あなたと飲む水は、プレミアムモルツの味がする。 -20ページ目

あなたと飲む水は、プレミアムモルツの味がする。

トランプのダウトをしたら、ターンが回ってくるたびに誰かに「ダウト!」と言われる系女子です。よろしくお願いします。

 

くだらねえ、とつぶやいて。

 

 

 

 

私は仕事柄、子供に接する事が多い。

子供といっても、中学生、高校生が主だ。

 

中学生、高校生のころの自分を思い返してみる。

何をして6年間過ごしていただろうか。

 

 

時代が違う、とか、場所が違う、とか

そういうものを通り越して、誰しもその年齢の頃に共通する何かがあるんじゃないかと思う。

 

 

くだらないことで本当に、本当にお腹がよじれるくらい笑うこともあったし

くだらないことで友達と喧嘩して言い争いをいて、絶対にもう口を効くこともないと本気で思ったこともある。

 

日々のすべてがどうしようもなく「くだらない」のだ。

 

 

すべての人生に意味があって、存在に価値が見出され、充実した毎日を過ごして。

そんな幻想を放り捨てなければ、我ら悲しきサラリーマンは毎日を戦えない。

 

自分にしかできない仕事、自分がいなければ回らない社会。

そんな社会があっては困る。けど、そうであってほしい。

王様だって、死んだら次の王様が即位する。

 

 

それでも風邪を引いて学校を休んだ日の誰もいない家で過ごす昼下がり、

見慣れない情報番組をぼんやり眺めているときにふと虚しい気持ちになるのは

自分がいなくても何も問題なく時間は過ぎ、普通に一日が終わることを体感させられるからなのでは無いだろうか。

 

 

私は、本当に捨てているのだろうか。

自分がいなくなると回らなくなる社会、その可能性をちゃんと捨てられているのだろうか。

 

人はみな唯一無二の存在であることは確かだ。

だからこそ替えがきく。

 

同じ機種の冷蔵庫は決して個性を発揮しない。

だからこそ替えがきく。

 

 

 

さて、世の中学生、高校生。

または、世の元・中学生、元・高校生。

 

あなたという存在がいなくなった時に、どんなことが起こるか、想像してみてほしい。

 

死とはまた少し違う。

例えば風邪を引いて、この世をしばらく欠席するような事があった時のことをだ。

 

 

 

やっぱり私はすぐに仕事の引き継ぎをしなければ、という安直で現実的なことを直感的に考えた。

誰でもいい、すこしだけ私の代わりをしてもらえないだろうか。

 

 

 

自分にしかできない仕事とか天使のような歌声とか1000年に1人の美少女とか

そういうスペシャルな存在でなくても、

 

その場の雰囲気をつくる気遣い、優しさ、言葉かけなど、そういうその場の空気を作る力というものこそ、

唯一無二の存在意義なのではないかと思う。

 

くだらないちょっとしたことに笑ったり喜んだり、悲しんだり怒ったり

そういう日常そのものに意味なんて本当は無くって

 

だからこそ逆に、

その場の雰囲気を悪くするような言動、態度、不快にさせるような行為

そういうものにも意味はない。

 

本当の結果は形に残らない。

目には見えない、言動や態度こそ本当に大切にしていくべきだと思う。

 

思い出せないくらい

くだらない

意味のない

日常

 

大切な人にこそ、

毎日の一瞬一瞬を大切に生きてほしい。

 

 

 

明日もまた、どこへ行く。

 

おわり。

 

 

自分らしさはどこに落ちているのか?

 

 

最近本で見かけた考え方がちょっと面白くて何度か自分でも思い出して考えている

 

暫く考えてやっと2つの考えがでてきた。

 

1つめに考えたこと。

 

日本の就活は異常だ!という(不特定多数すぎて曖昧な)海外の人の意見

みんなが同じような真っ黒なスーツを来て、同じような化粧をして、同じような動きをする。

それが海外の人からすると不思議でたまらない、なんて無個性なんだ。ということらしい。

 

もしかしたら本当に海外のビジネスシーンでは服装や化粧、髪型といった見た目には「何の意味もない」、

若しくは、「見た目にこそ個性が現れる」のどちらかの考え方が一般的なのかもしれない。

 

だけど私はそんな不特定多数すぎて曖昧な「海外の人」の考え方に賛同して就活の場に

「私服で参加して頂いてかまいません」という注意書きをする企業に対してちょっぴり違和感を感じていた

 

(あんまりまともに就活してないけど・・・)

 

むしろ私は、就活はスーツ、黒髪、地味な化粧、だからこそ公平な判断がなされるとおもう

それは以前「すきなふくきて、生きていく?」にも書いたので多くは書かないけど、

 

つまり「自分らしさ」とは見た目には現れない、

むしろ奇抜さや個性的という言葉に頼っている「らしさ」には何の意味も無い。ということ。

 

 

そして2つめ

 

最近は「自分らしさ」を見つけることが人間のブームになっているらしく、

「自分らしさ」=「自分にしかできないこと」という考え方が広まっているそう。

 

逆に考えると、自分にしかできないことが自分らしさということになる。

 

最初に挙げた本の内容を借りると、

 

自分らしさを自分にしかできないことだとに考えるのは無謀である

なぜなら、クラスで一番足が速い人が「私らしさは足の速さ」と思い込んでしまうとする

地区大会、県大会、全国大会、世界大会と進むにつれて足の速い人間はどんどん出てくるし

最終的に自分らしさを足の速さだと言い切れる人間は世界でたった1人しかいないのである。

 

という考え方が書かれていた。

 

極端ではあるが

その考え方には共感できるところがある。

 

だけどちょっとまってくれよと。

果たしてボルトに「あなたらしさとは?」と聞いて「足の速さです」と答えるだろうか?

彼らしさや、彼の凄さは足の速さにあるのではなく、弛まぬ努力とか、勝ち続けられる精神力とかにあるのでは?

 

「自分にしかできなこと」が「自分らしさ」であることは無謀だ(2回め)

 

 

 

極稀に私は、芸術を学びに大学に行ったことを後悔することがある

自分がいまの仕事に就けているのも、素晴らしい友人に出会えたことも、もちろん大学に行ったからであるし、

後悔という言葉が正しいかどうかもわからない。

 

その極稀な瞬間というのはいつも「絵を描くとき」「デザインをする時」である

何を言うかと思われるかもしれないが、本当なら自信に満ち溢れ堂々とできる唯一の場面で私は後悔をする

 

何故か。

 

私は確かに一般の人よりも「ほんのちょっとだけ」絵を描くのが上手である。

その「ほんのちょっと」が私を苦しめるのだ。

 

芸術の大学で絵を学んでいたのだから上手くて当たり前、

デザインの勉強をしていたのだからできて当たり前、

という大前提が、私の経歴の芸術学部・卒業の後ろにはいつもついてくる

 

もし私が、芸術を「学ぶ」という道に進んでいなければ、

私は「ちょっと絵のうまい人」になれていたのだ。

そして、「絵のうまさ」を「私らしさ」だと言い張れていたのだ。

 

だけど、クラスで一番足の早いあの子が「私らしさは足の速さ!」と言い張ることの何が間違っているというのか。

 

 

「自分らしさ」を他人との比較の先にあると思うのは安易なのかもれない

考え方次第ではクラスで一番足の遅いあの子が「私らしさは足の遅さ!」と言い張れるなのである。

 

 

おわり

 

まだ答えが見つかっていないので、もうすこし考えてみる。

 

 

46億年前から地球の奥底で少しずつ少しずつ作られてきた縞状鉄鉱床を、地球上の歴史初心者の我々が使い果たそうとしている。

 
 
そう考えると、身の回りに溢れすぎている鉄鉱石を原料としているさまざまな物体がやたらと目につくようになる。
 
 
 
 
 
 
それは、私の祖母が亡くなった時にふと感じたあの感覚に似ているような気がする。
 
 
私が生まれた時、既に両方の祖父は亡くなっていたので、おじいちゃんという存在が未だにわからない時がある。
そんな私にとって、お正月やお盆は「おばあちゃんの家」に行くイベントでもあった。
 
私が大学生のとき、父方の祖母が亡くなった。
 
私は祖母の生きてきた時間を感じるための作品を作った。
 
 
さらにその数年後、母方の祖母が亡くなった。
 
子供や孫に囲まれて静かに亡くなった祖母は、きっと幸せだったと思う。
 
 
 
2人のお葬式にはもちろん参列したが、私はこのどちらにも妙な感覚を覚えていた。
 
そしてその妙な感覚の正体を(不謹慎かもしれないけど)2回目にしてようやく突き止めた。
 
 
 
私にとって祖母は、自分が生まれた時から祖母が亡くなるまでの二十数年間ずっと存在してた。
当たり前かもしれない。
 
しかし、祖母にとっての私は、七十代の途中から亡くなるまでの二十数年間しか存在していないのだ。
 
 
わたしの人生の全てを知っているひとの
人生の1/4もわたしは生きていない。
 
 
祖母のお葬式には、わたしの知らない祖母の親戚、知り合い、友人がいて、その会話の中にはたしかに、わたしの知らない祖母がいた。
 
 
この時、なんだかわたしは救われたのである。
それ以外の言葉で、あの気持ちをなんと言っていいかわからない。
 
 
 
というのが、縞状鉄鉱床に似ていると思う感覚でした。
 
 
自分でも、よくわからない。
 
 
 
おわり