皆さん こんにちは。

 

こちらの→キリスト道のブログ主の記事

『ダニエル書二千三百の夕と朝の預言と神の審判』をご覧いただき、

神の審判と贖罪日を共に学びましょう。

 

引用ここから一部抜粋〜

 

次に、聖所を清めるということについてです。

これは、端的に言えば、

 

天の偉大な大祭司であられる主イエス(ヘブライ4:14、8:1~5)が、天の聖所から罪の記録を取り去り始められることです

(使徒言行録3:19、黙示録20:12)。

 

天にある書物に、わたしたちの行いが書かれています。

真に悔い改めたのであれば、

そこから罪の記録が消し去られます。

反対に、

悔い改めない人の罪は残ったままです。

罪の記録を消す、消さないの判断を審判といいます。

 

つまり、神による審判です。

 

私たちが真に悔い改め、生まれ変わって

キリストに近い品性を持っているかの審判が行われます。

 

これは、複数の過去記事で既に申したとおり、

 

審判はキリストの再臨前に行われます。

 

主イエスの十字架によって、

地上の聖所制度や動物の犠牲は廃止されました。

しかし、

この出来事をもって、世の人間たちの罪が消えたのではなく、

依然として天の書物に罪の記録として残ったままです。

 

罪の贖いの仕方が変わっただけのことです。

 

ユダヤ人たちは、旧約聖書の規定に則り、毎年、聖書の暦(ユダヤ暦)第七の月であるTishri(ティシュリ)の10日目に当たる大贖罪日を通して罪の贖いをしていますが、

上述のとおり、主イエス・キリストの十字架によって、もはや動物の犠牲は不要なので儀式をする必要はありません(ヘブライ7:26~28)。

このことは、新約聖書ヘブライ人への手紙9~10章にも詳しく書かれています。

 

キリストの再臨は、

世の終わりであるということも述べてきました。

地上の歴史が終わる前に、

天の御国に入るべき人に、罪の記録があってはなりません。

要するに、

罪の記録を消し去って、

天の聖所を清めなければならないということです。

 

にわかクリスチャンのように、主イエスを信じていると口先だけの信仰をして、

聖書の真理に従って生活していない者は悪人と同じように裁かれます

 

さて、みなさんが関心があるのは、この審判の時期はいつなのかでしょう。

キリストの再臨前だというのは既に述べました。

聖書をきちんと読めば、もう少し具体的に分かります。

引用ここまで

 

🔵上記の↑記事からの学び

 

・聖書暦の第七の月の十日は大贖罪日で、罪の贖いをする日で仕事をせず集会を開いて苦行(断食)をする日。

・苦行(断食)をしない者は民の中から断たれ、仕事をする者は民の中から滅ぼされる。

・天にある書物に、わたしたちの行いが書かれていて、真に悔い改めたのであれば、そこから罪の記録が消し去られ、悔い改めない人の罪は残ったままとなる。

神による審判とは、真に悔い改め、生まれ変わってキリストに近い品性を持っているかの審判で、キリストの再臨前に行われる。

 

神の慈しみによって苦行(断食)を行う第七の月の時期は、暑さも和らぎ寒くもなく、

過ごしやすい時期に贖罪日の日が制定されています。

第七の月は聖書暦の折り返しの月で、第一の月から犯してきた罪がこの贖罪日に、苦行

(断食)を行い悔い改める行いによって神が人を憐れみ罪の記録が消し去られる、

とても有り難い日ですね。

そのような憐れみを罪人である人間にかけてくださる神に感謝して、その慈愛に応えて、

神の御前にて自分を低し、へりくだる謙虚な想いを心に抱きつつ、

罪の悔い改めの苦行(断食)を行うことが、神の御心に適う行いだと考えます。

そして、後の半年はこれ以上罪を犯さない状態を維持して、毎日が贖罪日と考え、悔い改めると良いですね。

罪を犯さないように常に聖霊の助けを願い求め、衣服の縁に付けた青い房を見る度に神の

御命令をすべて思い起こし、目の欲、肉の欲から離れ、律法遵守することが必要です。

罪の取り残しがないように、心の隅々まで点検し、共に日々悔い改め続けましょう。

 

🌿旧約聖書 レビ記 二十三章二十九節 (参照)

だから、人は誰でも、同一のこの日に、

この断食によって謙遜しない者は、彼らの血族の中から摘み取る。

 

 

皆さんに平安がありますように。

 

以上

 

 

皆さん こんにちは。

 

こちらの→キリスト道のブログ主の記事『憐れみ深い神』をご覧いただき、

神の慈愛に応える信仰について、共に学びましょう。

 

引用ここから一部抜粋〜

 

神の民は、最初から神に従順な者ではありません。

今まで私が述べてきたとおり、

 

この世はサタンに支配されています。

 

サタンに惑わされた人間やサタンを拝む人間が統治する世界なので、この世には反聖書的な物、思想、習慣、宗教、人間等で溢れているのです。

そのような環境では、誰一人最初に生まれてから死ぬまで神に従順であり続けることは

不可能です。

そういう訳で、聖書には

正しい者はいない。一人もいない。」(ローマ3:10)、

だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。

ひとりもいない。」(詩編14:3、53:4)、

善のみを行って罪を犯さないような人間はこの地上にはいない。

(コヘレトの言葉7:20)と書かれています。

 

敢えてその中から、神は御自分の民を救い出されようとするのです。

そのために天の父なる神は、御子イエスを地上にお遣わしになったのです。

もし人間が生まれてから死ぬまで主イエスのように正しいままであれば、救い主の必要性を感じないからです。

しかし、

実際はすべての人間が神の律法、掟、戒めに背いて罪を犯した

罪人であり、

一部の人間だけが神の導きで救い主イエス・キリストの必要性を真に感じて、

主イエスを信じて愛し、神の律法、掟、戒めに従うことで

悔い改めて、

洗礼を受けて新生して初めて神の御国への道が開かれるのです。

中略〜

旧約聖書 エレミヤ書 17章5~8節

主はこう言われる。

呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし その心が主を離れ去っている人は。

彼は荒れ地の裸の木。

恵みの雨を見ることなく 人の住めない不毛の地 炎暑の荒れ野を住まいとする。

祝福されよ、主に信頼する人は。

主がその人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられた木。

彼は水のほとりに根を張り 暑さが襲うのを見ることなく その葉は青々としている。

干ばつの年にも憂いがなく 実を結ぶのをやめない。

 

これらは非常に良い聖句なのですが、新共同訳の訳に問題があるため私が添削します。

上記の英語(KJV)は、

「Thus saith the Lord; Cursed be the man that trusteth in man, and maketh flesh his arm, and whose heart departeth from the Lord. For he shall be like the heath in the desert, and shall not see when good cometh; but shall inhabit the parched places in the wilderness, in a salt land and not inhabited. Blessed is the man that trusteth in the Lord, and whose hope the Lord is. For he shall be as a tree planted by the waters, and that spreadeth out her roots by the river, and shall not see when heat cometh, but her leaf shall be green; and shall not be careful in the year of drought, neither shall cease from yielding fruit.」です。

私は

主はこう言われる。

呪われよ、人間に信頼し、肉を頼みとし、その心が主から離れている人は。

そのような人は砂漠の中の低木で、良いものが来るのを見ることがなく、

荒れ野の干上がった所、人が住めない塩の地に住む。

祝福されよ、主に信頼をする人は、そして主を希望とする人は。

そのような人は水のそばに植えられた木だからであり、川のそばに根を伸ばし、

暑さが来る時のを見ることなく、その葉は青々としている。

干ばつの年にも憂いがなく実を結ぶのをやめない。と訳します。

 

これは主イエスの御言葉である

父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」(マタイ5:45)と共通するものがあります。

天の父なる神は、神の子(神に属する人間)にも悪魔の子(世に属する人間)にも地上で

同じように生かしてくださいますが、主なる神を信じず、神の御言葉を信頼して完全に従わない者は荒れ地の干上がった所に住んでいるようなもので、呪われている悪魔の子なので、最後には滅びます。

主イエスを神と認めない者や、神の律法、掟、戒めを蔑ろにする者も滅びます。

反対に、

主なる神の御言葉に従順に従い、神の律法、掟、戒めを守って完全に服従する者は

祝福され、地上で何が起ころうとも不安になることがありません。

神の民は、目を覚まして備えているからです。

中略〜

聖書で語られる放蕩息子の父親は、人間の父親の話ではなく神のことです。

私たち罪人が神に立ち返るならば、このように温かく迎えてくださり、怒るどころか喜んでくださるのです。

その神の愛の深さを知ると、

それまでの数々の行いで神を悲しませてきたかと思うと

後悔してもしきれない断腸の思いです。

 

神は、神の民が悔い改めて戻って来るのを

心待ちにしておられるのです。

神は遠く離れていても神の民を見つけては御手を差し伸べられ、導いてくださいます。

それが神の愛の力です。

神は、神の子である神の民を召使いとしてではなく、

実の子として扱われます。

それ故、

神は御使いに、戻ってきた子に一番良い服、指輪、靴を身に着けさせ、肥えた子牛を屠って祝うようにお命じになりました。

 

主なる神ほど偉大で、憐れみと慈しみ、愛に満ちた方はおられません。

本来ならば滅ぼされて当然の罪人である人間を大きな愛で包み、

近くで一緒に住むように招いてくださるのです。

 

しかし、これは真に悔い改めて正しい信仰を持つ神の民だけで

あり、万人に適用される訳ではありません。

中略〜

神に従順に立ち返るならば、

神はあなたを憐れみ、過去の罪を赦してくださいます。

 

神に立ち返るというのは、にわかクリスチャンのように虚しく「主よ、主よ」と言って

崇めたふりをして、律法を無視して罪を犯し続けることではありません。

 

唯一の救い主であられる主イエスを心から信じて愛し、

 

神の律法、掟、戒めを守って慎ましく清い生活を送ることです。

 

これこそが悔い改めであり、神に立ち返ることです。

 

放蕩息子のように、あなたが信仰に入った後で、信仰に入る前と同じようなことをしていてはいけません。

あなたがたは今まで肉の欲に従って、この世に倣って生きてきたことでしょう。

信仰に入ってからでも同じことをしてはいけません。

それ故、主イエスが姦通の女の罪を赦された後、

これからは、もう罪を犯してはならない。」(ヨハネ8:11)と仰ったのです。

このように、

主イエスは、主イエスが人間の罪を赦した後も罪を犯し続けてもよいなどと仰っていません。

 

主イエスの十字架を悪用して律法廃止論やあらゆる屁理屈を唱えて

神の律法、掟、戒めを無視することは、主イエスの御命令に逆らう反キリストです。

 

彼らは悔い改めていないのに敬虔なクリスチャンを装いますが、

神はそのような者を憐れむことはありませんし、罪をお赦しになることもありません。

中略〜

神の民が、神を愛して、神の律法、掟、戒めを守るのは

自力で救いを得るためではなく、行いによる信仰でもなく、

神から憐れみを受けた結果、それが行いに現れるのです。

それは、

神の民が神の御心を行い、神の栄光を現すためです。

中略〜

神は、

神の民を、神の律法、掟、戒めを守ってキリストに近い品性を

持つように聖霊の力で導いてくださり、

御子イエスに似た者にしてくださるのです。

中略〜

自分の行いが要因ではなく、天の父なる神からの一方的な憐れみによって真の悔い改めを

したならば、悔い改めた人を妬んだり、憎んだり、攻撃したりしないはずです。

 

放蕩息子の兄が持っているような利己心や利益信仰を捨て、

迷い出た羊を見つけると喜ぶようになるはずです。

迷い出た羊は兄弟なのです。

この関係を拒絶する者は、その者は神の実の子ではない、

即ち、

神に属する人間ではないということです。

子ではなく、召使いに過ぎないのです。

神の実の子を排斥する召使いがこの世には非常に多いです。

主イエスは「赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」(ルカ7:47)と仰り、

兄弟を愛することをしない者は、真に悔い改めていない者で、

罪を赦されていないからです。

 

旧約聖書 ミカ書 6章8節

人よ、何が善であり主が何をお前に求めておられるかは お前に告げられている。

正義を行い、慈しみを愛し へりくだって神と共に歩むこと、これである。

 

ユダヤ教徒がするようなモーセの律法にない人間によって加えられた言い伝え、習慣や伝統を守って難行苦行したところで、主なる神は喜ばれません。

 

神の愛を感じて真に悔い改め、

主イエスが神の律法、掟、戒めに反しなかったことを模範として私たちも守って、

神の義を行い、神と共に歩むことこそが

神が人間に求めておられることなのです。

 

🔵記事から読者に伝えたいキリスト道のブログ主の兄弟への慈愛

 

引用ここから一部抜粋〜

 

知っておいて欲しいのは、

私がにわかクリスチャンを退ける前に、実際は、

彼らが私を退けているのです。

 

私に対して兄弟愛を持つどころか、敵意や悪意しか持たず、

屁理屈や誤まった教義を押し付けてきたり、

誹謗中傷や呪いの言葉をかけてきたのは彼らの方だからです。

 

私はそのような仕打ちを受けても、彼らのような悪魔の品性から出る言葉をかけ返したことはありません。

 

ただ、聖書の真理を基に弾劾して退けているだけです。

 

私は、過去の罪を心から悔いて神に従順に立ち返る人、立ち返ろうとする人を退けません。神が私を憐れんでくださったように、私も同じように打ち砕かれた心を持って神に立ち返る人を温かく迎えます。

 

そして、共に次の世で神の御前で会えることを楽しみとして、

このサタンが支配する地上での生活を励まし合って

主イエスを模範として死まで従順に生き抜きたいのです。

 

そのために教会を設立したのです。

 

引用ここまで

 

🌿旧約聖書 イザヤ書 四十六章四節 (参照)

わたしは、彼らが老年になっても、白髪になっても重荷(イスラエル)を担う。何故なら

わたしは、彼らを(神に)捧げるために創った。

わたしは、重荷を担い、彼らを(悪から離して自由にするために、あなたを)運ぶ。

 

 

キリスト道のブログ主の、兄弟への慈愛に感謝します。

 
皆さんに平安がありますように。
 
以上

皆さん こんにちは。

 

サムエル記上十七章三十七節〜五十一節には、ダビデが神への揺るぎない信仰によって主により頼み、その偉大なる御力によってゴリアトを石で打ち倒し、ゴリアトの剣を抜き取り、とどめを刺し、勝利したことが記されています。

 

ダビデのゴリアトとの戦い方と、再臨時の主イエスの悪との戦い方から共に学びましょう。

 

🔵ダビデのゴリアトとの戦い方

 

・ダビデは、イスラエルの神、万軍の主の名に挑戦して、自分の神々によってダビデを呪ったゴリアトとペリシテ人に、イスラエルの神、主の栄光を現すために戦うことを両陣営の前で宣言した。(サムエル記上十七章四十三節〜四十七節)

 

・ダビデは、杖を手に取り石を五つ選び、投石袋に入れ、石投げ紐を手にして、立ち向かった。(サムエル記上 十七章四十節)

五つの石とは

一、真理の帯。二、正義の胸当て。三、救いの兜。四、信仰の盾。五、福音を知らせる

履物。

 

・ダビデは、袋から石を一つ取り出し、石投げ紐でゴリアトのを打ち、に食い込み、

ゴリアトが、うつ伏せに倒れる(サムエル記上 十七章四十九節)

 

・ダビデは、石投げ紐と石一つでゴリアトに勝ち、打ち倒した。

ダビデの手には剣はなかった。(サムエル記上 十七章五十節)

 

・ダビデは、ゴリアトの上にまたがり、ゴリアトの剣を取り、さやから引き抜いてとどめを刺し、首を切り落とした。(サムエル記上 十七章五十一節)

 

石とは…主イエスのこと。

尊い、生きた石(ペトロの手紙一の二章四節)

隅の親石となった石(使徒言行録 四章十一節)

 

・六つの神の武具を身に纏う。(エフェソの信徒への手紙 六章十四章〜十七章)

一、真理の帯。二、正義の胸当て。三、救いの兜。四、信仰の盾。五、福音を知らせる履物。六、神の御言葉の聖霊の剣

 

・五つの石の中の一つの石(神への信仰)がゴリアトのに食い込む。

 

・ダビデはは持っていなかったので、ゴリアトのさやから引き抜いた剣でとどめ

(神の言葉でを抜いた)を刺した。

 

神の御言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができる。

(ヘブライ人への手紙四章十二節)

 

(以上 新共同訳参照)

 

ヘブライ語のרוח(ルーアッハ、ルーアハ)は、神の霊(聖霊)の意味もあります。

 

🌿旧約聖書 創世記 二章七節 (参照)

主なる神は、地表の塵で人(アダム)を形創られた。それから鼻の穴に生命のを吹きかけられた。そして、(神によって)人は生きる者となる。

 

人間の額に印する意味とは…

こちらの→脳の最高司令官:前頭葉の解説をご覧ください。

引用ここから一部抜粋〜

 

人間の脳は、部位ごとに異なる役割を担っています。

その中でも、額のすぐ後ろに位置する前頭葉は、人間らしさを形作る高度な機能を司る、

まさに脳の司令塔といえる重要な部位です。

前頭葉は、思考、判断、計画、実行といった、複雑な認知機能を担っています。

何かを考えたり、物事を判断したり、将来の計画を立てたりする時、私たちは無意識のうちに前頭葉を活用しています。

例えば、

今日の夕食の献立を考えたり、旅行の計画を立てたり、仕事で難しい問題を解決したりする際に、前頭葉が活発に働きます。

また、

前頭葉は、感情のコントロールや行動の抑制にも深く関わっています。

喜怒哀楽といった感情を適切に表現したり、衝動的な行動を抑えたりする役割も担っています。

例えば、

友人との楽しい会話中に場違いな発言を控える、運転中にイライラしても冷静さを保つ、

といった行動は、前頭葉の働きによるものです。

さらに、

前頭葉は言語機能にも関与しており、特に複雑な文の理解や発話、コミュニケーションを

円滑に行うために重要な役割を果たしています。

このように、

前頭葉は人間が人間らしく生きる上で欠かせない、多岐にわたる機能を担っています。

まさに脳の最高司令官と言えるでしょう。

 

引用ここまで

 

律法、掟、戒めを遵守する神の民は、や手に神の言葉を印としています。

 

🌿旧約聖書 申命記 六章六節〜九節 (参照)

そして、この日、わたしが命令する、それらの神の言葉をあなたの心に置くようになる。

あなたは彼らの子供達にそれらを話す。

そして、あなたの家で、あなたが座っている時も、道を歩いている時も、寝ている時も、

起きている時も、的確に教える。

そして、あなたはそれらを印としてあなたの手に結び、また、それらをあなたの目の中間のに紐で結び特定の意味を伝達する印になる。

また、あなたは、それらをあなたの家の戸の柱とあなた方の町の入り口の門に書く。

 

 

🔵再臨時の主イエス・キリストの悪との戦い方

(ヨハネの黙示録 十九章十一節〜二十一節 新共同訳 参照)

 

・天が開け、白い馬に乗られた主イエス・キリストが、頭に多くの王冠を被られている。

・血に染まった衣を纏われている。

その名は「神の言葉」と呼ばれた。

口からは鋭い剣が出ている。

鉄の杖で諸国民を打ち倒し治める。

・獣と偽預言者は生きたまま、硫黄の燃えている火の池に投げ込まれた。

・残りの者は、主イエス・キリストの口から出る剣で殺された。

 

神への信仰を貫いたに神の刻印を押された者以外の、

 

獣と地の王達、偽預言者と彼らの軍勢、神に不信仰な右手かに獣の刻印を押された者達や獣の像にひれ伏す者達、命の書に名が記されていない者は、硫黄で燃えている火の池の中に生きたまま投げ込まれ、その残りの者達は、主イエスの口から出てる剣によって殺されたと記されています。

 

天地創造のこの世の始まりは、創造主の神の言葉で始まり、世の終わりも救い主であられる主イエス・キリストの神の言葉で終わるのが分かります。

 

🔵悪との戦いに不可欠なもの

 

こちらの↓キリスト道のブログ主の記事

『悪魔崇拝、世の現実、悪魔への抵抗』をご覧ください。

 

引用ここから一部抜粋〜

 

新約聖書 エフェソの信徒への手紙 六章十節〜十二節(拙訳)

兄弟たちよ、

今後は、主にあって、その力と権勢にあって強くなりなさい。

悪魔の策略に対して立つことができるように、

神の武具を身に着けなさい。

我等が格闘するのは、肉や血に対してではなく、支配権と権力、この世の暗闇の支配者、天にいる霊的な悪に対してやからや。

 

上記聖句より、

我等は主イエスの力によってのみ強くなれること、

 

神の御言葉、律法、掟、戒めという武具だけが我等を守り、

 

我等の戦いはこの世を支配する悪魔に対しての戦いであるということです。

 

我等はいかなる悪魔の攻撃を受けたとしても、聖書の福音を宣べ伝えなあかんのや。

どんなことがあっても動揺してはいけません。 

 

我等が主イエスの御名に希望を持ち続け、

神の律法、掟、戒めを守っていれば、

どんな人間からもどんな悪霊からも主イエスとの結びつきを我等から取り上げることは出来へん。

 

💡我等の武器は、各自の個人的な意見や感情ではなく、聖書に

書かれた神の御言葉でないとあかん。

 

主イエスが荒野での誘惑で模範を示されたように、主なる神のみを信じて礼拝し、

神の御言葉が人を生かす事実を信じなければなりません。

 

主イエスでさえ、悪魔に対抗するために、神の御言葉を用いられたのに、どうして我等もそれ以外のことが出来ようか。

 

神の御言葉ではなく、自分の考えに頼る者は悪魔に打ち勝つことは出来へん。

 

むやみに、主イエスの御名を唱えさえすれば良いというのではないのは、

使徒言行録十九章十三節〜十六節から分かることで、主イエスの御名を唱える者がキリストと結ばれた真のキリスト者でなければ、悪霊に打ち勝つことは出来へん。

また、

たとえ悪霊を主イエスの御名によって追い出せても、

神の律法、掟、戒めを守らない不法の偽キリスト者であれば、

後で主イエスから知らないと言われることを覚えとってください(マタイ七章二十一節〜二十三節)。

 

最後に、繰り返し言いますが、悪魔はいずれ滅びる運命にあるのです。

ですから、

悪魔やこの世の権力者や富裕層や有名人という長い物には巻かれないでください。

この世とこの世にあるものを愛したりせず、お金や不動産等の財産を愛さんといてください。

それらを愛する者は、その裏にいる悪魔を愛することになるからや。

断定的に拙者には判断する権限がありませんが(神が判断します)、悪魔に従った人間は神がお赦しにならない可能性が高いです。

 

今すぐ、聖書を読んで、早く悔い改めて生活するようにしてください。

一人でも多くの人が救われるように願っています。

 

引用ここまで

 

🌿新約聖書 エフェソの信徒への手紙 六章十四節〜十七節 (参照)

(身構えるために準備をする)

あなた方は、あなた自身の腰に真理を締め、正義の胸当てをつける。

そして、あなたの足に、平和の福音の準備に履物を履く。

すべてのものの上に自分自身が、信仰の盾を取り立ち上がる。(この盾によって)あなた方は、あの邪悪な者の火の投げ矢をすべて消すことができるだろう。

そして、救いの兜をかぶり、聖霊の剣、神の言葉を手に取りなさい。

 

 

ダビデと主イエスの悪との戦い方から習い、神の武具を身に着け、唯一の救い主であられる主イエスに信頼を置き、聖霊の剣、神の御言葉で主と共に悪と戦い、打ち勝ちましょう。

 

共に、聖霊の導きに依り頼み、聖書や原語の研究を深め、正しい、力強い神の御言葉を学びましょう。

 

皆さんに平安がありますように。

 

以上

皆さん こんにちは。

 

こちらの→キリスト道のブログ主の最新記事『安息日の掟』をご覧ください。

 

今回の記事は『マタイによる福音書十二章一節〜二十一節』を、正しい底本の原語から翻訳され、聖書から導き出された解釈です。

『安息日の掟』を読者の皆さんが誤解釈されないように、懇切丁寧に説明されています。

この記事をご覧いただくと、曖昧だった聖書解釈が払拭され、合点がいきます。

 

四部構成の記事内容

 

一、慈愛が大事やけど、常に律法を無視して違犯して良いのではない

・『我は犠牲やのうて慈愛を望む』の

正しい解釈と多数派による誤解釈が述べられています。

 

二、主なる神が裁き主

神殿よりも偉大なのがここにある』、

『人の子は安息日の主やさかい。』の正しい解釈が述べられています。

 

三、悪魔の子は自分らの悪行を顧みず、敵対者を潰すために何でもやる

・『慈愛には恐れが無く、むしろ完全な慈愛は恐れを追い出す。なぜなら、

恐れは罰を伴う上、恐れる者は慈愛によって完全にされてへんからや。』の言葉から、

主なる神の正しい御言葉を福音伝道する、真のキリスト者の姿勢が理解できます。

 

四、主なる神は聖書を必ず実現させる

・『聖書が必ず実現するというのはある意味で救いと言える。

なぜなら、

人間は将来どうなるか、この先何が起こるか分からへんからや。せやから、

将来どうなるか、大まかにでも教えてくれる聖書は役に立つし、助かるものです。悪人は役に立つと思えへんかもしれへんけど、真っ当な人間には役に立つと思う事ばかりです。』

とのキリスト道のブログ主の言葉に…

「その通りです。」と共感します。

 

悪魔に属する世の不信仰の者や偽福音を信じる者から真のキリスト者は迫害を受けますが、最強の主なる神が共におられ、必ず聖書の言葉を実現され、救いのラッパが鳴り響きます。

共に人間を恐れず神を畏れ、常に主に祈り求め、主と共に悪と戦い打ち勝ちましょう。

 

🌿旧約聖書 民数記 六章二十四節〜二十六節 (参照)

主が彼らを祝福し、彼らを守ってくださいますように。

主が(彼の)御顔を彼らに向けて輝かせ、彼らに恵み深くあられるように。

主が彼らに(彼の)顔を上げて、彼らに平安を置いてくださいますように。

 

 

皆さんに平安がありますように。

 

以上

皆さん こんにちは。

 

こちらの→キリスト道のブログ主の記事

『偽使徒パウロの反キリスト教義 五』をご覧いただき

共に、正しい底本の原語から主なる神の御言葉を深く学びましょう。

 

引用ここから一部抜粋〜

 

さて、パウロが偽キリストの教義を説く際には、イエス・キリストが福音書で警告したとおり、しるしや不思議な業を行った。  主イエスが偽キリストや偽預言者が行うと言わはった「しるしと不思議な業」を偽使徒パウロが偽福音を伝道する際に行ったが、失敗例があったこともパウロ自身は告白してる。

しかし、

改訂版(RV底本)からの各言語への翻訳において非常に奇妙な翻訳をしてるんを見つけたさかい、それを指摘する。

ローマ十五章十七節から十九節までを読んで欲しい。

そこの日本語訳では、あたかもキリストがパウロを通して、パウロの言葉と行いによって異邦人を神に従わせる等といった主旨に訳されてるが、これが大きな間違いや。

拙者が原語から訳すと、

それ故、神に関するそれらのことをキリスト・イエスによって我は栄光ある行いをしてる。確かに、キリストが我を通して異邦人の言葉と行いを服従させることを達成しはらへんかった人たちのことを語るのを恐れへんであろう。しるしと奇跡の力によって、神の霊の力によって。結果として、エルサレムからイリリコン州の周囲までキリストの福音を達成した。

(ローマ十五章十七節〜十九節拙訳)となる。

随分と受ける印象がちゃうやろ。

拙者は原文に忠実な訳をしたが、現代に普及する聖書の訳は原文に忠実やない。

ここで、

パウロは自分で「しるしと奇跡の力」に頼っていたことを自白してるし、それを神の霊の力と吹聴してるが、それは疑わしい。

キリストの名を用いてはいるが、実のところ「我は栄光ある行いをしてる」と語り、自分が偉大かのように見せており、彼自身の行いを栄光とし、主に栄光を帰さず、彼自身に帰してるのも問題や。

実際、それがパウロの狙いである。

そして、パウロは自分を高めると言う高ぶりを忘れてへんけど、彼自身の失敗も認めてる。

誤訳聖書には、「キリストが我を通して働かれたこと以外」等と「〜以外」という訳を採用してるのが多いけど、これが間違いや。

原語は否定後の英語のnotに当たる語が当てられており、

働くという動詞の前に置かれており、それを否定する訳をせねばならんが、聖書翻訳者はそれをしとらん。

おそらく、パウロの行いを失敗であったと認めたくないが故にそのように意図的に歪曲したのだろう。

ジュネーブ聖書は

any thing, which Christ hath not wrought by me, to make the Gentiles obedient in word and deed,」という訳で、

キリストがパウロを通して働かへんかったと正しい訳をしてる。

欽定訳聖書(KJV)では、十八節のところは

any of those things which Christ hath not wrought by me, to make the Gentiles obedient, by word and deed,」であり、ジュネーブ聖書の訳に近い。

しかし、拙者は、

ジュネーブ聖書と欽定訳聖書の「anything」も誤訳と考えてる。

なぜなら、それは「もの」であるが、原語にはそれに限定せず、英語でいうところの「some」の意味もあり、物だけやのうて人にも言えるからや。

拙者はsomeの意味で訳した。過去記事

動画四回目投稿 現代語訳聖書の翻訳は間違いが多い 前編でも非難した新国際訳聖書(NIV)では、

anything except what Christ has accomplished through me in leading the Gentiles to obey God by what I have said and done」と意味不明な訳をする始末。

これを日本語訳すれば、

「我が言葉と業によって異邦人を神に従わせるために、キリストが我を通して成し遂げはったこと以外の何ものでもない。」となり、あたかもパウロが異邦人を神に従わせた偉大な人かのように聞こえるが、実際はそうではなかった。

中略〜

パウロは「しるしと奇跡」を強調した。

それ故、パウロは、「しかし、もし主が望みはるなら、すぐにあんた方のところに行くであろう。そして、いい気になってる人たちの言葉やのうて、その力を知るだろう。 神の王国は言葉にあるんやのうて、力にあるんやから。」(コリント一 四章十九節〜二十節拙訳)と言うた。

これは、明らかにパウロは言葉では叶わへん、言論では勝てへん相手にはしるしや奇跡を見せつけて、力を見せることが出来るパウロの方が正しいことにしたいという証拠の主張や。こないパウロは困ったら、

すぐに悪霊頼みの奇跡をして、しるしや不思議な業を見せつけた者が勝ったことにするという姿勢でおったことの証明や。

過去記事今は邪な時代やその他の記事でも散々述べてきたとおり、

主イエスは、しるしを欲しがる人間のことを嘆きはった。

なぜなら、不信仰な人程、しるしや奇跡を欲しがり、邪な時代と評されたからや。

言葉やのうて、しるしや奇跡に頼るパウロはまさに主イエスから嘆きの対象になる人物であることになり、それでキリストの使徒と自称するなんて笑わせる

偽使徒パウロとは対照的に、拙者は言葉の力を見せている。

主イエスも「言葉」やからね。

ヨハネによる福音書一章冒頭で言葉が受肉した等と主イエスのことを使徒ヨハネは「言、言葉」と定義した

聖書も文字の「言葉」であり、福音も「言葉」によるものであり、しるしや奇跡といった「力」ではない。

奇跡の類は悪魔でも出来るからや

また、福音書にあるとおり、

主イエスが荒野で悪魔から誘惑を受けた時の対応も参考になる。

主イエスは「律法の言葉」を以って悪魔の間違うた聖書引用を退けはった。

主イエスは神の力を行使して悪魔と奇跡といった力自慢の対決をしたのか。

否やろ。

主イエスは悪魔に対して「律法の言葉」のみで退けた。

その主イエスの姿勢からも、主イエスを信じて従う真のキリスト者は同じく、永遠の真理である神の律法を守るべきであり、嘘つきの悪魔や自称キリスト者や不信仰の者に対しては聖書(パウロ書簡を除く)や律法の「言葉」で撃退すべきなんや。

悪魔がでけへんことは、神の律法を守ることや神の御言葉を正しく用いることや。

それがでけへん故に、悪い不良天使は天を追放されてこの地に落とされ、堕天使となり悪魔になった。

悪魔は、イエス・キリストを信じず、神の律法を守らず、主イエスに固く結び付かずに実を結ばへん人間共々最後には地獄という火の池に入れられて滅びる。

すべては、神の律法を破り、神の御言葉に従わず、神と神の王国にとって役に立たへんからや。

中略〜

使徒ヨハネの手紙にあるとおり、イエス・キリストの教えに従わへん者、主イエスの教えに留まらへん者は誰でも反キリストであり、サタンや。

使徒ペトロでさえ、聖霊を受ける前、主イエスがエルサレムで長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺されて三日目に復活することを予告した時にそれを諌めたら、「我が背後に下がれ、サタン。我が罪へと引き付ける者よ。なぜなら、あんたは神のことを考えず、それらの人間のことを考えてるからや。

(マタイ十六章二十三節拙訳)と主イエスからサタンと呼ばれ、叱責を受けた。

また、

我は愛する者たちを皆、懲らしめたり、叱責する。せやから、熱心になり、改心せい。」(黙示録三章十九節拙訳)とも言わはった。

これ程、イエス・キリストというお方は厳しいんや。

褒めることなんて滅多にせえへん。

死んだ後に褒められれば良いと思いなはれ。

生きてる間、また不完全な間は怒られ、戒められ続けても何ら不思議は無い。

不完全な人間に褒める所なんて無いのが分からんのか。

それやのに、現代人は特に甘やかされて育ち、批判や叱責を受けるんを異常に嫌って避ける者が多い。これでは成長は見込める筈もない。

せやから、拙者の許にも来ようとせんのやろ。

自己愛が強く、悔い改めを拒否してる証拠やで。

不完全で劣ってるにも拘らず、何故助言を聞き入れて改善しようとせんのか。

それやから愚かさが直らんのや。

そないな適切な指導や叱責を嫌う者は、滅び行く愚か者や。

箴言にもあろう。

過去記事偽使徒パウロの反キリスト教義 一でも引用した、

 

主への畏れは理解力(洞察力)の始まり。

愚か者は、知恵と矯正を酷く嫌う。(箴言一章七節拙訳)を覚えよ。

 

聖書(パウロ書簡を除く)の御言葉を聞き入れへん者は愚か者である。

拙者は聖書の真理に基づいて書いてるだけや。

よって、それに逆らうことは神に逆らってることに等しく、永遠の破滅という刑罰を受けても文句は言えへんで。

主イエスは、天の父なる神の御計画と御意志を実現することを最重要視しはり、神の律法を絶対に廃止せえへんと宣言しはったし、世俗の権威にぬかずくことはせんかったし、凡庸な人間たちに媚を売ることもせんかった。

神の民は、主イエスの御言葉どおり、自分の命よりも神の律法と神の御意志を大事にする。

 

引用ここまで

 

旧約聖書 箴言 一章七節 

主への畏れは理解力(洞察力)の始まり。愚か者は、知恵と矯正を酷く嫌う。

 

 

共に聖書研究を怠らず、聖霊の導きで心に浮かぶ言葉に素直に従い、主なる神の正しい御言葉を伝道しましょう。

 

皆さんに平安がありますように。

 

以上