皆さん こんにちは。

 

世界の状況を思い巡らすと暗く、苦しい思いになりますが、どうしたら心の平安を維持していけるでしょうか。

 

こちらの☞キリスト道のブログ主の記事『復活とキリストの再臨への希望』をご覧ください。

引用ここから一部抜粋〜

では、私たちは何に希望を持つべきでしょうか。当然、私が今まで述べたとおり、聖書の言葉は必ず実現するということ、そして、主イエスを唯一の救い主(メシア)であると信じ、世の終わりに再臨なさり、その時までに死んだ場合は復活し、生きている場合はそのまま一瞬にして栄光の体に変えられ、天に引き上げられて神の御国に入ることです。キリストの再臨の時までに大艱難も起こるので、その未だかつてなかったような過酷な時を生き延びることができるかはまさに神の御計画次第であり、私たちの信仰次第であり、その時までにいかにキリストに近い品性を築いたかにかかっています。真のクリスチャンであっても激しい迫害のために殉教する者が多く出るでしょう。しかし、全滅はしません。それは主イエスが「神がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう。」(マタイ24:22)と仰っているからです。ですから、ほんのわずかながら生き延びて携挙される者もいるでしょう。だから、殉教することになるとしても希望を持ち続けていただきたいことがあります。それは復活です。主イエスも復活なさいました。主イエスも避けようと思えば避けられた十字架の死から逃げずに旧約聖書の預言どおりに神の御言葉を実現するため、神の御心を行うために死まで従順であられました。私たちも主イエスに倣い、そうあるべきです。そして、死んだとしても復活することに希望を持ってください。これは確実な約束であり、その約束が無ければ信仰は無意味なものでしょう。

中略〜

新約聖書 ペトロの手紙一 1章3~4節

わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。

 

上記のように、復活を信じるのは、クリスチャンとしての信仰の基礎であると同時に希望です。パウロは、復活がなければ信仰そのものが無駄と言っています。確かにそうです。もし復活が無ければ、私が聖書を読んでブログを書いて伝道していることも意味が無くなりますし、私たちの信仰も無意味になります。しかし、実際は復活というのは真実であり、無意味ではありません。復活というのは、実は、真のクリスチャンだけではなく、それ以外の悪人も復活するのです。

 

新約聖書 ヨハネによる福音書 5章28~29節

時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。

 

上記は主イエスの御言葉です。時が来るというのは、キリストの再臨である世の終わりの時を意味しています。その時までにキリストに結ばれて死んだ真のクリスチャンは復活して朽ちない栄光の体に変えられて復活し、主イエスを神と信じない者や主イエスに不従順だった者をはじめとする神の民以外は復活して最後の審判で裁きを受けます。人間は死んですぐに天国に行くとか、地獄に行くというのではありません。このことは過去記事「死後の世界」でも述べたとおりで、死んで霊が肉体を離れ、地上をさまようこともなく、生前の信仰と行いに応じ、それぞれ楽園か陰府で待機し、眠りのような状態で意識はありません。復活して再び霊と体と合わさって初めて意識が生じます。だから復活ということに意味があるのです。地獄で苦しむといっても霊のままでは苦しまず、復活してから火の池に投げ込まれるので苦痛を味わうのです。死後、霊は離れて地上にはないのですから、墓参りというようなことがいかに無意味で、偶像礼拝に過ぎないかが分かると思います。今地上で暮らす家族や知人も真のクリスチャン同士ならば、死んでも永遠の別れにはなりません。キリストの再臨の時に復活して会うか、または共に携挙されることになるでしょう。しかし、真のクリスチャンになろうとしない人は厳しいですが、希望は最後の最後まで失わないように忍耐強く頑張りましょう。あなたがどうしても救いたいと思う人が主イエスを信じようとしなくても、あなた自身が真のクリスチャンとして見本となる生き様と愛をその人に見せることで回心させることができるかもしれません。それが時に命を張ってでもです。主イエスは以下のとおり、言われました。

中略〜

新約聖書 マタイによる福音書 5章16節

そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。

 

新約聖書 ヨハネによる福音書 15章13節

友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。

 

人間は、肉体と霊によって成り立っていることを覚えておいてください。この世では、肉体は年月を経れば老いて劣化していきます。劣化するだけの外見に執着したり、服装等で人を判断するのは世に属する人間です。ヤコブ2:1~13を読めばよく分かるとおり、分け隔てして人の扱いを自分自身の肉の思いで変えることのないようにすべきです。外見や社会的地位等で人を判断する者は、内面である霊の成長を蔑ろにしています。しかし、主イエス・キリストを信じて、神の律法、掟、戒めを守る人は霊的に成長することに労力を使います。

中略〜

私が宣べ伝えてきたとおり、真のクリスチャンは、その品性が霊であることを知っており、日々悔い改めて完全になることを目指して成長していきます。原則的に、キリストに近い品性形成には日々成長する時間が必要なのであって、今日とか明日急に出来上がるのではありません。また、過去記事「天に富を蓄えよ」でも述べたとおり、品性こそが唯一死後に持って行くことができるといったのはこのことです。聖書にも書かれています。

中略〜

新約聖書 ヨハネの黙示録 14章13節

『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである。と。』”霊”も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」

 

主イエスに結ばれたなら死んでも幸いです。何故なら、楽園で待機となって安らぎを得るからです。そして、キリストの再臨の時に復活し、永遠の命を得るからです。むしろ、キリストに結ばれれば、未だかつてなかった程の苦難が襲う大艱難の前に寿命が尽きて死んでしまった方が良いとさえ思えます。しかし、大艱難を怖がるあまり、自殺したり、わざと病気や怪我をしてはいけません。神から与えられた命を粗末にする者はキリストには結ばれていません。常にこの地上で生きている間は、全力で生きて、神の御心を行い続けてください。主イエスに対する信仰を持ち続け、神の律法、掟、戒めを守って最後まで耐え忍ぶ者でなければ、勝利者にはなれません。また上記聖句にもあるとおり、「行い」が重要です。

中略〜

新約聖書 ヨハネの黙示録 21章3節

見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。

 

真のクリスチャンは、永遠の住みか、神の幕屋がある新しい天と新しい地を望んでいます。千年王国なんていうものはありません。そのことは過去記事「千年王国の真実 前編」と「千年王国の真実 後編」で説明済です。私たちクリスチャンは、常に主イエス・キリストにあって、心の内に平安を保ち、キリストの再臨、復活、その後に続く約束された素晴らしい報いに希望を抱くべきです。キリストと固く結ばれれば、死を怖がることもなくなるはずです。もしあなたが死を怖がるならば、愛がない未熟な状態です。

 

新約聖書 ヨハネの手紙一 四章十八節(拙訳)

慈愛には恐れが無く、むしろ完全な慈愛は恐れを追い出す。なぜなら、恐れは罰を伴う上、恐れる者は慈愛によって完全にされてへんからや。

 

上記のように、恐れは罰が伴うとあり、完全な者となっていない状態です。上述したとおり、敵をも愛する全き愛は最も重要なことだからです。ただし、善いこと悪いことの区別は聖書の真理を基準にして揺らいではなりません。例えば、過去記事「同性愛、同性婚と獣の刻印」で述べたように、同性愛というモーセの律法違反の罪を罪と思わず認めることが愛と間違った行動に出てはいけません。罪を悔い改めるように諭し、罪を肯定することではなく、悔い改めさせて罪から解放するように導くことが本物の愛です。また、何度も申してきたとおり、死を異様に怖がる臆病者も不信仰の者と同じ扱いです。

中略〜

復活はクリスチャンの信仰としては必要不可欠であり、信じないのならばその信仰は無意味であり、クリスチャンとは言えないのです。そして、復活はキリストの再臨の時に起こるのです。このことを絶対に忘れないでください。

引用ここまで

 

🔵上記👆記事からの学び

 

・聖書の言葉は必ず実現する。

・主イエスを唯一の救い主(メシア)であると信じ、世の終わりに再臨なさり、その時までに死んだ場合は復活し、生きている場合はそのまま一瞬にして栄光の体に変えられ、天に引き上げられて神の御国に入る。

・復活はキリストの再臨の時に起こる。

・キリストの再臨の時までに大艱難も起こるので、未だかつてなかったような過酷な時を生き延びることができるかは神の御計画次第、信仰次第、その時までにいかにキリストに近い品性を築き上げたかにかかっている。

人間は死んですぐに天国や地獄に行くというのではなく、死んで霊が肉体を離れ、生前の信仰と行いに応じ、それぞれ楽園か陰府で待機し、眠りのような状態で意識はない。

・復活して再び霊と体と合わさって初めて意識が生じる。

主イエスを神と信じない者や主イエスに不従順だった者をはじめとする神の民以外は、復活して最後の審判で裁きを受ける。

 

共に、主イエス・キリストの内にいることで平安を得て、神の民はキリストの再臨と復活を希望として、この悪の世を忍耐して生きていきましょう。この世は仮の世なのですから。

 

🌿新約聖書 使徒言行録 一章十一節 (参照)
その彼ら(白い服を着た二人)は言った。「ガリラヤの人達、何故、天を眺めて立っているのですか。あなた方から天に引き上げられたイエスは、あなた方が天に行かれる彼を見たのと同様の仕方で来られます。」


🌿旧約聖書 ヨブ記三十七章二十一節〜二十二節 (参照)

今、光を見ることはできない。それは、雲の中で輝いている。

しかし、風が過ぎ去ると雲を取り除き、北から晴天が来る。畏れる神の威厳と共に。

 

 

皆さんに平安がありますように。

 

以上