サナトリウム -9ページ目

チェコ?

プラハでピルスナービールを初めて飲んだ。ぬるいのにうまい。
ポーランドは最近雪が降っていて、ヨハネ・パウロ二世がインフルエンザに罹ったという話題でもちきり。そういえば、映画産業に課税してポーランド映画に投資しようという話はどうなるんだろう。やっぱり廃案かな。

ピナ・バウシュ


ピナ・バウシュ演出、ヴッパタール舞踊団の「ネフェス」公演が六月にある。
一度見てみたいと思っていたピナ・バウシュなのでできれば行ってみたいな。

フォークル

 映画「パッチギ」で人気再燃?しそうな京大卒のフォークバンドフォーククルセダーズ。音楽が頭から離れない。フォークソング、共産主義圏ではどうだったのかな?ポーランドでは反体制の歌が、地下活動で、カセットテープで広まっていっていたらしいけど。僕が当時の文化で注目しているのはキャバレーだ。地下で酒を飲みながら反体制の歌を歌う。反体制の歌だけではなかっただろうけど、歌の力を知らされる。共産主義だって「インターナショナル」があるし。国には国歌がある。

「悲しくてやりきれない」の歌詞を発見したので載せてみる。

胸にしみる 空のかがやき
今日も遠くながめ 涙をながす
悲しくて 悲しくて
とてもやりきれない
このやるせない モヤモヤを
だれかに 告げようか

白い雲は 流れ流れて
今日も夢はもつれ わびしくゆれる
悲しくて 悲しくて
とてもやりきれない
この限りない むなしさの
救いは ないだろうか

深い森の みどりにだかれ
今日も風の唄に しみじみ嘆く
悲しくて 悲しくて
とてもやりきれない
このもえたぎる 苦しさは
明日も 続くのか

パッチギ

 日曜日の午後、新宿の映画館に「パッチギ」を見に行った。思っていた以上に面白かった。映画館で一人で笑った。フォーククルセダーズの曲の中で僕の一番好きな「悲しくてやりきれない」を聞くことができた。音楽ってすごいね、やっぱり。「青春デンデケデケデケ」も最高だ。「パッチギ」は、ちょっと腑に落ちない部分もあったけど、いろんな要素をつぎ込んで、よくあれだけ楽しさを引っ張ったなとおもう。詳しくはまた、別の機会に書こう。
 1968年の人たちは、1945年を見ていた。現代の僕達は、なぜか1968年に拘泥している。村上春樹も村上龍も中島らももなんだかんだ1968・9年のことについて書いていて、僕はそれをうらやましいなと思いながら読む。妙なノスタルジアだ。

「父、帰る」一考

 このブログのトラックバックを見ていると、イエローモンキーと「父、帰る」が多い。ということで、この前行ってみたシンポジウムのまとめを書いてみる。コメンテイターの発言をつぎはぎした部分も多いですが。

 父親が帰還し――この映画のタイトルのロシア語からの逐語訳は『帰還』――子供たちをつれて旅に出て、なぜ死んだのか。
 父親を神の登場として解釈することは可能だ。人間は基本的に原点喪失しており、アイデンティティを求める。自分の座標を自分で知ることができれば、アイデンティティを模索する必要はないだろうが、これを持っていないために宗教的なものにアイデンティティを求めるのだ。宗教は、特に、人間の存在の始まりと終わり、誕生と死に際して必要とされる。人は、自分の存在を自分では定義できないために、宗教という虚構の物語と儀式を作り出し、自分たちを安心させるのだ。存在の意味づけは、死という、説明不可能な未知なるものとの関係をどのように構成するかという点に関わっており、原点となる神(神々)が必要とされる。
 この映画の大きなテーマとなっているのは、帰ってきた父親が死ぬということだ。そして、父親は予定していたものを息子たちに渡せなかった。西洋では神はイエスの形で登場することが多いが、この映画では神は父として登場する、と解釈することにしよう。監督によれば、この映画のテーマは母親から父親への形而上的移動であり、つまり、「“産む”という意味での母から、“精神”という意味の父への移行の物語」であるということだが、“精神”たる父が最後に息子の行動によって――故意ではないという設定――死に至るということはどういうことだろうか。ニーチェよろしく、「神は死んだ」ことを示そうとしたのだろうか。亀山郁夫の言う、ロシア文化に横たわる「父殺し」の系譜をもっと知ってみたいところだ。

 今朝、自転車に乗って駅に向かっていると、少しだけ桜が咲いていた。梅の見間違いかもしれないが。日本人は桜が大好きで、歌謡曲にもよく登場するが、では、この日本人の桜好きはいつ頃から始まったのあろうか。しばらく前に、NHKの番組で、明治以降の軍国主義時代に桜の「一瞬の美しさ」の美学が利用されていたとか何とか、と言っている人がいた。もっとちゃんと見ておけばよかった。昔は、といってもいつのことを昔といっているのかは分からないけど、花といえば梅だったんじゃないかな。儚く美しい、時には狂気を秘めた桜のイメージはいつ頃形成されたのだろう。誰か教えてくれないかな。
 ちなみに僕はイエローモンキーの「花吹雪」が好きだ。花吹雪という散るイメージと実際の恋人同士の別れが重ねあわされ、花吹雪を背景に淡い回想と後悔がフラッシュバックしてくる。現実の世界と空想の世界が一体化したような、そして青い空を背に吹雪く桜の花びら映像が喚起される。彼らはよく、ロックは西洋の借り物だっていってたけど。この曲は、借り物のロックに日本語の詩とイメージをぶつけることで、見事、日本のロックになった歌だと思う。

きょうの出来事

 昨夜の「きょうの出来事」は面白かった。報道の番組なのに、堀江氏から、もっと調べてくださいよ、みたいな事を言われてたのには笑える。女性のほうのアナウンサーのあわてっぷりを見てても、あー大変そうだなというか、滑稽だった。安直過ぎる質問はほんとにバカバカしい。彼のストレートな物言いに期待していたのかもしれないけど、手の内をテレビで明かすようなことはしないだろうし、今の騒ぎに油を注ぐまねもしないだろうことくらいは予想しなきゃ。デリカシーのないアナウンサー(女)だった。番組の方針上仕方なかったのかもしれないけど。
 メディア進出について、藤田氏は何か考えてるのかな。

ソクーロフ

 
 アレクサンデル・ソクーロフの『太陽』がベルリン映画祭で公開された、ということをニュース23で知った。早くみたい。イッセー尾形と桃井かおりだし。

さっきの本

 さっき話題にした本を発見しました。

こっそり読みたい禁断の日本語
朝倉 喬司 (著)

先週末は

 せっかく買ったパソコンがウィルスか何かにやられてしまい、三日間、ほとんどパソコンの前に座っていた。基本的にパソコンが苦手な僕にとって故障というものは地震より怖い。いろんな人に電話したり、説明書を読んだりしても結局埒が明かず、東芝に電話した。以前NECのパソコンを使っていたときは、電話してもぜんぜんつながらず、こんなんじゃお問い合わせ窓口を作る意味無いじゃんと思っていたが、東芝は早かった。そして対応もかなり丁寧。当たり前のことだろうけど、実行するのは難しいと思う。パソコン初心者に、電話のみで納得させられるような話術と知識と人柄に大感謝。
 パソコンを直しながら、といっても進展はなかったのだが、四方田犬彦の「心は転がる石のように」を読破してしまった。この本は前も書いたように、彼が一週間おきに書いてたマガジンを採録したものだけど、旅行記あり、書評あり、映画評ありと、彼のエッセイのファンとしてはかなりのヒット作だった。優れた書評を読むとその本を読みたくなる。本の内容が大まかにつかめながらも、そして、具体例も少し出しながら、本を読めばもっと尾面白いことが書いてるよと、僕を誘う。ということで、早速、一冊注文した。本の題名はど忘れしてしまったが、「隠れて読みたい日本語」(前者)のようなタイトルだった。再斉藤孝の「声に出して読みたい日本語」(後者】 の逆で、この本には、エロい日本語、ののしる日本語などが、ソーラン節から夏目漱石からいろんなところから集められていて、作品の断片と解説がついている、標準語という、明治以降作られた虚構の共通語ではなく、各土地の、各時代の生の声が聞こえてくるようである。「声に出して読みたい日本語」は、どうせ、教科書に出てきそうな「美しい」日本語なのだろうけど、「汚い」日本語をもっと知りたいと思う。だって、英語にはあんなに悪口があるのに、日本語にはなかなかない、のではないかな。知っているからといって使うわけではないけど、知ってるのと知らないのとでは、自分の日本語の豊かさに違いが出てくると思う。もちろん、「声に出して読みたい日本語」を覚えるのも教養になる。猥談、猥歌を纏めた本があったら読んでみたい。これらだって日本文化の大事な要素なのだから。
 書くことではなく声に出すということで、言葉は伝承されてゆく。文字は残るけど、声は残らない。とすると、前者も結局、書きとめられた日本語を追っているに過ぎないという意見も出てくるが、筆者の関心があるのは、会話を書き留めた部分なのだ。目ではなく、耳と口を使いたくなるような言葉とであった時、僕はうれしい。
 最近好きな詩は「汚れちまった悲しみに」