自分らしさはどこに落ちてるのか? | あなたと飲む水は、プレミアムモルツの味がする。

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トランプのダウトをしたら、ターンが回ってくるたびに誰かに「ダウト!」と言われる系女子です。よろしくお願いします。

自分らしさはどこに落ちているのか?

 

 

最近本で見かけた考え方がちょっと面白くて何度か自分でも思い出して考えている

 

暫く考えてやっと2つの考えがでてきた。

 

1つめに考えたこと。

 

日本の就活は異常だ!という(不特定多数すぎて曖昧な)海外の人の意見

みんなが同じような真っ黒なスーツを来て、同じような化粧をして、同じような動きをする。

それが海外の人からすると不思議でたまらない、なんて無個性なんだ。ということらしい。

 

もしかしたら本当に海外のビジネスシーンでは服装や化粧、髪型といった見た目には「何の意味もない」、

若しくは、「見た目にこそ個性が現れる」のどちらかの考え方が一般的なのかもしれない。

 

だけど私はそんな不特定多数すぎて曖昧な「海外の人」の考え方に賛同して就活の場に

「私服で参加して頂いてかまいません」という注意書きをする企業に対してちょっぴり違和感を感じていた

 

(あんまりまともに就活してないけど・・・)

 

むしろ私は、就活はスーツ、黒髪、地味な化粧、だからこそ公平な判断がなされるとおもう

それは以前「すきなふくきて、生きていく?」にも書いたので多くは書かないけど、

 

つまり「自分らしさ」とは見た目には現れない、

むしろ奇抜さや個性的という言葉に頼っている「らしさ」には何の意味も無い。ということ。

 

 

そして2つめ

 

最近は「自分らしさ」を見つけることが人間のブームになっているらしく、

「自分らしさ」=「自分にしかできないこと」という考え方が広まっているそう。

 

逆に考えると、自分にしかできないことが自分らしさということになる。

 

最初に挙げた本の内容を借りると、

 

自分らしさを自分にしかできないことだとに考えるのは無謀である

なぜなら、クラスで一番足が速い人が「私らしさは足の速さ」と思い込んでしまうとする

地区大会、県大会、全国大会、世界大会と進むにつれて足の速い人間はどんどん出てくるし

最終的に自分らしさを足の速さだと言い切れる人間は世界でたった1人しかいないのである。

 

という考え方が書かれていた。

 

極端ではあるが

その考え方には共感できるところがある。

 

だけどちょっとまってくれよと。

果たしてボルトに「あなたらしさとは?」と聞いて「足の速さです」と答えるだろうか?

彼らしさや、彼の凄さは足の速さにあるのではなく、弛まぬ努力とか、勝ち続けられる精神力とかにあるのでは?

 

「自分にしかできなこと」が「自分らしさ」であることは無謀だ(2回め)

 

 

 

極稀に私は、芸術を学びに大学に行ったことを後悔することがある

自分がいまの仕事に就けているのも、素晴らしい友人に出会えたことも、もちろん大学に行ったからであるし、

後悔という言葉が正しいかどうかもわからない。

 

その極稀な瞬間というのはいつも「絵を描くとき」「デザインをする時」である

何を言うかと思われるかもしれないが、本当なら自信に満ち溢れ堂々とできる唯一の場面で私は後悔をする

 

何故か。

 

私は確かに一般の人よりも「ほんのちょっとだけ」絵を描くのが上手である。

その「ほんのちょっと」が私を苦しめるのだ。

 

芸術の大学で絵を学んでいたのだから上手くて当たり前、

デザインの勉強をしていたのだからできて当たり前、

という大前提が、私の経歴の芸術学部・卒業の後ろにはいつもついてくる

 

もし私が、芸術を「学ぶ」という道に進んでいなければ、

私は「ちょっと絵のうまい人」になれていたのだ。

そして、「絵のうまさ」を「私らしさ」だと言い張れていたのだ。

 

だけど、クラスで一番足の早いあの子が「私らしさは足の速さ!」と言い張ることの何が間違っているというのか。

 

 

「自分らしさ」を他人との比較の先にあると思うのは安易なのかもれない

考え方次第ではクラスで一番足の遅いあの子が「私らしさは足の遅さ!」と言い張れるなのである。

 

 

おわり

 

まだ答えが見つかっていないので、もうすこし考えてみる。