私のワークでは、「欲求が適正になれば、人生の問題は消える」という前提に立っています。このことを整理してみましょう。
私達の言動、感情、思考の背景には、欲求や衝動があります。
そして、人生で問題が起こったり、苦しみを感じている時、「欲求や衝動が現実と戦わせている」構造があります。
幸せな生き方の教えとして「ありのままに受け入れる」というのを聞いたことがありますか?
これは、「現実と戦うな」という意味でもあります。
でも、この教えには「じゃ、我慢しろということ?幸せじゃないじゃん!」という疑問があるかもしれませんが、そうではありません。
我慢は、自分の中で「させようとする欲求」と「止めようとする欲求」がぶつかっている状態です。
つまり、我慢している時は、心の中では現実と戦っている状態になっています。ですから、元にある欲求の調整を目指すことを考えます。
これを理解するためには、欲と現実の関係を理解する必要があります。
まず、なぜ「ありのままを受け入れる」「現実と戦わない」と幸せになるのかを考えてみましょう。
簡単に言えば、現実と戦っても苦しいだけで無駄だからです。
「ありのままに受け入れる」は、「今できることだけに集中しよう」という意味もあります。
- 誰かに「わかってない!」と腹を立てても苦しいだけ。
(人は人、自分の楽しみに専念したほうが良い) - 何かに勝ちたいとピリピリしても苦しいだけ。
(結果にこだわらず、その努力を楽しむ) - もっとお金が欲しい
(なぜお金が欲しい?お金につながる努力を楽しむ方が良い)
自分だけでは実現できない結果に気をもんでも意味がありません。くたびれ損で良いことはないのです。
誰かから理解を得ようとしても、理解しない人は理解しないもの。
なのに、つい私たちは「わかってない!」と腹を立て、自分の気分を台無しにします。
試合などで勝ち負けにこだわるのも同様です。
結果は自分の努力だけでは決められないのに、ヒリヒリ・ハラハラと苦しい気持になり、集中力もなくなります。
そういう思いを掻き立てるのは、欲求が関係しています。
その欲求が現実と合わなくなっています。
この不適切な欲求が変われば、現実の見え方が変わってきます。
そして、もう一つ重要な視点に、「衝動や欲求は変えやすい」というものがあります。
生まれながらの欲求もありますが、欲求の多くは生まれた後に身に着けたものです。
行動分析という学問で、欲求の生まれ方や消え方の仕組みが科学的に研究されています。
欲求は弱めたり消すことができます。
欲がなければ不満はありません。
「勝ちたい」と思わなければ、勝ちにこだわってヒリヒリ・ハラハラすることはありません。
「わかって欲しい」と思わなければ、相手に腹を立てることはありません。
欲がなければ、新しい問題も起きません。
人と揉める時は、お互いに「私が正しい!」を言い合う構造がありますが、これは「私の主張を認めてほしい」という欲が絡んでいます。
仕事などを頑張りすぎて体や心を壊してしまう背景には、「このままじゃ、認めてもらえない」という不安が関係しますが、それは「認められたい」という欲求からきています。
これまでに、欲求が人生の問題と関係していることを見てきました。
でも、なぜ人はそれに気付かいないのでしょう?
まず、「人の欲求は同じ」という思い込みがあります。
「こんな気持ちになるのは、当たり前でしょ?!」という感覚です。
でも、欲求の多くが環境や経験から学んだことなので、人によって違いますし、過去の現実には適した欲求も今の現実には適さない場合もあります。
もう一つ「認められたい」という欲求が、「私の感覚は正しい」という考えを作ってしまう場合も多くあります。
仏教では慢と呼んで注意すべき心の状態としています。自慢、放漫、傲慢などの慢です。
慢は人生の問題の主な原因の一つなので、後の記事で詳しく説明します。
「自分の正しさにこだわるな」と教える場合がありますが、これは慢を諫めているものだと思います。
欲求は、私たちの意欲に関係するので、重要な側面もあります。
ですから、欲求の向き先が重要だということになります。
正しい欲求の向け先を知るヒントは、今の現実で自分で決められる行動ということになると思います。
その他に気持ちが向かいないように、欲求を整えていく・・・そのように考えます。