イェホシュアのイスラエルの信仰と証し -27ページ目

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

Courtesy of Terry Goodyer

 

 

本日の礼拝は以下のGoogle MeetのURLで行います。

礼拝
3月 12日 (日曜日) · 午前10:00~11:00
Google Meet の参加に必要な情報
ビデオ通話のリンク: https://meet.google.com/izk-dzfw-tek


本日の礼拝テーマは、

「イエス・キリストの福音」をゆだねられる

です。

パウロ書簡には「福音をゆだねられる」という記述が複数あります。
これはどういうことなのでしょうか?
しかも、パウロだけにではなく、「私たちにゆだねられた」と、イエスキリストを信じる複数の人々に福音がゆだねられたという記述もあります(第一テサロニケ2:4)。
このことを見ていきます。

それどころか、ペテロが割礼を受けた者への福音をゆだねられているように、私が割礼を受けない者への福音をゆだねられていることを理解してくれました。
ガラテヤ2:7

私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。
第一テサロニケ2:4

祝福に満ちた神の、栄光の福音によれば、こうなのであって、私はその福音をゆだねられたのです。
第一テモテ1:11


 

Courtesy of Katsujiro Maekawa

 

 

日本にいる「イスラエルの残りの者」に対する預言だと受け止めました。

 

以下の「主」はヘブライ語原典では「YHWH」ないし「彼」と記されています。

 

 

島々よ。私に聞け。遠い国々の民よ。耳を傾けよ。主は、生まれる前から私を召し、母の胎内にいる時から私の名を呼ばれた。

主は私の口を鋭い剣のようにし、御手の陰に私を隠し、私をとぎすました矢として、矢筒の中に私を隠した。

そして、私に仰せられた。「あなたはわたしのしもべ、イスラエル。わたしはあなたのうちに、わたしの栄光を現わす。」

しかし、私は言った。「私はむだな骨折りをして、いたずらに、むなしく、私の力を使い果たした。それでも、私の正しい訴えは、主とともにあり、私の報酬は、私の神とともにある。」

今、主は仰せられる。――主はヤコブをご自分のもとに帰らせ、イスラエルをご自分のもとに集めるために、私が母の胎内にいる時、私をご自分のしもべとして造られた。私は主に尊ばれ、私の神は私の力となられた。――

主は仰せられる。「ただ、あなたがわたしのしもべとなって、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのとどめられている者たちを帰らせるだけではない。わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」

イスラエルを贖う、その聖なる方、主は、人にさげすまれている者、民に忌みきらわれている者、支配者たちの奴隷に向かってこう仰せられる。「王たちは見て立ち上がり、首長たちもひれ伏す。主が真実であり、イスラエルの聖なる方があなたを選んだからである。」

主はこう仰せられる。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。わたしはあなたを見守り、あなたを民の契約とし、国を興し、荒れ果てたゆずりの地を継がせよう。

イザヤ49章

 

 



 

Courtesy of Sarah R

 

 

神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」
創世記1:28

神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」
創世記1:26

神は、人間を、本来的には、地上を支配する者としてお造りになりました。
神のかたちに似せて造られた訳ですから、神に準じる形で、地上を支配するのが、人間の本来的な姿です。

しかし、いま、世界を見渡してみても、人間が地上の事柄すべてを支配しているようには見えません。むしろ、何か目に見えないものに支配されています。

こうした状況が、神の敵である、いわゆるサタンからもたらされています。
サタンのヘブライ語の意味は「敵である存在」(the adversary)。
神の敵という意味です。
もう少し明確に言えば、イスラエルの神YHWHの敵です。

霊的な存在です。目には見えません。創世記では蛇の中に入って、エバをだましました。

サタンは、福音書の中では、イスカリオテのユダの中に入って、彼を動かしました。

そういう風に、何かに入って、その主体を思いのままに動かす霊的な存在がサタン。イスラエルの神YHWHの敵です。

それが現在、地上を支配しています。



神が望んでおられるのは、天地創造の頃の、サタンが出てくる前の人間が回復することです。

サタンの仕業を滅ぼすために、イエス・キリストが地上に遣わされました。
そうして、十字架にかかることを良しとされ、殺されました。
しかし、創造主であられる神YHWHの人知をはるかに超えた御業によって、三日目によみがえりました。
そうして、サタンの仕業は滅ぼされました。

しかし、「サタンが滅ぼされたこと」は、信じた人が、それぞれの人生において、それぞれの領域において、イエス・キリストと同じように、そこにいる(自分が関係している領域にいる)(地域、職業、家庭など)霊的な存在であるサタンを、イエス・キリストの名によって滅ぼして歩かないと、成就しません。

イエス・キリストは、「私を信じる者は、私と同じ業を行い…」とおっしゃっています。
そこを支配している霊的な存在であるサタン、イスラエルの神の敵である霊的な存在を、イエス・キリストの名によって滅ぼし尽くした時に、創世記冒頭にある「支配せよ」という命令が、現実的なものとなります。

そこに「神の国」が来ます。

アーメン!ハレルヤ!
 

 

Courtesy of Fancy Italian bread

 

 

だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。
ルカ10:20

新約聖書には「いのちの書」に関する記述が複数あります。

ほんとうに、真の協力者よ。あなたにも頼みます。彼女たちを助けてやってください。この人たちは、いのちの書に名のしるされているクレメンスや、そのほかの私の同労者たちとともに、福音を広めることで私に協力して戦ったのです。
ピリピ4:3

勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす。
黙示録3:5

地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。
黙示録13:8

また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。
黙示録20:12

いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。
黙示録20:15

しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行なう者は、決して都に入れない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、入ることができる。
黙示録21:27


冒頭のルカ10:20で主イエス・キリストがおっしゃったのは、「君たちの名前は、いのちの書に記されているから喜びなさい」という意味です。

黙示録13:8と21:27に「小羊のいのちの書」とあるように、小羊であるイエスには、その書に名前が書かれている人がわかっている/わかっていたのです。

そういう人を「友と呼んだ」のです。

わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。
ヨハネ15:15

 


 

 

Courtesy of Liliana Fuchs

 

 

そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは、贖われた者たちのもの。旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない。
イザヤ35:8

この「大路」は、英語訳聖書では"highway"です。そう、日本語で何気なく「ハイウェー」と言っている言葉の大元がこれです。

New International Version
And a highway will be there; it will be called the Way of Holiness; it will be for those who walk on that Way. The unclean will not journey on it; wicked fools will not go about on it.

Literal Standard Version
And a highway has been there, and a way, 
And it is called the “Way of Holiness.” The unclean do not pass over it, 
And He Himself [is] by them, 
Whoever is going in the way—even fools do not err.


英語は歴史的にはまだまだ新しい言語です。近代の英語が成立する過程で、1611年に確定したいわゆる"King James Version" -- 日本語で「欽定訳聖書」と呼ばれる、17世紀初頭の英国王ジェームズ1世が命じて編纂させた英語としての聖書が、英語の基本的な語彙を定着させるのに大きく貢献しています。(←大学で習ったことです)

このイザヤ35:6のKJVの翻訳も、

And an highway shall be there, and a way, and it shall be called The way of holiness; the unclean shall not pass over it; but it shall be for those: the wayfaring men, though fools, shall not err therein.

と、「大路」の所で"highway"が使われています。これが一つのお手本となって、以来、英語で聖書が訳される時には、ここの部分は"highway"という英語が使われてきました。英語圏のプロテスタント教会で広く用いられているNew International Versionでも"highway"と訳されています。

この"highway"は、原典のヘブライ語を確かめてみると、maslul (英字表記)という言葉です。意味は「高い道」。

つまり「天にある道」「神の道」「高いところにあって、普通の人間には届かない道」「聖なる人しか歩けない道」を指しています。

 

そうして、新約(新しい契約)がイエス・キリストの十字架と復活によって成立した現代にあっては、この"highway"は、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)と言われているように、イエス・キリストその方そのもののことを指しています。