トレーナーの育成に関わったり、多くのトレーナーの方と出会ったりしていて、
あらためて思うこと。


とにかく皆、「方法論」に走ったり、「手法」ありきで右往左往してしまっている現状がある。


トレーナーという仕事については、
「スポーツトレーナーになりたい!」カテゴリ などで解説しているので、
よく分からない方はこちらをご参照願いたいが、
基本的には技術職である。
この世界、特にトレーニングの分野については研究が日進月歩で、
次から次へと新たなメソッドや器具が発表され、
モノによってはその為の指導資格の講習なども実施されている。


当然、勉強していくことは義務であり、
自分の技量を上げていくためには必須なのだが、
事の本質を見極めずに、単に飛びついても、
実際にクライアントが評価するレベルにまでの技量に達するのか…?は私にはいささか疑問である。


本質的には、身体を病んでいる人も、アスリートが競技力を向上しようとするのも、
どちらも「現状より身体の状態を良くする」ことに他ならない。


では「良くする」とは、どういうことなのか?
何のどこが、どういう状態になることを目指せば良いのか?
目的は何なのか?
それを目指すには、どのような手段、手法が考えられるのか?

…という思考の順序があり、初めて現状の自分の中には無い手法の必要性が見えてくる。
つまり、「目的」があってそれが明確で、
それから「手段」の選択に入るはずなのである。
極論を言えば、目的を吟味した結果、
現状の知識や技術を、考え方を捉え直すことで目的が十分達成されることも多い。
自分が今まで学んだ事柄を、再整理したり深く探求し直したりする事が、実は非常に大切なのである。


「最近、話題だから」
「流行だから」
「“品数”が多い方がクライアントが付きやすいだろうから、とりあえずアイテムを増やしたいから」
などの理由でいろいろなメソッドを学ぶ人も多い。
それらを完全に否定はしないが、
近い将来、行き詰まるのは目に見えている。
流行が過ぎれば、また次の新しい話題アイテムに向かう、といった具合に…


ま、潤沢なお金と時間があるなら、それも悪くないが。


誤解の無いように再度言っておくが、
新たに発表される最新理論やメソッドを学ぶことは非常に有効であることは確かである。
だが「理論」と銘打っても、実は「理論」ではなく
あくまで一つの「方法論」であったりすることも多く、
「それによって人体に達成される事柄、現象は何か」
を考える習慣を持っておかないと、
方法論だけが蓄積されるだけで、整理しきれなくなり、
情報として「使えない」ことになりうる。


つまり、新しい方法論を学ぶには、前提として考えておかなければならない事があるのだ。
(「理論」は別)


長くなったので、続きはあとで 。



有森裕子、引退レースは来年2月の東京マラソン




…え?



今季限りでの現役引退を表明していた女子マラソンのバルセロナ五輪銀、アトランタ五輪銅メダリストの有森裕子(39)(リクルートAC)が、引退レースに3万人規模の大都市マラソンとして国内で初めて開催される東京マラソン(来年2月18日)を選んだことが、25日明らかになった。

 9月のベルリンマラソンにも自己ベスト(2時間26分39秒)更新を狙って出場予定。東京でファンへの感謝の気持ちを込めて「サヨナラ・ラン」を行い、かねてから見据えてきた40歳の節目での現役引退を実現する。

(2006年5月25日19時50分 読売新聞)





失礼なことは重々、承知の上で…

思ったことは正直に言った方が良いと思いまして…





あの~




大変申し上げ難いのですが…





有森さんって、まだ現役だったんすか…?





前エントリーに少し関わるが…




ある事柄で、「これがポイント」「これが重要」と定説のように言われていることが、
実はそれ以前にもっと重要なポイントがあり、
その結果として、「定説」と言われていることが成り立つ、ということがある。


最近よく感じることが、
例えば「スクワット」。


スクワットで重要なポイントが、
「膝をつま先から出さないように」と、
「腰を丸めない」という二点である。
それで多くの場合、この点を指導することが常識のようになっているのだが、
実はこの点を強調し過ぎると、結果として上手くいかないことが多い。
(もちろん、上手くいく場合もあります)


この二つはシーソーのようなもので、
「膝を出すな」と言えば腰が丸まり、
「腰を丸めるな」と言えば膝が出るという、イタチごっこになる可能性が高い。


実はスクワットをおこなう第一条件は、
「骨盤前傾を保ったまま、股関節の軽度屈曲」である。
これを伝達するには、対象者によって様々な「指導言語」が存在するが、
別の表現で言うと、「尻相撲のような軽い出っ尻」ということになろうか。
(ただし、立位の状態より腰椎の前湾が強まってはNG。股関節のみ屈曲するのは意外に難しい…)


これが出来ると、
その態勢を保ちながら(軽い出っ尻状態)そのまましゃがむだけで、
「スクワット」が自然に出来てしまう。
前述の「膝を出さない」「腰を丸めない」は、
実はこの第一条件が出来ていると、
結果として「膝が出ない」、結果として「腰が丸まらない」
であることが分かる。


これに類することは、
特にウェイトトレーニングの分野では非常に多い。
ベンチプレスなども、同様のことがある。


当たり前のように、その分野で「これが重要」と言われていたポイントが、
実はその前に前提条件が存在し、その結果としてそのポイントが成立することが多い。


なかなか指導がうまくいかなかった場合、
一度、「定説」を疑って、ゼロベースから考えてみると、
様々なものが見えてくる。
このようなことを考察するのが「指導言語」を考える、ということになる。


とは言っても、「固定観念」を崩すのは意外に難しいのだが。




このblogでは、頻繁に「固定観念を変えるのは難しい」という類のことが出てくる。


私は、いつも物事を裏から見る癖がある。


言い方を変えると、「その分野の常識を、常に懐疑的に見る」という事である。
私の関わる世界で言うと「運動生理学」であろうし、
もしかすると「科学的常識」すらも危ういと、一旦は考える。


と言うのは、多くの人は、
その道の権威が発表したことや、
その世界で「常識」と言われてきた事が常に覆され、
それで新たな理論めいたものが構築されて、
いわゆる「通念」が出来上がってきた歴史があるからである。


「人体は小宇宙」とよく言われるが、
宇宙のことは未だ解明されていない。
と言うより、恐らくほとんど分かっていない。
つまり同様に、人体のことも本当のところはほとんど分かっていない、と考えるのが自然だ。
事実、分かっているようで分かっていない。
分かっているならば、全ての病気は治るはずだし、
同じトレーニングをすれば全員、結果が出るはずだ。
実際は「分かったつもり」になっているだけだし、
「通念」に無理やり当てはめているに過ぎない。
進化論の過程で、理屈で説明出来ないことは「突然変異」という理屈にしてしまうことと同様である。


たとえばひとつの例だが、
3~4年前から、「ストレッチング」(スタティック)というものの通念的な理論と効果に、かなり懐疑的な感覚を抱いている。
否定、というほどの強い確証は無いのだが、まだ「疑問」という程度のものである。


ただ、立場上と言うか、
この分野では常識になっている事に異論めいたことを言うのはかなり勇気のいることで、
結局は依頼があればストレッチの指導はするし、
セミナーもやっている。
このような状況が、実際トレーナーとしてはジレンマに陥いるところだ。


実は、こんなことを言うと便乗のように思われるので、
このエントリーも書くのを迷ったが、
最近、「キネシオテープ」を考案した加瀬建造氏が、このような類のことを訴えている。
少々、我々のような立場からすると「ストレッチは害」と、過激な内容であるが、
今の時点ではすべては容認できないが、以前から感じていたことが共通している部分も多く、
非常に注目はしている昨今である。
ただ、これとてそのまま受け入れることはせず、
あくまで最終的には「先入観を消した自分の感覚」を拠りどころにして、自分の責任において判断している。


ストレッチングに懐疑的な想いをいだいているのは、
圧倒的に「柔軟度」が増したり、「痛みの軽減」に繋がっている実感が得られていないような感覚がするからである。
恐らく、ほとんどの人は、通念で言われている理屈に合わないことは
「突然変異」的に感覚から抹消している場合が多いと推察する。
これは「科学的に立証」という理論に似ている。


「科学的に立証」というのも、
多くの場合、「仮説(=前提)」ありきである場合が多く、
仮説にはまらないものは抹消(とりあえず保留)されることが多いものだ。


ストレッチに話を戻すが、
ストレッチングの目的は、基本的には「筋の弛緩」であろうと思われる。
私は実は数年前から、その目的で個別指導にストレッチを用いることは少ない。
もちろん、整体の施術にも、である。


では、どのような手法を用いているかと言うと…


企業秘密だし、まだ研究中なので細かく言えないが…


大まかに言うと、
長軸上で「圧」(押し込む)を掛けて、「ゆする」(振る)ことである。
特に体幹~頚にかけては有効のような実感。
筋に圧(外力で収縮)、と考えても良いかも知れない。
いくつかのバリエーションを模索中で、この限りではないのだが。


すいません。
これぐらいで勘弁してください…


詳細はさておき、このような考えに至ったり、
こんなエントリーを書こうと思ったのは、最近読んだ本がきっかけであった。




99・9%は仮説 思いこみで判断しないための考え方


という本である。














正真正銘の科学者の方が書いた本で、
まさに専門家の視点で、歯に衣着せぬ論調。
読んでみると、我々一般人が驚くほど、当たり前と思っていたことが実は解明されていないことが分かる。


例を挙げると…


「飛行機が飛ぶ理由は、科学的には証明されていない」

「全身麻酔が効くメカニズムは、実はほとんど分かっていない」

などなど…


詳細はお読みいただければと思うが、
要は世の中、大部分が「仮説」で成り立っているのである。
科学で立証されているものも、全体の事象のごくわずか。
と言うより、まだまだ科学の方が実態に追いついていないのであろう。


こう考えると、「科学的に~」なんていうのも、果たしてどこまで「科学的」なんだか。


つまりは、全ては曖昧なものの上に成り立っている。
(成り立っていると錯覚している?)


そういう前提に立つ、という心構えが必要なようである。
特に、人体は奥深い…




今日は午後から仕事なので、
のんびり新聞の日曜版を見ているとー

様々な資格講座のコーナーが。


あまり知らなかったが、あらためて見ると健康・運動関連のものが目立つ。


「健康管理士一般指導員受験対策講座」

「介護予防運動指導員養成講座」

「生活習慣病予防士講座」

「ケアストレスカウンセラー講座」

「食生活管理士講座」


などなど。


うーん…


とにかく、勉強する人は正確に内容を見極めて、
勉強するものを選ばなければいけませんなぁ…


新聞の記事に、「五重塔の謎」という興味深いコラムがあった。


日本には現存する五重塔は22本あり、最古のものは奈良の法隆寺の五重塔。
歴史をひもといても、1000年以上、地震で倒れた記録はないそうだ。大震災などで現代建築で建てられた建造物が倒壊してしまったことを考えると驚嘆に値する。


一般的に地震の揺れに対する工夫は、柱を太くして頑丈にする「剛構造」と、
木材などの軟らかい素材で組み立て、地震の力を受け流す「柔構造」とがあるらしく、
五重塔は後者の仕組みで建てられているそうだ。


専門家が耐震構造の研究のため、五重塔の構造について調べているそうだが、
これだけ発達した科学をもってしても、
これだけ長きに渡って倒れない秘密を解明できていないそうだ。
説として有力なのは、塔のてっぺんに着けられた「相輪」と呼ばれる装飾品が、塔本体とは別の揺れ方をして全体としての揺れを相殺しているのでは?ということと、
塔の中心にある「心柱」という太い柱も同様の貢献をしているらしい?ということだそうだ。


その他、建材同士を独特の方式で組み合わせてある構造にも効果があるらしい。
地震の揺れでわざとある程度塔が傾いたり、建材が滑ったりして摩擦が生じ、揺れのエネルギーを吸収するらしいことも分かりつつあるようだ。

いわば、ある程度「不安定に揺れる」ことが「安定」につながる、ということだろう。


私もトレーナーとして身体づくりに携わる中で、
いわゆる「ボディバランス」を考えることは多い。
バランスを崩さない身体、と言うと、
すぐ「体幹をしっかり鍛えて崩れない身体を」となるが、
実は五重塔と同様、固めてしまうことはマイナスになることが多い、と私はかなり以前から考えて、訴えている。


筋力を鍛える必要がない、ということではなく、その筋力は「固めて動かないようにするため」に必要なのではなく、
「微妙に揺れて、揺れを戻すのに必要」と考えるべきと認識している。


要は、付けた筋力をどう使うか?が重要であり、そのような観点が必要ということである。



それにしても、現代の科学をもってしても解明が難しいとは、昔の人たちの思考や発想の拠り所は何だったのだろう…


当時の大工さんたちが構造計算をして、意図的に地震に強い構造で建てたとは考えにくいそうで、先人の知恵にはただ驚くばかりである。


今日も午前に患者さん、
午後はパーソナルトレーナーの養成講座、
夜は再び患者さんの施術、とフル稼働。
そんなに稼いでどーすんの?…って、そんなに稼げてませんから。
スイマセン…



ここ最近、改めて人に物事を「指導する」ということを考える。
(大抵、飲みながら。今日も。)


知識があって、その事柄が自分で出来るということと、
それを人に教えることは別問題。
特に、自分がすでに無意識に出来てしまっていることは、
自分が出来なかった時代のことが忘れ去られてしまっていて、
今現在出来ない人の立場に成り切れない。


つまり、自分が無意識に出来ている部分が多くの人にとって重要な部分なのだが、
その最も重要な部分が無意識に出来てしまっている、という事実に自分が気付いていないので、
結局、人に指導する場合、その人の根本的な問題点に気付いてあげられない場合が多いのである。



このことは、恐らくトレーニング指導でも、
施術行為でも、はたまたビジネスコーチングのような人材育成や教育全般において、共通のことと思われる。


これは自転車の乗り方を教える行為に似ている。
人によっていろいろ方法論はあろうが、
自転車に一度乗れてしまうと、一体何が難しかったのか、その感覚を言語化するのは意外に難しいようだ。
自転車に乗る行為で最も難しい点は、
二輪という状況でバランスをとるという行為と、ペダルをこぐという二つの行為を同時に行わなければならない点である。
また、バランスをとる為にはある程度の推進力を得なければならない。
(ジャイロ機構)
推進力を得るためにはペダルをこがなければならないが、
ペダルをこぐときは、瞬間瞬間で右に左に足の力がかかり、
それを相殺しつつバランスを保つにはハンドルを握る手で微妙に平衡を保つように調整しなければならない。

…と言うように、実はかなり複雑な行為の集合体なのである。



つまり複雑な行為が重なるので、
練習の基本はどれか一つの行為に集中できる環境にしてやることが必要になる。
最も適しているのは外力で推進力を補助してやり、
まずはバランスを保つことだけに集中させてやることが得策と思われるが、
そういう時、多くの大人がやってやることが「後ろから押してやる」ことである。


だが、この方法には問題がある。


後ろから押す、という動きは、
当然人が走ったりして押すことになるが、
人が押すというのは二本足での歩行が基本になるので、力の掛かり方に強弱が表れる。
ましてやまっすぐ押すのは意外に難しいもの。
つまり「推進力」が一定し難いのだ。
ならばむしろ、恐怖心を感じない程度の緩やかな傾斜を利用した方が、慣性に基づき推進力が一定になり、乗っている方はバランスをとることに集中しやすい。



それさえ慣れて出来るようになれば、
あとは「どの程度ペダルを踏めばどれぐらい力が掛かり、それを調整するにはハンドルにどう力を加えれば良いか」
が分かってくる。


つまり、指導の基本は、
「それが出来ない要因の内、最大の問題点の見極め」と、
自分が「無意識に出来ている感覚」があるとするならば、
その無意識の部分を自分で認識し、それを「意識化」し、さらに「言語化」することにある。


もちろん、長嶋茂雄氏のように
「キュっキュっ」とか「ブアーっと」などの感覚表現で伝わることも(人も)あるが、それは稀なケース。
もちろん、全てが言語のみで伝わるものではないが、
まずは「無意識」→「意識化」→「言語化」を簡単に放棄せず、常に模索していかなければ、プロへの道は厳しいのである。

ご承知のとおり、私はスポーツ系専門学校で教鞭を執っているが、
実は卒業生によく遭遇する。
多い日は一日に何人にも。


何故かと言うと、私が依頼を受けておこなうセミナーやワークショップの類いに、よく卒業生が受講に来るのである。
または、自分の仕事関連で様々なフィットネスクラブやその他の指導現場に行くと、そこで働いていたり。
恐らく、学校の正職員を含めても、講師全体で私が最も多く卒業後の人たちに会ったり、仕事の現場を見ていると思う。
学校の教員というのは、卒業後の子たちはほとんど意識の外になってしまうので。
(忙しいから現役学生で手一杯なんですな)


卒業生とよく話に出るのが、
「学生の時にもっとちゃんと勉強しておけば良かった」
ということ。
これは私も人のことは言えず。
恐らくみんなそう思っているだろう。


私がやるセミナーなんて、私の講義を受けている人間にとっては復習のような内容も多いが、
やはり聞いてみると「当時と意識が違うので、まったく違う話に聞こえる」らしい。


結局、社会に出て現場に放り込まれて、
初めて学校で学んでいたことの重要性に気付く、というのは定番のようなもの。
要は、学生時代の勉強は野球で言えば「素振り」のようなもんで、
現場に出ていきなり「実戦」になってしまうのである。
その前に、やはり「シートバッティング」が無いと、生きた球を打つことは出来ないのだ。


そこで意識のある人間は、
セミナーなどに参加して「シートバッティング」や「ノック」を受けに来るのであろう。


卒業生の、「学生の時に一生懸命やっておけば…」
という心の叫びを現役学生に聞かせてやりたいが、
たとえ聞かせてもピンとは来ないんだろうなぁ。


やはり三振ばかりの毎日を過ごして、
初めて練習の重要性に気付く、というところか。



昨日、TVで「ドクターハラスメント問題」などを中心に、
逆に先進的な医療を推進している病院や患者さんに配慮している事例などを挙げた医療特集番組をやっていたようだった。
車での移動の途中、ナビでちらっと見ただけだったが、
なかなか興味深い内容だったらしい。


実は最近、久しぶりに病院に行ってみた。
私は10年以上、病院に行くということはなかったので、
本当に久しぶり。
長いこと行かなかったのは、まず私がトレーナーでほとんどの基本的な対処法は分かることと、
病院に行くほどの大問題も起きなかった、ということがある。


だがトレーナーとしても、最近の現代医療の現場も見ておく必要もあるなぁ、と少し感じていた。
選手も行かせることも当然あるので、
自分も古い情報のままではまずいだろう、と。


運良く、と言うか悪いと言うか、
ちょっとひょんな事から少し首を痛めてしまい、
対処は自分で出来るのだが、MRIを撮った事もないし、
経験も含めて行ってみたのであった。


そこで、「これが問題医師か~」という場面に遭遇し、昨日の番組で思い出したのである。


診察室に通されて、医師が開口一番、
「何でこんな日に来るのかねぇ~!」と。


私は何のことやら分からず、「はぁ?」と聞き直した。
確かに、この日は連休前。


すると、
「だから~、何で休みの前に来るのかってこと。
混むでしょーが、休みの前は。
何でもっと前に来ないのよ!」

言葉だけを聞くと、
痛いんだったら早く来れば楽になるでしょ、という配慮のようにも聞こえるが、
言い回しは完全に「休みの前にみんなで駆け込んできたら、忙しくなるじゃねぇか?」としかとれないような口調だった。


内心「何言ってんだ、お前」と思って、
言ってやろうと思ったが、その後の出方を見てみたかったこともあり、とりあえず反応しないことに。
だが、一般の方だったら、文句言ったらちゃんと診てもらえないんじゃないか?と考えるだろうから、
恐らく何も言えないだろう。
「これがドクターハラスメントってやつか~」
と初めて実感したのであった。
医師も結局、広い意味でサービス業なのに…
意識の低さに、半ば呆れ気味に閉口。


その後、医師の問いかけもあり、
前述のように経験が無かったのでMRIを撮ってもらうことに。
たいしたことは無かったのだが、大げさに言って。


MRIの感想はここでは割愛。


撮影を終えて診察室に戻り、
医師の診断を仰ぐことに。
すると「あ~やっぱりね~。首の骨のカーブが少なくて、少しだけ軟骨が変性してるな~。」
と。
私も画像はある程度判断できるが、この程度は全く問題無い範囲である。
結果、医師の診断は、
「この軟骨の変性が神経を圧迫して、痛みが出てるんだよ。一応、薬出しとくから、良いって言うまで飲み続けて。」
とのこと。


私はびっくり。
何せ、ここまで首のどの部分が痛いのかも聞かず、
患部を確認も、触りもせず、
まして動作分析(どう動かすと痛いか、など)
もしていないのだ。
ほとんど私のことは見ず、画像のみを見て全て判断している。


さすがに私も、一応恐る恐るという演技をしながら、
「あの~先生。私が痛いところ分かってますか?
まったく触っていらっしゃいませんが…」
と聞いたら、
「触ったって一緒!画像見れば原因は分かるんだから!私は画像診断の専門家なんだよ!」


…もう、何も言い返す気力も失せていた。
アホらしくて。


その上、「あんた、仕事なにやってんの」
と聞かれたので、何を言い出すのか興味もあり、ちょっと嘘をついて、
「そうですね~デスクワークが中心ですかね~」
と言ったら、
医師は
「やっぱりねー、だと思った。運動不足なんだよ。
時々首を回したり、しっかり動かさなきゃー。だから血行も悪くなったり、軟骨が変形したりするんだよ。」


お前~
俺の身体見れば、運動不足かどうか分かるだろうが!
運動はしてると考えるのが自然だし、学生時代に痛めた経験があるかとか、聞かんのかい!


こりゃーダメだわ。


もちろん全ての医師がこうではないだろうし、
私も多少意地悪はしたが、
何しろ患者を直接まったく見ず、触りもせず、
画像だけをひたすら見て、「人」を診ている認識がこれっぽっちも無いことに驚きさえ覚えた。
しっかりしてくれよ、お医者さんよ~


だが、逆に考えると、
このような現状だからこそ、民間医療であり、なお且つ保険も利かず費用も決して安くない、
私たちのような施術所に来る方々が多いのだろう。


私たちにとっては結果的に好都合だが、
どうしたって現代医療でなければどうにもならない疾病や症状があるのは事実なのだ。
もう少し真剣にやってもらわんと…


だが、医療技術、と言うより、
「人間教育」が必要なんでしょうな~
ホンと、本音を言えば殴ってやろうかと思いましたよ。
一体、何様なんじゃい?


あ、でも、これからも時々は勉強と経験の為に、
ちょっとした事でも病院に行ってみようと思っている。
もちろん頻繁ではないが…そんなヒマじゃないし。


ムダに医療費、使っちゃまずいしね。
でも今までほとんど行ってないんだから、良いじゃんイイジャン。



今日は契約している取引き先のミーティングに参加。
いわば「ビジネスコーチング」のような役割である。


詳細は言えないが、その中で現場を預かる担当者から「社員比率を上げられないか」との類いの質問があった。


これは現場リーダーの立場では、このような意見が出るのはよく分かる。
サービス業は人件費ギリギリで運営しているのがほとんどなので、
「もう少ししっかり任せられる社員が欲しい」と思うのも切実な叫びだ。


企業というのは、雇用を提供し社会的に貢献するという責任も有しているので、
あまりパートばかりを採用し、ひたすら人件費を調整し利益追及のみに走る、というのも程度によっては感心出来ない。
だが、かといってあまりにも利益が出なければ出資者や株主に説明がつかず、
結果的には会社が倒産すれば多くの社員を路頭に迷わすことになる。
そのあたりは難しいところだ。



私も会社員時代、経営陣がこう言っていたのを思い出す。
「社員の諸君も経営者になったつもりで考えて欲しい」と。


だが、所詮これは無理な話。
何故かと言えば、「経営者になったことがないから」。
自分の懐に直接響かないから、ピンと来ないのである。
例えば私などは、小さいながらも一応、法人。
法人でなくても、要は一人で事業を行っていれば分かる。
私も出来るものなら人を雇いたいが、
そうすると経費だけが掛かり、利益(自分の取り分)
が減る。
それでも十分な売上があれば良いが、そうでないのであれば自分が楽になりたいだけでは人は雇えないのである。
その人を雇うことで、確実に売上が上がるということが、論理的に説明がつけば別だが。


これはかなりミニマムな話だが、
基本はこの最小単位の話と同様。
社員として雇われていると自分の給料が確保されているので、この辺の感覚が実感できないのは無理からぬ話であるのだ。
もし独立採算で、「所属店の売上から自分の給料もひねり出せ」と言われたら、
悠長に「社員を増やしたい」とは簡単には言えない。


もちろん、人件費率や労働環境が適切であるかは、
客観的に精査していく必要はあるが、
企業に所属する以上、まずは利益を出さないと存在価値はないのもまた事実。


これは個人の生活に置き換えても分かりやすい。
生活が厳しければ、今まで気にしなかった電気もこまめに消すようになるし、
冷暖房機の使用を我慢したり、風呂の残り湯を洗濯にりようしたり、
やはり「経費節減」を工夫するもの。
企業経営も基本的には同様だ。


だが、やはり雇用されていると、
同じような「経営的視点」を持つのは難しい。
視点を変える、とは言葉にすると簡単だが、
「…の身になる」と言うのは、口で言うほどたやすくない。
一番簡単なのは、実際に経営をさせるのが一番だが。