落合順平 作品集 -3ページ目

落合順平 作品集

長編小説をお楽しみください。

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赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (38)
 朝からラーメンが食べられる街



 清子の前に姿を見せたのは、セーラー服を着た17歳の少女。
真っ白の靴下に、真っ赤な鼻緒の下駄が鮮やかだ。
たまの姿を見た瞬間。

 「うわ。この子が、噂のたまかいな。
 本当や。着物を着た女の子の懐にきっちり収まっているなんて、なんとも
 可愛いところがあるやんか。
 お前。三毛猫のオスなんだってねぇ。・・・
 へぇぇ。そう言われてみれば、なにやら凛々しい雰囲気が、
 どことなく漂っているわねぇ。お前っ」

 「こらこら。恭子。
 いきなり、それでは、お客様に失礼すぎるだろう。
 市さんと清子ちゃんにご挨拶する前に、猫に愛想を言ってどうするんだ。
 すいませんねぇ。市さん。
 失礼なところばかりをお見せして。
 なにしろ、女房に死なれてから、ワシは仕事にばかり追われて、
 この子の躾(しつけ)もろくろく出来ません。
 年頃だというのに、世間知らずのまま、相変わらずこんな有様です。
 女の子には、母親が必要不可欠のようですなぁ」

 「あら。要らないわよ、今さら私に母親なんか。
 あたしはあたしのままだし、パパはパパの生き方をすればそれでいいでしょ。
 ご用はいったい何でしょう?。
 そのためにわざわざ、あたしを呼んだのでしょう?」

 「おっ、そうだ。お前、今日は暇だろう。
 清子ちゃんをつれて、喜多方の街を、案内してやってくれ。
 そのあたりで朝からやっている、ラーメンでも食べさせてくれるとありがたい。
 ワシは酒蔵で市さんをもてなしておくから、案内を頼んだぜ」

 「はい。了解しました。
 じゃ早速、腹ごしらえと行きましょうか。たまと・・・ええと何だっけ?。
 きみの名前は・・・そうだ、清子ちゃんだ」

 くるりと背中を向けた恭子が、下駄を鳴らして駆けだしていく。
(え・・・こんな朝早くから喜多方の人たちは、ラーメンを食べるのかしら、
どうなってんのよ、この街は?)
面くらったままの清子が、あわてて恭子の背中を追いかけていく。

 喜多方市でラーメン(中華そば)が食べられるようになったのは
昭和初期からと言われている。
定着したのは、昭和20年代の前半から。

 朝からラーメンが食べられるようになったのには、諸説がある。
3交替制の工場に勤務していた人たちが、夜勤明けにラーメン屋へ立ち寄った。
朝早く農作業に出た農家の人がひと仕事を終えて、ラーメンを食べにいった。
あるいは、出稼ぎから夜行列車に乗って帰ってきた人たちが、暖まるため、
家に帰る前にラーメン屋に立ち寄ったから。など、いろいろ有る。
 
 はっきりしているのはずっと以前から、朝からラーメンを食べることは、
喜多方の人たちにとって、ごく自然のことだ。
今でも早朝ソフトボールの帰りとか、二日酔いのためラーメンを食べてから
出勤するなどのことが、当たり前のようにおこなわれている。

 「清子。あんた、食べ物に好き嫌いはあるかい?」

 路地道を歩く恭子が、後ろを振り返る。
カラコロと下駄を鳴らしながら歩く恭子は、かなりの早足だ。
とつぜん目の前にあらわれたT字路や分かれ道を、方向も告げず、
ヒョイと向きを変え、ずんずん進んでいく。
あとを着いて行く清子も、自然に急ぎ足になる。
カラコロと鳴る下駄の音がふたつ。
醤油と味噌の匂いの入り混じった路地にひびいていく。

 いきなり目の前が、ひらけてきた。
喜多方市の中心部を流れている、田付川だ。
飯豊山地を水源に、喜多方の市街地を南に流れたあと、会津城下の坂下町で、
一級河川の阿賀川と合流する。
毎年、鮎の稚魚が大量に放流されることで有名だ。
川べりに出たところで、恭子の足取りが、ようやくゆるやかになった。


 「見て。ここが、あたしの一番好きな、喜多方の景色。
 さてと・・・とっておきの名所の紹介は済んだから、腹ごしらえに行こうか。
 人口3万7000人の街に、120軒以上のラーメン店があるんだ。
 人口の比率で言えば、日本一だ。
 スープは、豚骨と煮干しのものを別々に作り、それをブレンドする。
 醤油味が基本だけど、店によって、塩味や味噌もある。
 好みが有るなら最初に言って。どんな希望でも、かなえてあげるから」

 「食べ物に好き嫌いは、ありません。
 強いて挙げるなら、清子姉さんが大好きなラーメンを、ご馳走してください。
 もしかしたら好みが、あたしと一緒かもしれませんから」

 「ふぅ~ん。逢ったばかりだというのに、面白いことを言うわねぇ。あんたって。
 なんか根拠でもあるの?」

 「赤い鼻緒の色具合が、あたしの好みといっしょです。
 あたし。真っ赤な、鮮烈すぎるほどの赤が、大好きなんです。
 それに白い靴下を履いているから、余計に、赤が目立ってとっても素敵です。
 でも靴下で無理やり下駄を履くと、靴下が2つに割れてしまって、
 見るからに可哀想です」

 「この靴下のことかい。だって仕方ないだろう。
 下駄は好きだけど、あたし、靴下はこれしか持っていないんだもの」

 「あたしの足袋でよければ、差し上げます」


 「お前の足袋をくれる?。逢ったばかりのあたしにかい?。
 そりゃぁ嬉しいよ。だけどさ、あとであんたが、困ることにならないかい?。
 見習いとは言え、足袋は、大切な商売道具のひとつだろう?」

 「でも。2つに割れてしまっている靴下のほうが、よっぽどかわいそうです。
 とても黙って見ていられません。」

 「ふぅ~ん。見過ごすことができないのか。
 あんたって、お節介な子なんだねぇ。
 でもさ。なんだか、ちょっぴり、面白そうな女の子だねぇ・・・・」


(39)へ、つづく

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赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (37)
 蔵と酒とラーメンの街



 喜多方は、福島県会津地方の一角にある街。
名水に恵まれた喜多方市には、おおくの酒蔵が密集している。
白壁のうつくしい、「蔵のまち喜多方」として知られている。
はじめてこの街を訪れた人は、たくさんの蔵の姿に思わずの懐かしさと、郷愁を覚える。
そんな素朴な趣が、この街のあちこちを彩っている。

 たくさんの蔵は、観光のためにつくられたわけではない。
蔵は、いまも人に使われ、暮らしの器としての役割を果たしている。
表通りはもちろんのこと、路地裏や郊外の集落にもいろいろな用途の蔵が
立ち並んでいる。
その数は、4000棟を越すといわれている。

 多くの蔵が建てられているのには、いくつかの理由がある。
蔵のたいはんが、酒蔵や味噌蔵として使われている。
このことから見て取れるように、ここが良質の水と米に恵まれた土地であり
醸造業に適していることがわかる。
蔵はそれに、もっとも適した建物である。

 蔵はまた、男たちの夢の結晶でもある。
「四十代で蔵を建てられないのは、男の恥」「蔵は男の浪曼」といわれている。
喜多方の男たちにとり、自分の蔵を建てることは、誇りであり、
自らの成功を外部に示す証であり、生きる目標のひとつでもある。

 
 喜多方の蔵は、さまざまな表情を持っている。
白壁や黒漆喰、粗壁やレンガなど、外観もじつにさまざまで、扉の技巧にいたるまで、
きわめて多彩な形で構築されている。
それはそのまま、喜多方に生きる男たち1人1人の、ロマンの現れかもしれない。

 もうひとつ、おおきな理由が有る。
明治13年に発生した、喜多方の市街地一帯を襲った突然の大火。
火は市の中心部から瞬く間に燃え広がり、300棟余りをことごとく、焼き尽くした。
くすぶり続ける焼け野原の中に厳然と残ったのが、今も残っている
多くの蔵だったと言われている。

 喜多方の小原庄助旦那がいとなむ大和屋商店は、江戸時代中期の
寛政二年(1790)に創業している。
以来、9代にわたり酒を造り続けてきた老舗の酒蔵だ。
清冽な飯豊山の蒸留水を、仕込み水として使用している。
「弥右衛門酒」をはじめとする銘酒と美酒を、数多く生みだしている。

 「よう来た。よう来た。
 さっそく来てくれるとは、わしとしても嬉しい限りだ。
 おう。たまも一緒か。すごかったなぁ、お前のあの名演技は!
 遠慮することはない。入れ、入れ。ここがウチの酒蔵だ」

 黒塗りのタクシーが止まった瞬間。
待ちかねていた小原庄助が、酒蔵から、脱兎のように飛んできた。
和服を着ていた昨夜とは異なり、今日は地味な酒蔵の作業着などを着込んでいる。

 「すんまへんなぁ。
 小春は野暮用で、本日は来られまへん。
 代わりにあたしが、この子達の面倒を仰せつかってまいりました」

 「いやいや。市さんに謝ってもらったのでは、こちらが恐縮してしまいます。
 小春が酒蔵へ顔を出さないのはいつものことです。
 気にせんといてください。
 今日は、素晴らしい芸を見せてくれたたまと、清子へのご褒美です。
 と言っても、まだ15歳の清子に、酒蔵見物などの興味はないか・・・・
 おい。娘の恭子を呼んでくれ。
 たまと清子は、喜多方の町の探索と、美味しいラーメンのほうがいいだろう。
 娘に案内させるから、ゆっくり町を歩いてくるといい。
 市さんは、やっぱり搾りたての純米酒のほうがいいでしょうなぁ。
 今年も良いカスモチ原酒※が出来たので、早速、試飲といきますか」

 (へぇぇ・・・喜多方の小原庄助さんには、娘がいるのか。)

 どんな娘さんだろう、と期待がわいてくる。
清子の耳に、遠くから軽快に石畳を蹴る、カラコロと鳴る下駄の音が
聞こえてきた。

 
  ※カスモチ原酒とは
 厳選された会津米と、霊峰飯豊山の雪解け水からうまれる伏流水を用い、 
 身も凍る厳寒期に仕込まれる酒のこと。
 ゆっくり、気長に、じわりじわりと発酵させていく。
 晩春の頃、初めて出荷される。
 酒を仕込んだモロミを、カスと言う。
 モチは、長く持たせるという意味で、寒造り低温長期発酵が最大の特徴。
 口あたりはきわめて豊潤。
 こうじを多目に加えた天然の甘い酒で、創業200年の伝統の醸法を厳格に守り、
 今日に受け継がれてきた名品。


(38)へ、つづく

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赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (36)
 清子の日記



 深夜の布団の中。清子が、電気スタンドを引き寄せる。
ついさっき、12時の時報がなったばかりだ。
腹ばいになった清子がノートに向い、書き込みを始める。

 『おい。何やってんだ、清子・・・』
口に何かを咥えたたまが、のそりと姿をあらわす。
『よっこらしょ』わざわざ遠回りの道を選び、清子の背中へのぼってくる。
『何書いてんだお前、さっきから』清子の手元を覗き込む。

 『日記です。
 今日あったことや、覚えたことなどを忘れないうちに、こうしてメモしておくの。
 こうしておけば安心でしょう。忘れたりなんかしないもの』

 『普通は、頭で記憶して覚えるもんだろう。
 もっともお前の場合は、特別だからな。
 メモを書いたとたんに安心して全部、まとめて忘れちまうからな。
 でもまぁ、何もしないよりは、まだマシか』

 『たま。お前の口は、いつでもひとこと余計です。
 あたしが機転をきかせたおかげで、お座敷の綱渡りも無事に済んだのよ。
 感謝しているのなら、あたしに、お礼を先に言うべきでしょう』

 『あん時は全くもって、肝を冷やした。
 あんな格好のまんま、綱渡りなんかした日にゃ、命がいくつあっても足りねぇや。
 ありがとうよ確かに助かった。大いに感謝しているぜ』

 『感謝しているのなら、いい加減に、あたしの背中から降りなさい。
 子猫のくせにやたらと重いわねぇ、おまえは』

 『言うねぇ。清子も。
 忘れ物を拾ってきてやったというのに、感謝の前に、いきなりの小言かよ。
 なんだよ。いらないのなら、また捨ててきちまうぜ』

 『わたしの忘れ物?。いったい何を、拾ってきたのさ?』

 『何だかよくわからねぇ。
 だがよ。妙に乳臭い、細長いバンドみたいなもんだ』

 『乳臭い、細長いバンド・・・・え。あ、ああぁっ!』

 清子が布団をはねのけ、いきなりガバっと飛び起きる。
たまが咥えてきたのは、洗面所へ忘れてきた、新調したばかりのBカップのブラジャー。
浴衣の襟を、いそいでかき合わせた清子が、たまの口からブラジャーを奪い取る。
『簡単には離さないぞ。ちゃんと礼をいうまでは・・・・』
たまも簡単には離さない。必死に食い下がる。
清子の新調したばかりにブラジャーに、たまがぶらりとぶら下がる。

 『こら。離しなさい。BカップがCに伸びちゃうじゃないのさ。たま!』

 『お前。いつの間にBカップになったんだよ。
 このあいだまで確か、ブカブカで、隙間だらけのAだったはずだ!』

 いつものように、右から清子のパンチが飛んでくる。
『へへん。お前の攻撃なんざ、すでに見抜いておるわい。右から来ると見せかけて
本当は、左からの平手打ちが本命だ。その手は食うものか。おっとっと・・・」
ひひひと笑った瞬間、たまの口がブラジャーが外れてしまう。

 『愚か者。結果が出る前に笑うから、みずから落ちる羽目になるのです。
 こら。たま。乙女の胸を、大きな目をして覗き見るんじゃないの!。
 お願いだから、少しのあいだあっちを見ててちょうだい。
 すぐに済むから・・・・』

 『どうしたのさ。賑やかだけど、何か事件でも起こったのかい?』
カラリと襖が開く。寝る支度を整えた小春姉さんが、隣室から顔を見せる。
『あ、いえ。なんでもありません』あわてて胸元を整えて、清子が正座する。
清子の膝の上で『いつもの、小競り合いです』とたまが、ヘラヘラと笑い返す。

 「そう?。何事もないの。ならいいのですが。
 明日は早くから喜多方に出向きます。たまも清子も、早く寝なさい」

 じゃあね、と襖に手をかけて閉めようとする小春に、なぜか清子が食い下がる。

 「小春お姐さん。
 喜多方の庄助旦那様は、たまと清子と小春姐さんの3人でおいでくださいと、
 熱心に誘って下さいました。
 小春姐さんと喜多方の旦那様には、深い縁が有ると伺っています。
 なにゆえに小春姐さんは、お誘いをお断りしたのですか?
 せっかくのお誘いです。
 3人揃ってお伺いするのを、楽しみにしていると思うのですが?」

 「他意はありません。売れっ子芸者は忙しいのです。
 別口の先約がありますので、明日は無理です。
 そのかわり。市さんにお願いしておきましたから、安心して行ってきなさい。
 私のことは気にしないでください。
 たまと一緒に、蔵とお酒と、ラーメンの街を満喫しておいで」
 
 「ふぅ~ん。蔵と、お酒と、ラーメンの街だってさ喜多方は。たま・・・・」

 「素敵な街ですよ、喜多方は。
 明日のお出かけを楽しみに、もうおやすみなさい、2人とも。うふふふ」


(37)へ、つづく

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赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (35)
 たまの綱渡り



 「さぁて。すべての準備が整いました。
 それではそろそろ、覚悟を決めて、綱渡りとまいりましょうか、
 うふふ。たま」

 清子がニコニコ笑いながら、たまの首筋をなでている。
『冗談じゃないぜ、まったく。人ごとだと思って、呑気だな清子は・・・』
目の前でふわふわと揺れている、綱渡りの細い紐を見つめながら、
たまが額から一筋、脂汗を流している。

 「ちょっと待て。その猫に、もうすこし細工しょうじゃないか。
 その格好ではまだ、なんとも地味すぎる。
 見た目がもっと、パッと映えるような小道具はないか。
 探せ、さがせ。そのあたりに、何かあるだろう」

 庄助旦那の再度の提案に、一同がドッとどよめく。
女たちが、室内に置いてある道具や人形を片っ端から物色していく。
棚に、勇ましい武者人形が飾ってある。
熊にまたがった金太郎が、床の間に置いてある。

 「そらまた良い考えどすなぁ。何か無いかしらねぇ・・・小道具が」

 「そうやねぁ。せっかくのたまの晴れ舞台です。
 手ぬぐいと日傘だけでは、たしかに、寂しいものがありますねぇ」

 「もうすこし、凛々しくしてはどうですか。
 武者人形の兜なんかどうでしょう。
 ついでです。鎧も全部着させて、猫武者風に仕立てあげましょうか」

 「おっ金太郎がいるぞ。金の字の腹掛けなんかどうだ。
 頭に兜。、腹に金太郎。
 悪くはないが、まだ地味すぎるなぁ。もっとほかに何か無いか、
 これではまだ、格好がさびしすぎる」

 「長靴なんか、どうですか。
 さきほど入口で、幼子用の長靴を見かけました。
 ひとっ走りしてそれを取ってまいりましょう。いい絵になります」

 「そいつはいい考えや。兜に、金太郎、長靴で決まりだな。
 清子、準備ができるまでその子猫を絶対に逃がすんじゃないぞ。
 オジサンがいまから、凛々しく飾ってあげるからな。
 ははは。なにやら一気に、面白くなってきたぞ。
 いまから史上最高の傑作が観られるぞ」

 たまがジタバタと抵抗する。しかし。それも虚しく兜やら腹巻やら、
長靴などの小道具が無理矢理、たまに装着されていく。

 『こら。や、やめろ。おまえら。
 清子まで一緒になって喜んでいる場合じゃないぞ。
 綱渡りをさせられんだぜ。
 ごちゃごちゃこんなものをおいらに取り付けて、いったいどうするつもりだ。
 綱から落ちたら、さすがのオイラだって只じゃ済まねぇ。
 笑ってる場合じゃないぜ、清子ったら。
 早く助けろ。な、なんだよ・・・・お前。
 なんだかんだ言いながら、結局、お前が一番、喜んでいるじゃねえか。
 喜んでいられるのも今のうちだ。
 あとでかならず仇をとってやるからな。よく覚えておけ、この薄情女』

 『お口が下品です、たま。
 いい加減で、あきらめてください。
 みなさん、おまえの綱渡りにたいへん期待しております。
 先程から、お待ちかねです。
 みなさんのおかげで、ずいぶん凛々しく、男らしくなりましたねぇ。
 はい。それではそろそろ参りましょう。
 たま渾身の綱渡りのお座敷芸を、みなさまにお見せいたします』

 ヒョイと持ち上げられたたまが、清子の手で綱の上へ移動する。

 『よ、よせ。清子。た、高すぎるぞ。目がくらむ!。
 悪いことは言わないから、こんな乱暴なことは今すぐに、やめろ!』

 『何言ってんの。このくらいの高さで。
 あんた。ミイシャに会いにいくときは、平気で高いところをヒョイヒョイと
 渡っていくじゃないの。
 あれから見れば、こんなもの、目をつぶったって行けるわよ。
 男の子なら、もう覚悟を決めていきましょう。
 いきますよ。はいっ』

 清子が合図した瞬間、たまの両足が綱の上に置かれる。

 『万事休す。もはやこれまで!』
たまがすっかり覚悟を決める。
『こうなったら意地でも向こう側まで歩いてやる。
だけどよ。兜に、腹掛けに、長靴だろう。おまけに背中に日傘を背負っているんだ。
これじゃ茶釜のタヌキより、重装備じゃねぇか。
ま。などと泣き言を並べてもはじまらないか。みんが期待して見ているんだ。
じゃ・・・ぼちぼち行くか。覚悟を決めて・・・」

 たまが覚悟をきめて、1歩目を踏み出す。その瞬間。
ピンと張られていた紐が、ぱたりと音を立てて畳の上に落ちる。
たまには、何が起きたのか、さっぱり意味がわからない。
『な、なんだぁ。何がどうしたんだぁ?』背中をつかまれたたまが、
ふわりと畳の上にある腰紐へ軟着陸する。

 「よしよし、いい子だ。
 そのまま。そのままでいい。そのままでいいから、紐を踏み外さず、
 こっちまで歩いてこい。
 出来るだろうお前。そのくらいの芸なら」

 おいで、おいでと紐の向こうから、庄助旦那がたまを手招きする。
笑顔の小春と、市もそこに座っている。
清子までいつの間にか、紐の向こう側に陣取っている。
おいで、おいでと全員が、たまに向かって手招きをしている。

 『なんだよ。さんざん人を脅かしておいて、最後はこういう仕掛けかよ。
 よしっ。一世一代の、おいらの晴れ舞台だ。
 優雅に綱を渡りきったあと、着地は、後方宙返りの4回転ひねりを決めてやるぜ。
 見てろよ。おいらの芸は、あとで高くつくぞ!』


 たまが優雅に綱の上へ、最初の1歩を踏み出す。
お座敷から、ワァ~という大歓声とともに、大きな拍手が湧き上がる。

 
 (36)へ、つづく

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赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (34)
 猫じゃ猫じゃ



 「おい。誰だァ。お座敷に猫なんか連れてきたのは!」

 突然の大きな声に驚いて、たまが正気に戻る。
音楽に乗ってうかれているうち、つい我をわすれて、かごから顏を出していた。
小春姐さんの三味線に乗り、裾をはだけ、汗だくで踊っていた清子が
はっと気づいて立ち止まる。あわててかごを振り返る。

 「おっ。三毛猫やないか。ほお~、可愛い顔をしておるやないか、こいつ。
 なんや、こいつは、オスやでぇ。
 待て待て。事態が何やら変わってきたぞ。
 三毛猫のオスとは、こいつは春から、縁起がいい」

 ヒョイと喜多方の小原庄助旦那が、たまを片手で持ち上げる。
懐から手ぬぐいを取り出す。それを4つに折りたたんだあと、ふわりと
たまの頭にかぶせてしまう。

 「ほう、なかなか似合うぞ。愛嬌もある。
 半玉の市花より、よほど愛想がいいし、見た目もいい。
 どうだお前。なにか芸ができるか?」

 清子があわてて飛んでくる。
たまを庄助旦那から受け取り、自分の懐へ抱きあげる。
『駄目じゃないの。あれほど出るなと言っておいたのに。まったく、もう
 あんたって子は・・・お茶目なんだから・・・』清子がきつい目をして、たまを睨む。
三味線を止めた小春が苦笑しながら、小さく頭を下げる。

 「ウチの猫です。お騒がせしてすんまへん。若旦那さん」

 「いやいや、謝る必要はない。三毛のオスとは珍しい。
 ところでこいつ。なにやら、芸当でもしそうな顔をしているぞ。
 小春。お前、帯の細紐をほどけ。
 ほどいたそいつを、そっちからこっちへ、ピンと張ってみな。
 市花(清子の半玉名)。そこの棚から、人形の日傘を取ってくれ。
 背中に背負わせて三毛に、猫の綱渡りをやらせようじゃないか」

 「そらまた、クリーンヒットの名案ですなぁ!」

 「庄助さん。あれは狸のやる所業であります。
 ど素人の小猫に、いきなり綱渡りをさせるのは、少しばかり、
 無理すぎる注文ではありませんか?」

 「いやいや。わしにはわかる。こいつの顔には、芸が達者だと書いてある。
 日傘は背中にくくりつけてくれ。
 手ぬぐいはねずみ小僧のように、しっかり顔に決めてくれ。
 頼んだぜ、皆の衆」

 とつぜん湧いた大騒ぎの中。たまが全員の手でもみくちゃにされる。
綱渡りに挑戦する子猫に、着々と変身していく。

 『な、なんだよ。オイラを取り囲んだこの大騒ぎは。
 茂林寺の文福茶釜じゃあるまいし、猫が、綱渡りなんかするもんか。
 おい清子。そんな目で、俺の顔をみるんじゃねぇ。
 おれは絶対にやらねぇぞ。タヌキの真似して、綱渡りなんか!』
 
 たまの目の前で、綱渡りの準備が着々とすすむ。
小春の帯紐を、庄助旦那が「こんなもんかな?」と80センチほどの高さに持ち上げる。
1畳ほどの距離に、細紐を使った綱をピンと張ってみせる。
『おいおい。準備が出来ちまったぜ。それにしても、ちょっとばかり高いなぁ・・・・』
たまの目がピンと張られたばかりの綱を、下から不安そうに見上げる。

 「小春。伴奏の景気づけだ。『猫じゃ猫じゃ』を弾いてくれ!」

 小唄(こうた)の中に「猫じゃ猫じゃ」というものがある。
小唄は、幕末の頃に成立した邦楽。
短かい詩の小曲を、三味線の爪弾きで伴奏する。 
爪弾きは、三味線の撥(ばち)を用いず、人指し指の爪で弾く。
爪を当てることで、やわらかい音が弦から発生する。 

 ♪ 猫じゃ猫じゃとおっしゃいますが 
   猫が 猫が下駄はいて  絞りの浴衣で来るものか 
   オッチョコチョイノチョイ

   下戸じゃ下戸じゃとおっしゃいますが 
   下戸が 下戸が一升樽かついで  前後も知らずに酔うものか 
   オッチョコチョイノチョイ

 「よし。それでは本格的に、猫の綱渡りと行こう。
 市さん。そっちを持ってくれ。ついでだ。もう少し高く張ってくれ。
 そうだな。とりあえず、1m30㎝でどうだ。
 ピンと張ってくれよ。
 上手くいったら、拍手喝采といこう。
 綱の準備はこれで充分だ。
 そっちはどうだ?。子猫の方の準備は出来たか?」

 真っ赤な日傘を背中に背負わされ、豆絞りの手ぬぐいで頬かぶりされた
たまが、ついに覚悟を決める。
諦め顔をしたまま清子の腕の中で、事の成り行きを眺めている。
ピンと張られた帯紐が、1畳ほどの距離の中、1m30㎝の高さを保ったまま、
主役の登場を今や遅しと、待ち構えている。

 『おいおい。すっかり舞台が出来上がっちまったぜ・・・
 それにしても、ど素人に、1m30㎝の綱渡りはあまりにも高すぎるだろう。
 だいいち身体に付けた小道具が多すぎて、重すぎる。
 猫とは言え、あの高さから落ちたら、絶対にただじゃすまなくなる。
 まいったなぁ。・・・
 どいつもこいつも、オイラを止める素振りすら見せやしねぇや。
 おいら。大道芸の猫じゃないんだぜ。
 こら清子。お前まで楽しそうな顔して、オイラの顔を見るんじゃねぇ。
 まいったなぁ。ちょっとだけ顔を出したことが、
 いつのまにか、絶対絶命の大ピンチを、招ねいたようだな・・・・』


(35)へ、つづく

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赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (33)
 お座敷遊び

 

 

 襖を使った遊びもある。襖を1枚はずす。
それをお座敷の真ん中にたてる。
芸者とお客さまの3人が、襖の裏に隠れ、呼ばれたら顔を出すというゲームだ。
お父さん役、お母さん役、頭にリボンをつけたお嬢ちゃん役を
その場で即興で決めておく。

 

 三味線も、最初のうちはゆっくりしたテンポで弾かれる。
『淀の水車は・・・』と優雅に唄いはじめる。
手の空いている芸妓が、小股に挟んだビール瓶の「ハカマ」で、
危なっかしくカチーン、カチーンと、拍子を取りはじめる。

 

 『カカ出なやの、また、トト出たり、遅れて娘も顔を出たり・・・』
などと歌いはじめる。
それに合わせて、襖から3人がそれぞれに顔を出す。
最初のうちは普通のテンポですすむから、どうということはない。
だが、だんだんテンポが速くなる。
そのうち混乱して、間違える人がかならず出てくる。
この場合も、いちばん先に失敗した人が負けになる。そこでまた罰盃として、
たっぷりお酒を飲まされてしまう。

 

 こんな風に煽ることもある。
『♪ 街のあかりがとても綺麗ね◯◯、◯◯(料亭の名前)。
お酒はいっきでのみましょう。それ、いっき、いっき・いき・・・・
はい。いっき。おみごと、男だね!、(もしくは女の子、女だね)
ちゃちゃふーちゃちゃふー』
かけ声をかけながら、お酒の一気飲みをすすめる。

 

 テレビでよく見るどこかの大学のコンパと、まったくおなじ光景だ。
とにかく飲むところでは、相当量を徹底的に飲ませる。
それも情け容赦なく、これでもかとばかり飲ませる。
ときにはお料理のふたで飲ませることもある。

 

 

 三味線にあわせて、民謡を歌う場合もある。
もちろん。普通に歌うわけではない。
『ちゃっきり節』の、『ちゃ』をぬく。
『ノーエ節』の、『ノー』だけを抜く。あるいは『エー』を唄わない。
などなど。あらゆる変化が用意されている。

 

 たまには本当に、昔風の粋なお人も登場する。
芸妓の弾く三味線に乗せて、小唄か、長唄を一節、それとなく披露する客もいる。
即興で都々逸をつくるという、飛び抜けた客も存在する。
このレベルになると、もう、お座敷遊びにおける達人だ。
ただし。お座敷ゲームの定番と言われている、『野球けん』などの
下卑たお遊びは、由緒正しいお座敷では、絶対に行われない。

 


 特別な道具を使わないというのも、お座敷遊びならではの醍醐味。
座敷のなかにあるものを、巧く活用して遊ぶものがおおい。
座布団を使う「座布団とり」は、その典型例のひとつ。

 

 人数より一枚少ない座布団を、並べておく。
三味線のお姐さんが 『♪ 金毘羅ふねふね 追手に帆かけて 
シュラシュシュシュ・・・』と弾きはじめる。
曲がストップした瞬間。どこでもいいから空いている座布団に坐る。
座れなかったひとりが、そこで落ちる。
最後は1対1の対決になる。勝ったほうが晴れて優勝。

 

 

 座布団を1つあいだに置いて、芸者とお客さまがそれぞれ
後ろ向きになる、というゲームがある。
かかとを座布団につけたまま、うしろむきのまま対峙する。
『♪ 勝ってくるぞと勇ましく・・・』と唄いながら、お尻とお尻をぶつけ合う。
『どんじり』と呼ばれる、きわめて単純なゲームだ。
相手のお尻の反動で、飛ばされた人が負けになる。
カカトが片方だけでも座布団についている人が、勝ちとなる。

 

 

 お座敷ゲームの基本は、日頃のかしこまった生活からの「発散」に他ならない。
「コイン落し」というゲームは、和紙を使う。
大きめのグラスの縁をお酒で濡らし、用意した和紙を貼る。
余った部分を切り取ると、きれいな蓋ができる。

 

 真ん中に五円玉をおく。
その周りを芸者とお客さんが、順番に、タバコの火を使い燃やしていく。
五円玉をグラスの中に落とした人が負けとなる。
中には、五円玉の穴の中を焼く人もいる。
ゲーム自体はシンプルだが、真剣で、白熱した駆け引きになる。
落とした人が、やはりイッキの酒を飲まされる。

 

 

 「碁石とりゲーム」というのもある。
白と黒の碁石を、器の中に十個ずつ入れる。
芸者が黒でお客さまを白としたら、それを「ヨーイドン」で、
お箸でつまんで拾いあげる。
早く全部を拾いあげたほうが、当然勝ちになる。

 

 もしもこの世に神様がいて、こうしたお座敷の様子を天から覗いたとすれば、
大の大人が、それもいい年をした男と女が、なんて他愛のない馬鹿げたことを
やっているんだと、嘆くかもしれない。
しかし。花柳界で働いている人々は、口が固いことで有名だ
よほどのことがないかぎり、情報が外へ流出するおそれはない。
『胸襟を開き、うちとけて、全員が、裸になった気分でとことん遊べる』
それこそがお座敷遊びの持っている、醍醐味だ。

 

 お座敷を盛り上げるのは、芸者が背負ったたいせつな役割のひとつ。
お座敷が盛り上がるかどうかは、ただひたすら、芸者の腕にかかっている。

 

(34)へ、つづく

 

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赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (32)
 お座敷にて

 

 芸妓が入るお座敷は、だいたい午後の6時頃から始まる。
芸妓たちは、6時前までに会場へ着く。
空いているお座敷か、お客さんが来るお座敷で待機する。
会場で待つ場合は、端に並んで正座して待つ。
お客が入ってきたら「いらしゃいませ」と、ていねいに出迎える。

 

 後から入る場合。座ってふすまをあけ、入った後、あらためて正座する。
「いらしゃいませ」と挨拶を済ませる。
このとき、先輩格の芸者さん(どんな年令であってもお姐さんとよぶ)
から先に、お座敷へ入ってもらう。
年令やキャリアが上であっても、半玉の入室はかならず最後。

 

 

 座る席にも、順番がある。お姐さんから順に上座から座っていく。
半玉の指定席は下手の末座。
そこに空席がなければ、、開いているところを見つけて適当に座る場合もある。
お姐さん芸妓から『こっちに来なさい』、と指定されることもある。

 

 宴会はまず、コップにビールを注ぐことからはじまる。
(とりあえず、ビールで乾杯というやつだ)
お料理が到着したら、割り箸を割り、お客様にさし出す。
酒がなくなる前にお酌する。

 

 

 ビール以外の別のアルコールをすすめる。
さりげない会話を交わしながら、その間、食べ終えたお皿をすぐに片付け、
お膳から下げるようにする。
コップや御猪の口が乾かないよう、いつもなみなみなの状態を
保つよう、配慮しながらお酌していく。

 

 『おい、清子。
 これじゃまるで、どうってことない、ただの普通の宴会じゃないか』

 

 『しいっ、。あんたは顔を出さない約束でしょう。
 そんなところから、ひょっこり、顔なんか出してどうするの。
 見つかったら只じゃすまないのよ、まったくぅ~』

 

 『普通のまんまじゃ、いつまで経っても盛り上がりに欠けるだろう。
 だいいち、かごから顔を出さなきゃ、小原庄助の顔が見えないじゃないか。
 おっ、あいつか。なんだい、どう見ても、大した男じゃないなぁ。
 あんな青白い男が好みなのかよ、小春姐さんは。
 まったく小春姉さんも、男の趣味が、どうにも最悪だなぁ』

 

 

 『大きなお世話です。たま。
 いいからお前はかごに隠れて、そこで聞き耳だけを立てていなさい!』

 

 

 ピシャリとかごの蓋を、清子が閉じてしまう。
『なんだい、ケチ。折角これからというところなのに・・・』
たまが暗闇の中で目を光らせる。
たまがブツブツと愚痴をこぼしはじめたとき、ようやく待ちかねていた
小春の三味線が、お座敷に流れてきた。

 

 

 「涼しくなったから」という、罰ゲームのついたお座敷遊びの始まりだ。
初めてのお客さんでもわかりやすい、お座敷遊びのひとつ。
受けがよく、とにかく面白いと言われている。

 芸者たちがまず見本をみせる。ひとりが女役で、もうひとりが男役。
ふたりともそれぞれ団扇を持って立ち上がる。
次はお客さまに演じてもらうために、客には男役のほうを
じっと観察してもらう。
しかし。予行演習はざっと見せるだけで、かんたんに終わる。

 

 すぐ本番がやってくる。
小春が三味線にあわせ、『涼しくなったから、ちょっと出てきてごらん』
とあでやかに歌う。
唄にあわせ、お客さまが『おいで、おいで』と手招きをする。すると芸者がそばへやって来る。
お客さまが芸者の肩に手をかける。そのまま、抱き寄せる。
顔を団扇で隠しながら、さらに接近していく。

 

 

 『釣りぼんぼりの灯も消えて・・・』と唄がすすむ。
見ている者には、本当に2人が接吻をしているように見える。
そこで芸者が、パラリと団扇を落とす。


 もっと色っぽい遊びがある。「蒸気ゃ波の上」というゲームがある。
三味線にあわせて、蒸気ゃ、波の上 汽車、鉄の上。雷さまは雲の上。 
浦島太郎は、ありゃ、亀の上・・・
と唄いながら、お客様と芸者がジャンケンを繰り返すという、単純な遊びだ。
お客さんが負けると亀の格好になってもらい、四つん這いになる。
背中の上に芸者が横坐りになって腰かけ、浦島太郎の気分にひたる。
お客さまは、芸者のお尻のぬくもりを堪能することになる。

 

 

 芸者が負けると、『わたしとあなたは床の上』という歌が飛び出してくる。
芸者が仰向けに寝る。お客さまはここぞとばかり、芸者の上に体を重ねる。
クイクイと、得意満面に腰を元気にふる。
お座敷ゲームには、いずれの場合も、罰盃というものが付きまとう。
『負けた方がお酒を飲む』。これがお座敷での鉄板ルール。


 『おっ、ようやく盛りがってきたぞ。お座敷が!』

 

 

 ぴったりと閉ざされていたかごの蓋が、いつの間にか、開きはじめる。
たまのランランと輝く大きな目が、そっと、かごの隙間からふたたび現れる。


(33)へ、つづく

 

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赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (31)
 たまと清子の悪だくみ

 

 

 小春姐さんが、伊達巻をゆるめていく。
こんどは清子の乳房の下を通過する形で、あらためて帯を締め直す。

 

 「大きくて、ふくよかな胸もいいけど、小さいほうが着物に似合います。
 着物はね、直線的に縫製されているの。
 胸が大きすぎるとシワになったり、衿元が綺麗に整わないので、
 そういう場合は、胸をわざと潰します。
 その点。お前の場合は理想的です。ちょうど良い塩梅の大きさです。
 着物が綺麗に見えるポイントは、やっぱり帯。
 乳房のすぐ下から両腕の脇の下を通り、全体的にしっくり収まったとき。
 綺麗に見えるんだよ。
 その点、お前はいいねぇ。着物が似合う容姿と、体型の持ち主だ」

 

 「どう言う意味ですか。小春お姐さん?」

 

 

 「容姿はまぁまぁですから、とりあえず合格点。
 着物が似合うかどうかは、体型しだい。
 背は高からず低すぎず。胸は控えめ。お尻は出っ張りすぎず、かつ低からず。
 胴長で、短足であること。
 これらが着物が似合うための条件です。
 お前は大丈夫。幸か不幸か、すべてをすでに身につけています。
 うっふっふ」

 

 「それって・・・もしかして、メリハリの不足している体型、という風に聞こえます。
 胴長、短足では問題が多すぎるでしょ。お姐さん!」

 

 

 「世間ではそのようにも言います。
 けど、それほど気にすることもないでしょう。
 女性の骨格は、15~16歳までに完成すると言われています。
 人によっては、22歳までかかるそうです。
 思春期を迎えるのが遅かった人は、すこしだけ遅くなると言われています。
 で。どうなんだいお前は。思春期の到来は?」

 

 

 「初潮は、とうに来ておりますが・・・・」

 

 「馬鹿。初潮じゃないよ、思春期のことだ。
 居ないのかい。ひそかに想いを寄せている男の子とか、ボーイフレンドが?」

 

 

 『居るには、いるのですが・・・』と答えかけた瞬間。
清子の足元へ、たまがのそりと歩いてきた。
『へぇぇ。好きな男が居るのかよ、お前、その顔で?』
胡散臭そうな顔でたまが清子を見上げる。

 

 

 『うるさい。このド短足子猫!』
狙い済まして繰り出された清子の右足が、むなしく空を切る。
『へへん。すでに読んでおるわい。お前の右足が来ることなど、すでに承知済みじゃ』
くるりと左へ逃げたたまが、勝ち誇ったように清子を見あげる。
その瞬間を清子は逃さない。

 

 

 清子の左足が、たまの尻尾を的確にとらえる。
『愚か者。右足はフェイントじゃ。本当の狙いは左足で、お前のしっぽじゃ!』
まいったか、こいつめ・・・清子が嬉しそうに、たまを見下ろす。

 

 

 「こらこら。もうそのくらいにしなさい、いい加減にしなさい、2人とも」

 

 着付けの手を止めた小春姐さんが、清子とたまを交互に睨む。

 

 

 「いたずら子猫と遊んでいる場合ではありません。
 本日のお座敷には、とても大切なお客様がお見えになります。
 粗相のないよう、気をつけなければなりません」

 

 はい。綺麗に出来上がりました。ポンと清子の帯を小春が叩く。

 

 

 「あとは、襟元に名刺と扇子をいれます。
 かごを持って、ぽっくりをはけば、立派な半玉の出来上がりです」

 

 なかなかの半玉ぶりですねぇ、と小春が目を細める。

 

 

 「小春お姐さん。いま、大切なお客様がお見えになるとうかがいました。
 本日はいったい、どのようなお方がお見えになるのですか?」

 

 「気になるかい?。喜多方の小原庄助さんだよ。
 会ってみたいだろう、お前も」

 

 

 「えっ、お姐さんがいまだに、想い続けているという、あの喜多方の・・・・」

 

 「ふふふ。お前がうろたえることはないだろう。別に。
 そうさ。その当人の小原庄助さんだ。
 あたしがどんな男を好きになったのか、関心があるだろう、お前も」

 

 

 突然そんな風に言われても、どうしたらいいのか・・・・と当惑している
清子の足元へ、たまがまた、尻尾を引きずりながらやってきた。
『面白そうな話だ。さっきのおわびに、俺もお座敷に連れていけ。清子』
と見上げる。
『馬鹿言ってんじゃないわよ、たま。これは遊びじゃありません。
お仕事ですから』連れて行けるはずなどありませんと、清子が鼻で笑う。

 

 

 『でもよう。そこに置いてあるかごは、おいらにぴったりだぜ。
 連れていってくれよう。オイラも見たいんだ。
 小春は命懸けで惚れて、尽くすためだけに、この東山温泉へやってきた。
 どんな男か見たいだろう。誰だって』

 

 『そうは言うけどさ。バレたら大変なことになるのよ、お前。
 八つ裂きどころか、三味線の革にされてもしらないわよ』

 

 

 『かごの間から覗き見するだけなら、別に問題はないだろう。
 連れて行ってくれよう、清子。
 お前のことも愛しているからさ。
 おれだってこれからさき、持てるいい男になるための勉強がしたいんだ。
 独身男の向学心てやつを、無駄にしないでくれ。頼むよ、清子』

 

 

 『なんだかなぁ・・・
 あんたの場合、どこまでいっても魂胆が見え透いているけどね。
 ただの興味本位だけの話でしょ。
 でもまぁいいか。静かにかごの中に隠れているんだよ、本当に。
 ばれたら、あんたもあたしも、只では済まないことになるんだからね』

 

 

 『おっ、恩にきるぜ。さすがは清子。そうこなくっちゃ!』


(32)へ、つづく

 

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赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (30)
 半玉の着付け

 

 お粉(しろい)は、一度塗ったら、それで終わりというわけではない。
ファンデーションをなじませていく時と同じように、鏡越しに映る自分の顔を
何度も確認しながら、スポンジを使い肌になじませていく。

 

 正座したままの清子が、くるりと向きを変える。
合わせ鏡を使い、いま塗り終えたばかりの背中の様子を確認する。
芸妓のお化粧方法は、お姐さん芸妓から妹芸妓へ、実践と口伝えによって
伝えられていく。

 

 「すべてのことは、見て覚えます。
 わからないことがあれば聞いて覚えます。
 身支度も、芸も、自分から身に着けることがすべてです。
 あわてることはありません。
 できるようになるまで、ウチがきちんと見届けますから。うふふ」

 

 

 小春姐さんが清子の背中で、目を細めて笑う。
小春姉さんは、間近に迫った舞台の準備のため、舞の稽古で忙しいはず。
それなのに部屋の隅に座ったまま、じっと清子を見守っている。

 

 「もうすこし、柔らかい印象にしなければいけませんなぁ。
 眉毛はまず、赤の粉で引きます。
 黒だけで引いてしまうと、どうしてもきつい印象になります。
 武者のように、りりしくなってしまいます。
 赤でまず描いてから、その上に黒をのせ、淡く調節していきます」

 

 

 小春のあたたかい指先が、清子の眉を柔らかく馴染ませていく。
半玉としてデビューして、1年が過ぎると、アイラインを入れたり、
目元の赤も濃いめに付けたり、その人の独自のアレンジが、許されるようになる。
しかし出たての半玉に、アイラインは許させれない。

 

 目尻も、頬紅も、ピンクのお粉でほんのり色づけした程度までが許容の範囲。
上まつ毛にマスカラを付けることは許可される。
ただし。これはお化粧というよりも、拭っても付いてしまう白粉を隠すため、
という要素が強い。

 

 

 お化粧が済むと、着付けに入る。まず、かつらを装着する。
京都の舞妓は、自毛を使って日本髪を結うが、半玉にそうした決まりはない。
多くの半玉がかつらを用いる。
紫のネットをかぶり、この中に自分の髪をおさめてから、鬘(かつら)をかぶる。
オーダーメイドでつくられているが、ちゃんと装着できるまでは、ある程度の
熟練を必要とする。
慣れるまで、お姐さんにかぶせてもらうのが一般的だ。

 

 かんざしは、3つ。
桃割れの後ろと、両わきにつける。
右に大きめのものをつける。ひときわ目立つように配置する。
デビューしたての頃は目立つよう、キラキラ輝く垂れたかんざし類が多くなる。
季節を表した花がおおい。
1月は正月を表す飾りで、1年の実りを願っての稲穂。
2月は梅。3月は菜の花。と変化していく。
月ごとの変化に加え、芸妓の年齢があがるとより渋いものへ変わっていく。

 

 ぶらぶらの飾りがたくさんついたかんざしは、半玉たちの専用品。
たくさんついているほど、若い芸妓ということになる。
子供らしさやかわいらしさを、ことさら、強調しているからだ。
お姉さんになるほど、ぶらぶら類は少なくなる。
かんざしもキャリアとともに、シンプルなデザインに変わっていく。

 

 

 かつらのあとは、着物の着付け。
出だしの半玉は、お姉さん芸妓に着物を着せてもらう。
赤い襟のついた長襦袢の上半分を、すこし大きめに抜く。

 

 

 「華奢ですねぇ。清子は。

 昔はウチも、こんな細さでしたが、いまはとてもかないません。
 羨ましいかぎりですねぇ。この肌の、このきめ細やかさは。
 食べてしまいたくなります。うふっ。」

 

 ウッと思わず息がとまるほど、清子の胸を伊達締めが締めあげていく。
小春の手に、手加減はまったくない。
『脇の下を締めることで、余計な汗が止まるのよ』着付け中の小春が、小さな声で笑う。
『それにしても、姐さん・・・・これではキツすぎて、まったく息ができません』
清子が、思わず弱音をこぼす。
「きつ過ぎる?。おかしいですねぇ・・・」小春があわてて、清子の胸元を覗き込む。

 

 

 「苦しくて息が出来ないなんて、変ですねぇ?。
 あら。ホントだ。ペッタンコに潰れていますねぇ、お前の胸が。
 道理で途中で、変な手応えなどが有ると思いました。うふふ・・・」
 
 可哀想ですから、少し緩めておきましょうと、小春が清子の背後へ回りこむ。
苦しそうな顔を見せている清子の胸元へ、小春の右手が伸びてくる。
「どうするのかな?」と見つめていると、小春の指が、そっと襟をかき分ける。
するすると伸びた小春の指が、あっというまに襟の中へすべり込む。
そのまま、清子の小さな乳房を握りしめる。
『あっ!、お、・・・お姐さん!』
突然の出来事に、思わず清子が悲鳴をあげる。

 

 

 「あら。思いのほか、手応えが有るじゃないの、お前のおっぱい。
 大きさは、固めの熟れる前の、小桃というところかしら。
 とても良い形をしています。
 乳房の形や大きさ、位置は、みなさん微妙に異なります。
 ふう~ん。お前さんのオッパイの位置は、少し下目の、このあたりですか。
 なるほど。これでは、さきほど締めた伊達巻の位置では圧迫されすぎて、
 たしかに苦しくなるはずです。気の毒なことをいたしました・・・うふふ」

 

(31)へ、つづく


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赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (29)
 もしかして、わざと間違えた?

 

 「あれから、一週間が経ちました。
 今日からはぜんぶ自分でやってごらん。あたしは手出ししませんから」

 

 え?、と思わず清子の箸が止まる。
あれから一週間が過ぎた。
とつぜん小春姐さんが清子に、準備のすべてを自分で
やりなさいと宣告してきた。

 

 「今まで見てきたことを、自分なりにやってごらん。
 分からなければなんでも聞きなさい。
 芸事も、着付けも、お化粧も、人から教わるものではありません。
 全てが、見て覚えることです。心配には及びません。
 困ったら、目で呼びなさい。
 いつでもお手伝いしますから。うふふ』

 

 そう言い残し、『ご馳走様』と手を合わせ、小春が席を立ってしまう。

 

 『おい。今日から独りで全部するのかよ。・・・・大丈夫か、お前』

 

 不安そうな目で。たまが清子をみあげる。
だが清子が、チロリと赤い舌を出す。


『そんなこともあろうかと思い、毎日、克明にメモなどをとっておきました。
へへん。これさえあれば鬼に金棒です』自信たっぷりに、清子が笑う。

 

 『そいつは何よりの心がけ。清子にしては上出来だ。
 だがよう。いちいちメモを見ながら化粧したり、着物を着付けたりするのかよ。
 普通は目で見て、頭で覚えるものだろう。
 たった今、小春姐さんから、そんな風に言われたばかりだろう。
 いいのかよ。そんな中途半端なことで』
 
 『それもそうです。
 カンニングしながらでは、たしかに、まずいものがありますねぇ』

 

 『なんだよ。順番も、段取りもまだ、まったく覚えていないのかよ!』

 

 『書くだけで精一杯だったもの。中身を覚えるのはこれからよ』

 

 『やっぱりな。清子のすることだ。おおかた、そんなことだろうと思ったぜ。
 物覚えが悪い上に、根っから呑気だからなぁ。
 お前ってやつは・・・・』

 

 風呂上がりの清子が、お腰と肌襦袢だけの姿になる。
肌襦袢には、お決まりの、赤い縁取り。
あしもとの足袋は、こはぜが5枚ついた日本舞踊用のものを履いている。

 

 ひとりで、初めてのお化粧に取りかかる。
まず、基礎となる下地からはじめる。
お化粧でいう、ファンデーションを塗る前のベースメイクのようなものだ。
芸妓の場合、鬢(びん)付け油を使う。
椿の実からとれるツバキ油を塗っていく。

 

 

 食用油に比べ、飽和度が低いので髪につけても、べたつかない。
オイル状のものではなく、固形のままのものだ。
それを指で、適量ちぎり取る。
手のひらでこすり合わせるようにして、体温で溶かしていく。
柔らかくなるまでなじませる。
柔らかくなってきたら顔、首、胸元、背中と順に塗っていく。

 

 鬢(びん)付け油の塗り方次第で、おしろいのノリが決まってくる。
しかし。やってみると、これがたいへん難しい。
半玉たちは、ムラなく全体に鬢付け油が塗れるよう、来る日も来る日も、
練習を重ねる。

 

 下地の準備ができたあと。いよいよ、お粉(おしろい)を使う。
額、頬と、柔らかい刷毛で塗っていく
白く均一に塗っていくことで、がらりと顔の印象が変わってくる。

 

 

 『うふふ。ウチはお粉の順番など、間違えません。
 お粉の前に、ピンクのお粉をはたいておかないと、後で困ります。
 あれ・・・・そういえば、お姐さんたちが、お化粧の順序を簡単に、
 間違えるはずなどありません。
 そうか。ウチに覚えさせるために、わざと間違えた振りをしましたね。
 見て覚えなさい。と言う前に、注意をひくための小細工をする。
 確かにこれなら絶対に、順序を間違えたりしないもの」

 

 

 小春は、部屋の片隅で静かに正座したまま、清子をみつめている。
特に動作を急がせる様子もない。
手を膝に置いて座ったまま、清子が、何か聞いてくるのを待ち続けている。

 

 小春の正座に、儚(はかな)さが漂っている。
愛しい人の後を追い、右も左の分からない東山温泉へやって来てから、
10数年という時が経過しようとしている。
三十路の半ばにさしかかった小春に、少しばかり憂いが身についてきた。

 

 

 憂いとは、思うようにならなくて、つらいことを言う。
くるしい。やりきれない、なども、憂いをあらわす言葉のひとつ。
女が憂いを身に着けるとき。もうひとまわり美しくなる。
こころの苦しみは、もうひとまわり、女をおおきく美しくする。

 

 

 そんな小春が、静かな目をしたまま、清子を愛おしそうに見つめている。
おぼつかない手つきで、お粉の刷毛を操っている清子の様子が、
何故か、可愛く見えて仕方がない。


(30)へ、つづく

 

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