目標は、「高校教師 or 芸人」から「臨床薬剤師」に !!
薬剤師の仕事を変えるぞぉ !! 1971年3月、大野高校(福井県)を卒業し、4月から北陸の中心都市にある「金沢大学」に通うことになりました。高校時代の日記には、「高校教師」か「芸人」になりたいと書かれています(→余談➀)。 1年半の教養課程は、毎日、兼六園を抜け、石川門をくぐり、金沢城内に通いました。休むことなく授業は受けてはいましたが、フォーク・バンドを作ったり(→余談②)、「日本一周ヒッチハイク」の旅に出るなど、私生活では・・・ふらふらと彷徨っていました。 1年半の教養課程の後、医療系の宝町キャンパス内にある薬学部での2年半の専門課程に進みました。学部卒業後、大学院(修士課程)に進みましたが、「自分のような雑な性格は、研究者に向かない」と悟り、修了後は大学病院の薬剤師になることを決めました。当時、「大学院まで出たのに、どうして“薬剤師なんか”になるの ?」と不思議がられました。その理由のひとつは、学生時代に聞いた話が強く印象に残っていたからです(→余談③)。 アメリカ合衆国(USA)では、医師を始めとする医療従事者と患者に向けて、医薬品情報(Drug Information : DI)提供を通した臨床業務を行っている・・・らしい この波は日本にもやって来る・・・と、アンテナがピクピクしました。そして、“薬剤師なんか”の“なんか”の部分が引っかかり、「薬剤師の仕事を変えるぞ !!」・・・と、熱くなりました。この出会いがなかったら・・・ 1977年4月から、金沢大学医学部附属病院薬剤部で、社会人としてスタート。ただ、当時は、「患者の待ち時間短縮」が最大の目標で、調剤業務に明け暮れる毎日でした。 ある日、職場の先輩から「自主ゼミ」に誘われました。それは、医学部附属がん研究所(がん研)病院で週イチ行っているもので、がん研病院の河島 進 薬局長(後に、北陸大学教授、学長)が中心になって、「臨床薬剤学/臨床薬学の展望(広川書店)」という書籍を読み合わせるというものでした。 そして、1978年末に出版された「臨床薬学と治療学(広川書店)」を購入し、仕事後、読み進めました。この2つの書籍との出会いがなければ、薬剤師として、41年間、仕事を続けられなかったのでは・・・と思っています。 その2つの書籍ですが、残念ながら、手元に残っていません。65歳で山口大学を退職する時、「“薬剤師”を卒業 !!」ということで処分したようです。せめて、写真を撮っておけばよかったのに・・・ このように書くと、順調な薬剤師人生・・・と思われるかもしれませんが、1984年の後半までは 「いつ、辞めてもらってもいいよ」という “窓際” 状態でした(→余談④)。SNSで、Wanted “画像” をゲット !! このコラムを書くにあたって、2つの書籍画像を web 検索しましたが、ヒットしませんでした。そこで、思い付いたのが、SNS(Social Network System)の利用です。Facebookで、2025年2月2日、次のような投稿をしました。 2月4日に、ある友達からのコメントで、求めていた画像が届きました。送ってくださったのは、「丹野佳郎」先生です。わざわざ、東北大学図書館で探してくださいました(ありがとうございます!!)。 お送りいただいた画像を元に、編集しました。まず、「臨床薬剤学/臨床薬学の展望(広川書店)」です。この書籍は、USAで1972年に出版された「Perspectives in clinical pharmacy」の翻訳です。この書籍で、初めて「Pharmackinetics」というものを知りました。 そして、1978年に出版された「臨床薬学と治療学(広川書店)」です。鮮やかなオレンジ色の表紙カバーが、眼に焼き付いています。こちらは、「Clinical Pharmacy and Therapeutics」の訳本です。ほんと、懐かしい !!そうだ、USAに行ってみよう !! 1970年後半から1980年代前半、USAでの Clinical Pharmacist の活動から多くのことを学びました。余談ですが、看護師も、USAの看護師の取り組みから多くのことを学び、業務の向上につなげています。 USAでは、1969年創刊の「Drug Intelligence and Clinical Pharmacy(1988年、に名称変更)」という雑誌があり、薬剤部の図書室の棚に並んでいました。1982年、新たに、USA病院薬剤師会から「Clinical Pharmacy」という雑誌が発行されることになりました。早速、職場に購読のお願いをしました。そのために、このような記事を、日本病院薬剤師会に投稿しました(→余談⑤)。 ●新雑誌「 Clinical Pharmacy」の紹介と教育的価値 古川裕之,日本病院薬剤師会雑誌,18(12):981-984,1982 また、当時配属されていた「無菌製剤室」の改装工事があり、それを利用して、自費で「第17回アメリカ病院薬剤師会臨床薬学会議(Dec., 1982, Los Angels, USA)」に出かけました。そして、頼まれれてもいないのに、その時のリポートも日本病院薬剤師会雑誌に投稿しました。 ●第17回アメリカ病院薬剤師会臨床薬学会議レポート 古川裕之,日本病院薬剤師会雑誌,19(2):197-203,1983 その学会で、1983年6月に「Basic Skills in Clinical Pharmacy Practice」という自己研修用テキストが発行される予定であることを知りました。そして、本書の発売を知ると、早速、入手して読み始めました。それも、日本病院薬剤師会雑誌に投稿しました。 ●新しい臨床薬学図書 古川裕之,日本病院薬剤師会雑誌,20(9):986,1984 記事は、このような冒頭から始まります。「Basic Skills in Clinica lPharmacy Practice」という本を手に入れた。通読してみて,興味 深い内容であったので,会員の皆様に紹介してみたいと思います。 この本は,アメリカ病院薬剤師会から発行された自己研修用テキストで,限られた臨床経験しか持っていな い,あるいは,特定の臨床薬学業務に関する技術の修得に意欲を持っている中堅薬剤師を主な対象として書かれています。また,薬学部学生を臨床業年まで務へと導いていくことも,このテキストの目的のひとつとなっています・・・以下、続く。 本書は、富山医科薬科大学附属病院の薬剤部スタッフにより、日本語訳され、1985年に「クリニカルファーマシー実務指針(米国病院薬剤師会編,堀越勇監訳)」として薬事日報社から発刊されました。同じ表紙デザインの原書と翻訳本の両方とも処分していたので、翻訳者の一人の足立 博一 先生から画像をいただきました(ありがとうございます !!)。これまた、懐かしい表紙です。 あと一冊、忘れられないのが、大学専攻科(名城大学)・大学院(東京薬科大学、北里大学)での「クリニカルファーマシー」教育の取り組みを紹介した、白い表紙の医薬ジャーナル増刊号(?)です。こちらも手元に残っていません。お持ちの方がいらっしゃったら、表紙写真をプレゼントしていただけないでしょうか。お願いします !!☆つづく☆【余談➀】 「高校教師」に憧れた理由は、夏木陽介主演のTV学園ドラマ「青春とはなんだ(1965年~1966年)」に感動したこと、また、「芸人」に憧れた理由は、「植木 等」と「チャップリン」の映画の影響です。 教師の近道は地元の「福井大学教育学部」への進学でしたが、一人暮らしをしたくて「金沢大学」を選びました。受験したのは、金沢大学の薬学部だけです。 動機は、次の3つです。①「薬剤師」という国家資格を取得できる(→※)、②科学実験ができる学部、③たぶん合格できる。それに、女性が多いという“不純”な動機が加わっています(笑)。 それまで大野高校において3年時に「生徒会長」を務めた者で「国立大学一期校」の現役入学した者はいない・・・それへの挑戦でもありました。思考回路が単純な、世間を知らない田舎高校生でした。(※1975年3月の国試は不合格、秋の国試で合格。当時は年2回試験があったので助かりました。ただ、楽しみにしていた学部全体コンパを欠席しなければならないのが、とても残念でした。)【余談②】 この写真は、3年生の4月(1973年)、新入生歓迎イベント(金沢市卯辰山)の時のもの。多くの女子に囲まれ、幸せでした(笑)。2000年代、講演先で声を掛けてくれた後輩が、送ってくださった貴重な写真です。 「赤とんぼの唄」でブレイクした“あのねのね”の清水国明さんは、大野高校の2年先輩でした。故郷の「大野市民会館での凱旋コンサート」の前座をさせていただき、そのときもらった色紙です。高校生の頃から、清水国明さんには大きな影響を受けました。 この頃は、シンガー・ソングライターでした(笑)。当時、録音した自作曲を youtube 動画のBGMに使いました。【余談③】 修士課程修了した20数名のうち、薬剤師になったクラスメイトがあと一人いました。信州大学病院に就職した多田昭博さんです。また、、学部時代から医師になる夢を持っていた墳本敏彦さんと辻田 敏さんの2名は、一旦、製薬会社に就職したものの、ともに大阪大学医学部に学士入学して医師になりました。【余談④】 「研究をしてもらうために、君を採用した」という薬剤部長(山名月中先生)と「臨床薬剤師を目指すために、大学病院に就職した」という新人との思いの違いで、「いつ辞めてもいいよ」状態になり、7年目ぐらいまで、酒量と愚痴が多い日々が続きました。上司のいうことを聴かない、「問題児」でした !! (1984年中頃まで干されていたのは、当然だったかも・・・) ある日、職場のある先輩(旭 満里子さん)から発せられた「同じ話、もう聴きたくない !!」との厳しい言葉・・・胸に突き刺さり、「このままでは、いけない !!」と踏み出しました。旭先輩には、感謝しています !!【余談⑤】 エネルギーを原稿書きに向けました。1980年代に入り、「文書作成編集ソフト」かが登場したことにより、原稿を書くことが楽になりました。まず、石川県病院薬剤師会の会誌「石川病薬ニュース」に原稿を送り続けました。それを読んでくださった山口県病院薬剤師会から講師依頼が届き、1984年3月に「私の考える病院薬剤師:薬物療法専門家としての役割」という題で講演(山口県薬剤師会館)させていただきました。これが、初めての講演依頼でした(まさか、後に、山口大学で仕事をすることになるとは・・・)。「外に向けて発信すれば、誰かが見てくれている」ということを実感し、希望の光が見えました。 金沢のタウン誌「金沢情報」やピンク映画館「駅前シネマ」の月刊紙などに、仕事とは関係ないコラムも書いていました。