司法も自分たちの力をちゃんと使ってもらいたい。民間の企業じゃないんだから出世を目指しちゃダメだ。
イギリス政府のやり方が気に入らない不穏分子を捕まえようとしている。現に誰かが追いかけられ、逃げている。どこかに隠れたようだ。だが相手はイギリス軍、多勢に無勢、追い詰められて何人かが捕まってしまう。
アイルランドにいたのでは仕事もないし、イギリスにでも渡ってみるか、何かいいことでもあるかもしれない、と父は言う。ところが、そこで大変な事件に巻き込まれてしまう。ジェリーが捕まえられて取り調べを受ける時の警察の高圧的かつ殴る蹴るの拷問まがいのやり口は、後ろに政治的配慮が働いているように思えた。テロが起こった、犯人はIRAであることは明快だ、実行犯を捕まえなければならない。さいわい彼ら向けの法律もある。
つまりこういうのだ。警察が疑わしい人間と判断した者は捕まえられ、数日間、警察に留め置かれてしまう。警察の権力の暴走を許す悪法だと思う。またもしそんな警察に都合のいい法律がなかったにしても、取り調べ室という密室では死なない程度に締め上げて自白をでっち上げることはよくあることだ。それはただイギリスの警察の専売特許ではない。
警察機構が正当に機能すれば問題ない。われわれの暮らしと命を悪の手から守ってくれるのだから。しかし実際には反対に国民を抑えつける働きに重点を置いているとしか思えない。この点では例外はない、残念ながら。悪法もまた法だ、それをいいことにさらに悪を重ねる。それに引っかかったらたまらない。長時間にわたる過酷な取り調べ、取調室では多勢に無勢、相手はしたたかな猛者連中、弱い人間を強引に落とすのは容易い。どんな汚い手でも使う。町のチンピラを攻略するのは簡単。警察の汚いやり口に泣いて抗議しても無駄だ。こんな目にあわされるのなら、いっそ自白調書にサインしてしまおうか、と思ってもしかたない。ジェリーはサインを拒んだ。
ものには順序があって、ここで間違っても、裁判がある、と思う。それが第二の過ち。警察も裁判所も同じ国家組織の仲間なのだ。同じ穴のむじな、とは言わないが、似たようなもの。ただ裁判は公開されるから拷問されることはない。自白がどのくらいの証拠能力になるのかは知らないが、陪審制をとっているイギリスでは12人に与える心証に強い影響を与えることだろう。
イギリスの裁判官がかつらを被って現われた時は、笑いだしそうになった。真面目な映画だから、本当の姿なのだろう。あまりイギリスの裁判劇は見たことがなかったからそう思った。昔の映画では見たように思うが現在でもそうだとは知らなかった。
裁判が始まったら案の定、形勢不利だ。自分ばかりではない、彼を含めた一族が仲間だというシナリオの下、一網打尽にされてしまった。それもこれも、あのいまいましい自白から始まったこと。後悔先に立たず、これから15年もの裁判闘争が始まる。正確にいえば、15年にわたる闘いの始まりだった。ただし、そんなに長期になるとは思っていなかった。爆発事件には無関係なのだから早晩無実になるものと思っていたのに、裁判の結果、有罪。それも無期懲役だ。
この国には正義を正しく認めてくれる器がないのか、と嘆いても正式かつ絶対な仕組、裁判でそうなってしまったら、どうしようもない。このあとの再審で別の結果が出るまでに15年かかったわけだ。
彼がつかまえられてから、芋づる式に親戚の人や仲間もつかまった。父親とは同室になり、いやでもずっと一緒にいなければならないことになる。この親子が特別反発しあっていたとか、喧嘩していたわけではない。普通の父と子、煙たい存在、よくあることだ。それが、このような思いきり特別な場所で特別な待遇を共有するはめになる。どうなるか、深い理解が始まる。これはうらやましいもので、しかし二人のような特別な立場に立たない限り経験でき得ないことだ。
何もやっていないのに捕まえられ、懲役刑になってしまった。こうなると、もうやけになって、厭世的になりそうだ。だが、長い長い時間がある。自棄になる時間があり、冷静になる時間がある。どう考えても無実の人間が罪を着るのはおかしい。父親も寄る年波には勝てなくなってきた。彼に自由を与えたいと思うようになってきた。思えば、若い時分ずいぶん親不幸をしてきた。この事件に巻き込まれたのも、その延長上だ。自分が間接的に引き起こした事件だ、とも言えないことはないからだ。
途中で、真犯人が現われて、自白しても、一旦捕まえて、刑務所送りにした人間を、あれは間違いでした、と反省するのではなく、あくまでも警察のめんつにこだわるあつかましさ。冤罪は組織的な犯罪だ。大きく汚い相手を向こうに戦うのは大変だ。しかし、真実はただ一つ、それに向かって進むしかない。
監督 ジム・シェリダン
出演 ダニエル・デイ・ルイス、エマ・トンプソン、ピート・ポスルスウェイト、ジョン・リンチ、ビーティ・エドニー、マーク・シェパード、ドン・ベイカー、コリン・レッドゲイヴ
1993年