イェホシュアのイスラエルの信仰と証し -28ページ目

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

Courtesy of Sarah R

 

 

あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。
それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」と書いてあるからです。

第一ペテロ1:15-16

イスラエルの神であられる神YHWHは、聖なる方です。第一ペテロ1章で書かれているのも、そのことについてです。

その聖なる方は、私たち自身も「聖でなければならない」と命じておられます。
これは旧約聖書の以下の聖句を踏まえています。

(英語聖書引用は全てヘブライ語原典を忠実に翻訳しているLiteral Standard Version)

レビ記11:44-45
For I [am] your God YHWH, and you have sanctified yourselves, and you have been holy, for I [am] holy; and you do not defile your persons with any teeming thing which is creeping on the earth;
for I [am] YHWH who am bringing you up out of the land of Egypt to become your God; and you have been holy, for I [am] holy.


レビ記19:2
Speak to all the congregation of the sons of Israel, and you have said to them: You are holy, because I, your God YHWH, [am] holy.

レビ記20:7
And you have sanctified yourselves, and you have been holy, for I [am] your God YHWH;

神YHWHであられる方は、聖であられるので、あなた方も聖でなければならないと、明言しておられます。


日本語訳の聖書では、神YHWHのところを「主」と訳していますから、「主イエス・キリスト」の「主」と混同することがよく起こります。しかし、ヘブライ語原典では、ここのところは「あなたの神YHWH/your God YHWH」ないし「YHWH」と記しています。
新約聖書ギリシャ語の「主/キュリオス」とは別な方を指しています。
(三位一体の教えがあるがために、多くのクリスチャンにおいて、わかりづらくなっています)



「聖でなければならない」の「聖」は、ヘブライ語聖書のヘブライ語の意味を確かめると

「分けられていること/分かれていること/選り分けられていること」(apart、separate)です。

「分かれていなければならない」「分けられていなければならない」と命じておられるのです。

これは何と分けられていなければならないのか?

旧約聖書の教えでは、
「異邦人から分けられていなければならない」
「異邦人の価値観、食べ方から分けられていなければならない」
「異邦人と結婚してはいけない(聖なる民族の血が汚れるから)」
「異なる神を崇拝する異邦人の偶像崇拝から分けられていなければならない」
となります。

いずれにしても、この世の様々なものから「分けられていなければならない」ということを命じています。
なぜなら、神YHWHは、聖なる方であるからです。

そうして神YHWHは、地上に遣わされた彼の御子であるイエス・キリストによって、「私たちの父」になりました。

イエス・キリストの十字架の犠牲と血を、自分のこととして受け取り、その血の清めにあずかることによって、私たちは「聖なるもの」になります。





 

Courtesy of Emily Carlin

 

この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがないものなので、主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた。
ルカ16:8

イスラエルの神である天の父に召された人は、多くの場合、「この世」になじめません。

召されていることについては、新約聖書にいくつもの記述があり、主なものは以下の通りです。

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
ローマ人への手紙8:28

神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。
ローマ人への手紙8:30

しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。
コリント人への手紙第一1:24

兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
コリント人への手紙第一1:26

「召されている」とは「神から呼ばれている」ということです。
そういう人たちは「この世」になじめないのが普通です。



新約聖書で「この世」と訳されている言葉は、ギリシャ語原典の言葉を確認すると、2パターンあります。

1つは、ギリシャ語"kosmos"(英字表記)が使われているパターンで、意味は文字通り「世界」です。「何らかの秩序がある世界」という意味です。

 

しかし、イエス・キリストが言う場合、「神のものではない世界」、つまり「サタンの支配下にある世界」という意味で言っています。


従って、「サタンの秩序によって保たれている世界」が「この世」となります。




もう1つは、ギリシャ語"aión"(英字表記)が使われているパターンです
この"aión"というギリシャ語の意味は「一つの時代」です。一つの時代が終わって、次の時代が来る、という長いタイムスケールの中での「一つの時代」です。

イエス・キリストがこの言葉を使って「この世」「この時代」と言う時、聖書に記されている預言が成就してやってくる「新しい時代」のことを前提として、「この時代」と「新しい時代」を対比しています

この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがないものなので、主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた。
ルカ16:8

この聖句の中の「この世」は、現在ある時代。つまり、聖書の預言が全部成就していない、サタンの支配下にある時代ということです。

その時代が、いずれ、聖書の預言がいろいろに成就して、「新しい世」「新しい時代」が来ます。



「この世」や「この時代」になじめない人は、冒頭で書いた「神に召されている」「神から呼ばれている」可能性が高いです。



 

 

 

 

Courtesy of Terry Goodyer

 

本日の礼拝は以下のGoogle MeetのURLで行います。

礼拝と聖餐式
3月 5日 (日曜日) · 午前10:00~11:00
Google Meet の参加に必要な情報
ビデオ通話のリンク: https://meet.google.com/vik-jcmx-yyg


本日の礼拝テーマは、

私たちが「イスラエル」と呼ばれるようになる理由

です。

旧約聖書の中でもイザヤ書には「イスラエル」に関する預言が沢山あります。


そもそも「イスラエル」とは、真夜中に神の分身のような人と取っ組み合いの相撲をして戦い、負けなかったことから、「あなたはイスラエル」と呼ばれるようになった……創世記32章に書かれている経緯に由来しています。

元々は「ヤコブ」という名の人が、神によって「イスラエル」と呼ばれるようになったのです。


「イスラエル」の意味は、ヘブライ語を調べてみると、
「神は戦う」(God strives)ないし「神は持ちこたえる」(God persists)です。

イメージとしては、神の御心によって、数多の災難が及んだヨブの状況を思い浮かべて下さい。
それが、のちに主イエス・キリストがおっしゃる「最後まで耐え忍ぶものは救われるのです」につながって行きます。

また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。
マタイ10:22

また、わたしの名のために、あなたがたはみなの者に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。
マルコ13:13

つまり神がヤコブに対してしたように、その人と取っ組み合いの相撲をすることには、大きな意味があります。その取っ組み合いの相撲に持ちこたえるヤコブのような人を、神は期待しておられます。






 

 

Courtesy of thechallahblog

 

 

イスラエルの王である主、これを贖う方、万軍の主はこう仰せられる。「わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない。
イザヤ44:6

キリスト教の歴史には、ヘブル的な流れと、ヘレニズム的な流れがあります。


ヘブル的な流れとは旧約聖書に記されているユダヤ教の伝統の上に立つキリスト教で、簡単に言えば、使徒パウロが宣教していたキリスト教です。彼はユダヤ教のトップクラスの教師ガマリエルに学び、使徒の中では人一倍ユダヤ教の伝統に通じていました。ヘブル人(ユダヤ人)への手紙を見れば、それがわかります。


ヘレニズムとは広くギリシャに由来する文化、伝統、宗教、芸術様式、ギリシャ哲学の地盤を持つもの、などのことを言います。ヘレニズムの名称はギリシャ神話のヘレーンに由来します。

ヘレニズム的なキリスト教とは、ギリシャ哲学の伝統を持っている人達、典型的な例では教父と呼ばれる初期の神学を確立した人達が作り上げたキリスト教です。これはパウロが代表格であるヘブル的なキリスト教とは、考え方も、伝統も、異なっています。

パウロにとって「神」とは、アブラハムやモーセに現れた神です。旧約聖書で「神である主」と記されている部分。
あの「主」は、ヘブライ語原典では4文字、"YHWH"と記されています。ヤーウェと読まれたり、エホバと読まれたりしますが、原典の聖書では"YHWH"です。これが神の名です。正しい発音はユダヤ教の歴史の中で失われてしまっています。

「イェフダ」という発音が正しいと主張する研究者がいます。また「イェフアー」を主張する人もいます。「ヤーウェ」は近年になって聖書学者が母音を補って読んだ、一つの説です。「エホバ」(英語でJehovah)もそうした読み方に関する一つの説です。いずれにしても正しい発音は失われてしまいました。

ちなみに現在エルサレム国に住んでいるユダヤ人の男性の名前として「イェフダ」が存在します。仕事の必要があってテルアビブに7日ほど滞在していた時、「イェフダ」という男性と知り合って、一緒にビールを飲んだりしました。


ヘレニズム的なキリスト教は、こうしたユダヤ的な伝統と切り離された所で発展し、ギリシャ哲学の伝統(アリストテレスやプラトン)を踏まえて、哲学的な概念で神のことを論じることを基軸にしていました。それがあるため、現在の神学が発達しています。

ヘブル世界にも神学は存在するのですが、ヘレニズム世界の神学とは全く別物です。ユダヤ教の教師、いわゆるレビが数千年に渡って守ってきたトーラー(旧約聖書+律法系の書物)をベースにするもので、根幹は、神YHWHです。

冒頭のイザヤ44:6で「わたしのほかに神はない」と神がおっしゃっておられるのは、この、ヘブルの神である「YHWH」です。

「万軍の主」と訳されている「主」も、ヘブライ語原典の聖書では"YHWH"と書かれています。ヘブルの神なのです。ユダヤ人の神なのです。これが大元の神です。


そうしてその神は、ヘレニズム的な哲学や宗教(グノーシス)や神秘主義(新プラトン主義)の土壌がある教父達や司教達によって論じられて出来上がった「父と子と聖霊とは三つにして一つ」の神とは、まったく、全然、異なります。

ヘブルの神YHWHは、ヘレニズムの神「父と子と聖霊とは三つにして一つ」とはまったく異なる方なのです。

その方が、イザヤ44:6で、「わたしのほかに神はない」とおっしゃっておられるのです。

Courtesy of koldo 

ユダヤ人の末裔だとされているPashtun(パシュトゥーン人)

 

 

2022年の後半から、いろいろな偶然が重なって、だんだんと、いわゆる「日ユ同祖論」的な事柄に触れる機会があり、いろいろなことがわかってきました。

Twitterではその都度記していたのですが、一度、ウェブでまとめておいた方が良いと考え、少しずつ書いていきたいと思います。

最初に、これまでわかったことを、何回かに分けて、まとめます。

・紀元前930年頃のソロモン王の死後、イスラエルが南王国(ユダ王国)北王国(イスラエル王国)に分裂した後で、北王国に属する10部族は、聖書に記されている歴史の中からは消え去ってしまい、いわゆる「イスラエルの失われた10部族」になった。

・10部族のうち、いくつかは、何らかの理由があって中央アジアに住むようになった。現在でも、例えばアフガニスタンには、ユダヤ教徒の伝統を受け継ぐ少数派の民族が住んでおり、現在のイスラエル国に本部がある失われた10部族捜索機関(民間の非営利団体)であるShavei Israel などによって、失われた10部族の末裔であることが認められている。

Shavei Israelは日本でもよく知られている「アミシャーブ」の後身。

 

Shavei Israel: Afganistan

 

こうした中央アジアに住んでいたユダヤ人たちが、何らかの理由によって東へ移動したということは十分にあり得る。

・中国とローマやペルシャを結ぶ陸のシルクロードがユダヤ人商人の往来に使われていた歴史的な事実がある。英語で検索するとシルクロードをユダヤ人商人が行ったり来たりしていた歴史的な事実をたくさんの文書が指摘している。中国の開封に現在も存在しているユダヤ人の末裔、Shavei Israelが確認した"THE KAIFENG JEWS"(開封のユダヤ人)は、そうしたユダヤ人商人が住み着いたものだと説明されている。