ギンレイの映画とか

ギンレイの映画とか

 ギンレイ以外も

飯田橋にあるギンレイホールにデジタルシステムが入ったと聞き、まだやる気があるのを知って、又ギンレイ・シネマクラブに入ろうと決めた。
これを期に、最近つとに怠けていた感想文という駄文をつけてみることにした。

 独裁者の要求がこの程度のだったら、まあ許せる。しかしキリのない要求はエスカレートする。第一自分の誕生日を国民に祝ってもらうってのからして、とんでもないことだ。個人が国の上に立つ行為は越権だ。こういう例を挙げたらいくらでもある。独裁者で検索してみよう。たくさん出てくるだろう。

 

 日本の武士階級の殿様、西洋の王様は独裁であっても現在のそれとは違う。昔のは集落のまとめ役くらいだったろう。いやエジプトの王は違うか。数千年も前の歴史は社会が違いすぎて想像できない。

 

 ケーキに限らず毎日の食事は自分及び家族に食べてもらうもの。手軽に簡単に作りたいけど、なぜか熱が入ってしまう。野菜を切るのだってあんがい時間がかかる。今や野菜は切ってあるものを売っている。便利なようだけど、やはり的確な大きさと量は自分でやらないといけない。一人暮らしだと使わざるを得ないかもしれない。

 

 ラミアは祖母と暮らしている。まず祖母にケーキ作りを頼むが聞く耳を持たない。それどころか大変な陰謀を隠している。ラミアは祖母から逃げる。

 

 大統領からの無理な注文に応えるべく材料の調達だ。ケーキには牛乳、小麦粉、バター、砂糖、ベーキングパウダーもいるかな。ホットケーキミックスみたいなのがあればずっと簡単だ。ミックスに牛乳を加えて、別に卵をホイップして混ぜて焼く。オーブンはなくてもフライパンでできる。

 

 ラミアは同級生のサイードと材料探しに出る。材料は店に行けばある。でも持ち合わせのお金が少ない。知り合いで何か持ってそうな人に片っぱしから訪ねていく。イラクの街は混沌として見える。学校も役所も警察もみなきちんとしていない。でもこちらの基準で見てはいけない。整理整頓されてなくても、そういう社会として存在しているのだから。金でなんでも手に入るし助けてもらえる。要するになんでも金は世界共通認識だ。

 

 材料がなんとか集まった。その経緯が映画のほとんどを占めている。強い意志と行動があればなんとかなる。これは強制されたものだが、途中から楽しみに変わっているように見える。どうせ大統領の口に入ることはないにしてもだ。

 

 ケーキはなんとかなった。ケーキを持って学校へ。先生はケーキを口にする。みんなに配るでもない、せめて生徒たちの食べさせればいいのに。テレビにフセインがケーキを食べる場面が映る。

 

 学校や公道で声高に大統領を褒めたたえる生徒たちがいる。これも大統領の命令だろう。そうやって持ち上げられて嬉しいのだろうか。表向き褒められても陰で何を言われてるか知れたもんじゃない。裸の王様はどこにでもいる。フセインは死んでも次のフセインの登場となる。

 

監督 ハサン・ハディ

出演 バニーン・アフマド・ナイエフ、サジャード・モハマド・カーセム、ワヒード・サーベト・フライバト、ラヒーム・アル=ハージ

2025年

 この映画から離れて話を始めよう。というのは、この映画は死刑を題材にしていて、死刑反対をベースに話は組み立てられてはいるものの、最終的な解決がキリスト教的なものになっている。修道女が主人公だから、そうならざるを得ないのは仕方ない。

 

 私が死刑制度に反対する理由は、この世に冤罪のある限り、又は裁判制度の不備がある限り、結果としての死刑が不公平なものにならざるを得ないからということだ。つまり、無実の者が死刑になる可能性がある、これは恐ろしいことだ。これを防ぐ最高の方法は死刑をなくすことだ。

 

 日本で、ここ20年位の間に死刑囚が再審され、無実になったことが数回あった。この事実をみても、彼らが再審されなかったら、死刑になっていたに違いないということ、これは重大な問題だ。そして彼らが無罪になったことは、喜ばしいことだが、それに至る闘いと、勇気と不安と、恐怖と、失われた時間、これらの様々な要素の一つ一つがとてつもなく重いものに思われる。

 

 題材そのものは今までにもあったものだ。ただ、この映画が最新かつ過激であったら、ティム・ロビンスだし、当然だよな、と思ったところだろうが、ぜんぜん違う出来になっている。彼らしくない、とうか、まだ二作目なので、比べるサンプルが一つしかないのと、前作と内容がまるで違う。

 

 つまるところ、神を介在させた解決は真の解決にはならない、ということなのだ。犯罪を犯しました、殺人もしました、正直に白状しました、反省もしています、ですから神様、お救いください、というのでは調子が良すぎる。ところが、そう考えない人もいる。キリストがまずそうだ。かたや、そう考えない人もいる。

 

 殺された子どもの親がそうだ。将来ある息子や娘が殺された。犯人が捕まった。裁判で死刑と決まった。そこに、死刑を延期またはやめさせようとする人が現れた。目には目を、はこういう場合に使う言葉ではない。だが残された者の望みは犯人の死である。もはや、そこにしか救いはないとさえ思い詰めている。これも分かる。

 

 死刑を中止させようという試みと、死刑にしたい親たちの気持ちの両方を同時に理解出来る。この映画は、そう言っている。最終的には、罪を憎み、人を憎まずで、安らかな死を迎えさせることになる。

 

 この映画のどこに、作者の意見があるのだろうか。最終的な解決はむろんない。心の安らぎは、あったろうか。修道女のヘレンと死刑囚マシューにはあったかもしれない。死刑囚本人の中に入り込んでも意味はない。

 

 死刑が犯罪を抑止するなら意味があるだろう。犯罪人はそこまで意識して犯罪を犯すとは思えない。むしろ怒りにかられて暴力をふるって殺してしまう。その怒りが多くの人の同情に値すれば死刑までにはならない。用意周到準備万端された殺人は死刑になる。結果として殺人が、全て死刑になるならともかく、情状酌量の助け舟が用意される。

 

 死刑は誰の役にも立たない。強いて言えば被害者と家族の気持ちをどうにかさせるだけだ。復讐してやった、これで安心して眠れる、なんてことはない。まして関係者以外にとってはニュースの一つに過ぎない。

 

 国家による殺人はやめよう。戦争と死刑は関係ないようで、国のお墨付きの殺人だ。この映画からは死に行く人への強い思いを感じはしても、それ以上のものはない。彼は死刑では救われない。生きて不自由な中で一生反省するしかない。

 

監督 ティム・ロビンス

出演 スーザン・サランドン、ショーン・ペン、ロバート・ブロスキー、レイモンド・J・バリー、R・リー・アーメイシリア・ウェストン、ロイス・スミス、ロバータ・マクスウェル、マーゴ・マーティンダル、ピーター・サースガード、ミッシー・イェガージェニー・クロックマルジャック・ブラック、ジョン・エイブラハム、アーサー・ブリッジズ

1996年

 香港のあの騒動を香港にいて無視することはできない。どのくらいできないかで比べると、現在の日本で起きている政府に対する広範な抗議活動を無視することに匹敵する。日本は第二次世界大戦の当事者であり、戦前の経験から、いま黙っていられないマグマが爆発している。とはいえ戦前ははるか過去であり、直接知る人は少ない。

 

 香港の事例は大いに参考になる。政府が警察官が直接的に手を出し押さえつける。本土政府の狙いは活動を潰しにくることだ。日本でのそれらのニュースは適切であったかはさておき、香港の状況のある部分は伝えられていた。騒動が起きてます程度のものだったが、ニュースも次第にエスカレートしていった。

 

 さておいたことは、日本が中国を好ましくないものとして伝えようとする姿勢にある。共産国の中国がうまくいっていては困るのだ。批判として正鵠を射ていれば良いのだが、なにしろ中国が約束をたがえたのだ。香港は特別な地域だったし、あれ以降も50年は一国ニ制度が維持されるって決まってた。政治的約束は往々にして破られるものだけど、ほぼ自国民に対して、それをやるのはどう考えてもダメだ。他国からの侵略ではない、自国からのそれはぜったい反則だ。

 

 反則はしばしば行われる。中国政府はようするに本土と同じ政策を押し付けるつもりだ。2019年ころから抗議行動は活発になり、それに比例するように取り締まりもきつくなった。

 

 長州は島で、そこで抗議行動があるわけではない。しかし香港人としての思いは変わらないと思う。でも船に乗ってバスに乗って行動に加わるのは面倒ではある。抗議は1人でもできる。これは最近の日本のことで、やっている人は多いし、彼らの行動をまねして始めようとする人もいる。やったことのないことを始めるには勇気がいるし恥ずかしさもある。行ってみるやってみると案外簡単だったとわかる。

 

 小さな村社会では言いにくいことがある。でも家族には言える。ドキュメンタリーでカメラが入っているから完全なオフではない。この食堂は盛況とはいえない。昔からやってるし客もいるのでやめないだけのようだ。こののんびり感はいいし、ここにカメラを入れれば本音が聞けそうだ。家族のそれぞれの想いは一緒ではない。頻繁に香港島に行く若者がいて、食堂を手伝うでなく客とよもやま話の老人がいる。彼だって騒動は気になる。だけど仕方ないと思うし、孫にも言っている。

 

 天安門事件から37周年の日に、香港で花やロウソクを持っていた人が拘束されたニュースを見た。日本では1人スタンディングでも役所に道路使用許可をするように言われた事例がある。行政が管理するほどのことではないはず。締め付けはここでもあった。押されたら押し返す、1人から2人、多いほど良い。気がつく人が多くなればなるほどいい。

 

 香港の事例は日本人にとって他人事でなくなりつつある。どの政府も安定と称して同じ方向を向く。なぜか同じ向きにだ。自由に発言でき行動できるうちにやっておかないと大変なことになる。選挙は大事です。選挙さえ無くなる社会になったら地獄だ。

 

監督 フランキー・シン

2024年

 アメリカ大統領に似ていることから時の大統領に臨時でならされた人物デーヴがいて、そのすぐあと当の大統領が倒れ意識不明になってしまう。ひきつづき偽の大統領として任務に就くことになる。

 

 身代わりになる人が存在するのだろうか。よほどのことがない限り、別人を仕立てることの方が危険だ。それも現在の世の中、テレビカメラは正直に写しだす。これが武田信玄の影武者というなら、いても不思議はない。だからこの映画は現代のメルヘンと考えてみればいい。もし、こんなことに普通の人が巻き込まれたら、どうするだろう、どうなるだろう、と。

 

 デーヴ・コーヴィックが大統領の身代わりを勤めることになる。だがそれはほんの数時間だけのはずだった。彼の役目は何の言葉も発する必要はないのはもちろんのこと、部屋から出て、車に乗ればOK、というものだった。それがその車の中から家に帰れるはずが、家は家でも大統領の家、ホワイトハウスへ心ならずも帰ることになってしまう。

 

 その事実を知っている人間は彼を含めて三人だけ。ただ、大統領には妻がいて、彼女の存在は無気味である。それは彼女が妻というごく近い関係から彼がにせものであることはすぐに分かってしまうに違いないからだ。近頃、二人の間がさめていたにしても。

 

 「メジャーリーグ」では、大勢の人から声援を受ける快感を感じ、この映画からは、大きな権力を持った時、どんなことでも出来てしまうのではないかという錯覚におちいる瞬間を意識した。アメリカの大統領だもの、何でも来い、と大見栄を切ってもみたくなるじゃないの。そう、私だったら、まず核兵器をなくす。世界の憲兵の地位から下りる。アメリカが潜在的に持っている強力な経済をうまく活かすことに全力を上げる。軍隊を解散し、武器を捨てる。したがって、個人所有の武器の携帯も禁止する。無駄なことへの予算が福祉とか弱者へ向けられるから、みんな幸福、にこにこ顔になる。と、こんな風に事がうまく運べば言うことないが、そんな一人の努力も大きな抵抗にあうだろう。

 

 政治の仕組みがどうの、政治家がどうの、といっても結局それを作っている単位が国民の一人一人なのだから、個人の意識の変化を待つしかない。でも、それでは何百年かかっても世の中良くなりはしない。意識的な誰かが強引にでも進める何かに乗っかって、少しづつ動かしてゆく。だから、この映画のような奇跡が起こるのを望むことも一つの方法である。デーヴがミッチェル大統領と入れ替わって、人々に好かれる政治を推し進めることは不可能なことではない。アメリカも案外こんなふうに変化していくかもしれない。

 

 政治の世界が複雑かつ巧妙になってしまっていて、その病巣の治療は出来そうにない、とほとんどの人は諦めてしまっている。いや、出来るだろうという幻想に取り付かれていると言ってもいい。見かけだけ、口先だけの政治家にだまされてばかりいて、いつになったら目が覚めるのだろう。もう人間はどうしようもない馬鹿でのろまで、愚か者ばかりなのだろうか。普通の人の感覚で政治を動かすのは間違いなのか。失業者をなくすのがおかしなことなのか。全能の神みたいな大統領の権力をまともに普通の人が普通の感覚で遂行したら、きっと素晴らしいアメリカが生まれるのではないか。一般人が政治家になって何が鈍るのか、何に毒されてしまうのか、とてつもないしがらみにがんじがらめにされてしまうのか。実際はそう簡単なことではないのかもしれない。それは分かる、人間の欲の深さに溺れそうになっても、普通人の感覚を時々思い出せば、もうちょっとましな政治を行なってゆけるのではないか。個人の欲望と確執、こんなことが政治の世界にあることからして、変なこと、より高い位置での営みが彼ら政治家に課された仕事だ。

 

 こういうことを考えるにつけ、思い起こされることがある。中学一年の時だ。フレッシュマンの先生がいた。彼はこれから始まる学校生活をとうとうと話し、理想に燃えた目をしていた。ところが一年たったら、他の先生と同じ目の鈍ったただの職業先生になっていた。がっかりしたね、そして世の中そんなものか、と思った。中学一年生にそんなことを思わせるなんて、ひどい先生だ。理想主義は多少浮ついているかも知れないが、とても大事な考え方だと思う。それを見事に自分でつぶしてしまった◯◯先生(名前忘れた)、一生恨むぜ。

 

 この映画をクリントンも見たというが、どう思っただろう。彼も理想に燃える目を持っていそうな姿勢は見せていたが、この頃の言動を聞くにつけ、どうしようもない深い井戸から這い上がれないでいる蛙を思い浮かべた。アメリカの権力の頂点が深い井戸の底なのだから、さらにその下に位置する者に何を期待すればいいのだろう。そりゃあ、こういう映画が作られるのだから、一概に希望を持てないなんて言ってはいけないかも知れないが、なにしろ国民は数億人いて、彼らの全てに周知させる困難さの方が先に立つ。

 

 私個人としては理想に生き、理想を追求していきたいとは思っている。でも、誰もがそうするとは限らないし、そうはならないだろう。どちらかというと、ペシミスティックに考えている。生物としての人間には将来はごく限られたものであろうこと、これは確実だ。人口問題がすでに今でも最大の危機だ。人口と食糧のバランスが取れているとは思えない。なのに、どんどん人口が増えている。エネルギーも問題だ。石油は近い将来底をつく。原子力は危険過ぎる。風力、海水、地熱、今出来る安全な発電に切り替えないと、別な危険が待ち構えている。今世紀から来世紀にかけては人類が滅亡するか、長く生き延びられるかの最後の勝負時だ。首尾良くエネルギー問題の解決をみれば、愚かな人間たちも後数百年は生き永らえるのではないか。まあ、人間がいなくなっても地球にとってはまったく影響がないばかりではなく、むしろ人間以外の生物にとっては大いにありがたいことだろう。それでも地球は動くのだから。

 

監督 アイヴァン・ライトマン

出演 ケヴィン・クライン、シガニー・ウィーヴァー、フランク・ランジェラ、ケヴィン・ダン、ヴィング・レイムス、ベン・キングズレー、チャールズ・グローディン、フェイス・プリンス、ローラ・リニー、ボニー・ハントパーリー・ベア、ステファン・ギーラッシュ、アンナ・ディーヴァ・スミス、ラリー・キング

1993年

 アンドロイド、ヒューマロイドとも言うが、ここでは言い慣れたロボットと呼ぶ。

 

 2026年現在、どうなっているか。未来予測はできる。予測できることは実現する、と聞いたことがある。いままったく想像できないことは予測することはできない。ヒントの元がないのだから。そうとう思いがけないことでない限り何が発明されて現れても驚かない。

 

 この話は実現可能だろう。ロボットはすでに活躍している。人間にとって代わるはずだ。かつてオートメーションが手仕事を機械に取られたように、ロボットは単純作業を大きく担うはずだ。さらに人の動きは模倣され見かけはほぼ同じになる。あとは皮膚や髪の毛などが本物っぽくなれば、ほぼ人間が完成。AIが急速に進歩して頭脳はかなりのところまで行っている。人工頭脳がどこまで人間化するかが先の問題だ。

 

 機械のようなロボットよりも、むしろクローンのほうが現実感がある。羊のクローンが生まれたのはいつだったか、かなり以前のことだ。技術的にはほぼ完成されている。クローンならいくらでもどのようにでも新たな人を作れる。ロボットを人間に近づける努力はむしろ徒労に過ぎない。それを言ってしまうと、この話自体の存在意義がなくなってしまう。

 

 話を戻そう。ロボットは鉄腕アトムから知った。亡くなった息子に似せたロボットを作ったものの、充電が切れると止まる、何も食べない、と人間に似て人間にはなっていない事実を知り、博士は絶望する。たぶんそういう設定だったと思う。調べればわかるだろうが、あえて調べない。

 

 手塚治虫から一歩の進歩もない。物語にするなら、しかもSFなら一層のジャンプが必要だ。どこかで見たようなどこかで聞いたようなのでは物足りない。設定のまずさが話の落とし所でどう変化するかに注目した。そしたらヒューマノイドの反乱?みたいなことまでに至る事件にはなりそうにない。それを匂わす集会がある。自立した頭脳があれば行動も自立する。人間のコントロールは難しい。彼らが自分の存在をどう捉えるか、人の姿をしてるのに中身がないと気づく。

 

 人工頭脳がいくら発展しても自立する頭脳になれない。人工頭脳=AIと仮定して、いや仮定するのは無理がある。AIがどう人間の手から離れて、うまく機能するようになる。新たなAI革命が起きるか、産業革命時代に戻るかの瀬戸際に来ている。さまざまな変革を目指す考え方を示す例がこの映画の趣旨だ。

 

 この提案は革命を想起させる内容を持っている。解答は未来にある。それは100年と言わず10年で得られるものだ。それを待とう。

 

監督 是枝裕和

出演 綾瀬はるか、大悟、桒木里夢、清野菜名、寛一郎、柊木陽太、角田晃広、野呂佳代、星野真里、中島歩、余貴美子、田中泯

2026年

 フランスでかなりヒットしたらしい、しかも犬が人間のサッカー選手になって活躍するという。これは見ないわけにはいかない。私の好きなこと(犬を除けば)ばかりが揃っているんだもの。サッカーに関することなら、どんなささいなことでも関心がある。お笑い番組のPK戦でも、小学生の試合でも関係ない。サッカーボールを見ると心がときめく。

 

 この映画は日本では宣伝もほとんどなく、小さく封切られて終わってしまいそう。初日に見に行った。空いていた。

 

 ディディエという犬が突然人間になってしまうが、納得できる仕掛けではない。空から光が飛んできて寝ている犬に当たると、人間に変身している。変な理屈を付けていないのは、それはそれでかまわないのだが、これではあまりにも単純すぎる。

 

 犬が人間になるとどうなるか。きっと犬のディディエは利口だったのだろう。人間になっても特別変じゃない。おとなしいちょっと変わった男という感じ。フランス語がしゃべれないということも、リトアニアから来たということにして、OK。

 

 さて、これがアメリカ映画だったら、先はよく見えるはずだが、フランス映画では、そうはいかない。どうやってサッカー選手になれたのかとか、選手としてうまくやれるのかとか、いらぬ心配をしてしまう。まあ実際のことを考えたら、この映画のようにはうまくは行かないと思う。サッカーにもルールがある。ただ闇雲にボールを蹴っていけばいいわけではない。こんなことを真剣に考えるのは、この映画には合っていないだろうから、よす。

 

 フランスでこのような映画が作られたというのは面白い。ワールドカップをやるから、その記念の意味があるのかなと推察する。フランス映画の喜劇は一風変わっていて、いかにも他の普通のフランス映画とは異なる雰囲気なのはどうしてなのだろう。この映画にしたって、ばかばかしい、と一言で片づけられるものだ。でも、なんか捨てておけない雰囲気も持っている。アメリカのバカ映画だと、全く見る気はない。それは私のヨーロッパ指向がそうさせるのか。フランス映画がアメリカでリメイクされることがあるが、二つを比べてみると、まるで別の映画になっている。ほとんど同じ内容なのに、舞台が異なり、言葉が異なると、別ものになってしまう。

 

 ディディエがこのままずっと人間であったらどうなっていくのだろう。身体は人間、頭の中は犬。犬の本能が働くだろうから、お尻のにおいも嗅ぎたいだろうし、食べ物も口から直接食べたい。おしっこも、と犬として生きたいと思うはず。やっぱり天からの光が早めに来て、元通りになったことは彼にとって幸せなことだっただろう。それにしても、あのゴールは認められたのか。ルールとしては、決まり切ったことだが、そこをあえて描かないのも親心さ。(どんな心?)

 

監督 アラン・シャバ

出演 アラン・シャバ、ジャン・ピエール・バクリ、イザベル・ジェリナス、カロリーヌ・セリエ、シャンタル・ロビー、クロード・ベリ、ジェローム・シドー、ミシェル・アザナヴィシス、ジネディーヌ・スアレム、ライオネル・アベランスキ、ミシェル・ボンポワル、ジャン・マリー・フリン、ドミニク・バネアール

1997年

 日本は地震の多い地域だ。天災として嫌われる地震だが、火山活動の恩恵もある。温泉は各地にあるし、火山だって観光になる。阿蘇山は九州の中央に鎮座する広大なカルデラだ。その高地にあか牛は暮らす。

 

 黒毛和牛5等級とか聞くが、牛肉に限らず肉は国産ものでなくちゃ、くらいは意識するが、等級付きのは高くて手がでない。どうも味の点では等級で決まるものではないようだ。味には好き嫌いがあるし、買うときの見た目で決める。うまそうなのはわかる。

 

 霜降りが絶対が蔓延してるようで、口に入れたとたん、とけるとのたまう決まり文句。溶けちゃうんじゃ味わえないではないか。ある程度のかみごたえは必要だ。そこで赤牛の出番だ。阿蘇の草原が広がる熊本産山村。ここで長年あか牛を育てている井信行さんを追ったドキュメンタリーだ。彼は饒舌に語る、あか牛の優秀さを。なにせ彼は70年以上もあか牛を育ててきたのだ。90歳をむかえ意気軒昂だ。

 

 言いたいことを素直に語ってくれる。登場人物はこうありたい。でも俳優じゃないから、普通はカメラの前でマイクに向けて話したくても言葉が出ない。彼は信念があるので自信がある。自分のやり方、目指すことが揺るぎない。あか牛を前面に出している。あれだけのことを聞くと、そうかあか牛、食べたくなってきた。霜降りは脂が多すぎるし、などとたまに食べた霜降り肉に文句をつける。肉自体を味わうなら脂身は少なくて良い。私はあか牛を推奨したい。あか牛は名の通り赤茶色している。いかにも牛の色だ。牛を代表する色味だ。阿蘇の穏やかな山並みに合う赤い姿。

 

 阿蘇山は観光で行った。バスでめぐって、火口をのぞいた。煙が上がっていた。牛はいたかもしれないが記憶にない。意識していないと、いても見えない。今ならあか牛をしっかりと見られる。

 

監督 小林瞬、中村朱里

 独裁者マクビーが支配する月面都市。月でも独裁か。人間いるところ独裁あり、過去も現在もさらに未来にも。

 

 エンキ・ビラルにとっては地球も月も同じだ。荒れ果てた世界なら場所はどこでもいいみたい。人工的な美しさの崩壊が未来には必ずあるとみているのか。未来というと、どうしても悲観的に考えがちだ。今のまま進めば、悪い方になることは誰が考えても明らかだから、こういう未来でもあればいいんじゃないか。まったくなくなってしまうよりはいい。どんなふうになっているにしても、人類が生きているのなら、そこから良い方向に向けることも可能だ。だけど、どうかな、いったん駄目になった世界が、うまい具合に方向転回出来るだろうか。

 

 月世界が地球のパリのようなのは面白い。あの一見パリのような景色は書き割りなのか、実際のものなのか。どうして未来は悲観的な予測しか出来ないのだろうか。明るい未来はないのか。歴史から勉強しないのか、社会にはいつも独裁者がいる。殺人がある、事件の裏に暗躍する人物がいる。あとは謎の人物のオンパレードで、ようするによくある分かりにくいストーリーに入り込んでいく。

 

 それはともかく、この人の絵は見たことがないが、きっと丹念に描かれたものだろう。それが映画だと、かえって雑な映像になってしまう。それだけ、動く映像で繊細さを見せるのは難しいのだ。彼はこの映画ではどの位イメージ通りに行ったと考えているのだろうか。聞いてみたい。

 

監督 エンキ・ビラル

出演 ジュリー・デルピー、ヨハン・レイセン、ミシェル・ピッコリ、マリー・ラフォーレ、リシャール・ボーランジェ、ヤン・コレット、ペーター・ベルリング、フレデリック・ゴーニー、スヴェトザル・ツヴェットコヴィッチ、ロジェ・デュマ、ジャン・ルイ・トランティニアン

1997年

 在宅緩和ケア医である萬田緑平さんは快活に診断や相談に応じる。医師が患者にかける言葉が彼のようなのは見たことも聞いたこともない。末期がんの患者と話していて笑い声も起こる。例えれば調子の良いセールスマンの口調に聞こえる。上手いことを言って買わせるような感じで病人に話しかける。無理な苦しい治療はよして家に戻って好きなことをして家族と共に暮らし、死を受け入れる準備をする。これは難しい、そんな心境になれそうにない。でも彼の話を聞くうちに変わっていくかもしれない。

 

 医師は話し方の教育を受けないだろうが、彼は独自の話し方をしている。共感を強いる、強いてはいないだろうが、そう聞こえる。あるいは彼に会いに来た患者は共感しに来ている。宗教家の言葉にうなずきながら、もっともだとさらにのめり込む。話すほうも聞くほうも納得づくで話は進む。

 

 催眠術は拒否する気持ちには効かないらしい。その逆が働く。催眠に入っていくと意識あるままに術者の言うことを聞く。これはテレビで見ただけで本当のところどうなのかは不明だ。テレビはショーだから信用できない。実際やってもらったらわかるだろうが、私にその気はない。

 

 ちゃんとした医者をマジシャンのように揶揄したかもしれない。タネも仕掛けもないと言うマジックのタネをあかせば何のことはない。

 

 ようするに彼を信じるか信じないかにかかってくる。信じれば苦しみから解放され心安らかに死ねる。信じれば救われる。

 

 樹木希林の講演会の映像が出てくる。彼女が萬田緑平医師に関係あったかはわからない。だがなんの関連もないなら出てくるのは変だ。樹木希林のお墨付きがあれば有利になる。彼女は治療をして治そうとした。

 

 彼の治療法は信念がそうさせるのだろう。迷いはない、悩みもない、自信を持って病気に向き合う。病気に対して精神的にも負けると病状に影響がある。病院で死を待つばかりになるか、自宅に戻って家族と過ごすのか選ぶ。最期の時間まで自分の意思をつらぬく。

 

 放射線治療はつらく苦しいというが、それで治る人もいる。そこに希望を見出して治療する。治療法があるのだから不完全でも試してみるのは当たり前だ。私ならそうする。やってみて苦しくて仕方ないなら止める。そうしよう、と今は思う。ただ言えることは萬田緑平さんには頼らない。

 

 萬田医師に100パー従うことはない。自分のやり方で生きていけばいい。無理することはない。

 

監督 オオタヴィン

 パナマ運河の権利がアメリカからパナマに返されてから、この重要な地点への注目が以前より強まった。元来パナマにあるのだからパナマの所有に帰されるのが当然であるのだから、なにも他国が騒ぐことではない。アメリカは他人のものでも自分のものにしたがるクセがある。だが、どう難癖を付けようとしても付けられない時に、どうするか。何もない所に煙を立たせるにはどうしたらいいか。この映画はアメリカではなくイギリスが勝手に大騒ぎするという話だ。それも言い出しっぺはパナマに住む仕立屋だ。

 

 ハリーはイギリスの正統な伝統を受け継いでいる仕立屋であるということになっている。実際はまるで違うのだが、どうせここは本国イギリスではないので、なんとでもなる。どうせ身分がばれるはずはないのだと思っている。そこへなぜかイギリスから情報員アンディがやってくる。ハリーからパナマの生の情報を得ようというのだ。このアンディという男、ようするに左遷されてやってきたのだ。だからこの国に来てからもやる気なしで、もっぱらハリー頼り。そのハリーにしてもにせ者くさい。スパイ映画のかっこいいスパイなんかじゃない役をピアース・ブロスナンがやっているのってのも面白い。これ以上の配役はないだろう。

 

 何かありそうなところには何かがなくてはいけない、のか何もなくても不思議はないのか。真実は小説ではないのだから、何もない場合が多いのではないか。事件があるから小説になるのでもなく、映画だから撃ち合いがあるのでもなく、面白くするために事件をでっち上げることだってしてしまうからおそろしい素人スパイ。緻密な計画を立てての行動ではないから穴があちこちにある。それにもかかわらず、おおごとになってしまう恐ろしさ。案外こんなことから戦争にまでなってしあうこともあるかもしれない。そう思うとこわい。

 

 現代はスパイ小説のねたがなくなった時代になった。世界を見渡してもそうそう大悪党と分かるような顔をした国がないからだ。一昔前ならソ連を筆頭にいろいろあった。中身の分からないものには警戒心を抱かざるを得ない。そこがそういう手の小説家のねらいだ。それでも実際よりずっと深刻ぶって書かれていたように思う。実際はごく地味なスパイが派手なアクション映画のような活躍をしてしまうのだから。それでこの映画のような本物のスパイはたいしたことがなくて、素人に体よく翻弄されてしまったりする。深刻な事態にはならないまでも、世界のあちこちではまだまだいろいろな事件があり、スパイがいなくなることはないだろう。でも、かっこよく何でも解決させてしまうようなスパイは実際にも映画にも登場するのは難しくなっていると思う。

 

監督 ジョン・ブアマン

出演 ピアース・ブロスナン、ジェフリー・ラッシュ、ジェイミー・リー・カーティス、レオノラ・ヴァレラ、ブレンダン・グリーソン、ハロルド・ピンター、キャサリン・マッコーマック、ダニエル・ラドクリフ、ローラ・ブアマン、デイヴィッド・ヘイマン、ジョン・フォーチュン

2001年