サナトリウム -6ページ目

日々


「ふてくされてばかりの10代を過ぎ
分別もついて年をとり
夢から夢といつも覚めぬまま僕らは未来の世界へかけてく」ことができればいいなぁ。


未来は僕等の手の中?

ブルーハーツの歌が心にしみる。


その時ぼくたちは

何ができるだろう

右手と左手で

何ができるだろう


命のあるかぎり

忘れてはいけない

今しかぼくにしか

できない事がある




「ヨン様」考

いまさら「ヨン様」という気もするが、気になるエッセイを読んだので、

去年韓国に行った経験も踏まえて、ちょこっと書いてみる。


 韓国では、ポスターなんかに出てたのは、もっとマッチョな感じの男たちでヨン様は日本人向けお土産品展以外、まったくといっていいほどフィーバーしていなかった。免税品店では、ヨン様のクリアファイルをもらい、帰国後処分に困り、先輩の女性にあげてしまった。プルコギとカルビは美味かった。


 『冬のソナタ』は韓国では例外的なドラマなのだそうだ。韓国の歴史も伝統も盛り込まれておらず、そこにあるのはコスモポリタニズム。『オールドボーイ』と比較しても分かるように、韓国人の意識の大きな要素の一つハン(恨)というものがない。それを日本のおばちゃんたち(若い女性もいるかもしれない)は韓国だと思い込み、せっせとグッズ集め?に精を出す。ノスタルジアとその世代が好むメロドラマ的要素が原動力なんだろうな。

 実は東南アジアでも韓流ブームなのだそうだ。でも向こうでは日本とは違って、民族主義や反日思想などの盛り込まれた史劇ドラマが流行しており、ドラマによって戦争時の感情を追体験しているということだ。 


妙なねじれ現象。


 サブカルチャーは容易に国境を越えるし、韓国語ブームもそれはそれでいいのだが、

たまには自国・他国の歴史・文化を広い視野で考えてみてもいいかなと、思う。

でもその視点の取り方はとても難しくって、僕もたまたまあるエッセイを読んで気づいたに過ぎない・・・

 


ようやく

ようやくアメーバブログのブックマークのつけ方を覚えた。


オラシオさんが書かれていた『死の教室』に触発されて、『ヴィエロポーレ・ヴィエロポーレ』についてちょっとだけ。二・三年前、両国のシアターカイでカントルを思い出す会見たいのが開かれて、そのときはパネルディスカッションもあったんだけど、『ヴィエロポーレ・ヴィエロポーレ』の日本語字幕つき上映会が衝撃的だった。ビデオなのに、あんなにショックを受けるとは思わなかった。テーマは死と記憶なんだろうけど、ま、とにかくパワーがすごいんです。二・三日は興奮して後頭部が熱っぽかった。こんな作品に出会ってしまうと、それ以降見る舞台になかなか感動しなくなってしまうので、それはそれで困ったことなんだけど、『ヴィエロポーレ』はたまげた。字幕があったけど、実は最後のほうはほとんど字なんて読んでなくて、俳優と音楽と歌に釘付けになる。


写真はたとえばこちらから。


http://tadeusz.kantor.free.fr/wielopole.html


僕は彼の絵も小道具も好きだ。

抽象画っぽいのは、そうでもないけど。






最近

ポーランドの音楽に関して、なにやら興味が湧いてきたので、そーいえば、

昔好きだったなというハシディック・ニュー・ウェイヴについて少しだけ。

といっても、僕は音楽について語る言葉をもっていないので適当なんだけど。

ともかく、「ハシディック・ニュー・ウェイヴは五人グループで、モダン・ジャズとファンクをハシディズムの宗教歌の古い伝統と混ぜ合わせ、エネルギッシュな即興を奏で、独自の作品を作り上げている」そうです。

日本でもちょっと昔っぽいというか多少エキゾチックな要素を取り入れた音楽が一時、

というか今も流行っていますが(たとえば、沖縄、奄美)、

僕がハシディック・ニュー・ウェイヴを好きになったのもその程度の理由かもしれません。

らいらいらいらいらーららい、みたいなユダヤのリズムと踊りが気に入ったわけだし。


何年か前、クラクフのユダヤ人文化祭に行ったら彼らの生演奏を聞くことができて、

それから彼らの音楽を聞きようになったんだけど、

ユダヤの民謡的なリズムが僕にはなんだか新鮮だったのでした。


日本では、東琢磨さんがちょこっと書かれているみたいです。

http://thought.ne.jp/html/adv/unpleasure/




こちらでお答えします!


このサイトで見つけたんですよ。

http://www.filmpolski.pl/fp/film1.dll/opisfilmu?baza=4&nrf=4187&start=1



アンジェイ・トゥシャスコフスキも映画に音楽付けてましたよね。

『夜行列車』とか『夜の終わりに』なんかに。


そういえば

ポーランド・ジャズで思い出した。以前見たリプチンスキーの昔の作品にジャズがチョコチョコ使われてた。1973年の『Plamuz』という作品は、リプチンスキーの映画大学撮影科の卒業制作だけど、音楽は調べてみると、ズビグニェフ・ナミスウォフスキがつけている。興味のない人には、何のことやらわけわからん情報だけれども・・・

polish jazz

 続きです。

 1950年代の初期のポーランド・ジャズ・フェスティバルで演奏されていたジャズは、よく知られたスタンダードやこの種の音楽のあらゆるルールに従って、即興で演られていた。しかし若い情熱家達は主にアマチュアだった。だから、アメリカ、またヨーロッパのジャズ・ミュージシャンと比べても、ポーランドのジャズのレベルは相対的に低いものだった。

 1950年代、結成されたジャズ・バンドの数は少ない。[]1956年から1960年の間、今日まで作曲、演奏活動を続ける才能あるミュージシャン達があらわれ、腕を上げた。彼らが、次の世代のポーランド人ジャズマンに影響を与えたことは明らかである。

ポーランド・ジャズ

 

ポーランドジャズについて少しだけ、訳してみました。ちょこっと気になったので。


 ポーランドにおいてジャズのムーヴメントは非常に長い伝統を持つ。しかし、このムーヴメントの誕生となった芸術的事柄の、日にちや事件、一連の出来事を正確に特定することは不可能である。第二次大戦前、ワルシャワやクラクフやポズナンのレストランやバーで演奏していたバンドたちのレパートリーには“ジャズ”があった。そのレパートリーというのは、例えばGeorge Gershwin や、スウィングの時代のブロードウェイ・ミュージカルの作家Richard RodgersやLorenz Hartだ。彼らの作曲法は、まさにスウィングのように、当時ヨーロッパ中でとても流行していた。

 戦後、ジャズ流行の初めの時期は、共産主義政権によって抑圧された。ポーランド・ジャズの次の段階は、「カタコンベの時代」と呼ばれている。というのも、その期間、ジャズは非公式に私宅でアンダーグラウンド・ミュージックとして演奏されていたからだ。1955年の政治的「雪解け」になってはじめて芸術分野に自由がもたらされた。これがポーランドにおけるジャズ・ミュージック発展の本物の始まりだ。ソポトでジャズ・フェスティバルが開催された(1956年と57年)。これが、後に催されることになるワルシャワ・ジャズ・ジャンボリー・フェスティバルの伝統の萌芽である。ジャズ・ジャンボリーはいまや、ヨーロッパの中でも最も古いイベントの一つになっている。



http://www.culture.pl/en/culture/artykuly/es_polski_jazz

いい天気

いい天気だけれども心の晴れない日もあって、

そんなときはなぜか音楽が聞こえてくる。

駅を出ると、南米の人達がレットイットビーを演奏していた。

CMではケセラセラが流れている。

あるがまま、なるようになるのか、なるようにしかならないのか。

ボブ・ディランじゃないけれど、答えは風の中に吹かれているのかなー。

なんて、なんかセンチメンタルなことを書いてしまいましたね。

僕が僕であるために、だとか、答えは僕らの手の中、だとか

昔聞いてた曲たちがよく思い出される。


村上春樹もこんなことを書いていた。

ジャズバーを経営していて、二進も三進もいかなくなったとき、

あるコンサートで聞いた音楽で心が癒されたって。



おおおおっと

僕の好きなマンガの一つに『ギャラリー・フェイク』がある。

アニメ化されるという噂は耳にしていたけど、今さっきテレビをつけたらテレ東で放送してた。

アニメのほうが美形化されてるけど。


一昔前、もうお亡くなりになったスーザン・ソンタグが電車内でマンガを読む日本人の大人を見て

なんて低レベルなの?って言ったらしいけど、日本のマンガって結構勉強になるものもあるよね。

この前は『こち亀』に出てきた勝鬨橋に行ってみた。マンガなかの回想話の橋とは大違いだけど、

だからこそマンガで昔の雰囲気を知るっていうのが楽しい。