赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (29) | 落合順平 作品集

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赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (29)
 もしかして、わざと間違えた?

 

 「あれから、一週間が経ちました。
 今日からはぜんぶ自分でやってごらん。あたしは手出ししませんから」

 

 え?、と思わず清子の箸が止まる。
あれから一週間が過ぎた。
とつぜん小春姐さんが清子に、準備のすべてを自分で
やりなさいと宣告してきた。

 

 「今まで見てきたことを、自分なりにやってごらん。
 分からなければなんでも聞きなさい。
 芸事も、着付けも、お化粧も、人から教わるものではありません。
 全てが、見て覚えることです。心配には及びません。
 困ったら、目で呼びなさい。
 いつでもお手伝いしますから。うふふ』

 

 そう言い残し、『ご馳走様』と手を合わせ、小春が席を立ってしまう。

 

 『おい。今日から独りで全部するのかよ。・・・・大丈夫か、お前』

 

 不安そうな目で。たまが清子をみあげる。
だが清子が、チロリと赤い舌を出す。


『そんなこともあろうかと思い、毎日、克明にメモなどをとっておきました。
へへん。これさえあれば鬼に金棒です』自信たっぷりに、清子が笑う。

 

 『そいつは何よりの心がけ。清子にしては上出来だ。
 だがよう。いちいちメモを見ながら化粧したり、着物を着付けたりするのかよ。
 普通は目で見て、頭で覚えるものだろう。
 たった今、小春姐さんから、そんな風に言われたばかりだろう。
 いいのかよ。そんな中途半端なことで』
 
 『それもそうです。
 カンニングしながらでは、たしかに、まずいものがありますねぇ』

 

 『なんだよ。順番も、段取りもまだ、まったく覚えていないのかよ!』

 

 『書くだけで精一杯だったもの。中身を覚えるのはこれからよ』

 

 『やっぱりな。清子のすることだ。おおかた、そんなことだろうと思ったぜ。
 物覚えが悪い上に、根っから呑気だからなぁ。
 お前ってやつは・・・・』

 

 風呂上がりの清子が、お腰と肌襦袢だけの姿になる。
肌襦袢には、お決まりの、赤い縁取り。
あしもとの足袋は、こはぜが5枚ついた日本舞踊用のものを履いている。

 

 ひとりで、初めてのお化粧に取りかかる。
まず、基礎となる下地からはじめる。
お化粧でいう、ファンデーションを塗る前のベースメイクのようなものだ。
芸妓の場合、鬢(びん)付け油を使う。
椿の実からとれるツバキ油を塗っていく。

 

 

 食用油に比べ、飽和度が低いので髪につけても、べたつかない。
オイル状のものではなく、固形のままのものだ。
それを指で、適量ちぎり取る。
手のひらでこすり合わせるようにして、体温で溶かしていく。
柔らかくなるまでなじませる。
柔らかくなってきたら顔、首、胸元、背中と順に塗っていく。

 

 鬢(びん)付け油の塗り方次第で、おしろいのノリが決まってくる。
しかし。やってみると、これがたいへん難しい。
半玉たちは、ムラなく全体に鬢付け油が塗れるよう、来る日も来る日も、
練習を重ねる。

 

 下地の準備ができたあと。いよいよ、お粉(おしろい)を使う。
額、頬と、柔らかい刷毛で塗っていく
白く均一に塗っていくことで、がらりと顔の印象が変わってくる。

 

 

 『うふふ。ウチはお粉の順番など、間違えません。
 お粉の前に、ピンクのお粉をはたいておかないと、後で困ります。
 あれ・・・・そういえば、お姐さんたちが、お化粧の順序を簡単に、
 間違えるはずなどありません。
 そうか。ウチに覚えさせるために、わざと間違えた振りをしましたね。
 見て覚えなさい。と言う前に、注意をひくための小細工をする。
 確かにこれなら絶対に、順序を間違えたりしないもの」

 

 

 小春は、部屋の片隅で静かに正座したまま、清子をみつめている。
特に動作を急がせる様子もない。
手を膝に置いて座ったまま、清子が、何か聞いてくるのを待ち続けている。

 

 小春の正座に、儚(はかな)さが漂っている。
愛しい人の後を追い、右も左の分からない東山温泉へやって来てから、
10数年という時が経過しようとしている。
三十路の半ばにさしかかった小春に、少しばかり憂いが身についてきた。

 

 

 憂いとは、思うようにならなくて、つらいことを言う。
くるしい。やりきれない、なども、憂いをあらわす言葉のひとつ。
女が憂いを身に着けるとき。もうひとまわり美しくなる。
こころの苦しみは、もうひとまわり、女をおおきく美しくする。

 

 

 そんな小春が、静かな目をしたまま、清子を愛おしそうに見つめている。
おぼつかない手つきで、お粉の刷毛を操っている清子の様子が、
何故か、可愛く見えて仕方がない。


(30)へ、つづく

 

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