ギンレイの映画とか

ギンレイの映画とか

 ギンレイ以外も

飯田橋にあるギンレイホールにデジタルシステムが入ったと聞き、まだやる気があるのを知って、又ギンレイ・シネマクラブに入ろうと決めた。
これを期に、最近つとに怠けていた感想文という駄文をつけてみることにした。

 映画を見たことのない人がいる。しかも自分の話す言葉ケチュア語の映画がない。世界を見わたせば、そういう人は多いと思う。世界中に何千とある言語、廃れゆく言葉の方が多いと思う。どんどん減って最後の一人になる。孤独だろう、話す相手がいないのだから。生物の絶滅の原因は人間によることが多い。対して言葉の消滅は他文化の侵略による。これ以上生半可なことを書いても何の価値もないのでやめる。

 

 映画をスクリーンないし壁に投影させて見せるのを映画鑑賞とする、これを映画を見たことにするならば、そんなに難しいことではない。自分の町に映画がやってくる。簡易なスクリーンを張って映画を映す。夏休みの夜の校庭で見た覚えがある。映画館のあるところでもあったことだ。映画館とは違った特別な体験だった。映画館は日常にあり、校庭のスクリーンは滅多にない経験だった。

 

 シストゥが映画を知ったのは風に飛ばされてきた新聞の広告だった。なんだかわからないけど魅力的な写真で映画を紹介している。これはおもしろそうだ。映画の広告写真と惹句に惹きつけられた。広告は功を奏した。

 

 映画の存在を知ったアンデス地方の小さな村に住む少年は村人たちに知らせる。世の中には映画というものがあって、たいそう面白いらしい。

 

 離れた町に移動映画がくる。そこにシストゥを行かせて映画を見てくる。シストゥは村に帰って皆に映画の話をする、ということが村民会議で決まった。

 

 この村では何事も村人の話し合いで決めることになっている。この民主主義がステキじゃないか。人が少ないからできることだし、みんなで話し合うのも外の梢の下で、のどかなこと。

 

 語り手のシストゥの手とり足とり口を動かし表情大きく目を輝かせて語る語るかたる。村民にとって映画は聴くものだった。話を大げさにするのも芸のうち。

 

 映画を語る話芸がある。小説のあらすじを話すのは芸にならないのに、映画は芸になる不思議。映画は演劇だから人が演じる。小説で人物が動くのは読む人の頭で再生されたものだ。だから読む人ごとに違う映像が作られる。映画は与えられる映像に依る受動である。ある程度限定されて届いたものは観客の創造を許さない。狭い部分を楽しむ。これがまたいい。

 

 話題にした映画は観客に大いなる共通項をくれる。そこであーだこーだ言ってればいい。他人に提供する話芸に程遠い話でもいいじゃないか。シストゥは良い見本だ。ああ言うふうに映画を話したい。

 

監督 セサル・ガリンド

出演 ビクトル・アクリオ、エルメリンダ・ルハン、メリーサ・アルバレス

、アルデル・ヤウリカサ、ベルナルド・ロサード、フアン・ウバルド・ウアマン

2019年

 香港が中国に返還になったのは、1997年の7月のことだった。この映画はその前年1996年末から始まる。いよいよ来年、という時期に香港の人々はどのような気持ちでいたのか、あるいはどのような雰囲気だったのか、のいくつかの例をあげている。全ての香港人を代表しているわけではないが、これを作った人の感じ方であり、たぶんかなりの人が同調するのではないかと思う。

 

 だが、香港の誰もがこのように感じたかは分からない。じたばたしてもどうにもならない、と考えた人がほとんどではないか。アメリカやカナダに逃れた人もいるらしいが、香港ならではの仕事や、香港に愛着のある人がほとんどだろう。また外国に行くには少なからぬ金がかかる。海外脱出組と報道されていたのも、俳優とかの金持ちたちの動向だった。普通の人がわざわざ慣れ親しんだ土地を離れるわけにはいかない。一応これから50年はこのままの政治体制でいくということでもあるし。何も変わらないはず、という半面、中国の強硬姿勢もちらちらとのぞき見えることへの不安も確かにある。これが最も心配な点だ。もっとも、50年経たない内に、東欧やソ連で起きたことが中国でもあるはず、という希望的観測もある。これは、多分ありそうだと思う。だけど、中国はしぶといから、どうなるか、予測することは難しい。

 

 ジョンはイギリス人のジャーナリスト、香港に住んで15年になる。イギリスが香港という植民地をどのような意識で見ているのか、軍事的な重要性は大きくはないだろう。大英帝国の栄光も今は昔となり、とすると香港は最後の植民地となるのか。奢れるもの久しからずとは、よく言ったものだ。だが今のイギリス人の中で、植民地があるということを誇りに思っている人はあまりいないだろう。国内の問題でそれどころじゃないからだ。

 

 私が香港をどのように考えているか。中国の一部であり、中国としては一番発展した場所という認識であり、ここにはイギリスは入っていない。たぶん実際の香港に立ったとしても、イギリスの影はあまり見えないだろう。なにしろ中国および、中国人の勢力はすごい。地球上のどこにもいて、それなりの影響力を持っている。そんじょそこらの弱小民族ではない。中国人は10億余りもいる。これはとてつもなくすごいことだ。今はアメリカが一番でしゃばっているが、いずれその地位は中国にとって替わられることになりそうな気がする。

 

 中国本土と香港の関係も微妙だ。それはきっと中国人でないと分からないことかもしれない。というのは、この映画と、あとに見た「ラブソング」とで、ほのかに見えてきたことがある。すなわち、同じ中国人といっても、大陸の、台湾の、香港のとそれぞれに異なる人たちなのだ。大陸内でも人種もさまざまであるし、人口が多い分、複雑にからまった構成になっている。それを全て把握しろ、と言われても無理だ。こうして少しずつ映画からでも理解していくしかない。全ての人々が分かり合えたらいいが、そうもいかない。だが難しいことでも努力して理解することは大事だ。

 

 この映画での男女は二人とも香港に一時停止している状態といえる。この地にこれからもずっといるのか、又は自分の生まれた土地に帰るつもりなのか。あやふやな安定していない自分を意識しつつ、97年7月に香港にいること、を意識しなくてはならない。イギリスが中国の一部から去ることになって、彼もある決断を下す。

 

監督 ウェイン・ワン

出演 ジェレミー・アイアンズ、コン・リー、マギー・チャン、マイケル・ホイ、ルーベン・ブラデス

1997年

 上映前にアーカイブ主任研究員、大澤浄さんの話があった。この映画のデジタル復元・最長版の作製についての報告だった。1939年のオリジナル前後編177分、1941年輸出用英語版132分、1941年16mm版174分、1947年松竹公開124分短縮版、これらの版より国立映画アーカイブがデジタル復元・最長版を作り本日上映されることになった。

 

 

 こんなにモテる男は幸せなのか辛いのか。そんな立場になったことないのでわからない。院長の娘である美しき令嬢・啓子(高峰三枝子)、看護婦・石渡銀(水戸光子)の二人に言い寄られる日疋祐三(ひびき)(佐分利信)は院長の志摩泰英(藤野秀夫)が病に倒れ、彼の頼みで総合病院の立て直しに台湾から呼び戻された。院内は派閥争いで明け暮れていた。

 

 白い巨塔のようなことは戦前からあった。組織は人の集まりだ。円滑にいきたいところだが、不完全な人間が完全完璧を目指しても無理な話だ。社会体制がどう変わろうと変わらない。

 

 ただしこの話は恋愛を主題としている。純なラブストーリーというか、うぶな院長に言い寄る二人。だが戦前の映画なので直接的な態度には出ない。表情や言葉の言い方が甘えている。どう見ても恋愛の対象として迫っているとしか思えない。それなのにこの院長、恋愛に疎いのだろう。目の前の女性が迫ってきてるのに気づかない。こんなマヌケはまずい。これじゃ他の感覚も鈍いと思って良い。

 

 肝心の病院内のゴタゴタを正す責任者の役目は果たせないだろう。それでも努力しているのは見える。いささか強引な手立てを試みるが成功したとは言えない。味方を増やすことにも成功は半ば止まり。派閥派にも非派閥派にも目を配って平等に接する。その態度は公平なのだろうが、それじゃ解決しない。自分が思う良い方を援助し応援すれば良い。前面に立つ立場を利用しないでどうする。彼の優柔不断にはイライラさせられる。

 

 ドクターの誰かを助手として使えばいいものを、それもない。そんな日疋は決心した。どちらにするかを。病院のことではない、女性のことだった。ここまでの道のりは長かった。本来の仕事をこなす中に挟まった愛情関係は解決した。これで本編の終わりとなった。

 

 デジタル復元・最長版 173分は映像に一貫性がないのは数種のフィルムのつなぎ合わせでしかたないが、いっそすべてをデジタル処理をしてきれいな画像にしてほしい。

 

監督 吉村公三郎

出演 佐分利信、水戸光子、高峰三枝子、徳大寺伸、斉藤達雄、槙芙佐子、藤野秀夫、葛城文子、斎藤達雄、森川まさみ、槙芙佐子、小桜昌子、日守新一

1939年

 今まで見たどの中国映画にも似ていない、独特の静かな厳しさを内包した語り口の映画である。その違いがどこから来ているかは容易に想像が付く。原作がガルシア・マルケスで、これとは別に映画化もされていてフランチェスコ・ロージ「予告された殺人の記録」、私は未見だが、いかにもタッチがそれらしいように思えた。

 

 これを日本映画には出来ないことは明らかだろう。状況の一致ないしは、類似性が必要だからだ。原作も、前の映画も見てないので、はっきりは言えないが、日本ではあれほど封建性が残されているとは思えないからだ。女性をものとして売り買いするがごとき扱いは前世紀の遺物と言わないで、なんと言えばいいか。そういう旧態依然とした体制の中で事件が起こる。簡単に言ってしまえば、妹の復讐を兄二人がする、という事件で、その理由が妹がある男に犯されたのでその仕返しに殺すというのだ。まるでシェークスピアの書いたものみたいだ。

 

 殺人にはしかるべき理由があって、それは誰にも止められないもので、仕方のない運命のようなのだから、殺される人も諦めてもらおう、みたいな感覚でとらえられている。勘違いがあったにしても、あれだけの理由があり、兄弟の怒りも理解できて、予告もしているのだから、あの殺人事件はOKなのかも。あの事件は時代と社会が起こした必然なのだ、とまでは言ってはいないが、どうかなあ。

 

監督 リー・シャオホン

出演 フー・ヤーチエ、チャオ・チュン、チエ・イエン、コン・リン、コン・チャオホン、ヨン・ファン

1990年

 モンゴル映画はあまり見てない。映画からその土地の情報を得るようにしていて、馴染みのない国の映画は知る良い機会になる。

 

 そもそもモンゴル映画は「セールス・ガールの考現学」、「トレジャーアイランド」の二本しか見てないので、モンゴルを知らないと言える。なにしろ知識の窓は映画でしか開かれてないので、ニ作品では少なすぎる。未知の国の映画は見るべきと思っていて、このモンゴル映画に飛びついた。そしたら「セールス・ガールの考現学」が同じ監督のだった。そう言えば雰囲気が似てた。モンゴルの都会はウランバートル。高いビルもあるし、そこそこの都市だ。

 

 14年間の服役を終えたミャグマルは、仕事がなく元の悪い仲間といっしょになって、というお決まりのコースではなく、出所後の仕事に霊柩車の運転手を選んだ。無口な彼にはちょうど良い仕事だろう。

 

 14年間の服役はかなり重い刑だ、一体何をやらかしたのだ。若い頃の軽はずみが事件を起こしたのだろう。14年は軽罪ではない。人一人くらい殺しでもやったのだろう。服役を経て彼は変わったはずだ。更生して真人間になった。

 

 彼の行動、言動からは何もわからない。他者とのコンタクトを避けてるようだ。でも全く没交渉はできない。仕事の関係で坊さんと話すようになる。年下の僧侶だ。坊さんといっても現代の若者だ。長年シャバを離れていた彼とは世代ギャップもある。年配の僧侶とは話さない。やはり彼は若い世代だ。

 

 モンゴル人はこういう人種だ、と一言で語れないのは当然だ。しかも他を知る方法がないので、そこから判断するしかない。自分を語らない、他人とはほぼ没交渉のミャグマルの将来はどうなるか気がかりだ。

 

 遺産相続で大金が入るとか、会社をおこして成功するとか、そんな気配のないまま終わる。そういう映画、最近あるな。希望の持てない世界が映画を暗くさせてる。

 

監督 ジャンチブドルジ・センゲドルジ

出演 トゥブシンバヤル・アマルトゥブシン、ナランツェツェグ・ガンバータル、バトエルデネ・ムンフバト

2024年

 1974年、北アイルランド。ジェリー・コンロン(ダニエル・デイ=ルイス)は、当局から目をつけられていた。ジェリーの父ジュゼッペ(ビート・ポスルスウェイト)は、息子をロンドンへ逃した。ジェリーは、ロンドンでポールとパディに出会う。同じ頃ロンドンから約50キロ離れたギルフォードでパブが爆破された。ジェリーは、その爆破事件の容疑者として逮捕され、ロンドンに連行される。仲間のポール、パディ、キャロルも逮捕、拘留された。のちにジェリーの父や叔母一家も逮捕された。

 

 ジェリーの家族がテロリストとされ裁判にかけられ懲役刑になる。父のジュゼッペは再審を訴えるが重い病気で衰えて死に至る。ジェリーは、父の汚名をすすぐため、再審請求運動に身を投じていく。

 

 父を理解したのは彼の死後だった。IRAのテロから15年経っていた。

 

 IRAが出てくるのがイギリス映画の常になった感がある。それだけ深刻にイギリスに影を落とした問題なのだろう。時は1970年代、ある意味ではイギリスが輝いていた時、ファッションとか、急先峰で過激なロックミュージックの発信地であった。

 

 イギリスは常に何かを訴え続けている。失業と不景気、それに加え内部に抱える深刻な傷、それがアイルランド問題だ。早い話、北アイルランドを独立させてしまえばいいのだ。詳しい経緯は知らないが、アイルランドの人たちが望むことなら叶えてやればいい。過激な組織が前面に出ているため、話し合いに応じないとでも言うのだろうか。宗教の違いが解決されることはない。

 

 確か最近のニュースでIRAの代表も入った会議を開いたとか、開くとか言っていた。さんざん痛めつけられたから、武器を手にテロに走る気持ちも分からないでもない。だが、それでは多くの人の賛同は得られないだろう。現にこうして彼等の起こした爆発事件で無実の罪の何人かが15年もの獄中生活を強いられたではないか。爆薬を使えば犠牲者も出る。テロと言うのは、確実な一発を絶対者に向けて放つことにだけ、意義を見い出せるものではないか。何でも手当りしだいにではないにしても、狙いはぼやけてしまいがちだ。あのパブにどれだけ無駄死にをした人がいたことか。彼等の心情に同情できる人も殺人には同意できるはずない。

 

 アイルランドの首都ダブリン、街は騒然としている。イギリスの軍隊が街を行く人を蹴ちらかすかのように、武器を持って何かを誰かを追い詰めているようだ。何のために?

 

 冤罪というのか、警察の思いちがいの甚だしさは無実の人生を台無しにしてしまう。警察も司法も自分たちの力をちゃんと使ってもらいたい。民間の企業じゃないんだから出世を目指しちゃダメだ。

 

 イギリス政府のやり方が気に入らない不穏分子を捕まえようとしている。現に誰かが追いかけられ、逃げている。どこかに隠れたようだ。だが相手はイギリス軍、多勢に無勢、追い詰められて何人かが捕まってしまう。

 

 アイルランドにいたのでは仕事もないし、イギリスにでも渡ってみるか、何かいいことでもあるかもしれない、と父は言う。ところが、そこで大変な事件に巻き込まれてしまう。ジェリーが捕まえられて取り調べを受ける時の警察の高圧的かつ殴る蹴るの拷問まがいのやり口は、後ろに政治的配慮が働いているように思えた。テロが起こった、犯人はIRAであることは明快だ、実行犯を捕まえなければならない。さいわい彼ら向けの法律もある。

 

 つまりこういうのだ。警察が疑わしい人間と判断した者は捕まえられ、数日間、警察に留め置かれてしまう。警察の権力の暴走を許す悪法だと思う。またもしそんな警察に都合のいい法律がなかったにしても、取り調べ室という密室では死なない程度に締め上げて自白をでっち上げることはよくあることだ。それはただイギリスの警察の専売特許ではない。

 

 警察機構が正当に機能すれば問題ない。われわれの暮らしと命を悪の手から守ってくれるのだから。しかし実際には反対に国民を抑えつける働きに重点を置いているとしか思えない。この点では例外はない、残念ながら。悪法もまた法だ、それをいいことにさらに悪を重ねる。それに引っかかったらたまらない。長時間にわたる過酷な取り調べ、取調室では多勢に無勢、相手はしたたかな猛者連中、弱い人間を強引に落とすのは容易い。どんな汚い手でも使う。町のチンピラを攻略するのは簡単。警察の汚いやり口に泣いて抗議しても無駄だ。こんな目にあわされるのなら、いっそ自白調書にサインしてしまおうか、と思ってもしかたない。ジェリーはサインを拒んだ。

 

 ものには順序があって、ここで間違っても、裁判がある、と思う。それが第二の過ち。警察も裁判所も同じ国家組織の仲間なのだ。同じ穴のむじな、とは言わないが、似たようなもの。ただ裁判は公開されるから拷問されることはない。自白がどのくらいの証拠能力になるのかは知らないが、陪審制をとっているイギリスでは12人に与える心証に強い影響を与えることだろう。

 

 イギリスの裁判官がかつらを被って現われた時は、笑いだしそうになった。真面目な映画だから、本当の姿なのだろう。あまりイギリスの裁判劇は見たことがなかったからそう思った。昔の映画では見たように思うが現在でもそうだとは知らなかった。

 

 裁判が始まったら案の定、形勢不利だ。自分ばかりではない、彼を含めた一族が仲間だというシナリオの下、一網打尽にされてしまった。それもこれも、あのいまいましい自白から始まったこと。後悔先に立たず、これから15年もの裁判闘争が始まる。正確にいえば、15年にわたる闘いの始まりだった。ただし、そんなに長期になるとは思っていなかった。爆発事件には無関係なのだから早晩無実になるものと思っていたのに、裁判の結果、有罪。それも無期懲役だ。

 

 この国には正義を正しく認めてくれる器がないのか、と嘆いても正式かつ絶対な仕組、裁判でそうなってしまったら、どうしようもない。このあとの再審で別の結果が出るまでに15年かかったわけだ。

 

 彼がつかまえられてから、芋づる式に親戚の人や仲間もつかまった。父親とは同室になり、いやでもずっと一緒にいなければならないことになる。この親子が特別反発しあっていたとか、喧嘩していたわけではない。普通の父と子、煙たい存在、よくあることだ。それが、このような思いきり特別な場所で特別な待遇を共有するはめになる。どうなるか、深い理解が始まる。これはうらやましいもので、しかし二人のような特別な立場に立たない限り経験でき得ないことだ。

 

 何もやっていないのに捕まえられ、懲役刑になってしまった。こうなると、もうやけになって、厭世的になりそうだ。だが、長い長い時間がある。自棄になる時間があり、冷静になる時間がある。どう考えても無実の人間が罪を着るのはおかしい。父親も寄る年波には勝てなくなってきた。彼に自由を与えたいと思うようになってきた。思えば、若い時分ずいぶん親不幸をしてきた。この事件に巻き込まれたのも、その延長上だ。自分が間接的に引き起こした事件だ、とも言えないことはないからだ。

 

 途中で、真犯人が現われて、自白しても、一旦捕まえて、刑務所送りにした人間を、あれは間違いでした、と反省するのではなく、あくまでも警察のめんつにこだわるあつかましさ。冤罪は組織的な犯罪だ。大きく汚い相手を向こうに戦うのは大変だ。しかし、真実はただ一つ、それに向かって進むしかない。

 

監督 ジム・シェリダン

出演 ダニエル・デイ・ルイス、エマ・トンプソン、ピート・ポスルスウェイト、ジョン・リンチ、ビーティ・エドニー、マーク・シェパード、ドン・ベイカー、コリン・レッドゲイヴ

1993年

 日本や日本料理がこれだけ人気になっている現在からかえりみて、今作が作られた20年前にヘルシンキで日本料理店を始めたことは、相当な冒険だっただろう。日本という国があることくらいは知っていただろう。しかし知識はないに等しく、日本に行ったことのある人は多くない。まして料理となると未知の食べ物だったはず。

 

 世界で通用する料理は中華だろう。これは確実に言える。中華街があるところの人たちは慣れている。日本料理はラーメンや寿司からさまざまな和食が進出しているが、まだまだ大都会に限られている。

 

 いまこの映画が再公開されたことがもたらす意味は大きい。簡単に言えば、映画は古びていないのに社会が変化して、食堂から見える風景は変わった。

 

 いま2026年にかもめ食堂を映画化したらどうだろう。3人の関係は同じで時代だけが変わる。とうぜんストーリーは変わらざるをえない。まずガッチャマンを何にするか。これはキモだから重要だ。21世紀も四半世紀経って、AIなんてのが出てきて、先が見えるような見えないような感じ。混沌とする現代をどう描くか、人々の感覚も違ってきている。

 

 フィンランドはどうか、これは簡単には言えない。私の感覚だけで言えば北欧のおおらかさ、豊かさを具現化している国。なんていうよりカウリスマキの作品がまず思い起こされる。さらにこの映画の雰囲気が彼の映画に似ている、これはすぐ思った。映像としての相似がある。まねてる、と言える。カウリスマキはさておこう。そこにいってしまうと抜けられなくなりそうだから。

 

 食べたことがないものを食べる。材料がわかっていれば問題ない。味つけが違うだけでいっぷう変わった味を楽しめる。見た目、におい、辛すぎは遠慮したい。

 

 一人でやっていたサチエの食堂に、ミドリとマサコが加わって三人体制でだす料理のバラエティも増えていく。その熱量のわりには客が増えない。

 

 あくまでも日本料理で、というこだわりがはたして成功したのか。これはみてのお楽しみとしましょう。あるいはヘルシンキに行って自分の目で見てみるのもいいかも。

 

監督 荻上直子

出演 小林聡美、片桐はいり、もたいまさこ、ヤルッコ・ニエミ、タリア・マルクス、マルック・ペルトラ

2005年

 内容の誠実さと画像の先進さ加減とが合っていないと思った。全編手持ちカメラは揺れ、カラーは故意に薄くされ、歌の場面は色がはっきりとなる、というこの映画独特のルールがある。作り方は作者のやり方だからどうこう言うことはない。ただ、好き嫌いは言える。

 

 私はもったいないと思った。せっかくいい題材なのに伝え方としてはうまくいっていないと思う。始めから拒否反応を起こしてしまう人がいるのじゃないかと危惧する。その点で私はどうだったか、どちらかというとマイナスだ。

 

 映画は映像があってこそのものではあるが、映像ばかりに力が入ってしまうと、そこに注目せよ、と言われているようだ。素直に物語に集中させればいいのにと思ってしまう。とはいえストーリーだけなら一片のメモで事足りる。ここのところの案配が重要なのだ。まあ、これは好き嫌いの範囲の問題だ。

 

 主演のビョークの音楽が全面に使われている。そしてそれが画面にも影響していて、彼女のプロモーションビデオのような観さえする。それほどビョークの歌に頼った映像であり映画なのだ。だから彼女の演技も重要な要素になってくる。

 

 舞台はアメリカ、でもロケーションはたぶんヨーロッパでなされたようす。ここにアメリカっぽくないアメリカが現出する。またカトリーヌ・ドヌーブというアメリカっぽくない人も出ているものだからよけいにそれが強調されている。

 

 話はある事件が適正に処理されず、無実の罪を被ってしまったにもかかわらず、それも仕方ないとしてしまうことからますます変な方向にいってしまう。

 

 これが真性アメリカ映画なら正義は勝つ、という方向に行くに決まっているが、ヨーロッパではそうはしない。むしろ人間の個人の固執を最重要視でもするような、真実よりも大事なのは個人の意志なのだ、みたいな解決をもってくる。それは好き嫌いを超えて私の上を行き過ぎる。観客の一人である私にはどうしようもないところでの解決をみるのだ。反対も賛成もさせてくれない。厳しい映画だ。

 

監督 ラース・フォン・トリアー

出演 ビョーク、カトリーヌ・ドヌーヴ、デイヴィッド・モース、ピーター・ストーメア、ジョエル・グレイ、ヴィンセント・ペイターソン、カーラ・シーモア、ジャン・マルク・バール、ヴラディカ・コスティク、シオパン・ファロン、ジェリコ・イヴァネク、ウド・キアー

2000年

 手話を母語とするジーソンは口語と読話の習得を強いられる。転入生のアランは人工内耳手術を受けようとしていたがジーソンとは手話で話す。人工内耳をつけて口話を使うソフィーと、異なる環境で育った20代のろう者3人が、それぞれの進む道を見つけようとする。

 

 人から発せられた言葉、音楽や自然音が鼓膜から脳までいって神経で認識されれば音になる。それらの組織のどこかに支障があれば聞こえない。

 

 この映画では音声がどう聞こえているか、を可視化している。これは難しい。どのようにすれば良いかの試みがされる。このような形でわかりやすく見せてくれた。

 

 当人でないと聴こえの説明が難しいし、同じ聴覚障害でも異なる対応があって、当人の望むやり方が否定されることもある。それは医学上だけの問題ではなく、教育にもかかわるし、なんでこんなに複雑にしてるのだ、と部外者には思える。いろんな方法を当事者の希望でやればいいじゃないかと思う。

 

 私も年齢からか声が聴き取りにくくなっている。試しにAirPodsのヒアリング補助機能を使ってみた。その音が映画で使われた濁った音声と似ていた。AirPodsはあくまでも補助なので補聴器ではないが、ある程度使えると思う。

 

 程度は異なるが彼らと同じ思いを共有できた。聞こえないことは生活上困る。身体障害は誰でもなる可能性がある。他人のことが自分ごとになる。

 

 他人の感じ方を疑似体験してみる。そんな貴重な経験ができた。素晴らしい試みは成功していると思う。

 

監督 アダム・ウォン

出演 ネオ・ヤウ、チュン・シューイン、マルコ・ン

2024年

 わが人生を振り返る、そんなことをするのは、いくつくらいになってからか。私でさえ、すでに昔のことをなつかしく思い出すことがある。だが、まだ人生を振り返るまではない。見知った人が亡くなったり、自分自身が弱ってきてしまうと、ふと弱気を起こして過去にしがみつきたくなる。だが過去が栄光ばかりとは言えない。むしろ過去を後悔と共に思い起こすのではないか。ダロウェイ夫人がそうだった。

 

 ダロウェイという名前からして、若き日の選択の結果を表している。ダロウェイという男性と結婚したからダロウェイ夫人と呼ばれているのだ。イギリスの上流階級というものが、映画の中でも言われているが、スノッブたちの集まりのようで、そんな社会で生きていくには、こと結婚に関しては冒険は出来ない。

 

 若き日のあやまちはおかさないに限る。だが、それは後悔を生むことになることは分かっていても、その時は最善策を選んだのだから、それはそれで良しとしなければならない。歴史に「もしも」がないように、個人のそれにもない。人類の歴史と言っても個人の歴史の寄せ集めなのだから、たった一つの人生は自分で選んでいかなくてはならない。

 

 今日の晩飯に何を食べるか、から結婚相手を決めることまで、生きていくには数え切れない物あるいは人物から選ぶ。そのほとんどをなにげなく選んでしまう。ただ、それが長い期間に渡って影響を与えるものの場合、そのなにげない選択を悔やむことになる。 

 

 夫人がこの日、パーティーに招待した人々は全て気に入った人物ばかりではなかったが、これは仕方のないことだ。自身スノッブであるのだから、人づきあいが優先されることは承知していることだし、他に方法もない。また、ここで冒険をするくらいなら、20年前に他の人を選んでいたはず。それを反省しているのではない。実際、きょうあらわれた人物に思わず動揺する彼女だったが、それ以上のことはないし、この日の朝から気にかかっていたことを、済ますことが出来たことで、区切りが付けられたと思っているくらいだ。そして、また新しい明日がくる。

 

監督 マルレーン・ゴリス

出演 ヴァネッサ・レッドグレイブ、ナターシャ・マケルホーン、ルパート・グレイヴス、マイケル・キッチン、アラン・コックス、サラ・バデル、リナ・ハーディー、アメリア・バルモア、オリヴァー・フォード・デイヴィス、ハル・クラッテンデン、ケイティー・カー、セリナ・カデル、ジョン・スタンディング、ロバート・ポータル、ロバート・ハーディ、マーガレット・タイザック

1997年