サナトリウム -10ページ目

ふむむ

 ランキングを見てみると、一日十数人の方がご覧になっているようだ。どんな経路で見にきてるんだろ。ってゆーか、ブログって、会社はどのようにして儲けてるんだろか。知名度アップのため?広告効果はそんなにあるのかな?
 そんなことはおいておいて、昨日、田中一光のエッセイ集をぱらぱらめくっていると、まったくもっともだと思うことが書いてあった。
 現在は生産の時代ではなくて、消費の時代だ、と。消費の時代へのアンチテーゼとして、レトロなものや無印良品が出てきている、と。 
 今の日本の生活を見ていると、基本的には足りないものはない。基本的にはというのは、日常生活をするという意味で。みんな冷蔵庫だってテレビだって持ってるし。実は要らないものを、要るかのように見せかけて売っていくのが最近の経済だ。パソコンだって、もうみんな持ってる。これだって本当は要らなかったかもしれない。でも、速さを追求して、どんどん新しいものを更新して、今までのものを時代遅れにしてしまうことで、新製品を売る。ブラウン管のテレビで十分なのに、フラットなのが売られる。そして、それがなければ日常生活が不便になる、というところまで持っていく。
 そういや、こんなことは村上春樹も書いてたっけ。
 商品の発売されていく様を見ていると、メーカーの人たちは売る順番を初めから決めているんじゃないかと思えてくる。携帯はそのうちどうなるのかな?僕としては、降ったら充電できるのがほしいところだ。充電するのがめんどくさいから。
 消費の世界だから、イメージでアピールするの広告業界が盛んなのもうなずける。メールマガジンには広告がいっぱい載ってる。実際どれくらいの効果があるかは知らないけど。
 移り変わりの速い、最近の音楽シーンには興味ないが、イエローモンキーの新曲を待ちわびていたころが懐かしい。

京橋へ

 京橋のアーキペラゴという小さなギャラリーで開かれた、リプチンスキーのDVD上映会に行ってみた。デジタルの技術がない昔に、あんな手のこんなだ映像を作っていたとは驚き。新しいものより、70年代の作品のほうが、とんがった感じがしていて好きだ。
 音楽に、登場人物の動きをシンクロさせる「オーケストラ」は、最初のほうは面白いけど、あとになって飽きてくる。
 また、面白い企画をやってほしいものだ。

ああっと

 昨日、ジガ・ヴェルトフの「カメラを持った男」を見に行ったが、疲労のため爆睡。ほとんど何にも見ていない。あー残念。
 もう一本見る予定だったけど、やめた。ぽっかりできた時間で、神保町をぶらぶら。と、素敵な本屋を発見。たまたまお金も持ち合わせていたので、田中一光のエッセイ、トマシェフスキのカタログみたいな小さな本、四方田犬彦の旅日記を買ってしまった。四方田氏の本は、かつてポプラビーチで連載されていたもので、いつかまとめて本にならないかなーっと思っていたところだったから、願ったりかなったりだ。
 彼は毎週、何でもいいから気になったことを文章にしてきたわけだけど、何か気になったことを、それ以外のものとの関係の中で語るから、エッセイに深みが出てくる。マンガでも、映画でも、旅先の出来事だってなんでも幅広い知識から考察してみると、新たな地平が見えてくる。文章も軽妙だし。彼みたいに書けたらいいなと思う。今は、どうやら旧ユーゴのほうにいるらしい。
 
 アメブロのランキングが再開されたみたいだが、僕にとってはあまりうれしいことではない。アメブロで何かを書いているくせにこんなことを言うのはナンダケド、ランキングっていうのはやっぱり記事を何度も書いて、更新を繰り返すことで順位を上げていくものだから。自分のブログがランキングに参加されていると、やっぱりついつい見てしまう。ここがやはり企業の目としての付け所なんだけど、スピード、更新が称揚されるインターネットでは仕方がないことなんだけど、自分はやっぱりのんびり書いていこうと思った。文章の練習のために。

ええっと

 NHKと朝日新聞の争いはどうなったのかな。もっと報道してほしい。

アニメーション

 「短編アニメーションには台詞をつけない。」ポランスキーは昔こんなことを言っていた。映像だけで何かしらの物語を語ることができたら、それこそ映像による芸術だと思う。けれども、アニメーションを論じるのは、映像を論じるのは難しい。まだ、僕には言葉がない。物語だけを追うのはもうやめよう。スーザン・ソンタグの「反解釈」に倣って。

イディッシュ映画

 昨年の夏、イスラエルのテルアビブ大学でしばらく映画史を教えていた四方田犬彦氏が、日本に帰ってきて、イスラエル映画についての講演をやったらしいけど、イディッシュの映画はかの地では製作されていたのかな。ポーランド系ユダヤ人が第二次大戦前に、イスラエルに行ってイディッシュ映画を撮ったってことはあったけど。イディッシュ映画祭が日本であったら面白いと思う。クラクフのユダヤ文化祭みたいなところとか、アメリカではそんな催しはあるようだけど、日本ではなかなかない。翻訳もめんどくさそうだし。もしかしたら、既に行われているかも。
 ディブックなんかだと、物語のあらすじだけを印刷して観客に配っておいて、字幕なしで上映してもそれなりに楽しめるんじゃないかな。誰かにやってほしいところです。

パッチギ

 公開日に見にいこうと思っていたが、諸般の都合により断念。知人が出ているから見てみようかと思うんだけど、実のところ映画の内容や質に関してはよく知らない。井筒監督ってほんとにちゃんとした映画を撮れるのかな。ヨーロッパ的ないわゆるアートチックな映画じゃなくて、エンターテイメント重視の映画を作っているようだけど、ま、とにかくどんな作品でも僕を楽しませてくれればいいわけなんだけれども、今回の場合はちょっと勝手が違う。
 知人がこの映画に出ると聞いたときにピンときた、プロデューサーは李鳳宇じゃないのかと。彼は在日地朝鮮人の映画プロデューサーで、実はキェシロフスキの「アマチュア」を20年位前に日本で公開した人だ。彼と四方田犬彦氏が、ざっくばらんに各自の来し方を語っている本を、二年位前に読んだ。四方田氏は、よくもまあここまで言ってしまうわね、っていうくらいディープな身の上話をしていたが、李鳳宇の関西での高校生活についてのお話は非常に面白かった。彼らは、日本の高校生すべてに対して喧嘩をしているという意識だったのだ。日本人高校生は五万といるが、自分たちは数ではそれには到底及ばない。でも、プライドをかけて喧嘩する。時には警察ともいざこざをおこす。済州島についての血生ぐさい事件についても触れられており、この本で僕はようやくこの事件のことを詳しく知った。四方田氏も70年代後半、韓国で日本語を教えていて、ここら辺の政治的状況にはずいぶん詳しい。何冊か本も書いてるし。特に、京都という町が戦争で破壊されなかったから、差別もそのまま残ったという部分が印象的だった。
 ま、ともかく、この映画は李プロデューサーの実話に基づいているらしいけれど、僕はもうその話をだいぶ知っているわけで、じゃ、その本から僕が得たイメージを映画が超えられるかというとそればなかなか難しいんじゃないかと思う。だから、井筒監督はフォーククルセダーズの「イムジン川」なんかを使うんである。今の若者はこの曲を知らないから使うとかそんなことでも考えているのかね。安直、キャッチーな気がしてならない。以前「アイデン&ティティ」という映画を見たが、映画の内容は偏差値50くらいだったけど、最後のディランの曲が最高だった。「イムジン川」もそんな風に使われているんだったら、がっかりだ。フォーククルセダーズの歌は「帰ってきたヨッパライ」(大島渚)でも、使われていて、なにやら二番煎じにも見えてくる。
 と、まあ、こんな感じで、見る前からハードルはかなり高くなってしまっているから、なかなか純粋に映画を楽しむことはできないなーと思うけれども、いつか見に行ってみよう。



ズビャギンツェフ2

 オラシオさん、コメントありがとうございます。今年もよりしくお願いします。
 「父、帰る」という映画ですが、僕がこの映画を面白いと思ったのは、ストーリーも文化的背景もかなりそぎ落として、映像の力のよってのみ映画を進行させていったところです。音楽もほとんどなかったと思います。ハリウッド映画にあるような、筋がわかって万々歳みたいな映画ではなく、何かわからないけど確かに何かがあるような雰囲気を漂わせる、単純なるトーリーを肉付けする力強い映像は、なかなかお目にかかれません。「あ、この映画はこれを言いたかったんだ」と思ったときに、もうその映画の体験は終わってしまい、説明できてしまえばなかなか後には残らないかもしれません。分からないからこそ、人はその映画が何であったのかを考えるわけですが、でもその分からなさも全く分からないというのではなく、何かが分かりそうなところでとめておく、そういったことができるのはやっぱり、各ショットの強さと編集によるものでしょうが、そこら辺を解明できたらいいなーと思っている今日この頃です。そこに映画の秘密があるでしょうし。
 映画の内容については、またいつか考えて見ます。宗教があるかもしれないし、ロシア文化が控えているかもしれないけれど。

先日

 最近深夜にたまたまテレビをつけると、素敵な歌に出会うことがある。中島みゆきの「歌姫」、この前はさだまさしの「遥かなるクリスマス」。「遥かなるクリスマス」は、どうやら紅白で歌われてらしいけど、そのとき僕は多分寝てしまっていたので見ていない。惜しいことをした。今回もNHKだったけど、前は桃井かおりがホステス役を務めていたミュージシャンとのおしゃべり&ライブの番組で、この曲が流れてきた。最近の世勢をうまく歌にしているなと思った。

 特にこの部分。

僕達のための平和と 
世の中の平和とが少しずつずれ始めている
誰もが正義を口にするけど 
二束三文の正義 十把一絡げの幸せ つまり嘘

 クリスマスと何かニュースみたいなものを組み合わせるのはサイモン&ガーファンクルが昔やっていたのを思い出させる。メリークリスマスという言葉といまの現実とのギャップ。日本語においては空虚な言葉であると同時になにやら楽しげな雰囲気をかもし出すメリークリスマスという言葉を繰り返し使い、
グローバリズムに対する辛辣な批判を盛り込む。
 今、人々をだますのには操作した情報を流すのではなく、一部の情報を誇大し繰り返し流せばよい。と誰かが言っていた。
 アメリカは今、justiceを振りかざしながら、世界の「平和」を築こうとする。しかし既に平和という言葉を用いようとせずに、「安全」を、「安全」をとしか言わない。大統領選を見ていれば、彼らの言葉を聞いていればそれがわかる。「安全」を求めるということは、今が安全ではないからだ、その「戦争状態」を作り出した張本人ははアメリカなのに。ビンラディンだって昔はCIAの手先だった。war on terrorというスローガンがあったが、しかしこの場合のwarはかつてのような国家間の戦争ではなく、超大国が危険とみなした地域をぶっ潰すという構造で行われるものだ。彼らに危険とみなされた人々はすべてテロリストとなってしまう。そして、「テロリスト」達はアメリカに反発するから、アメリカに協力的な日本にだって敵対心を持つだろう。
 しばらく前に、一人の日本人が人質となって殺されたが、日本のメディアはその後重点的に取り上げることもなく、さらっと流した。大丈夫か報道陣?と思ってしまう。
 きな臭い話になってしまったが、ただちょこっと書いてみたかっただけです。「メリークリスマス」を繰り返すことは、アメリカの大統領が毎度繰り返す正義といった言葉が空虚に響くのと、つながっているように聞こえる。彼の声とこの詩にだからできる、歌ならではの表現だなー。

 さだまさしについてもう少しだけ。
題名は忘れたけど、「がんばれ~、がんばれ~、がんばれ~、みーんなー」という曲があった。今日もがんばろっと。

 最後にイチローの名言。

 「毎日が勝負ですよ」






ズビャギンツェフ

 昨日はロシア映画「父、帰る」の監督を交えたシンポジウムに行って来た。「産む」という意味での母から、「精神」という意味の父への移行の物語ということらしい。これはどのインタビューを読んでも載っていなかったので、いい収穫になった。
 それにしても精神たる父が死んでしまうということはどういうことなのだろうか?亀山氏によれば、また沼野氏も言っていたが、ロシア文化には「父殺し」の流れが深くにあるという。