ソウルメイト・ドラゴン③ 運命は「もし・・・」を超えた積み重ね
嘉永六年八月、生まれ育った薩摩を後にした。
父や母、兄達は家臣とし皆と並び、ひざまづいていた。
輿に乗るため、歩く私の目が家族の姿を捉えた。
お義父上の配慮か、前列で顔を合わせられるほどの距離に彼らはいた。
父は涙をこらえ眉間に皺を寄せていた。
母の目には涙光り、両手は固く握り締められていた。
兄達も心配そうな顔で、私の姿を目で追う。
今すぐにでも駆け出し、父や母、兄たちを抱きしめたい衝動を必死でこられた。
ついこの間まで家族として一緒に暮らしていたのに、見えない境界線が私達を隔てていた。
父や母にせめて一言でも別れを告げたい、と思うのは娘として当然の気持ちだろう。
だが言葉を交わすことはできない。
お義父上の屋敷を出て輿に乗るまでのわずかな距離、私目で家族に精いっぱいの感謝の気持ちを込め、わずかに頭を下げた。
それが今の私に許されたギリギリの限界だった。
輿の乗ってからも、小窓を開け皆が見えなくなるまで姿を追った。
見えなくなると私は声を殺し、泣いた。
生まれ育った愛おしい薩摩を私は旅立った。
さようなら、薩摩。
桜島を擁する愛すべき大らかな土地。
ここで生まれ育ったこと、父母の元に生まれたことを誇りに思い、引かれる後ろ髪を断ち切った。
これが、私の人生で見た最後の故郷だった。
父や母、兄たちとの最後のお別れだった。
この日以来、私は終生この地を踏むことはなかった。
それから四十日近い長い旅を経て、ようやく江戸の薩摩藩邸に着いた。
心も体もぐったり疲れ果てていた。
ようやく狭い輿から降り、地面に足をつけた時、あまりの疲労に身体の力が抜け背も丸まっていた。
ふと出迎えの列に板のように姿勢がいい白髪の出始めた女性が目についた。
もしや、これが噂の教育係の幾島かも、と思った瞬間、海老のように丸まった背中を腹筋で持ち上げ、背筋を伸ばした。
幾島、とおぼしき女は輿から降りた私を上から下まで品定めするように、厳しい目でじっと眺めた。
無遠慮で冷たく鋭い視線をあびた私の額や脇からは、嫌な汗がにじみ出た。
立場的に私の方が上なのに、なぜか見降ろされている感が半端ない。
思わず身震いしたが目をそらせたら負けだと思った。
眼力を込め相手を見つめ返し、視線を外さなかった。
立ったままにらみ合う二人の女達。
周りに緊張が走った。
「初めまして、篤姫様。
幾島でございます」
口を開いた女は、何の感情も込められていない声で名を名乗った。
やはりこの女が幾島だった。
その声にふさわしく、顔も無表情だ。
この時の幾島は、確か四十八歳。
幾島も薩摩出身で薩摩藩お側用人の娘だった。
伯母上の郁姫様が、五摂家の内の一つ近衛家の近衛忠煕様に嫁いだ時、上臈として共に京都に上がり近衛邸で生活していた。
当時は「藤田」という名前だったそうだ。
郁姫様死去に伴い出家し得浄院という名で、そのまま近衛邸で忠煕様にお仕えし、郁姫様の菩提を弔い生活されていた、とのこと。
今回徳川将軍家に私の輿入れが決まり、お義父上の目に叶い幾島、と名を改め今小路孝由様の養女という形を取り、ここにやってきたそうだ。
幾島が選ばれた理由は、京都の所作や作法に詳しかったことだという。
これまで徳川は京都の公家から妻を迎えていた。
薩摩の田舎娘を徳川に送り込む私をファーストレディーにふさわしく仕立てるのが、彼女の役目だった。
「篤子です。
どうぞ、よろしくお願いいたします」
と、頭を下げようとした時だった。
「みだりに頭を下げるものでは、ございませぬ!!」
ピシリッ!とナイフのような鋭い言葉が投げかけられた。
「あなた様は、これから家定様に嫁ぎ御台所様になるお方。
そのようなお方が、目下の者に軽々しく頭など下げるものではござりませぬ」
「わ・・・わかった」
「わかりました、でございます」
「わかりました」
な・・・何なん?!この女!!
桜島の噴火のように、猛烈な反抗心が流れ出た。
その思いが顔に表れていたのだろう。
幾島は私の目の前に近寄り、あごを上げ耳元で告げた。
「よろしいですか、篤姫様。
将軍家に嫁ぐ、ということは、大奥に入る、ということです。
あなた様が大奥のすべてを仕切る立場になるのです。
他の大名のところに嫁ぐのとは、まったくわけが違います。
五百名近い大奥の女達を束ねるのは、並大抵のことではございませぬ。
人形のように大人しく座っているお飾りの御台所様など、必要ございません。
大奥には家定様のご生母様の本寿院様や御年寄の滝山様という手ごわい方々もおられます。
あなた様はそのような方達と、互角に渡り合っていかねばならないのです。
ましてやあなた様は、島津斉彬様から大切な命を受けております。
立派な御台所様におなりあそばし家定様と仲睦まじくなることが、斉彬様の命を叶える近道なのでございます。
そのためにこの幾島、全身全霊を込めて、あなた様を立派な御台所様にさせていただきます。
さぁ、今すぐ薩摩のことをすべて忘れください。
言葉も思いも身なりも作法も何もかも、ここでお捨て下さい。
あなた様はこの江戸で、新しい篤姫様に生まれ変わるのでございます」
「ちょっと待って!
あなたも薩摩の出身でしょう?
あなたも郁姫様と一緒に近衛家に来た時に、すべて捨てたの?」
「もちろんでございます。
郁姫様も私も薩摩を出て京に参りました時、すべて薩摩を捨てました。
嫁ぐ、ということはこういうことでございます。
ですから篤姫様にもその覚悟を持って、御台所様への道をしっかり歩いていただきます」
女が嫁ぐ、というのは、こういうことなのか。私は茫然とした。
と同時に、家定様に嫁ぎ御台所様になる私の覚悟を幾島が試している、と瞬時に悟った。
幾島はにらむような目つきで、私から目を反らさない。
蛇ににらまれたカエルのように、身震いした。
だが私も幾島から目を反らさない。
カエルにはカエルの意地がある!
がんばれ、私!自分で自分の背中を強く押し、ようやく言葉を絞り出す。
「私は家定様の御台所になります。
そのためによろしく頼みますぞ、幾島」
「ははぁ!!」
幾島は頭を下げた。
自分の部屋に案内された時、ようやく解放される、と思ったが幾島は部屋にもついてきた。この生活が毎日続いていく、と思うとクラクラした。
江戸での御台所修業はこうして始まった。
未来は過去を手放した「今」から開かれる。
私の未来への扉は、今ようやく開いたばかりだ。
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「覚悟」は、生易しいものではありません。
けれど「覚悟」を決めた時から、未来が開きます。
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