カンヌ短編
今月いっぱいで、アップリンクでやっているカンヌ・ショートファイヴが終わってしまうというので、見に行ってみた。ハンガリーの短編が上映されるというので、興味があったから。上映があったのは、アップリンクではなくて、新しくできたアップリンクⅩだったか、ここの椅子はちょっと困ったもんだ。デザイナーの作った椅子のなんだろうが、背もたれが低すぎる。映画館では、基本的にはくつろいで見たいのに、そしてダラーっと椅子にもたれて足を組んだりしてみたいのに、これでは都合が悪い。第二列にかろうじて多少背もたれの高い椅子があったからそれに座る。映画前の広告では、この椅子たちを気に入ったら買えるということが宣伝されていたが、どうなんでしょうね。
映画、第一本目は面白い。言葉がない。短編映画っていうのは、ストーリー性を言葉で伝えるより、映像のみで勝負したほうがよい。また、ストーリーはなくてもいい。このFast Filmという短編は、過去の映画達、サイレント映画からインディー・ジョーンズまでの各映像を切り貼りし、それらを機関車に載せて競争させたり、また名ラブシーンを続けざまに見せたりと、テンポもよく飽きない。ああ、これ知ってるという、映画スノッブの自意識も満足させてくれるし、過去の映像を基に一つの作品を作るという、テクストの成り立ちを意識的に採用した映画だ。理屈ではこういう映画ができるということはわかるが、実践するのは大変だろうな。
二つ目は「シャイニング」からヒントを得た映画。観客参加型に見せかけて、でもやっぱり映画側でストーリーは完結してしまうのだが、引き込まれる。後の三作品は、ゆれるカメラが気持ち悪くてあんまり見ていられなかった。
ハンガリーの短編も揺れるカメラで、発想は面白いんだろうけど、僕にはしんどかった。今日はボロフチックの「ルル」を見に行こう。
映画、第一本目は面白い。言葉がない。短編映画っていうのは、ストーリー性を言葉で伝えるより、映像のみで勝負したほうがよい。また、ストーリーはなくてもいい。このFast Filmという短編は、過去の映画達、サイレント映画からインディー・ジョーンズまでの各映像を切り貼りし、それらを機関車に載せて競争させたり、また名ラブシーンを続けざまに見せたりと、テンポもよく飽きない。ああ、これ知ってるという、映画スノッブの自意識も満足させてくれるし、過去の映像を基に一つの作品を作るという、テクストの成り立ちを意識的に採用した映画だ。理屈ではこういう映画ができるということはわかるが、実践するのは大変だろうな。
二つ目は「シャイニング」からヒントを得た映画。観客参加型に見せかけて、でもやっぱり映画側でストーリーは完結してしまうのだが、引き込まれる。後の三作品は、ゆれるカメラが気持ち悪くてあんまり見ていられなかった。
ハンガリーの短編も揺れるカメラで、発想は面白いんだろうけど、僕にはしんどかった。今日はボロフチックの「ルル」を見に行こう。
ベック
最近、帰ってくるのが遅いせいか深夜番組をよく見る。基本的にはお笑い番組を見て、アハハと笑って終わりなんだけど、この間、ふとテレビ東京にチャンネルとあわしたら、日本のアニメなのに英語っぽい英語が聞こえてきた。発音もネイティヴみたいだった。「Beck」というタイトルで、「ゴリラーマン」や「ストッパー毒島」を書いたハロルド作石のマンガを基にしたものだとわかった。「ゴリラーマン」、全巻そろえて何度も読んだなー。
それにしても、日本のアニメの中に本物の英語が登場してくるとは驚きだ。深夜枠でしかできないだろうし、テレ東ならではの発想なんじゃないかな。あと、挿入される音楽も、まともな音楽で、これを聞くだけでもいい気持ちになる。
マンガの物語については詳しくは知らないけれど、注目してみよう。
http://www.tv-tokyo.co.jp/anime/beck/
樺山氏の講演を聞いて思ったこと
今日は樺山紘一氏の講演を聞いた。西洋中心の「知の構え」を批判的に語るのだと思っていたが、ずいぶん期待はずれで、近代において図書館・博物館・展覧会がトライアングルをなして「知と技」を広めてきました、というありきたりな内容でがっかりだった。樺山氏も図書館や博物館が「制度」「装置」として機能していることを認めているのだが、その「制度」の構造・成り立ちについては無視している。 図書館はメソポタミアの昔からあるのだが、博物館や美術館が(ともに英語ではmuseum)ヨーロッパで盛んに作られるようになったのは18世紀半ば以降だという。その時代というのは、産業化が進んで、また非ヨーロッパの植民地化も行われていたときだろう。ルーブル美術館ができたのは、フランス革命後で、それに嫉妬したエカテリーナ二世がロシアにエルミタージュ美術館を作った。美術館、絵のコレクションを持つということが当時ステイタスとなったことの証である。また、美術館であれ、博覧会であれ集めたものを展示するというところに、何を集めて何を集めないかという選択のバイアスがかかることを忘れてはならない。100年前の万博では黒人が飾られていたことを彼は知っているのだろうか?博覧会を運営する側の視点の分析というものが樺山氏の話には欠けている。 図書館なり博物館なりが「知」を広める役割をしているのはわかるが、その「知」のあり方に注目すべきだし、また美術館に関していえば経済的な側面からも考えて見なければならないだろう。日本で毎年何回の印象派展が開かれるのだろうか?美術館の方針のよって、また、美術館自身も大衆に迎合し方針を選ばされているともいえるが、観客は見るものをあらかじめ制限されているとこは、言ってもいい。樺山氏が館長を勤める国立西洋博物館ではマティス展が開催中だが、これもお客さんが入るからだろう。 また、図書館にしろどこにしろ所蔵に関しては、価値があるから所蔵するわけで、価値がなければ受け入れない。大学の図書館にマンガはおいていない。マンガはまだ「知」の領域に組み込まれていないのだ。また、廃棄の問題もある。受ければかりしていれば、当然収容キャパシティーを超えるときがくるわけで、そのときに何を捨てるかといったときにも価値判断が加わる。これも制度の持つひとつのバイアスだ。美術館でも、所蔵する絵画のどれを展示するかという判断にもこのバイアスがかけられる。 樺山氏は、図書館・美術館・博覧会の賞味期限が切れてくるという反論があると予想し、そこの大学という1コマを加えて菱形となって知を広めていけると良いといってたが、それはそれで賛成できるとして、樺山氏の言う賞味期限は「制度」外の人が言っていることに関してだが、さっきも書いた通り、所蔵物の「賞味期限」を制度側が決定することがあるということを言わないのは、いかがなものか。「知」と言った時に手放しで喜べないのはサイードでも読めばすぐにわかるのに、と思うけれども、講演の場が場であったために仕方のないことかもしれない。でも、質問の時間があまりとられていなくて、非常に残念だった。