皆さん こんにちは。
こちらの→キリスト道のブログ主の記事『憐れみ深い神』 をご覧いただき、
神の慈愛に応える信仰について、共に学びましょう。
引用ここから一部抜粋〜
神の民は、最初から神に従順な者ではありません。
今まで私が述べてきたとおり、
この世はサタンに支配されています。
サタンに惑わされた人間やサタンを拝む人間が統治する世界なので、この世には反聖書的な物、思想、習慣、宗教、人間等で溢れているのです。
そのような環境では、誰一人最初に生まれてから死ぬまで神に従順であり続けることは
不可能です。
そういう訳で、聖書には
「 正しい者はいない。一人もいない。 」(ローマ3:10)、
「 だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。
ひとりもいない。 」(詩編14:3、53:4)、
「 善のみを行って罪を犯さないような人間はこの地上にはいない。 」
(コヘレトの言葉7:20)と書かれています。
敢えてその中から、神は御自分の民を救い出されようとするのです。
そのために天の父なる神は、御子イエスを地上にお遣わしになったのです。
もし人間が生まれてから死ぬまで主イエスのように正しいままであれば、救い主の必要性を感じないからです。
しかし、
実際はすべての人間が神の律法、掟、戒めに背いて罪を犯した
罪人であり、
一部の人間だけが神の導きで救い主イエス・キリストの必要性を真に感じて、
主イエスを信じて愛し、神の律法、掟、戒めに従うことで
悔い改めて、
洗礼を受けて新生して初めて神の御国への道が開かれるのです。
中略〜
旧約聖書 エレミヤ書 17章5~8節
主はこう言われる。
呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし その心が主を離れ去っている人は。
彼は荒れ地の裸の木。
恵みの雨を見ることなく 人の住めない不毛の地 炎暑の荒れ野を住まいとする。
祝福されよ、主に信頼する人は。
主がその人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられた木。
彼は水のほとりに根を張り 暑さが襲うのを見ることなく その葉は青々としている。
干ばつの年にも憂いがなく 実を結ぶのをやめない。
これらは非常に良い聖句なのですが、新共同訳の訳に問題があるため私が添削します。
上記の英語(KJV)は、
「Thus saith the Lord; Cursed be the man that trusteth in man, and maketh flesh his arm, and whose heart departeth from the Lord. For he shall be like the heath in the desert, and shall not see when good cometh; but shall inhabit the parched places in the wilderness, in a salt land and not inhabited. Blessed is the man that trusteth in the Lord, and whose hope the Lord is. For he shall be as a tree planted by the waters, and that spreadeth out her roots by the river, and shall not see when heat cometh, but her leaf shall be green; and shall not be careful in the year of drought, neither shall cease from yielding fruit.」です。
私は
「 主はこう言われる。
呪われよ、人間に信頼し、肉を頼みとし、その心が主から離れている人は。
そのような人は砂漠の中の低木で、良いものが来るのを見ることがなく、
荒れ野の干上がった所、人が住めない塩の地に住む。
祝福されよ、主に信頼をする人は、そして主を希望とする人は。
そのような人は水のそばに植えられた木だからであり、川のそばに根を伸ばし、
暑さが来る時のを見ることなく、その葉は青々としている。
干ばつの年にも憂いがなく実を結ぶのをやめない。 」 と訳します。
これは主イエスの御言葉である
「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。 」(マタイ5:45)と共通するものがあります。
天の父なる神は、神の子(神に属する人間)にも悪魔の子(世に属する人間)にも地上で
同じように生かしてくださいますが、主なる神を信じず、神の御言葉を信頼して完全に従わない者は荒れ地の干上がった所に住んでいるようなもので、呪われている悪魔の子なので、最後には滅びます。
主イエスを神と認めない者や、神の律法、掟、戒めを蔑ろにする者も滅びます。
反対に、
主なる神の御言葉に従順に従い、神の律法、掟、戒めを守って完全に服従する者は
祝福され、地上で何が起ころうとも不安になることがありません。
神の民は、目を覚まして備えているからです。
中略〜
聖書で語られる放蕩息子の父親は、人間の父親の話ではなく神のことです。
私たち罪人が神に立ち返るならば、このように温かく迎えてくださり、怒るどころか喜んでくださるのです。
その神の愛の深さを知ると、
それまでの数々の行いで神を悲しませてきたかと思うと
後悔してもしきれない断腸の思いです。
神は、神の民が悔い改めて戻って来るのを
心待ちにしておられるのです。
神は遠く離れていても神の民を見つけては御手を差し伸べられ、導いてくださいます。
それが神の愛の力です。
神は、神の子である神の民を召使いとしてではなく、
実の子として扱われます。
それ故、
神は御使いに、戻ってきた子に一番良い服、指輪、靴を身に着けさせ、肥えた子牛を屠って祝うようにお命じになりました。
主なる神ほど偉大で、憐れみと慈しみ、愛に満ちた方はおられません。
本来ならば滅ぼされて当然の罪人である人間を大きな愛で包み、
近くで一緒に住むように招いてくださるのです。
しかし、これは真に悔い改めて正しい信仰を持つ神の民だけで
あり、万人に適用される訳ではありません。
中略〜
神に従順に立ち返るならば、
神はあなたを憐れみ、過去の罪を赦してくださいます。
神に立ち返るというのは、にわかクリスチャンのように虚しく「主よ、主よ」と言って
崇めたふりをして、律法を無視して罪を犯し続けることではありません。
唯一の救い主であられる主イエスを心から信じて愛し、
神の律法、掟、戒めを守って慎ましく清い生活を送ることです。
これこそが悔い改めであり、神に立ち返ることです。
放蕩息子のように、あなたが信仰に入った後で、信仰に入る前と同じようなことをしていてはいけません。
あなたがたは今まで肉の欲に従って、この世に倣って生きてきたことでしょう。
信仰に入ってからでも同じことをしてはいけません。
それ故、主イエスが姦通の女の罪を赦された後、
「 これからは、もう罪を犯してはならない。 」(ヨハネ8:11)と仰ったのです。
このように、
主イエスは、主イエスが人間の罪を赦した後も罪を犯し続けてもよいなどと仰っていません。
主イエスの十字架を悪用して律法廃止論やあらゆる屁理屈を唱えて
神の律法、掟、戒めを無視することは、主イエスの御命令に逆らう反キリストです。
彼らは悔い改めていないのに敬虔なクリスチャンを装いますが、
神はそのような者を憐れむことはありませんし、罪をお赦しになることもありません。
中略〜
神の民が、神を愛して、神の律法、掟、戒めを守るのは
自力で救いを得るためではなく、行いによる信仰でもなく、
神から憐れみを受けた結果、それが行いに現れるのです。
それは、
神の民が神の御心を行い、神の栄光を現すためです。
中略〜
神は、
神の民を、神の律法、掟、戒めを守ってキリストに近い品性を
持つように聖霊の力で導いてくださり、
御子イエスに似た者にしてくださるのです。
中略〜
自分の行いが要因ではなく、天の父なる神からの一方的な憐れみによって真の悔い改めを
したならば、悔い改めた人を妬んだり、憎んだり、攻撃したりしないはずです。
放蕩息子の兄が持っているような利己心や利益信仰を捨て、
迷い出た羊を見つけると喜ぶようになるはずです。
迷い出た羊は兄弟なのです。
この関係を拒絶する者は、その者は神の実の子ではない、
即ち、
神に属する人間ではないということです。
子ではなく、召使いに過ぎないのです。
神の実の子を排斥する召使いがこの世には非常に多いです。
主イエスは「赦されることの少ない者は、愛することも少ない。 」(ルカ7:47)と仰り、
兄弟を愛することをしない者は、真に悔い改めていない者で、
罪を赦されていないからです。
旧約聖書 ミカ書 6章8節
人よ、何が善であり主が何をお前に求めておられるかは お前に告げられている。
正義を行い、慈しみを愛し へりくだって神と共に歩むこと、これである。
ユダヤ教徒がするようなモーセの律法にない人間によって加えられた言い伝え、習慣や伝統を守って難行苦行したところで、主なる神は喜ばれません。
神の愛を感じて真に悔い改め、
主イエスが神の律法、掟、戒めに反しなかったことを模範として私たちも守って、
神の義を行い、神と共に歩むことこそが
神が人間に求めておられることなのです。
🔵記事から読者に伝えたいキリスト道のブログ主の兄弟への慈愛
引用ここから一部抜粋〜
知っておいて欲しいのは、
私がにわかクリスチャンを退ける前に、実際は、
彼らが私を退けているのです。
私に対して兄弟愛を持つどころか、敵意や悪意しか持たず、
屁理屈や誤まった教義を押し付けてきたり、
誹謗中傷や呪いの言葉をかけてきたのは彼らの方だからです。
私はそのような仕打ちを受けても、彼らのような悪魔の品性から出る言葉をかけ返したことはありません。
ただ、聖書の真理を基に弾劾して退けているだけです。
私は、過去の罪を心から悔いて神に従順に立ち返る人、立ち返ろうとする人を退けません。神が私を憐れんでくださったように、私も同じように打ち砕かれた心を持って神に立ち返る人を温かく迎えます。
そして、共に次の世で神の御前で会えることを楽しみとして、
このサタンが支配する地上での生活を励まし合って
主イエスを模範として死まで従順に生き抜きたいのです。
そのために教会を設立したのです。
引用ここまで
🌿旧約聖書 イザヤ書 四十六章四節 (参照)
わたしは、彼らが老年になっても、白髪になっても重荷(イスラエル)を担う。何故なら
わたしは、彼らを(神に)捧げるために創った。
わたしは、重荷を担い、彼らを(悪から離して自由にするために、あなたを)運ぶ。
キリスト道のブログ主の、兄弟への慈愛に感謝します。
皆さんに平安がありますように。
以上