イェホシュアのイスラエルの信仰と証し -29ページ目

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

Courtesy of Emily Carlin

 

ヘブル12:7
訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。

「子として扱っておられる」と書いています。
イエス・キリストの十字架と三日目のよみがえりを本当に信じるということは、その大いなる御業を行なった創造主であられる神、イスラエルの神であるYHWHを信じるということでもあります。

アブラハムに現れ、モーセに現れた神であるYHWH。日本語の聖書では太文字の「主」と訳されることが多いですが、ヘブライ語の原点ではヘブル文字4文字で「YHWH」と書かれています。これが神の名です。

この方がアブラハムに現れ、モーセにも現れて、後年、地上に遣わされた御子イエスが「父」と呼んだ方です。

(三位一体の「父と子と聖霊とは三つにして一つ」の下に居ると、このことがよく理解できません。その外に出なければいけません)

神YHWHは、御子イエスの十字架を復活を素直に信じる信仰により、自分の「父」となります。
そうしてこの「父」は、子供である私たち一人一人を「懲らしめる」のです。
それは「子として扱っておられる」からです。私たちを愛していて、子供とみなして下さっているので、神の子にふさわしいように、色々と懲らしめをします。

それによってだんだんと主イエス・キリストに似た者となっていくのです。


私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
第二コリント3:18

愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。
第一ヨハネ3:2

 

Courtesy of Terry Goodyer

 

 

本日の礼拝は以下のGoogle MeetのURLで行います。

礼拝
2月 26日 (日曜日) · 午前10:00~11:00
Google Meet の参加に必要な情報
ビデオ通話のリンク: https://meet.google.com/spy-pcop-oww


本日の礼拝テーマは、

「義の実」と「神の言葉」の関係

です。


第二コリント9:10
蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。



イザヤ55:10-11
雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。
そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。

を中心に見ていきます。

 

Courtesy of Terry Goodyer

 

 

本日の礼拝は以下のGoogle MeetのURLで行います。

礼拝
2月 19日 (日曜日) · 午前10:00~11:00
Google Meet の参加に必要な情報
ビデオ通話のリンク: https://meet.google.com/jaw-tiwj-guo


本日の礼拝テーマは、

聖書原典のギリシャ語で確認するイエス・キリストの「救い」

です。

イエス・キリストは「救い主」です、とか「イエス・キリストの救い」ということは、日本のキリスト教会全体において、よく言われています。
しかしその「救い主」はどんなことをしてくださる方なのか?ということになると、ひどく、ぼんやりとしたイメージしか持たないのが普通です。

また「イエス・キリストの救い」ということについても、言葉としてはよく使うけれども、その中身になると、ぼんやりしているのが普通です。

今回は「救い」の意味を、聖書原典のギリシャ語に当たって、また英訳聖書の英語の意味も参考にしながら、明らかにしていきます。


 

Courtesy of Terry Goodyer

 

 

本日の礼拝は以下のGoogle MeetのURLで行います。

礼拝
2月 12日 (日曜日) · 午前10:00~11:00
Google Meet の参加に必要な情報
ビデオ通話のリンク: https://meet.google.com/mpw-bfyv-xgu


本日の礼拝テーマは、

神が一緒に住む「神の家」「神の神殿」

です。

ヘブル3:6には、「私たちが神の家」だと書いてあります。

しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。

第一コリント3:16には、「あなたがたは神の神殿」だと書いてあります。

あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。

「神の家」や「神の神殿」には、神が住んで下さいます。
私たちやあなた方と一緒に神が住んで下さるのです。

このことは、どういうことでしょうか?
聖書の他の所も参照しつつ、解きほぐしていきます。

 

 

 

 

 

このメッセージのテーマは、

イエス・キリストの十字架と自分の十字架 

です。 

 

主イエス・キリストは「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」とおっしゃっています。

 この「自分の十字架」とは何なのか?

イエス・キリストが十字架に付けられるのを良しとされたその「十字架」と異なるのか? 

 

それについて考えて行きます。

 

 

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Taken by me